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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
桜の夢と神隠し
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桜の夢と神隠し(2)

 沈黙。彼は、ただ静かに私を見つめている。細い指で、自分の唇を撫でながら。

 烏の、これから起きることを予見するかのような鳴き声が聞こえる。その鳴き声が妙に不気味に響いた。

 出雲さんが、口を開いた。君は馬鹿だねってその瞳は語っていた。


「君、かず坊とお転婆紗久羅姫の、幼馴染だって子だよね。二人から、少し話は聞いている。臼井さくら、だったっけ」


「そ、そうです」

 声が、震える。


「それで? 何故私に頼むんだい、そんなことを。かず坊達数名の人間が、神隠しにあったらしいという話は知っているけれど、心当たりは私には全くないよ。私は探偵でもないし、霊能者でもない」

 想像通りの答えが返ってきた。やっぱりそうなるわよね。目の前にいる人は、結局ただの人間。夢見てきた存在ではない。それは当然のことだってきっと皆言うでしょう。私は、その「当然」という言葉を聞くのがとても嫌いだった。


 けれども、私はこのまま引き返そうとは思わなかった。予想通りの言葉を聞いても、それでもまだ希望を捨てたくなかった。それに、彼の醸し出す雰囲気は矢張り、どう考えても普通のものには思えなかった。夢見てきた存在であって欲しいなどと、勝手なことを思っていた。


「貴方なら、助けてくれる。何となく、そう思ったからです。確証なんて、ちっとも無いけれど」

じっと、見つめる。出雲さんも、こちらをじっと見つめている。いっそ、腹を抱えて笑われた方がほっとするかもしれない。何も言わずに、じっと見つめられると、お腹がきりきり痛む。


「私は、貴方が普通の人間であるとは思えないんです。失礼なこと、言いました。けれども、そう思うんです。貴方なら助けてくれるって、そういう感じが、するんです」


「君は、危ない子だね」

 突然、そんなことを言われた。危ない。確かに、危ない子ね。こんなことを初対面に限りなく近い人間相手にいきなり言うなんて。訴えられてもおかしくないのかもしれない。


 けれど、出雲さんが続けて紡ぎだした言葉は、予想外のものだった。


「踏み入れてはいけない世界に、自ずと飛び込もうとするから」


「え」


「君の性格は、きっと破滅を招く。夢見がちで、自分の住む世界と、違う世界との線引きをきちんとしようとしない。ああ、でも私は好きだよ。そういう子って」

 何を言っているのか、よく分からなかった。


 出雲さんの表情が、先ほどとはまた違うものになった。楽しいおもちゃを見つけて喜ぶ子供の顔だった。そのおもちゃを、楽しげに鑑賞するように、私を見ていた。

 子供と違う点は、その瞳がものすごく艶かしいというところ。


「良いだろう。あはは、面白い。可愛らしくて、哀れで愚かなお嬢さん。君が、長い間ずっと望んできた世界を、教えてあげよう。そして、大いに喜び、大いに苦しむが良いよ」

 

 そうして、初めて出雲さんは大声をあげて笑った。学校にいる男の子達の笑う様子とは、全然違う。心底愉快だと思っている部分は同じ。けれど、その声は、体中を氷の炎で焼き尽くすような、熱いと感じる位に冷たくて、恐ろしいものだった。


 胸が抉られて、心臓が焼き尽くされるような苦しみ。震える右手で、胸の辺りを掴んだ。

 

 出雲さんが、笑いながら、私に何かを投げて寄越した。キャッチボールが苦手な私は、危うくそれを取り落としそうになったけれど、どうにかキャッチに成功した。

 何だか、とても暖かい。夏の、意地悪な暑さとは全然違う。優しい……人肌のような、温もりだった。私は、閉じていた手を、恐る恐る開けてみた。


 私の掌にあったのは、一個の鬼灯だった。けれど、普通の鬼灯とは違う。それは、ぽう、と淡く柔らかな光を放っていた。心安らぐ、女神の笑みの如き、光。

 何かしら、これは。鬼灯を象ったランプ?いえ、そうではないみたい。本物の鬼灯だわ、これ。作り物ではありえない感触だもの。まあ、素敵、なにかしら。これ、どういうことなのかしら。

 私の心は躍りだす。すぐにでも、この不思議な鬼灯のことを聞きたい。私は、先ほどまで感じていた緊張も恐怖も、忘れて、顔を上げた。


 十七年生きてきた中で、一番驚いた光景が、目の前にあった。

 

 出雲さんの、姿が変わっていた。

 恐ろしい怪物になっていたとか、違う生き物になっていたとか、そういうものではない。


 黒曜石の髪が、真っ白な朝日を受けて垂れ下がる、藤の花の色に変じていた。近くに行けば、あの花の香りがしそうな位、鮮やかな色。

 瞳は、嗚呼、なんて赤いのでしょう。そこにあるのは薔薇のような情熱ではなくて、血の持つ、静かでいて強い生命の輝き。その輝きは、他人の生命まで喰らい尽くしそう。


 その瞳が語る。彼が、他人の魂を喰らって輝く、美しく残酷な存在であることを。


 人では、ありえない。髪は染めたものとは思えず、瞳のその色もコンタクトレンズという偽りの物で出せるようなものではなかった。自然で、驚くほど彼に馴染んでいる。それを見た後は、黒髪で黒い瞳であった、寸前までの彼の姿の方が、不自然であったと思えてくるから、不思議。


 なんて綺麗なんでしょう。胸の鼓動が高鳴る。自分の求めてきたものが、今目の前に現れた。そんな、気持ち。

 その一方で抱く、叫び声をあげたくなる位の恐怖。


 私にそんな思いを抱かせた当の本人である出雲さんは、ただ笑っていた。


「それを持って、桜山神社の前へ来て。そこの様子も、随分変わっているだろう。鳥居をくぐって、本来社があるところまで上っておいで。けれど、これだけは言っておくよ。いいかい、鳥居をくぐっている間、絶対にそれから手を離してはいけない。握り締めながら、おいで。手を離したら、恐ろしいことになるから。そうなると、私でも助けるのは難しい。まあ、君がどうなっても痛くもかゆくもないのだけれど」

 

 冗談ではなく、本気でどうでもいいと思っている……らしい。出雲さんは、どこからともなく、桜の花の描かれた金色の扇を取り出した。


「それじゃあ、私は先に行っているよ」


 扇を、大きく振った。

 強い風が舞って、それと共に何かが私を襲う。顔をかばいながら、何がとんでいるのか、目を細めて見た。


 桜の、花びら。春に舞い踊る、甘い香りの、天女の様な柔らかくて美しい花びら。

 溺れそうになる位、多くて。強い香りを嗅ぐと、眩暈がする。足が、ふらつく。

 危うく、転びそうになった時、ようやく風が収まって、桜の花ももう来なくなった。


 さっきまでいた出雲さんの姿は、もう無かった。


 私は、頭についた桜の花びらを振り落とすこともしないで、早足で桜山を目指す。

 その時の私の頭からは、一夜のことは消えていて、ただ出雲さんの妖艶な姿だけが頭を巡っていた。


 人ではない、異形の存在。彼は、そういう存在だった。気のせいなんかじゃなかった、本当に、そうだった。


 こんな嬉しいことって無いわ。お爺様の家へ遊びに行く度に聞いていた、桜町に伝わる言い伝えの数々。楽しい物語は、いつしか憧れの物語になっていって、そして私はそれが「夢物語」ではなく「現実の物語」であることを信じるようになっていった。


 妖怪や、精霊、幽霊……そういう、異形達は、実在しているのだと。今は、あまり姿を見せないみたいだけれど、絶対にいるのだと、そう思うようになっていった。


 けれど、大抵の人は、そんなものはいるわけないと、言った。小さい頃は、笑われなかったのに、気づけばそのことを口にするたびに笑われるようになった。私は、気にしなかったけれど。何か色々言われたこともあったような気もするけれど、全部忘れてしまった。

 本やお話で見聞きすることしか出来なかったものと、いつか会ってみたい。お話できたなら、どれだけ幸せでしょうと思っていた。その夢が、今日叶おうとしている。


 私は、間違っていなかった。


 そんなことを色々考えている間に、桜山まで来た。町の北側にあるその山は、春になると薄い桃色に変わる。

 今は、夏だから。濃い緑色。朝や昼は、碧玉の様に深い緑色の輝きを見せる。そして夜には、光を全て食らいつくした闇色になって、静かにそびえている。


 胸が苦しい。汗が止まらない。鬼灯を握り締めていた手はじめじめと湿っていた。

 けれど、口の中はからからに乾いていて、飲み込む唾も無い。

 けれど、立ち止まっていてもしょうがない。私は、桜山神社へと向かう。


 神社は、山の麓にある。

 何百年も前に作られたその神社は、人間とは思えない位強い力を持った巫女様を祀っている所。その巫女様は、村を襲い己の力を得ようとした、桜村奇譚でも度々出てくる化け狐……出雲を、自分の命を懸けて倒したとされている。村人達は命を懸けて村を守ってくださった巫女様に感謝の意を込めてこの神社を作った。ついでに、巫女様の魂に身を焼かれて死んだ出雲が、死後村を祟ることのない様に、彼のことも祀ったのだという。


 桜山で死んだとされる化け狐の出雲。そして、桜山神社に来いと言った、美しく妖しい方……出雲さん。名前が同じなのは、偶然?それとも。

 そのことも、知りたい。あの方が化け狐の出雲だとしたら、それはとても素晴らしいこと。言い伝えが真実であったことになるし、それに私は悪さをしながら時に良いこともしていたという、彼に惹かれていた。どこまでも自由なその存在に。


 けれど、彼は死んだことになっている。もしかしたら、言い伝えは真実と少し異なるのかもしれない。

 ああ、早く行かなければ。


 山の麓にひっそりとある、鳥居をくぐるとそこには石段がある。そこを上れば、小さな社がある。


 はずだったのに。


「あらあら、まあまあ」

 思わず、声をあげてしまった。こんなことってあるかしら。

 私の目の前にあったのは、いつも見るものとは全く違う光景だった。


 神社の入り口にある鳥居が、何となく本来あるものとは違うものの気がした。けれどそれ以上に大きな変化が私の目を奪う。

 まず、石段の数が増えている。本来は4、50段位だったはず。けれど、今はその2倍、いえ、3倍……ううん。きっと、もっともっとある。果てない空に続くように伸びている。見上げて一番先を見ようとするけれど、見えない。眩暈がする。


 更に、細くて小さめの鳥居がずらりと並んでいる。生き物の中に流れる血の様な、鮮やかな生命の色をしている。2段置きに……伏見稲荷の様に、ずらずらと延々に鳥居が並んでいるだけで、そこが異質な世界へと変じたように見える。


 その世界を更に異質なものにさせているのは、鳥居の両内側にある灯篭だった。そこから青白い灯りがもれている。鬼灯の放っている灯りとは正反対の、冷たく不気味で、不安や恐怖を掻き立てるようなものだった。

 そして、石段を包み込む桜の木。季節は夏なのに、緑の葉ではなく、あの春の色をした花が零れ落ちてしまいそうな位に木の枝についている。


 試しに、一度握り締めていた鬼灯から手を離して、ズボンのポケットの中に入れる。一瞬で、いつも見てきていた光景に戻る。

 また握り締める。またあの異様な光景が目の前に現れる。


 数多の鳥居、青い光を放つ灯篭、季節はずれの桜。歪で不自然なものが揃い、その空間だけを、異質なものへと変えた。

 そこを通った先にあるのは何かしら。きっと、私が目にしたことのないような世界でしょうね。或いは、死の世界なのかもしれない。


 けれど、ここを通れば、私が今までずっと見たかったものが沢山見られるのだろう。

 ここで引き返す訳にはいかない。そう、だって引き返してしまえば、物語は昨日から一歩も動き出さないもの。知りたいことを知ることも出来ない。そして、一夜達を助けることも、叶わなくなる。


 物語に出てくる登場人物は、何があっても、必ず前へ進む。その先にあるものが、幸福や希望とは限らないのだとしても。


 私は、一歩ずつ前へ進んでいく。鬼灯はうっかり落としてしまうことのないように、ぎゅっと握り締める。もし離してしまったら、どうなるのか。少し気になるけれど、悪いことが起きても良いことは起きないようだし。


 石段に足をかける。その足に力を入れて、身体を上へあげていく。

 灯篭の灯りが、私の身体を冷たく撫でる。汗は氷になって、身体を冷やす。握り締めた鬼灯の温もりだけが、私の身体を暖めてくれた。


 上っても上っても、まだ続く。息が苦しい、足が痛い。体力の無い私には、拷問以外のなにものでもない時間が続く。鬼灯を握る手はぬるぬるしていて、少しでも油断すると滑って開いてしまいそう。


 生命の輝きを象徴する様な鳥居の色と、死を連想させる青い灯篭の灯りが瞳の中に次々と入り込んでいく。


「どこまで、続くのかしら」

 そう口にした時。


 ぽん、ぽん、ぽん、と小さな音を立てて、何かが石段の上を軽やかに跳ねながら、こちらに向かって落ちていくのが見えた。

 真っ赤で、丸いもの。それが私の足に当たって、石段の上で止まった。私は石段を少しだけ下りて、それを左手で持ち上げた。


 それは、小さな手毬だった。深緋色、山吹色、若草色、瑠璃色……沢山の色の糸を使って作られた、綺麗なものだった。手毬歌を歌いながら、これを使って遊んだら、どれだけ楽しいかしら。

 けれど、何でこんなものが。首をかしげる。


 上の方から落ちてきたのよね。もう一度、石段を見上げてみる。

 少し上の方に、誰かが立っているのが見えた。私は少しずつまた石段を上って行った。


 しばらくして、そこにいるのが小さな女の子であることに気づいた。

 真っ赤な着物、上にお団子を一つ作っていて、それを着物と同じ色のリボンで止めている。前髪がとても長くて、顔はよく見えない。蒲公英色の帯が、眩しく見える。裾からちょこんと見えている愛らしい

右手は何か――多分私が持っているのと同じ鬼灯――を握っているようだった。

 歳は10歳位だと思う。それからもう少し上る。ふと思い出した。私は、彼女を見たことがあった。何度か、商店街に来ているのを。お人形さんみたいで、とっても可愛いと思っていたのだ。


 その女の子は、棒の様に立ったまま、少しも動こうとしない。そうしていると、ますますお人形さんみたいに見える。

 私を、多分彼女は見ている。前髪の間から微かに見える丸い黒真珠の瞳が、私をとらえている。あまり歓迎しているようには、見えなかった。


「……みたい」


「え?」

 少し木の枝が揺れただけで消えてしまいそうな、とても小さな声が私の耳に届く。

 もう一度、女の子が口を開けた。


「馬鹿みたい。本当に、来るなんて。……馬鹿な人」

 それだけ言って、女の子は私に向かって駆けてきた。そして、ぼうっとしている私の手から手毬を奪って、くるりと背を向けて、さっさと上へ向かっていった。


「待って!」

 慌てて、追いかける。女の子は、私よりずっと早くて、あっという間に消えて行った。

 

 夢中になって、駆け上がる。

 しばらくすると、果てない階段の終わりが見えてきた。一番上にあるのは、他の鳥居とは違う色で、大きなものだった。闇を告げる夕日の様な、色をしていた。


 息が苦しい。でも、立ち止まってはいけない。私は、今までで一番速く走って、一気にその鳥居を抜けた。運動会の時だって、ここまで頑張りはしなかった。


 息を整えながら、前を見る。

 

 社は、無い。その代わり、社よりもずっとずっと大きな洋館が、立っていた。

 日はまだ出ているのに、洋館を覆う木々は光を失っていて、随分と黒い。そんな木々とは違って、洋館は灯りがついているわけでもないのに、仄かな光を放っている。暗闇の中、煌々と輝く月のように。木々がこんなに黒いのは、館が全ての光を奪っているからかもしれない。


 淡い黄色の、レトロな雰囲気が漂う洋館。窓枠や、ドアの周りだけ、太く白い線が入っている。

 

 ここに、出雲さんがいるのね。

 低い石段を3段上って、見事な装飾がされている、茶色のドアに手をかける。

 ドアの隣にある、呼び鈴が鳴らしてもいないのに、リーンと鳴った。緊張していたから、びっくりしてしまった。


 深呼吸して、ドアを開ける。


 目に飛び込んできたのは、真紅のカーペット。そしてさっきの女の子。

 手毬を持ちながら、じっと立っていた。小さなため息が聞こえる。


「出雲が、待ってる。……ついてきて」

 ぼそぼそとしていて、聞き取りづらいけれど、とても可愛い声だわ。鈴を転がした様。女の子は、くるっと背を向けてゆっくりと歩き始める。


 館には、幾つもの部屋があるみたい。女の子が向かっているのは二階の様で、玄関の真正面にある階段を上っていく。階段は途中の踊り場で左右に分かれている。女の子は右側を進んだから、私も後に続く。


 階段を上り、更に右へと進む。そして、そこから三番目にある部屋の前で、女の子は止まった。他の部屋に比べて、戸が大きい。お花や蝶の装飾のある、金色のプレートがとても綺麗。

 女の子が、とんとんとドアをノックする。ドアの向こうから、あの冷たく艶やかな声が聞こえた。出雲さんが、いる。


 女の子が、ドアを開けて部屋の中へ入っていく。私もそれに続く。嗚呼、足が石になったみたい。階段を上り続けて疲れたから、ということではない。部屋の中の冷たい空気がそうさせる。


 部屋の中は、書斎といった感じだった。真紅のカーペット、向かって右手には本棚がびっしりと並んでいる。正面には年季の入った茶色い木製の机。その上には本や水晶玉が置かれている。そのすぐ後ろに出雲さんがいて、更にその後ろには大きな窓がある。

 何の変哲もない、お部屋。けれどここは正真正銘、異界なのだ。私の知らない世界。そして出雲さんの住む「本当の」世界。


 出雲さんは頬杖をつきながら、こちらをじっと見つめていた。絹糸の髪がさらさらと、水のように零れ落ちている。赤い瞳はその水に落ちる、毒を含んだ甘い果実。


「ようこそ。遅かったね。……随分と疲れているようだね。たったあれだけの階段で。君、もう少し運動した方がいいんじゃないかい?」


「よく先生にも言われます。私、運動は苦手なんです。跳び箱も5段すら飛べないし、逆上がりもできないし、50メートル走だっていつになっても10秒近くで。だって、運動するよりも読書している方がずっと面白そうなんですもの」

 そう答えたら、何故か出雲さんが呆気にとられたような表情を浮かべた。あまりに私が運動音痴だから、呆れているのかしら。


「嫌味でいったつもりだったんだけどね。真面目というか、鈍いというか」

 ぼそりと呟く。あら、さっきのは嫌味だったの?全然そう聞こえなかったけれど。


「紗久羅とは大違いだ。彼女は、苛めるとすぐむきになって反抗してくるから。……まあいい。改めて自己紹介をしよう。私の名は出雲。そこにいる愛らしい女の子は、鈴だ」


「臼井さくらです。高校2年生、です。あ、あのやっぱり……出雲さんって、あの出雲さんですよね、巫女に殺されたことになっている、あの!」

 気づけば足は自然と前に進んでいて、私は出雲さんに顔を近づけた。出雲さんが何故か視線を逸らした。


「そこら辺はおいおいお話しようと思ったんだけれど。まあ、いいや。ああ、そうだよ。かつてこの山に住んでいた、強くて美しい化け狐の出雲様とは私のことだ」


「まあまあまあまあ! なんて素敵なんでしょう! 私の目の前に、ずっと夢見てきた存在が! 言い伝えでは死んでいたことになっていますけれど、実際は生きていたのですね。あ、本来の姿は狐ってことですよね、一度見てみたいです! 白雪の如き身体、ああきっと素敵なんでしょうね。何から聞けばよいのでしょう!」


 ああ、何て素敵。眩暈を起こしそう。恐怖よりも、歓喜の気持ちの方が勝っている。身を乗り出して、出雲さんともっと近づこうとするけれど、何故か出雲さんは身体を後ろに反らせて避ける。私の話を聞いている時の一夜のような表情を浮かべながら。


「と、とりあえず落ち着いてくれ……君はここへ来た本来の目的を忘れたのかい?」


 そ、そうだったわ。確か私は一夜達を助けてもらう為にここまで来たのだった。興奮のあまり、そのことを忘れるところだったわ。危ない、危ない。

 出雲さんは、小声で何かぶつぶつ呟いていたけれど、何を言っているのかはさっぱり分からない。


「兎に角。そのことについて詳しく聞く前に、ここのこと等について軽く説明しておいた方がいいかな。鈴、二人分のお茶を持ってきておくれ」

 そう出雲さんが言うと、鈴ちゃんがこくんと頷いて、とてとてと歩いて部屋を出て行く。出雲さんはそれを見届けると、ゆっくり立ち上がって部屋の左側にあるテーブルへと向かった。そして、そこにある、茶色の椅子に腰掛けた。

 そこへ座れ、というように出雲さんの真向かいに置いてある椅子を指差す。私は、その椅子に座った。

 

 テーブルを挟んだ向こう側に居る出雲さんは、とても美しい。髪の先、指の爪先までが、芸術品のよう。その美しさは、かえって不自然にも見え、世界から浮いているようにも見える。

 私は、ポケットの中に入れていた鬼灯を取り出して、テーブルの上に置き、そのままゆっくりスライドさせて、出雲さんの前へやる。


「これ、有難う御座いました。……とても、素敵で不思議な鬼灯ですね。この鬼灯が、私をここへと導いてくれたんですね」

 出雲さんは、それを手にとって弄り始める。


「そう。こういう特殊なものが無ければ、君達はここへ来ること等出来ない。反対に、私達も……特別な手段をとらない限り、そちらの世界へはいけない。二つの世界は、遠くて近い。近くて、遠い。重なり合っているのに、交わりあっているのに。その間には明確な境界が存在していて、その境界は、お互いの世界を拒絶する」

 もっとも、と出雲さんは続ける。


「昔は、そうでも無かったのだけれどね。境界はあやふやで、ぐにゃぐにゃで。曖昧で、出入り口も隠されていなかった。だから、私達の世界へ迷い込む人間も多かったし、君達世界へ行って悪さをするなり何なりする我々妖達も沢山居た」


「まあ……でも、何で今は行き来できないんですか?」


「世界は、時が流れと共に変わっていく。君達は我々を、我々の世界を否定し始めた。そして、君達の世界はどんどん発展していった……科学とかいうものは、君達世界を大きく変えていった。我々の世界には存在しないものが、どんどん増えていき、その様子は変わっていく……二つの世界には大きな差が出来てゆく。その差、そして君達の我々を否定する思いが、世界をはっきりと隔てることになった。境界ははっきりし、出入り口は隠される」

 出雲さんは鬼灯を手に乗せ、ころころとそれを転がす。


「昔はこんなものが無くても、君達住む世界と、私達の住む世界を繋ぐ出入り口は見えていた。それに、もっと数もあったんだよ。……今はその数も大幅に減って、見ることも出来なくなった。見ることの出来ない入り口に足を踏み入れることは出来ない。だから、これが無ければ桜山神社へ続く階段は、ただの階段で、それを上ってもこっちに来ることはできない。それは、桜山神社へ向かう為の階段だもの。この『通しの鬼灯』は、自力では見られない入り口を見ることが出来る。二つの世界を繋ぐ入り口をね。それを上れば、その先にあるのは、異界さ」


「そうだったんですか……ああ、残念です、悲しいです、切ないです。何百年も早く産まれていれば、不思議な物を見放題だったなんて! ああ、もっと早く産まれたかった……!」

 心の底から、そう思う。異界との境界がはっきりしていなかった頃が羨ましい。今は、こんなにも遠い世界になってしまった。すぐ近くにあるのに、それはあまりに遠すぎて触れることができないなんて。

 出雲さんが、何故かため息をついた。


「君ねえ……」


「あ、でも昔の生活はとっても苦しくて大変なものだったんですよね。私は根性なしだから、きっと耐えられないでしょうね、昔の暮らしは。ああ、でも妖達と会えるのだったら、その苦しみも乗り越えられるかもしれません!」

 自然、心拍数が上がって、目がきらきら輝いてしまう。手を合わせ、自分が妖怪と住んでいるところを想像する。ああ眩暈がする。でも、こんなに嬉しい眩暈なら、何度しても構わない。


「……君、本当に人間なのかい?」

 何だか、酷く呆れているらしい。ああ、大きな声をあげすぎちゃったかしら。他人の家で、ちょっとはしたなかったかしら。

 人間なの?その言葉が、私の胸を突き刺す。


「残念ながら、人間なんです。只の、無力で情けない、人間なんです」

 私は、また一夜のことを思い浮かべた。その途端、舞い上がっていた気持ちがずんと重くなって、また息苦しくなった。


「そう。君は只の人間だ。愚かで弱くて、ぐちゃぐちゃに壊してあげたくなってしまう。嗚呼、人間って素敵だね。私は大好きだ。君達人間という、惨めな生き物がね。さて。そんな君は、私に助けを求めにきた。かず坊を助けて欲しいんだよね」

 見下すような、哀れむような瞳。僅かに開いた口、赤い舌。口の前にやった、白い指。金縛りにあった様に、体が動かない。ただその麗しく、また艶やかな姿から目が離せない。

 私は、この人相手に、さっきまであれだけ沢山喋っていた。信じられない、どうやって口を開いていたのだろう。さっきまでの自分が、幻の様に思える。


「さて。私はその事件について、詳しいことはあまり知らないのだけれど。……もう少し詳しく聞こうか。君の知っていることを教えておくれ」

 そう言われたら、少しだけ体が軽くなって、唇が言葉を紡ぎだす。今の私は、出雲さんの言うことだけを聞く、彼のマリオネットだ。


 私は出雲さんに、まずは美大に通う女性が、目を覚まさなくなり、直後忽然と姿を消したこと、そしてその女性が居た場所には桜の花びらが落ちていたことを話した。出雲さんは、美大が何なのかよく分からなかったのか、首を傾げたから、私は簡単に「絵を専門に教わる学校」と説明した。


「それが最初と。それで?」


「次は、24歳の男の人です。そして、16歳の女子高生、9歳の男の子。最後に……一夜が。ごめんなさい、詳しいことまでは知らないんです。ただ、全員に共通していることは、眠ったまま目を覚まさなくなった後、忽然と姿を消してしまったこと……そして、桜の花びらがその人の居た場所に落ちていたこと。それだけなんです。も、もっと詳しいことを知りたいのなら、私、調べます。ですから、お願いです。一夜を、そして他の人達を助けてください」

 

 沈黙。


「成る程ねえ。……さて、どうしようか。言い伝えに詳しい君なら知っていると思うけれど、私は極悪非道と呼ばれた化け狐。君の願いを、笑って無視することだって平気な男だ。というか、基本的には、無視するね。必死にお願いし続ける君の顔にどんどん絶望が浮かび上がっていくところを見る方が、ずっと楽しい。そして、真実を知っていながら、全てを見過ごし、かず坊達を見殺しにする」

 

 そう、出雲さんはそういう人だ。

 私の知る言い伝えの数々が真実だとすれば、目の前にいる彼は数々の悪事を働いてきた。悪戯程度のものもあるけれど、人に一生の傷跡を(肉体的に、或いは精神的に)残し続けるようなことも多くやり、気まぐれに人を殺すこともしたという。

 

 彼は、正義の味方ではない。人が望む、自分を命を賭けて他人を救う、正義のヒーローとは程遠い存在なのだ。むしろ悪役、敵と呼ばれる存在に近いのかもしれない。


 けれども。


「けれど、人を助けることもする、と言い伝えにはあります。迷子を無事に送り届けたり、一人の女性が無くした髪飾りを見つけて返してあげたり、病気をあっという間に治す薬をあげたりした、と」

 ここで負けたら、何もかもが終わり。自分が今まで望んでいた異界へ行くことが出来ただけで、物語は何も変わらず、一夜達を取り戻すことは叶わない。

 私は正義のヒーローでもない。物語の中心にいる人間とも思っていない。けれども、自分が出来そうなことならやりたい、そう思う。


 足が震えて、手が震えて、心も震えて今にも崩れそう。崩れてしまった方が、ずっと楽になれる。……けれども、それはほんのひと時だけで、きっとここで崩れたら、一生後悔し続けることになる。私は、そう思うのだ。


 再び、沈黙。

 そして、出雲さんの大きな、ため息。


「はあ、面倒くさいなあ。けれど、まあ仕方ないからやってあげるとしよう。いや、別に君の頼みなんてどうでもいいんだよ。どうせ、しばらくすれば菊野から頼まれそうだったんだ。……菊野は口には出さないだろうけれど、目で語ってくるね。この私を無言で脅迫できる人間は、彼女位のものだ。彼女を怒らせると、美味しい稲荷寿司が食べられなくなる。それは、嫌だから。まあ、かず坊以外を助ける義理は全くないのだけれど、やっぱり助けないと菊野がね」


 つまり、出雲さんは最初から一夜を助けるつもりだったのだ。……他の人達は微妙なところだったみたいだけれど。私のことなんて、どうでも良かったのだ。

 けれど、すごいわ、菊野お婆様。大昔、桜村を恐怖へ陥れ続けたあの化け狐、出雲さんを稲荷寿司一つで操るなんて。とてもお強い方だと思っていたけれど、ここまですごいとは。尊敬しちゃうわ。


 やがて、鈴ちゃんがお盆に二つティーカップを載せて部屋の中に入ってきた。カップの中に入っているのは、紅茶のようだ。出雲さんの前に置かれたティーカップの方が沢山入っているような気がするけれど、気のせいかしら。


「まあ、すぐに助けられるわけではないけれどね。未だ、誰がこの事件を起こしたのかよく分かっていないから。……まあ、見当はつくのだけれど。君は、動いても動かなくてもどちらでもいいよ。いてもいなくても、変わらない存在だもの」

 出雲さんは、とっても正直な人だ。ティーカップを手にとって、紅茶をゆっくり飲み始める。私も、それに続いて飲む。私達の世界で飲む紅茶と、全く変わらない味だった。もしかしたら、これも私達世界で買ったものかもしれない。


「けれど、まあ。無駄にあがくことを君が望むなら、勝手におし。何をしても、変わらないけれどね」


「はい。勝手にします。頑張ります。……でも、その鬼灯がないと、ここには来られないんですよね。あの、その……できれば」

 もう二度と此処へ来ることができないなんて、そんな寂しいのは嫌だった。折角見つけた世界を、もう手放すなんて、私には出来ない。

 未だ知らないことが、沢山あるのに。


「そうほいほい簡単に渡せる訳じゃないんだよね。これって貴重なもんだよ。……しかし君は変わった人間だね、本当に。普通はこんな世界に自分から来たがる人なんていないよ」


「どうしてですか?」


「話をしていて、こんなに疲れる相手はそうそう居ないよ。はあ……まあ、仕方ない。君用に一つ、通しの鬼灯を用意するとしよう。……いや、もう一つ用意するのも、悪くないかもしれないな」

 何か思いついたのか、出雲さんが口元を歪めて、にやりと笑った。悪戯好きの子供が浮かべるものに似ていた。

 出雲さんは、私に3日後の17時、桜山神社の入り口前で待つように言った。

 そして、其れまでこの鬼灯を貸していてあげる、といって手の上でころころ転がしていた鬼灯を、貸してくれた。


「これが無いと、ここから帰ることも出来ないからね。けれど、3日後まで、これを使ってこっちに来ないでおくれ。……毎日君の相手をするのは、疲れる」


 私って、何故か皆に「話していると疲れる」って言われるのよね。一夜が、よくそんなことを言ってくる。本当に、何でなのかは知らないけれど。

 

 帰りたくは無かったけれど、仕方ない。駄々をこねていたら、終いに痺れを切らした出雲さんに喰われそうだったから。

 私は、あの途方も無い数の階段を下りて、一旦自分の世界へと帰っていった。 


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