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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
ひいさまは社へ帰る
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ひいさまは社へ帰る(6)

 誰かが、私の頭を撫でている。畳の上に横たわり目を瞑っていた咲月は身じろいだ。

 手がゆっくりと、そして静かに咲月の髪を撫でる。いや正確にいうなら誰かが撫でている髪は咲月のものではなく、半ば無理矢理被せられたかつらのそれである。人工物ではなく、恐らく本物の髪で作られたものだ。だが咲月はそれを努めて考えないようにしている。しかし自分の顔にかかるそれの、本物だからこそ持ちえる生気や生々しさなどは嫌でも感じ取られ、彼女の気を滅入らせているのだった。


 その髪を、誰かが撫でている。その感触はかつらに覆われた咲月の頭までじんわりと伝わってきた。驚く程その手には温もりがなく、冷たい。しかしそれは恐ろしい冷たさではなかった。冷たいが子供を守る母親の温かさが感じられた。


――声が、私の声が届いたら良いのに――

 咲月の頭を撫でている誰かが、初めて声を発した。女の声で、あまり若くは無いが、かといって老いた声でもない。その声はまるでエコーがかかっているようだった。何を言っているかはっきりと分かるし、決して小さな声ではないのに何故かとても遠くから発せられているものに感じる。咲月はその声に心動かされるのを感じた。久々に『心』を感じる声を聞いたからだ。


 聞こえています、貴方の声は私の耳に届いています。咲月は夢と現の狭間で、頭を撫でている女にそう言おうとした。だが喋ることはできなかった。もしかしたら彼女が声を届けたい相手は自分ではないのかもしれないと、覚醒しきれない頭でそう考えた。


――ここから連れ出してやることなら出来る。けれど、元の世界へ帰しただけでは、本当の救いは訪れない……――

 それを聞いて咲月は、ああ帰ることは出来ないのかと落胆する。一方、私が元いた世界とは一体どんな処であったかしらと思った。咲月を容赦なく飲み込み続ける闇が、徐々に彼女から本当の居場所を、そして本当の自分を奪ってきている。それを彼女は恐ろしいと、嫌だと思ったがどうしようもなかった。


――私にあれをどうにかする力があったら良かったのに。今の私に出来るのは貴方をこうして慰めること、私の声を彼等が聞く日を待つこと、救いをもたらす者が現われるのを祈ることだけ……私はそろそろ行こう。けれど私は貴方を見守っているよ、あそこから……――

 その声は更に遠くなっていき、終いに聞こえなくなった。同時に頭を撫でられる感触も、人の気配も消えてなくなった。

 それと共に咲月の意識は此岸に戻され、ゆっくりと目を開ける。むくりと起き上がる。頭はぼうっとしている。


(ついさっきまで誰かが私の傍に居たような気がする。そして私に何か言っていたような気がする……)

 しかしそれらの記憶は全て夢に乗せられ、忘却の川を渡ってどこかへと消えていってしまった。思い出そうとすればするほど頭に霞がかかったようになる。


 しばらくは物事をろくに考えることが出来なかったが、身を起こしている内頭が段々と冴えてきた。意識がはっきりしてくると、ずしりとした重みが咲月の華奢な体を押し潰す。

 彼女を襲った重みはかつらと着物によるものだった。体に重みが加わると、気分まで重くなる。口から漏れる息さえも、ずしりと嫌な重みを持っている。


 縁之助という老人にここまで連れて来られて間もなく、困惑している咲月の元に巫女装束の女が二人やって来た。咲月の着替えの為に彼が寄越した者達であることは、容易に察せられた。

 おかめのお面を被ったような顔をした二人だったが、あのお面が持つ滑稽さは欠片も感じられず、むしろ闇にぼうっと青白く浮かぶその顔は不気味で、恐ろしいとさえ思う程だった。生気のない濁った瞳に見つめられただけで、内に持つ魂が吸い取られるような思いをし、体震わせた。


 女二人はやって来るなり咲月が身につけているものを容赦なく脱がし始め、髪飾りを引っこ抜いた。咲月は抵抗も出来ず、ただ震えながら彼女達にされるがままになった。彼女達の表情一つ変わらぬ顔を向けられると、もう何も言えず、何も出来なくなるのだった。

 それが終わると二人は咲月に自分達の持ってきた着物を着せ始めた。その着物も屋敷同様目に見えないものだったらどうしよう、と彼女は不安に思ったがそれは杞憂に終わった。


 花の糸で織ったというその着物は成程、確かに花の様に鮮やかで生き生きとした色をしていた。肌触りは花びらのように滑らかで、ふわりと漂うのは甘い香り。

 一枚一枚は普通のものより軽く感じたが、彼女達はそれを何枚も何枚も重ねて着せたので、結局は先程までよりもずっと重くなってしまった。着物を着る機会の多い咲月だが、ここまで重ねて着たのは生まれて初めてで、あっという間に彼女は体の自由を奪われてしまった。

 更にずっしりとした重みのあるかつらまで被せられた咲月は、いきなり体にかけられた重さに吐き気を催し、倒れそうになった。しかし二人は彼女を解放せず、気遣いの一つもみせることなく、あれやこれやと自分達が任されたことを、実に機械的にやり続けた。


 化粧も改めて施され、あっという間に咲月はここに住む者達が求める『ひいさま』に仕立て上げられてしまったのだった。

 それから一体どれ位の時が経ったのか――まるで見当がつかない。数日かもしれないし、自分が想像しているよりも遥かに長い時間が過ぎたかもしれない。

 闇というのは時間感覚を容易に狂わせるものらしい。今が朝か夜かさえ今の咲月には分からなくなっている。


 闇が狂わせるのは時間感覚だけではない。闇は、そして静寂は咲月の心をも狂わせていく。じわじわと、ゆっくりと、でも確実に。時々咲月は大声で叫びたくなったり、泣き喚きたくなったりする衝動に駆られた。その衝動を抑えるのは彼女の理性であった。しかしその理性も闇に飲まれていき、いずれ完全に消えてなくなるであろうことを彼女は予感していた。そうしたらきっと自分は恥も外聞もなく叫んだり、泣き喚いたりするのだろうと思った。そして最後はそうする気力もなくなって、ここに住む者達と同じような生ける屍となるのだろう。それが分かっていながら何も出来ない恐怖……けたたましい音をたてて回転するドリルが自身の体に近づいてくる、だが自分は縛られていて身動きが取れない。ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくるドリル……それが自分の体に当たればどうなるか分かっているのに、逃げられない。そんな恐怖が彼女を蝕んでいるのだった。


 せめてここが闇に包まれている世界でなければ良いのに、そしてもっと賑やかだったなら、これ程までに恐怖しなかったのにと咲月は思う。しかしこの世界の大半を占める闇はいつまでも闇のままで、ここに住む住人達は滅多に口を開かず、物音も殆どたてない。咲月に近づく者は殆どいないし(ひいさまはみだりに近づいて良い存在ではないそうだ)、来たとしても話し相手にはなってくれない。だから常にこの世界は静寂で、それがまた彼女を狂わせる。


――ひいさま、庭に蝶形(ちょうけい)()が咲いていますよ。他にも大黄金(おおこがね)(しゅ)香蘭(こうらん)などが咲いてございます――

 幾らか前に咲月のお膳(食べ物は全て目に見え、食べることも出来た)を下げにきた侍従の一人がそんなことを言ってきた。ため息をついていた咲月を一応気遣ったらしい。花を見て心癒せということのようだ。

 どれも聞いたことのない花の名前で、もしかしたらこの世界にしかないものなのかもしれなかった。一体どのようなものだろうと思ったが、侍従に案内された先に見えたのは矢張り闇だけで、実物を見ることは叶わなかった。


――ご覧下さい、ひいさま、あちらにある蝶形花、とても色鮮やかですよ。沢山の色硝子で作ったかのようです。まあ、酒香蘭に虫が。あらあら、香りに酔ってあんなにふらついていて……ひいさま、あちらにひいさまの大好きな花がございます……――

 ここに住む者の割にはお喋りだったが、喋り方が淡々としていて『生』を感じられないという点は他の者と同じであった。

 彼女は色々と言っていたが、目をどれだけ凝らしても何も見えない。

 咲月の反応が薄いせいか、彼女はしばらくして話すのをやめ「どうぞ、ごゆっくり」とだけ言うとその場を立ち去ってしまった。暗闇に一人、ぽつんと残される。

 花が本当に目の前に咲いていたのなら、彼女の心も少しは癒されただろうが、目の前には闇と静寂しか広がっていない。そこに一人残された今、咲月は胸を掻き毟りたくなるような思いに捕らわれる。畳や几帳等がある分、まだしも『ひいさまの部屋』の方がましである。


(あそこに戻ろう。ここに居ても仕方がない……)

 立ち上がった咲月はとぼとぼと歩き始める。目印などは殆どない。つまずいたり、ぶつかったりするような障害物がほぼ皆無であることだけが救いである。

 屋敷を構成する屋根や壁も、その中にある部屋も――ここに住む者達が『ある』と主張しているものの大半は咲月の目に映らない。目に映らないどころか、触れることすら出来なかった。ここの者ではない咲月には見ることも触ることも出来ない何かで出来ているからなのか、それとも。


(本当にここに屋敷なんてあるのかしら。花畑も、美しい魚が泳いでいるという池も、彼等の言う何もかもが本当は存在していないとしか思えない)

 見えない壁を避け、しなくてもいい回り道をすることは流石の咲月にも馬鹿馬鹿しく思え、部屋があると思われる方向を突き進む。ある程度の調度品は見ることも触れることも出来、それらがあちらこちらに置かれてはいたが、障害になる程度の物ではない。こうして真っ直ぐ行く方が、ずっと早く部屋に着くから、咲月は物があまり置かれていない所を選びつつ、歩くのだ。

 だが、咲月はそれで良くても周りの者達にとっては全く良くない話だった。


「ひいさま、そちらへ進んではいけません。壁にぶつかってしまいます」


「ひいさま、ここはひいさまがお入りになるような所ではございません」


「ひいさまったら、障子も開けずに部屋に入られて。昔はそのようなこと、お出来になりませんでしたのに」


「ひいさま、そのような所を歩いてはなりません。お召し物が汚れてしまいます。ああ、そちらは池です、ひいさま!」


 彼等は咲月が『壁』にぶつかりそうになったり『部屋』に入ったり、入ろうとしたりする度に色々と言ってくるのだった。言うだけでなく、彼女の手をつかんで思いっきり引っ張ってくることもあった。これが紗久羅だったら彼等に何を言われようと無視し、手をつかまれたら「ふざけんな!」と振りほどいただろうが、咲月にそんなことは出来なかった。無視してしまおうと思っても、生来の真面目で、自分に話しかける者を無視したり、乱暴なことをしたりすることを嫌う性格が邪魔をした。結局彼等の言うことに従い、いつも回り道をすることになる。

 やっとの思いで部屋に辿り着き、腰を落ち着けるとどかっと疲れがきた。着物の重みが、心の重みが咲月にのしかかる。

 そこに戻ってきたところで、何もすることはない。ここには本もラジオもTVも、空いた時間を謳歌するのに使えるようなものが無いのだった。強いて言うなら……。咲月は薄い布に覆われた部屋の後ろの方に置かれているつづらに目をやる。それを開けると、中にはビー玉やだるま落とし、お手玉、おはじき等が入っている。咲月は色とりどりのビー玉を取り出し、畳の上にぱらぱらとそれを落とした。


 指で、青いビー玉を転がす。長い間見ていないような気がする空に似た色をしたそれを見ると、何かが込み上げてくる。


(このビー玉は私の目にも映るし、触れることも出来る。ここにはそういう物が幾らかある……)

 例えば。咲月には屋敷も、部屋の大半も見ることが出来なかったが、便所(広い部屋に、おまるに似たものが置いてある)とひいさま専用らしい台所、風呂場は見ることが出来た。

 この三つに共通しているのは、昔はここにはないものだったということ。

 咲月がこれらのことについて縁之助に尋ねたところ、彼は訝しげな目をしながら「貴方様が作ってくれとおっしゃったものではありませんか。お忘れになったのですか?」と言われた。


 縁之助曰く。本来『ひいさま』は排泄をしない人だったらしい。そもそも何かを食べることも、飲むことも必要としないようだ。お祝い事の時など、ほんのたまに口にするようだ。


 しかしある時ひいさまが便所を作ってくれと言い出した。また、お腹が空いたからご飯を作ってくれとも言ったらしい。あんまり必死だし、また姫の言うことは絶対と彼等はまず料理を作り、それをひいさまに差し出した。だが彼女は「見えない、食べられない、ここには何ものっていない!」と言いだし、更に「この世界のものは食べられない。私の住んでいた世界のものなら食べられるはずだ」とも言ってきたようだ。縁之助は「こここそが貴方の住む世界ではございませんか」と言ったが、ひいさまは聞く耳持たず。結局外の世界――ここから出て行ったひいさまがいた世界の食べ物を持ってきて(勿論その殆どは店や畑から盗んで。だが彼等には何の罪悪感もないようだ。ひいさまに人間達が何かを『捧げる』のは当然のことと思っているらしい。逆にそれを聞いた咲月の方が申し訳なく思ってしまった)、更に外の世界から持ち出したものを使って台所を作った(釜までどうにかして調達したようだ。これには相当苦労したらしい)。


 便所も同じようにして作ったらしい。風呂は元々あったが、ひいさまが「見えない」と言い出したので新たに作ったという。風呂と言っても、木で作ったスペースに、大きめのたらいがあるだけだが。従者数名が水を運んできて(ここにある場所から汲んだ水は今の『ひいさま』には見えないのだ)それを沸かし、たらいに入れるのだ。お陰で毎日とはいかなかったが、比較的温かい湯で体を洗うことが出来た。


 そうして、後で外の世界の材木等を利用して作られたものは咲月の目にも映る。ひいさまの部屋だけは屋敷が出来た当初から存在しているものらしいが。

 他の、目に映る調度品は人間達からの捧げ物、もしくはまだここではなく外の世界を転々としていた時に作ったものであるらしい。

 それ以上の情報を手に入れることは出来なかった。彼等はあまり多くを語ろうとしない。語る気力が無いのかもしれなかった。彼等はいつでも死人のようで、喋ることにエネルギーをあんまり使うと本当の死人になってしまいそうだった。


(きっと、お手洗いを作ってくれと、何か食べるものを寄越せと言った人は私と同様、外の世界から間違えて連れてこられてしまった人だ。縁之助さんは多分今までに複数の人間をここに連れてきた。ひいさまは最近何度も勝手に出て行かれるって言っていたし)

 だとして、自分より前に連れてこられた人達は今どうしているのだろうか、どこにいるのだろうか。


(外の……元の世界に帰れたのだろうか、それとも)

 嫌な考えが浮かび、咲月はぞっとした。暗闇が重みを増す。闇を振り払おうと、昔の楽しかった思い出を思い浮かべようとする。だが何も思い出せない。

 自分が住んでいた世界のことも、きっといただろう友人のことも殆ど思い出せない。ここへ連れてこられた当初はまだ少しは覚えていたが、今はほぼ思い出せない。その事実が更に咲月を打ちのめす。闇に自分の体が、心が食われていくのを感じる。


(元の世界のことだけじゃない。自分のことさえ分からなくなってきている。自分を作り上げていたものを、自分の周りにあったものを忘れていくことで、自分のことさえ忘れかけてきている……このまま全てを忘れてしまったら。私は私でなくなってしまう。その時私は、ここに住む人達が求める『ひいさま』になってしまうのかもしれない。ここにいることを少しも疑問に思わず、彼等の求めるひいさまとして、生きるようになるのかもしれない)

 それを考えると恐ろしくてたまらず、咲月はぽろぽろと涙を流す。涙がビー玉を伝い、鮮やかな玉の色は曇り空へと変わっていった。


(それは嫌だ。私は元の世界に帰りたい。けれどこれ程までに帰りたいと望んでいる世界のことを、私は思い出せなくなってきている。ああ、一体本物の『ひいさま』は今どこにいるのだろう。どうして彼等を置いて、外へ出ていってしまったのだろう……)

 ふと咲月は風を感じ、振り返る。風もないはずなのに几帳が揺れている。隙間から、青白い光が見える。

 咲月はその几帳の奥に何があるのか知らない。周りは分厚い布などで覆われているので、中の様子を窺い知ることは出来ない。この几帳をめくれば、見られるが。

 だが咲月は何となく中を見るのが恐ろしく今まで一度も見ていない。暗闇だけが広がっている所であるとはどうしても思えず、また生き物としての勘が「見てはいけない」と告げていた。


 ふいに、強い風が奥から吹いた。ただの風ではなく、生温いような冷たいような、不思議なものだった。

 それが咲月の体に当たった瞬間、咲月は誰かの声を聞いた気がした。一人二人の声ではない。かなり大勢の、多分女の人の声。何を言っているかも分からなかったし、そもそも本当に声だったのかどうかさえ分からなかった。だが咲月はそれを聞いた途端、ますます悲しく、そして怖くなって涙を流した。

 とても強い思いに打たれた気がした。今吹いた風は、強い気持ちの集合体だったのかもしれない。


(今のは何だったのだろう。私に何か語りかけてきたような気がした……)


 咲月は涙を流しながら、風の吹いた几帳の奥をずっと見続けるのだった。


 後回しにしていた宿題を終わらせ、ベッドの上でうとうとしていた紗久羅は夢を見た。

 闇の中、一人の少女が立っている。着物を身にまとった少女は最初、自分より年上に見えた。だがじっと見つめている内自分と同い年ではないかと思うようになった。根拠は無かったが、そう思った。そして自分は彼女を知っている……とも。

 少女は紗久羅の方を見ている。その瞳は内に恐怖と孤独の寂しさを秘めていた。そして体は可哀想に、ぶるぶると震えていた。


 寂しい、怖い、寒い、帰りたい……そう訴えているように見えた。

 自分が立っている所は光溢れていて、温かい。


 こっちに来いよ。

 紗久羅はそう言って、手招きする。冷たくて恐ろしい闇から彼女を出してやりたかった。だが少女は悲しそうな顔をしながら静かに首を横に振るばかり。

 そちらには行きたくても行けない。そう言っているような気がした。彼女を包む闇は、彼女の体に絡みついているように見える。ここから逃がすものかと、彼女を縛りつけているのかもしれなかった。そしてゆっくりと包み込み、侵食し、自分達のものにしようとしている。何故か紗久羅にはそのことが分かった。

 

 あの子はまだ、あの闇のものにはなっていない。闇の中にいる彼女はかなり浮いているように見えたから。でもこのままでは、彼女はあの闇に取り込まれ、完全に闇のものになってしまうと思った。そのことも紗久羅にははっきりと分かる。

 紗久羅は、目の前の少女が誰なのか知らない。少なくとも自分の記憶には無い少女だった。だが、絶対に……何が何でも彼女をあの闇のものにしてはいけない、したくなんかないという思いがふつふつと湧いてくる。その思いは止められず、あっという間に紗久羅の体を満たした。それに満たされた体が、夢の中なのにとても熱く感じられた。


 紗久羅は目の前にある闇の中へ飛び込み、彼女を助け出そうと決意し、だっとそちらへ向かって駆け出した。だが、駆けても駆けても闇は近づかない。自分が近づけば、闇は逃げる。それに絡めとられた少女も遠ざかっていく。

 紗久羅は手を伸ばし、無意識の内に何かを叫んだ。それは恐らく知らないはずの少女の名前だった。一度叫んだら止めることは出来ず、紗久羅は何度も叫んだ。


 すると闇から、低く、不気味に響く声が聞こえてきた。男のもの、女のもの、複数の声が合わさり、紗久羅の耳に届く。


――ひいさまだ、ひいさまだ――


――この方の名前はそのようなものではない――


――この方はひいさまだ――


――ひいさま、ひいさま、ひいさま……――


――もうどこへも行かないでください、ひいさま……――


 その数々の声。それらの主達が、少女を紗久羅の所へ行かせることを許さないのだ。闇の正体は彼等であり、彼等の住む世界であった。

 逃げる闇に捕らわれていた少女の姿が、揺らぐ。揺らいで一瞬消えて、また現れた。いや、現れたのはあの少女ではなかった。今度こそ本当に見知らぬ女性で、鮮やかな色をした着物を幾重にも重ねて着ていた。(ほし)月夜(づきよ)、春風吹く草原、月光に照らされた桜、世界を輝かせる宝玉……太陽。様々な景色を思わせる色の着物、一番上に身につけているのは自然溢れる風景を閉じ込めた真っ赤な色をしていた。


 真っ黒で、だが闇とは違う……玉虫色の光を放つ、長い髪。顔は紗久羅が今いる光の世界よりも眩しく、白く見える。

 とても美しい女性だった。だが、彼女もまたあの少女同様寂しげな表情を浮かべている。そして彼女が現れた途端、闇から聞こえていた声がぴたりと止んだ。


――助けてあげて。彼女が本当の『ひいさま』になってしまう前に――

 はっきりとした、それでいて幽かな……不思議な声が紗久羅の耳に届いた。


――貴方なら……貴方と縁を結ぶ者なら、或いは彼女を助けられるかもしれない。でも、時間が無い。これが消えてしまう前に、そして彼女が『ひいさま』になってしまう前に、助けてあげて――

 気づけば女は手に何かを握っている。それは真っ赤な糸だった。その糸はこちらの方まで伸びていて、そして先端は紗久羅の指一本に結わえられていた。


――私にこれを結びなおす力は無い。けれどもしかしたら。貴方から、いえ、貴方が今までに縁を結んだ人の内の誰かなら……――


 どういう意味だ、一体何を言っているんだ。紗久羅はそう叫んだ。


――全てを伝えられるだけの力はもう私には残されていない。私が消えたら、もう何もかも終わってしまう。お願い、思い出して。貴方の大切な人間のことを、彼女のことを……――


 女の姿が遠ざかっていく。彼女はまだ何か話していたが、もう紗久羅の耳には届かない。紗久羅の目の前から消える寸前、女の姿があの少女の姿に変わった。

 紗久羅はまた、その少女の名前を叫んだ。


「咲月!」

 紗久羅はベッドから飛び起きた。覚める夢……だが、そこで見聞きしたことは遠ざからなかった。

 再び紗久羅は、咲月のことを思い出した。そして彼女は頭を抱える。


「くそう、また忘れていたんだ! 今度は何日もの間……ああもう、明日から学校が始まるなんて時まで、馬鹿かあたしは!」

 学校が始まれば紗久羅は自由に動けなくなってくる。そうこうしている内にまた咲月のことを忘れてしまう。そしてまた忘れてしまったとして、再び彼女の事を思い出せる保証はない。

 今から行動に移らなければ、間に合わなくなるかもしれない。


 咲月のことを思い出したのと同時に、紗久羅は梓と話した内容のことも思い出した。咲月のことと、彼女の話はセットになっていたのだ。


(あの大社の周辺では、同じように失踪し、かつ周りの人達から忘れられてしまった人間が沢山いるらしい。きっと犯人は同じだ)

 紗久羅はあの大社に再び足を運ぶことを決める。しかしその前に誰かにこのことを相談したいと思った。

 まず始めに浮かんできたのは出雲の顔だったが、紗久羅はこれを急いで打ち消す。彼はこの件に関して決して動きはしないと思ったのだ。


(またあいつに頼んで、拒否された上に色々言われて腹をたてるのはごめんだ。となると弥助か九段坂のおっさんか……弥助は今バイト中だけれど、話だけなら聞いてくれるかもしれない。おっさんは仕事をもうしているのだろうか。でもあの人だってすぐに動けなくても、話位は聞いてくれるかもしれない)

 話を聞いてくれる、ただそれだけでも紗久羅の力に十分なってくれる。その後のことは、彼等に相談してから決めようと思った。

 紗久羅はまず、喫茶店で働いている弥助の所へ行くことにした。また以前のように、ルーズリーフに今回の件をまとめてから。今回は前回に比べてまだスムーズに書けたが、それでもまとめるまでには相当の苦労があった。


(あの夢、ただの夢だとは到底思えない。きっとあの夢にも意味があるはずだ。助けなくちゃ、咲月を……手遅れになる前に!)


 準備を終えた紗久羅は家を出、階段を駆け下りる。そして菊野に外へ出かけることを言おうとして。紗久羅は足を止めた。

 ショーケースを挟んで、菊野と話していたのが出雲だったからだ。出雲は紗久羅に気がつくとにこりと微笑んだ。大抵の場合彼は夕方近くに顔を出すのだが、今回はいつもよりもずっと早い時間に来ていたので紗久羅は驚いた。

 出雲は手に箱を持っている。菓子折りらしい。


「やあ紗久羅、こんにちは。これ向こうで正月の時にだけ売っているお菓子なんだ。これを早く渡して食べさせてあげたくてね、こんな時間に来てしまったんだ」

 菊野は紗久羅に気がつくと目で「後はお前が相手をしてやれ」と語り、店の奥に消えていく。紗久羅としては一刻も早く弥助に相談をしたかったのだが、出雲の視線が彼女から自由行動を奪う。仕方なく紗久羅は出雲と対峙した。


「向こうって……向こうか」


「ああ、向こうさ。上品な甘みがあってねえ、とても美味しいんだ。私は毎年正月が来るとこれを沢山買ってね、毎日のように食べるのさ。まああまり日持ちはしないからそこまで多くは買えないのだけれど。ところで紗久羅、今からお出かけかい?」


「まあな。かなり急ぎの用なんだ」

 急ぎの用、という部分を紗久羅はかなり強調した。だが相手の都合などどうでも良い出雲はふうん、と気のない返事をする。

 挙句再び、しかもかなり長い話をしようとしたので紗久羅はたまらず叫んだ。

 うるさい、という菊野の怒鳴り声もお構い無しに。出雲は指で耳栓をし、顔をしかめる。


「相変わらず声が大きいね、紗久羅は」


「あたしは急いでいるんだ! お前と話す時間なんて無い!」


「何をそんなに急いでいるんだい」

 出雲はそう聞いてきた。といっても本気で話を聞く気はあまりないらしく、あくまで形式的に聞いているといった様子。


「お前にも前話したことが関係している。あたしの友人が、咲月が消えた。けれど皆彼女のことを忘れている。あたしだって忘れていた。思い出して、忘れて、また思い出した。けれどまた忘れるかもしれない。そしてあたしは今回の件の犯人は向こう側の世界の住人だと思っている」


「ああ、そういえばそんなこと話していたような。それで? 私に『お願いします、どうにかしてください』って言わないの?」


「言わねえよ、誰が言うか、馬鹿! 今から弥助とか九段坂のおっさんに相談しに行くんだ。彼等の方がお前よりも余程頼れるからな」


「頼れる? 私よりも?」

 意外にも、彼はこの言葉に強い反応を示した。ぴくりと眉が動き、顔から笑みが消える。予想外の反応に紗久羅は驚きつつ、話を続けた。


「ああそうさ。確かにお前より力はないかもしれないが、あの人達は人の話を親身になって聞いてくれる。私には関係ない、どうでもいい、忘れていた人間のことなんてそのまま忘れちゃえばいいんだなんて酷い言葉は絶対にかけない。そういう優しさにつけこみすぎるのは良くないって思うけれど、それでも。あたしはあの人達を頼るよ、優しさにつけこんで、頼って、利用して、でも自分もどうにかしようとちゃんと動くんだ。動かなくちゃいけないって思う」


「……何だか、無性に腹がたってきたよ」


「はあ?」

 と言ってから紗久羅はぎょっとした。出雲から明らかに怒り及びやる気オーラが出まくっていたからだ。紗久羅に頼られる自分というポジションが別の者(しかもその内一人は彼が嫌う男である)に奪われそうになっていると思ったからなのか、無駄に高いプライドをへし折られたからなのか、或いは両方か。


「良いよ、分かった。この私が何とかしてあげよう。何とかしてやる。紗久羅が頼るべき人間は、この私だ。この私だけなんだ」

 彼にしては珍しい熱く、めらめらと燃え上がるオーラに紗久羅は戸惑い、喜ぶべきなのか、体を震わせてびびれば良いのか分からなくなるのだった。

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