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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
ひいさまは社へ帰る
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ひいさまは社へ帰る(7)

 約一週間ぶりの大社は、流石に初詣の時程人は多くなかったが、それでもそれなりの数がおり、普段よりかはずっと賑やかであろうかといった様子であった。


 紗久羅の隣に立っている出雲はさっきから、ああ、とかうう、とか死にかけの人間のような呻き声をあげたり、深いため息を連発したりしている。その原因は間違いなく、ここまで来るのに使った電車である。彼はどうも現代的な乗り物を苦手とするらしい。電車に乗っている間はこれよりももっと酷い状態で、度々近くにいた乗客に「大丈夫ですか?」と心配そうに声をかけられ、その度紗久羅が「大丈夫です、いつものことですので気にしないでください」とか何とか言う羽目になった。

 電車から降りた時は心底安堵した様子だったが、帰りもこれに乗るんだぞと紗久羅が言ったら露骨に顔をしかめ、がっくり肩を落とし、ぞっとするような低い声で「いっそ燃やしてしまおうか」などと呟く始末。言ったのが彼以外だったら冗談として適当に聞き流すが、出雲が言うと冗談に全く聞こえないところが恐ろしく、絶対にやめろよなと紗久羅は念を押すのだった。


 鳥居をくぐり、境内を進む。歩きながら紗久羅は初詣の時のことを思い返す。

 着物を着た柚季や、屋台屋台ご飯ご飯と連呼するあざみと一緒に歩く自分の姿は容易に、そしてはっきりと思い浮かべることが出来たが、咲月の姿だけは矢張りぼやけていて、油断していると消えそうになった。本当に自分は彼女と一緒にここへ来ていたのだろうか、咲月なんて子は実在するのだろうかと頭の端で思っては、駄目だそんなことを考えたらと頭を激しく横へと振った。


「ああ、全く面倒だ。こんな所までわざわざ来て、色々調べなくちゃいけないなんて」

 紗久羅は面倒そうに言う出雲をきっと睨んだ。


「お前がやるって言ったんだろう、自分から。文句言うな」


「私のやる気の値というのは常に変動するんだ。いつまでもやる気満々でいられるなんてことはない。……あの電車というのは本当嫌になる。気力をあっという間に削いでしまう。どうしてあんなものに君達は平気で乗れるんだ」

 その問いを紗久羅は「知るかよ」と一蹴。出雲はまたため息をついた。それを聞いた紗久羅まで何だか気分が重くなってくる。気分が重くなると体も重くなる。


「お前なあ、そのため息やめろよな。聞いているこっちまで疲れてくるよ」


「面倒だし、電車に乗ったせいで疲れたし……後この格好はやっぱり辛いよ。どうしてわざわざこの姿にならなくちゃいけないんだ」

 出雲のテンションを下げたのは、電車だけではない。今の彼は着物姿ではなく、以前東雲高校の文化祭に行った時と同じものであった。といっても今回は一夜から借りて着ているわけではなく、前回のことを思い出しながら出雲が『変身』した姿である。便利な力だよなと紗久羅はしみじみ思う。


「仕方無いだろう。普段のお前の姿はかなり目を引くんだ。着物、女でもここまでは伸ばさないだろうって位長い髪に、その気色悪いほど整った顔。あの姿でうろつかれたら目立っちまう。異質オーラも滅茶苦茶放っているしな。好奇とか諸々の視線を浴びるのは嫌なんだ」

 紗久羅の答えに納得いかないのか出雲は反撃する。


「いいじゃないか、注目されたって。どうせどれだけじろじろ見ていたって、私が視界から消えたら皆私のことを忘れるんだ。異質な存在は、あまりに異質すぎてすぐ記憶から追いやられる」


「確かにそうだ。後になれば大抵の人間は忘れるだろうさ。昔のあたしもそうだった。……でも一時的とはいえ目立つことに変わりは無い。あたしは嫌だよ、変に目立ってじろじろ見られるのなんて」

 出雲は気配を完全に消すことが出来る。だがそうしてしまうと、紗久羅にも彼の存在を認識できなくなってしまう。

 ちら、ちら、と出雲は周囲の様子を見ながら呟く。


「……この格好になってもあまり意味はないようだけれどね」


「ううっ」

 紗久羅は呻く。それを言われると弱かった。……出雲の言う通り、今時な服を着て一般人を装う作戦はあまり良い結果をもたらしていないのだ。

 例え服装を変え、髪の長さを変えても彼のもつ雰囲気が極端に損なわれる、ということはない。むしろ中途半端に損なわれたせいで周囲に『綺麗すぎて気味が悪い、色々異質な男の人』ではなく『超美形のイケてる兄ちゃん』と認識され、かえって親しみやすく、記憶にも残る者となってしまったようだ。つまりは逆効果、目立たないようにするつもりがかえって目立ってしまっている。

 東雲高校の文化祭の時は、まだあの場自体が半ば異界のような状態になっていたから良かったが……。

 あの男の人超カッコイイんですけど、うわまじヤバイという声が紗久羅の耳に届く。その声の主は大学生位の女性二人で、出雲の方を見ながらきゃあきゃあ言っている(おまけに無断で写メまで撮っているようだ)。


「かえっていつもの格好の方が良かったんじゃないかい?」


「そ、そんなことはない! ていうか、お、お前の髪が長いから目立つんだっての!」


「かなり短くしたじゃあないか」


「それでも長いんだよ!」

 自分の失敗を認めたくない紗久羅は出雲の髪を指差す。確かに彼の髪は普段よりはずっと短い。だが。

 出雲は自身の髪をいじくっている。見事なポニーテールがゆらゆら揺れていた。それは紗久羅のと同じ位、いやむしろ少し長い位だった。女の子の髪型としては少しも変ではないが、男となると話は別。それが目を引いている原因の一つであることは明白だった。しかし髪を短くしたところで、注目を浴びなくなるということはない……ということもはっきりとしている。


「私は髪が長い方が好きなんだよ、心が落ち着くし。短くすると気持ち悪いんだ。もうこれが限界だ」

 紗久羅がどう言っても聞く気はないようだ。紗久羅はこれ以上とやかく言うのを諦めた。それから二人はくだらないことを喋りながら境内を歩き回る。


(この周辺で妙な失踪騒動がよく起きている。咲月が消えたのも、ひいさまがどうのこうのっていう声を聞いたのもここだ。きっとここに、解決の糸口があるはずだ)

 出雲は紗久羅と喋りながらも、この地に手がかりになる何かが残されているか調べているようだった。時々立ち止まったり、辺りを見回したりしている。

 また、時々通しの鬼灯を握りもした。そうすることで『道』の有無を調べていたのだろう。


「何か分かったか?」

 出雲は小さく首を横に振り「まだ何ともいえない」とだけ言った。それを聞くとがっくりとくる。まだここへ来てからそんなに時間は経っていないのだから仕方無い、と思う一方早く手がかりを見つけなきゃ大変なことになる、という焦燥感に駆られもする。


「……なあ、どうしてあたし達は咲月のことを忘れちゃったんだ? 異界に連れて行かれて、それで向こうのものに染められて、異界の住人になってしまったから? 失踪した人間のことをすっかり忘れてしまう理由にそういうものがあると云われているって、失踪事件のこととか色々話してくれた梓って姉ちゃん教えてくれたんだけれど。でも完全にそうなってしまっていたら、もう手遅れだよな。手遅れな状態になっていないからこそ、あたしはあの夢を見たんだよな」

 不安になって、聞いてみる。出雲は素直に絶対大丈夫だよと紗久羅を安心させるようなことは、言ってくれなかった。


「まあ、まだ大丈夫と思っていた方が精神衛生上は良いだろうね。ええと、それで異界の者になってしまった人間のことは忘れられてしまうって話だっけ。そうだね、そういう話はよく聞くね。必ずしも忘れ去られる、ということはないのかもしれないけれど」


「どうして忘れてしまうのか……その理由は分からない?」


「いや、何となくは推察できる。君は夢の中で赤い糸を見たのだろう? そしてその糸の端は君の指に結わえられていた」

 こくり、頷く。もう片方の端っこは女の人が手にしていたこともぼんやりながら覚えていた。そして彼女は「これが消えてしまう前に、そして彼女が本物のひいさまになってしまう前に、彼女を助けてあげてくれ」と言ったのだ。


「その赤い糸は多分、繋がり、絆、縁などと人が呼ぶものだろう。人と人を結ぶもの、人と土地を結ぶもの、繋がっていることの証」


「繋がり……」

 確かに、よくよく考えてみれば運命の赤い糸という言葉がこの世には存在している。自分と、運命の人を結ぶ糸だ。色恋沙汰にあまり興味がないせいで、ぱっと思いつかなかったのだ。今回の場合は運命の赤い糸とはまた違うだろうが、それでも『結ぶ』という点は同じだろう。


「糸というものは縫いつけたり、結んだり、繋げたりするものだ。魂と体を結びつける力もあるという。多分君が夢の中で見た糸は本来、紗久羅と咲月という子を繋いでいたものだ。友情という名の繋がりであり、二人の間に結ばれた縁だ。けれどその糸は解かれてしまったんだ……多分彼女が今までに結んできたもの全てが、解かれた。この世界との繋がりさえも」

 それは言葉では言い表せないほど恐ろしいことのように思え、紗久羅は絶句した。


「言い伝えの真相も多分『糸』が関係しているのだろう。誰かに解かれた、解けてしまった、解けはしなかったが失踪した人間が異界に染められてしまって、異界の者になったことで繋がりが――糸が薄くなった、糸の先が隔たった世界にいってしまったせいで繋がりが弱くなったとか……それが忘却に繋がったのだろうね」

 繋がりが解かれた。解かれたことで繋がっていたという事実が無かったことになってしまった。

 紗久羅と咲月の友情も、咲月が今まで築きあげてきたものも、この世界にいたという事実も全部、無かったことになってしまった。

 

「咲月も……あたし達のこと、忘れちゃったのか、やっぱり」


「だろうね。のみならず、自分が元々どんな世界でどんな風に生きてきたかも覚えていないかもしれない。繋がりが全部無かったことにされてしまったのだから。友達との思い出も、家族と過ごした日々も、学校生活のことも、何もかも全て。繋がりが無かったことになってしまうということは、その人達と共に築いたもの――思い出とか――そういったものも無かったことになるということだから。それってきっと耐え難い苦痛だろうねえ。多分自分がどういう人間であったのかも分からなくなってくるだろうね。そして少しずつ壊れていくんだ。自分というものが壊れていって、心も壊れていって」


 今まで過ごした日々を少しも思い出せないということは、想像以上に恐ろしいものなのだろうと紗久羅は思う。出雲は淡々と語っている。それがまた紗久羅の恐怖や不安を煽った。そう思っていることを彼に悟られるのは嫌だったから、何でもないような顔をしようと努めるが、でもきっと上手くいっていないだろうと思った。


「完全に壊れてしまった時がきっと本当の終わりだろう。まだ自分を襲った運命に抗っている内は、彼女は『咲月』でいられる。けれど心が壊れて、何もかも受け入れてしまったら……彼女は本当に『ひいさま』になってしまう。彼女を連れ去った者達が求めるものになってしまうんだ。君の夢に出てきた女性は多分、そうなってしまう前に彼女を助けてくれと言いたかったのだろう。」

 もうあまり時間は残されていないかもしれないと、出雲は紗久羅をよりあせらせるような言葉を付け加えた。紗久羅の胸のざわつきがより酷くなっていく。


「何で咲月は連れ去られたんだ。ひいさまって人に間違えられたのか? そもそもひいさまって何者なんだ」


「ひいさまっていう位だから多分お姫様なんだろう。咲月を連れ去ったかもしれない爺さんの主なんだろうね。そのひいさまが勝手に住処を抜け出して、こちらの世界へ行ってしまった。爺さんはそんな彼女を探しにやって来て、彼女を見つけて連れ帰る。だが連れ帰った女性は『ひいさま』ではなく、咲月だった。彼は咲月を自分の主と見間違えてしまった」


「でも普通間違えるか?」

 普通は間違えないだろうね、と出雲は即答した。


「つまり彼は普通じゃないのだろう。自分の主と、そこらにいる人間の区別がつかないなんて普通は有り得ない。おまけに以前にも同じ間違いを犯した可能性がある。失踪事件は以前にもあったんだろう? その失踪も彼がやらかした結果なのかもしれない。『ひいさま』が姿を消す度、彼はこちらの世界に来て、ひいさまだと思った者を連れて帰る。けれどそれは『ひいさま』ではなく、人間の娘だった」


「本当のひいさまはどうしているんだ?」


「多分、もうとっくの昔に爺さんやいるかもしれない他の従者達の前から姿を消しているんじゃないかな。或いはその事実を認めたくないが為に『ひいさま』を連れ戻し続けているのかもしれない。連れてきた『ひいさま』が死ぬと、また新しい『ひいさま』を連れてくる。見間違えているというより、彼女こそがひいさまであると無理矢理思い込んで、連れ去るのかも。まあその辺りは咲月を連れ去ったと思われるその爺さんを締めあげて吐かせれば良い」


「暴力反対!」


「それを君が言うかい」

 本気で締めあげかねない彼を止めようと頭を叩いた紗久羅を、出雲はじと目で見る。

 そうこうしている間に二人は、紗久羅と柚季がおみくじを結んだ……つまり、紗久羅が犯人最有力候補である老人の声を聞いた場所までやって来た。出雲は特にこの部分を念入りに調べた。


「どうだ、出雲。何か感じるか?」


「ふむ。確かに人では無い者がつい最近ここを通った痕跡があるね。微かなものだし、実際これが君が聞いた声の主のものかどうかは分からないが。ここに残っているものと同じものを、何度か感じたことがあった。多分『ひいさま』を探して境内をうろついていたんだろう」

 二人は改めて境内を歩き回る。出雲が感じた気配はあちこちに残っているようで、気配の主がそこら中を歩き回ったことが良く分かる。

 あちこち歩いた末に、咲月が使用した、もしくは使おうとしていたお手洗いの近くまでやって来た。


「彼女はここで用を足した後、もしくはここへ向かう最中連れて行かれた可能性が高い。しかしはっきりしないな……そもそもその爺さんが連れて行ったので確定なのか、この気配はその爺さんのものなのかも分からない。でも、そう考えて話を進めてみるより他無いな」


「おみくじを結んだ場所とこの辺り、後に来たのはどっちかっていうのは分かるか?」


「流石にそこまでは分からないよ。数日単位の違いならまだしも、せいぜい数時間単位であろう違いを判別するのはね。元々気配自体殆ど残っていないし」

 まだまだ事態は前進しないようだ。紗久羅はとりあえず話題を変えることにした。


「なあ出雲。解かれた糸はまた結びなおせば元に戻るのか? あたし達は咲月との繋がりを取り戻すことが出来るのか?」


「出来るだろう。結べさえすればね。しかし言葉でいうのは簡単だが、実際にやるのは相当難しいだろう。解く方がもっと難しいかもしれないがね。その人との出会いや思い出を頭の奥底に沈めるのとは訳が違う。それらを全て無かったことにしてしまう。起きた事実を無かったことにするようなことなんて、簡単に出来るものではない」

 糸を解くということは、その人と築いたものを無かったことにする。だが糸が解かれてもそれに関する記憶や記録が抹消されるということはないようだ。

 だから今、紗久羅にとって咲月と過ごした日々の記憶、彼女に関する記憶の全ては『あるはずのないもの』であり、夢物語なのである。現実では無いはずのもの、夢、或いは作り話であるはずのもの。だからふとした瞬間に回路が繋がって彼女のことを思い出しても、その記憶が『本物』であるとはどうしても思えず、像はぼやけ、そしてまた忘れていく。寝ている時に見ていた夢を、目を覚ましたら忘れていくように。


「解くのも難しいし、結ぶのも難しい。そもそも普通『糸』なんていうものは目に見えないんだ。特別な目、もしくは特殊な能力を持っている者にしか見ることは出来ないんだ。見えないものを結ぶことは出来ない。見えたからって結べるとは限らない」


「え、じゃあ……お前にも出来ないわけ?」

 出雲は肩をすくめた。否定しないようだ。


「糸を見たことも、糸を結んだり解いたりしたこともないね。やろうとも思ったことないし」


「まじかよ! それじゃあ例え咲月の連れて行かれた場所を見つけることが出来ても、彼女をこちらの世界に引き戻すことが出来ないのか!?」


「まあまあ。もしかしたら気合と根性でどうにかなるかもしれない。心の目を開くことが出来るかもしれないよ、頑張れば」


「お前気合とか根性とかそういうの一番嫌いなタイプだろう!? そういうの馬鹿馬鹿しいって真っ先に否定するタイプだろう! ああもう、全く! どうすりゃあいいんだ、糸を結び直せる奴をこれから探さなくちゃいけないのか!」

 頭を抱える紗久羅。一方出雲の方はといえば気楽なもので、表情一つ変えていない。


「夢の中に出てきた女性は、今まで君と縁を結んだ者の中に、どうにかすることが出来る人がいるかもしれないと言っていたのだろう」


「ああ言ったよ、確かに。けれどお前のこととは言っていない」


「でも私以外にそういうことが出来そうな者が、君が今まで会った人の中にいるかい?」

 そう聞かれて、即答は出来なかった。一応考えてみるがはっきりと「この人だ!」と思える人はいない。強いて言うなら、柚季の家に憑いている少年位である。


「まあ、私がどうにかするよ。どうにも出来なかったら、諦めれば良い」


「諦められたら困るんだけれど!」

 と紗久羅が叫んだのと同時に、遠くから「あっ」という声が聞こえた。あんまり驚いている風な声だったから驚いて声のした方を見てみれば、そこには見覚えのある一人の少年が立っていた。


 彼は初詣の時に会った、火の玉に虐められていた弱虫の妖。彼は紗久羅の方へとことこ走ってやって来た。


「やっぱりあの時のお姉ちゃんだ。この前は助けてくれてありがとう」


「助けたのは柚季……もう一人の女の子の方だよ。あの後もあの火の玉に虐められているのか」

 少年は答えにくそうに俯いた。それを見れば答えは明確である。全くしっかりしろよな男だろうと言うと、彼は恥ずかしそうにうにゃうにゃ何か小声で呟いた。


「なんだい、この少年は」


「初詣にここへ来た時会った奴だよ」


「随分虐め甲斐のありそうな子供だね」

 その声に少年がびくっと体を震わせる。怯えているだろう、馬鹿と言っても出雲は反省の色を少しも見せなかった。

 紗久羅はふと、あの日ここにいた少年なら何か知っているのではないかと思った。もしかしたら何か手がかりになりそうなものを見ているかもしれない。


「なあ、お前にちょっと聞きたいことが」

 早速聞こうとした紗久羅だったが、全部言う前に少年が馬鹿みたいに大きな声をあげたので、最後まで言うことが出来なかった。

 何事だ、隣で出雲がすごい形相で少年を睨んでいたのか、それともまたあの火の玉野郎が現れたのか。

 しかし真相はそのどちらでもなかったようだ。急に少年は紗久羅の右手首を掴み、自分の方へ引き寄せた。紗久羅は突然のことにぎょっとした。


「え、な、何!?」


「おかしいなあ、解けている」


「え、解け、え?」

 何が何だか分からない。今着ているセーターの糸がほつれているということはないし、そもそも少年が嘗め回すように見ているのは紗久羅の指先の方である。

 

「普通これ、解けないんだけれど……」

 少年は余程興奮しているのか、具体的なことを何も教えてくれない。もう一度紗久羅が尋ねようとしたところで、出雲が口を開いた。


「お前もしかして……見えるのかい?」

 紗久羅と少年が同時に出雲を見る。


「人と人、人と土地を繋げる『糸』が」

 紗久羅ははっとし、今度は少年の方を見た。少年は出雲が怖いのかぶるぶる震えていた。しかししばらくしてこくりと頷く。


「うん、見える。最初はこれの正体が何なのか分からなかったけれど」

 衝撃の事実に紗久羅は目をぱちくりさせるしかなかった。出雲は更に少年に問う。


「……結ぶことも解くことも出来るのか、糸を」

 これにも少年は頷いた。ますます紗久羅は驚くしかない。成程、確かにこの少年とも紗久羅は縁を結んでいた。初詣の……あの日。


「一度試してみたことがあるけれど、上手いこといった。やったのは一度きりだけどね」

 出雲と紗久羅は顔を見合わせた。しばらくそうすることしか出来ず、少年は何が何だか分からないという様子でおろおろしだす。彼は今にも泣きだしそうになったがその寸前、紗久羅は口を開いた。

 少年との再会はまことに僥倖であった。このチャンス、逃すわけにはいかない。


「お前、この解けた糸の先がある場所も分かるか? この糸と繋がっていた人の居場所……見当つく?」

 

「こことは別の層にあるせいかかなり見えにくいけれど、一応分かるよ」

 これ程までに頼もしい答えが他にあるだろうか。紗久羅は急いで少年にことの経緯を伝えた。少年は戸惑いつつも真剣な眼差しで話を聞いてくれた。こういう真剣さは出雲にはないものだ。

 一通り話を聞き終えた少年は迷うことなく協力することを了承してくれた。

 真っ直ぐな瞳で紗久羅を見る彼が今、紗久羅には神様仏様に見えた。


「分かった。お姉ちゃんの力になってみせるよ、俺」


「ありがとう。早速で悪いけれど、お願いできるか?」

 そう紗久羅が言うと少年は糸の先があるらしい方へと歩き始めた。紗久羅と出雲はそれについていく。出雲は思わぬ存在の登場を面白く思っていない風で、時折少年を怖がらせるようなことを言う。全くお前は子供かと紗久羅は呆れるより他ない。


 少年は一歩一歩ゆっくりと、それでいて着実に歩を進める。しばらくして彼は大社から出た。出雲に確認すると、確かにその道にも例の気配が残っているようだ。大社を中心に物事が動いていると思っていたので、外へ出た時は驚いたが少年を信じて先へと進んだ。

 そうして進んでいる間にも、咲月の顔が浮かんだり消えたりを繰り返している。繋ぎとめるものがなければ、どれだけ大切な人間のことも容易に忘れてしまうのだと思ったら何だか悲しくなってくる。確かに自分と咲月は幼馴染であり、親友であったはずだ。だがどうもその実感がわいてこない。


「あたしと咲月は友達だったんだよな……こうして助けに行きたいと思う位大切な子だったんだよな」

 確かめるように、呟く。


「実感がわかないはずだよ、だって繋がりが無かったことになっているんだもの。今のお姉ちゃんにとって、その咲月ってお姉ちゃんは知らない人、顔を見たことさえないような人間なんだ」


「見たこともない、知りもしない人間か。そんな人との思い出があるはずがない、だから夢物語に思えちゃうんだな。もしくは、赤の他人の記憶を覗いているような気がしちゃう。でもこのままにはしたくない。あたしは取り戻したい。あたし、自分のものを誰かに取られたままなんて許せないもん」


「大丈夫、俺が糸を結び直してあげるから。でも簡単にはいかないだろうね。咲月ってお姉ちゃんを連れて行った人がきっとそれを許さないだろうから。俺戦う力とかは全然ないから……あの、お兄ちゃん、俺のこと守ってくれる?」

 恐々とした様子で、上目遣いで出雲を見ながら少年は言った。出雲はふん、と鼻で笑った。


「まあ仕方がないから守ってあげるよ。けれど糸を結び直して無事咲月をこちらの手中に収めたになって、万が一向こうが攻撃を仕掛けてきたとしても……その時は助けてあげない」


「お前こんなチビガキいじめてどうするんだよ!」


「チビガキだろうが何だろうが知ったことじゃない。虐めたいと思ったら、私は赤子だって虐めるよ」

 可哀想にそれを聞いた少年はぶるぶる震えている。紗久羅が優しい言葉をかけて精一杯慰めてやっていなければ、今頃とっくに逃げ出していたかもしれない。


 少年はやがてある小さな神社の前で足を止めた。桜山神社に比べればずっと大きいが、それでも先程までいた大社に比べると随分小さい。

 鳥居の奥には石を敷き詰めて作られた道があり、数十メートル先に祠があった。神社全体を木々が覆っている。三人は鳥居をくぐって、社の前までやってくる。少年はそこまで歩くと立ち止まった。

 紗久羅は社からやや離れた位置にあった看板に目をやる。そこにはこの神社の成り立ちが書かれていた。


「ええと、ここに祀られているのは各地を転々としていた女神で、この辺りの土地に大きな災いが降り注いでいた丁度その時、ここを訪れた。そして彼女はこの地に降り注いでいた災いを取り除いた。その後女神はここを安息の地と決め、人間達によって作られた社で従者達と共にひっそりと暮らしながらこの土地を今でも見守っている……ってあれ、これ」

 その話に紗久羅は聞き覚えがあった。覚えがあるはずだ、実際紗久羅はこの話を聞いていた。初詣の時、あの大社で会った梓から。確かに彼女は、その神社はここの近くにあると言っていた。

 女神、ひいさま、姫様。咲月を連れていった可能性の高い老人が言っていた『ひいさま』というのは、どうやらここに住む女神のことだったらしい。


(梓姉ちゃんは、奇妙な失踪事件はあの大社の周辺で起きていると言っていた。でも実際は、この神社を中心に起きていたんだきっと。こことあの大社はそう距離が離れていない。あの大社の周辺ということは、この神社の周辺でもあるってことだ)

 出雲も一応その看板に目を通し、それから今度は社の目の前まで移動する。


 紗久羅は社の前まで移動する途中、ふと空を見上げた。青い空、そこへ向かって伸びている木の枝。

 その枝が俄かに揺れる。風が、吹いたのだ。だが不思議なことにその風は冷たくなく、妙に生温かった。その生温さが気色悪くて身震いする。

 刹那、風に混ざっていた何かが紗久羅の体に入り込んだような気がした。あっという間もなく、意識が遠ざかっていく。体を動かせなくなる位遠くまでいく寸前「ちょっとだけ、ごめんなさい」という声が聞こえたような気がした。


「糸の片端は丁度この辺りにある。多分咲月ってお姉ちゃんもこの辺りにいると思う。……でも多分、こっちの世界にはいない。向こうの世界か……もしくは」


「こちら側とも向こう側ともつかない、どちらでもあってどちらでもないような場所、か。ここに祀られている女神……ひいさまが生み出した、自分達だけの空間、誰にも侵すことは出来ない領域。そこに咲月はいるかもしれない。多分じいさんは、一旦領域の外から出て、この世界に来た。そしてひいさまを探しながら大社までやって来て、咲月を見つけた。その後はもしかしたらそこから再びひいさまの領域に、咲月と一緒に飛び込んだかもしれない。彼女のもつ領域が大社の方まで及んでいればの話だけれど」

 紗久羅は以前にもあの大社で失踪騒ぎがあったという話を出雲にも聞かせた。老人と、彼に手をつかまれたA子がB男の前から一瞬で姿を消したことも彼は聞いていた。

 老人が、A子と共にひいさまの創りだした領域に飛び込んだとしたら。B男から見れば突然二人の姿が消えてしまったように見えたことだろう。現時点で、あの大社に『道』はない。A子失踪当時もそうだったなら、二人が『道』を使って移動したが為に消えたように見えたのだと考えるのは無理がある。


「けれど参ったな、そういう空間は一部の例外を除いては……その空間を生み出した者や、その者に属する者達に招かれたり、引きずり込まれたりしない限りは入れない。通しの鬼灯でも、そういう空間を見ることは出来ないし」

 

「やっぱりお兄ちゃんにも無理なんだ」

 出雲は静かな声で「無理とは言っていない」と言った。少年が再びびくつく。


「確かに自力でどうにかするのは無理だが、ある者の手を借りればどうとでもなる。でもその為には一度桜町まで戻る必要がある。ああいやだなあ、面倒臭いなあ。もういっそこのまま帰っちゃおうかな、咲月を助けるのもやめてさ」

 ええっと少年は驚きの声をあげる。出雲は半分冗談で言ったのだが、彼は本気にとったらしい。出雲は彼の反応があんまり自分の好みのものだったのでくつくつと笑い……それからあることに気がつき、笑うのをやめた。


 紗久羅が先程から一言も喋っていないのだ。彼女もまた出雲が想像した通りの反応をとってくれることが多い。このまま帰ろうか、咲月を助けるのもやめようか、などと口にすれば紗久羅は必ずといっていいほど烈火の如く怒りだし「ふざけるな馬鹿狐!」とか何とか絶対に言うはずなのだ。なのに彼女は何も言わない。これは明らかにおかしかった。


 彼女はまだ神社の説明が書かれた看板の前に立っていた。出雲と少年は彼女の方まで歩いていく。


「どうしたんだい紗久羅、いつまでもそんな所に突っ立っていて。私はさっきとっても面白いことを言ったのに、全く、君が聞いていなければ意味がないじゃないか。まあ、あの子供の反応もなかなかに面白かったから良いけれど」

 紗久羅は看板から目を離し、ようやく出雲の方を見た。悲哀の混じった真剣な眼差しで。それは紗久羅が今まで見せたことのないもので。どうしたんだと問おうとした出雲は、その時点でようやく気がついた。

 出雲は紗久羅の両肩を乱暴につかむと、彼女の体を激しく揺らした。


「紗久羅……! 君は、君は一体何を憑けてしまったんだ!?」


「え、憑けた……?」

 近くでその様子を見ていた少年は目をぱちくりさせる。力の弱い彼には彼女の明らかな変化を感じ取ることが出来なかったのだ。

 何かが憑いた紗久羅はしばらくされるがままにしていたが、突然何も言わず出雲の胸に手をやり、とん、とついた。乱暴にではなく静かに、優しく。驚いた出雲は彼女の体を揺らすのをやめる。

 すると紗久羅は自分の左肩にあった出雲の手をゆっくり剥がし、そしてその細く冷たい手を温かい両手で包み込む。


 紗久羅はそうしながら、出雲に顔を近づける。そしてじいっと彼を見つめるのだった。その目は潤んでいるように思えた。憂いを帯びたその瞳は年不相応のもので、普段は幼く見える顔が随分大人びて見えた。大人びて見えるだけではない。とても女性らしく見えた。彼女が『女性』に見えたことなど、今までなかったように思われた。この先も、もう無いかもしれない。

 一度も見たことのなかった表情に、流石の出雲もぎょっとした。何も言えず、ただ彼女の顔を見ることしか出来ない。


 風がざわつく。少年が何、何と軽くパニックを起こす。出雲はただぽかんと小さく口を開けたまま、何も言わない、言えない。

 止まった時間を動かしたのは、時間を止めた張本人である紗久羅であった。


「お願い……助けて」

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