ひいさまは社へ帰る(4)
*
鳥が、朝の訪れを喜び窓の外で歌っている。目が覚め、咲月のことを思い出すなり紗久羅は机の前に向かっていた。相変わらずごちゃごちゃしている机の上にルーズリーフを一枚置き、シャープペンシルを取り出す。机は冬の寒さでひんやりしていた。
紗久羅は昨日のこと、咲月のことを書こうとした。確かに彼女はどういうことだか忘れていた咲月のことを思い出した。だが、また忘れてしまうとも限らない。もしそうなったらもう二度と思い出せないような気がした。だから、文章で残そうとした。そうしておけば頭からその記憶が消えてしまっても、どうにかなるかもしれない。
赤ペンでルーズリーフの一番上に『重要。ここに書いたことは全部本当。放置不可。妖怪関係のことかも!』と書いておいた。何もかも忘れてしまった自分が「何だこれ?」と言って捨ててしまわぬように。
(とりあえずこれをまとめた後、出雲に相談してみよう。友達のことをこんな風に忘れてしまうなんて、どう考えてもおかしい。咲月に何が起きたのか、あたし達はどうして彼女のことを忘れてしまったのか……あいつの力を借りてでも、原因を、真実を突き止めなくては)
不可解な出来事を全て『向こう側の世界』と当たり前のように結びつけてしまうようになってしまった自分に苦笑しながら、ペンを動かす。
だがこの作業は思いの外上手くいかないものだった。
朝起きた時はあれだけ鮮明だった咲月の顔が、柚季やあざみ達と一緒に笑い合っていた彼女の姿は、驚く程早くぼやけ、記憶の彼方へと追いやられていく。
書きたいことを頭でまとめられない。ペンを滑らせる手は動き続けているが、自分がちゃんとした文章を書けているのか全く分からない。自分の書いている文字が頭に入っていかない。
意味のある文章を自分では書いているつもりだ。だが、もしかしたら全く意味のない文字の羅列を書き続けているだけかもしれない。自分は何を書いているのか、分からない。そこにある紙に書かれたものもまた、咲月同様遠ざかって、ぼやけていく。
最初は眠気のせいだとか、さくらと違い文章を書く能力が自分には無いからだとか、そんなことを考えていた。だが段々とそんなレベルの問題ではないことを自覚していく。
(変だ、おかしい。こうして彼女のことを書いている自分が、彼女を心から心配して、彼女の行方をどうにかして突き止めたいと思っている自分を、ものすごく遠くに感じる。書いているのはあたしなのに。あたし以外の誰かが書いているようで……まるで今の自分を、こんな自分を他人事のように感じていて、ああ、なんだ、これ、気持ち悪い! 今彼女の為に行動を起こしているのは、ここで訳の分からん事態をどうにかしようとしているのは、あたしだ。他の誰でもない……他人なんかじゃない、このことは決して他人事なんかじゃない!)
そう言い聞かせるも、頭はぐちゃぐちゃする一方だ。
自分が何を書いているのか分からない紗久羅は、段々と自分が何を書こうとしているのかさえ分からなくなっていった。咲月のことをまた、忘れていく。
彼女と幼馴染である自分の姿が思い描けない。時々頭に浮かぶ咲月との思い出が作り物、妄想物語に思えてくる。咲月が世界中に溢れている、顔も名前も知らない、縁もゆかりもない人物に思えてくる。
何を書いているのか、何を書こうとしているのか、いや、そもそも自分は何をしようとしているのか。どうして殆ど使うことのない机やルーズリーフとにらめっこしているのだろう?
あたしは、あたしは、咲月、誰、彼女は、どうにかしなくちゃ、何を、相談して、出雲に、どうして出雲が必要なんだ、あたしは何をしようとしているの、物語を書くなんてさくら姉と違って性に合わない、いや、これは物語なのか、あたしは何をして、どうして、彼女は、咲月は、咲月?
「くそう!」
思い出したり、忘れたり、はっきりしたり、分からなくなったり。その繰り返しがもたらした焦りやもやもや感に苛立ち、手に持ったシャープペンシルで机をがつんと叩く。当然のことながら折れた芯が舞った。
それからペンが進むことはなく、紗久羅はその作業を終わらせた。
机の上に、文章や単語が書かれているルーズリーフ。それとにらめっこする頃には、朝自分が思い出した大切なことを殆ど忘れてしまっていた。
「あたし何を必死になってこんなものを……咲月……いなくなった、初詣……妖怪が関わっているかも……出雲に相談……ああそうだ、初詣の時誰かがいなくなった気がしたんだ。多分それがこの咲月って名前の人で、そいつはあたしの幼馴染らしくて、でも何故かあたしはそいつのことを忘れてしまっている」
自分が四苦八苦しながら書いたはずのものを、紗久羅は自分でも驚く位冷静に読み返していた。それに軽く目を通しても、ピンとくるものが何もない。自分とは全く関係のない人間の書いた日記を何となく読んでいるような気持ちになる。
だが読んでいると何故か胸騒ぎがする。早くしなければ、早く何とかしなければという焦燥感に駆られる。その気持ちに突き動かされるようにして紗久羅は立ち上がり、ルーズリーフと通しの鬼灯、携帯電話をバッグに突っ込み外へと出る。
こちらとあちらを繋ぐ『道』は相変わらず不気味であった。真っ赤な鳥居、青い火をその身に抱く灯篭、それに照らされ、青白く輝く薄紅色の花、一年中咲き誇り続けている桜。病に臥せ、今にも死にそうな女の肌を思わせるその色は美しくも、不吉。生と死の境目の色。石段を踏む度、全身をつめたい衝撃が襲うような気がした。凍てつく寒さに浸った水が靴の中に入り込んできて、足がそれを吸って、全身に運んでいるような。手に握っている通しの鬼灯が温かい灯りを宿すものでなければ、その温もりが彼女を守っていなければ、満月館に着く前に死んでいたかもしれない。
すっかり様相を変え、和風のお屋敷になった満月館。館、という言葉は今のこの建物にはあまり合わないような気がする――とそれを目の前にして改めて思う紗久羅だった。
入り口であるガラス戸の傍らには呼び鈴がある。見た目は風鈴のようで、というかもう季節はずれの風鈴そのものであった。ぷっくり膨らんでいる青みを帯びた丸い硝子。その中で金魚が泳いでいる。比喩ではない。本当に金魚が泳いでいるのだ。
見た目は風鈴そのものだが、風に揺られても鳴りはしない。吊り下げられている、硝子玉のついた紐を動かすと、りいん、りいんというそれはそれは涼しげな音が鳴り響く。風鈴そのまんまの見た目だが、矢張りこれは風鈴ではなく呼び鈴なのである。
硝子の中に指を入れてみる。中で泳いでいる金魚に触れてみたが、その指は体をすり抜けた。本物の金魚というわけではないようだ。
呼び鈴が鳴らした音はさして大きくはないのだが、家の者にはきちんと伝わったらしい。がらがらがらという引き戸ならではの音と共に、鈴の姿が現れた。
相変わらずむすっとした表情で彼女は紗久羅を見つめている。今すぐこの戸を閉めて、紗久羅が来たという事実をなかったことにしたいと思っているようである。だが紗久羅は彼女の気持ちなどお構いなし。
「出雲、いるか? ちょっと相談したいことがあるんだけれど」
「……いる」
随分と長い沈黙の後彼女はそれだけ言うと、くるりと紗久羅に背を向け歩き始める。彼女が開けっ放しにした戸から紗久羅は屋敷の中へ足を踏み入れる。
まだ慣れていない、新しい満月館の姿。きょろきょろ辺りを見回しながら、紗久羅はまだ言っていない言葉を口にする。
「おう、そうだ。明けましておめでとう。今年も一応よろしく」
鈴はちらっと紗久羅を見てから前を向きなおし、それから「明けましておめでとう」と小声で言った。仕方ないから言ってやる、という態度がその声からは滲み出ていたが、似たり寄ったりの声で言った紗久羅に文句を言う資格はなく。
「今日、いたんだな。歳寿京って所に入り浸りになっているかもしれないと思ってあんまり期待はしていなかったんだけれど」
「……出雲はあまり長い時間はしゃがないし、人混みとか、うるさい所とか、あまり好きじゃないから」
それでも三十一日から二日に入ってすぐ位まではずっと歳寿京に居て飲めや歌えやの大騒ぎをしていたらしい。はしゃぐのがそんなに好きではないという彼でさえそうなのだから、お祭り騒ぎが大好きな多くの妖達は。それを考えるだけでぞっとするやら呆れるやら。
成程、確かに和風の部屋に設置された机に突っ伏している彼はぐったりとしており、まるで死人の様であった。元々白い肌はますます白くなっており、鈴と紗久羅が障子を開けて部屋に入っても変な唸り声をあげるのみ。二日酔いと疲労と燃料切れがまとめて彼の細い体を襲っているようだ。
「机に突っ伏してうだうだしちゃって、だらしがない」
その声でようやく出雲は紗久羅の来訪に気がついたらしい。だが体を起こす気力もないのか、体勢を変えることはなく、ただ顔をちょこんと上げ彼女に力なく手を振るのみだった。
「やあ紗久羅。明けましておめでとう……」
「死人寸前じゃねえか。ま、別にそのままくたばってくれてもいいけれどね」
「君はいつも本当に酷いね……。まあだからこそ余計いじめて泣かせてやりたくなるのだけれど。ああ、それにしても気持ち悪い……あれだけ飲んだのは一年ぶりだよ、うう。この気持ち悪さ、君に移してやりたいよ」
「ごめん被る! 第一どうやって移すってんだ」
「口移しとかで……」
「このエロ狐めが!」
何かぶん投げたくなる衝動に駆られたが、生憎手元に投げられそうなものがなかった。携帯諸々を入れたバッグならあるのだが。
「それで、何か用?」
話をようやく本題に移せそうだ。
「用がなければこんな所、来るもんか」
「そんなこと言って、いつも特に用も無いのに来ているじゃないか」
「それは……お菓子と茶をもらうという立派な用があるじゃないか! いや、今回は違うけれど」
「お茶とお菓子をというのはただの口実だろう、うんうん、分かっているよ。それで、今回は何を口実にして私に会いに来たんだい?」
「口実作ってまでお前に会いたくなんてないわい! 兎に角! 今回は緊急の用があってきたんだ!」
思わず机に両手を置き、身を乗り出して叫ぶ。出雲はただ気の抜けた返事をしつつ、とりあえず言葉の続きを待つ。
紗久羅はそのままの勢いで、自分の言いたかったことを一気に言おうとした。
ところが。
「あ、あれ……?」
紗久羅はその場で固まってしまった。自分が何を言おうとしていたのか、忘れてしまったのだ。急がなければ、早く何とかしなければという思いは消えていないのに、喋ることをまとめていたはずの頭の中は真っ白になっていた。
出雲の目が、痛い。暑くもないのに汗が出る。
「なんだい? 緊急の用があるんじゃなかったのかい?」
「え、ええと、うん、確かにあって、でも……あり? あ、そうだ!」
出雲の視線にじりじりと追い詰められていた紗久羅は、ギリギリのところでバッグの中に入っているルーズリーフのことを思い出した。あれだけ必死になって書いた物だというのに、今の今まで存在をすっかり忘れていたことを疑問に思いつつ、紗久羅はバッグからそれを取り出した。
そこに書いてある文字を目で追う。だがどうにもすんなりと文字が頭の中に入ってこない。それでもどうにか全部読みはしたが、そこに書かれている話全てが絵空事であるような気がして、いまいち「そうだ、早くこのことを出雲に伝えなくては!」という気持ちになれない。
しかしルーズリーフの上部には重要、と赤ペンで記されているし、失踪話をでっち上げてまで出雲に会う理由も紗久羅にはない。だからきっとここに書かれていることは真実なのだろうと思った。
「ええと……その。昨日初詣に行った時? 幼馴染の? 咲月が? 行方不明? になったんだよ」
「何で全部疑問系……?」
さっきまでの勢いはどこへやら、ルーズリーフと睨めっこしながら自信なく言う紗久羅に、流石の出雲もぽかんとし、呆れている様子。そうなってしまうのも無理はないと思わざるを得ない紗久羅だった。思いつつ、出雲の疑問を解消する為に話を続ける。
「覚えていないからだよ。全部、覚えていないんだ」
覚えていない、全部忘れたなんて情けないことを出雲に対し、正直に話さなければいけないことが恥ずかしくて、気まずくて、紗久羅は彼から視線を逸らしながらややぶっきらぼうに言った。
「覚えていない?」
出雲は身を起こし、ようやく真面目に話を聞く体勢に入った。紗久羅は小さく頷く。それからルーズリーフを出雲に手渡した。
「昨日あたしは初詣に行った。友達のあざみや柚季と一緒に。そのことは間違いないんだ。けれど、その場に咲月という人が一緒にいたかどうかは覚えていない。それどころか、この咲月って人の存在自体あたしは覚えていないんだ」
「ふうむ……」
「でもそのルーズリーフ……紙に書いたことが全て本当なら、あたし達はその咲月っていう幼馴染を含めた四人で初詣へ行った。ところが突然その咲月って人が行方不明になった。あたし達は彼女を探し回ったけれど、見つからなかった……しかもあたし達は彼女を探している最中、自分達が誰を探す為に奔走しているのか忘れてしまって。しまいに自分達が何の為に走っていたのかも忘れていって……その咲月って人が行方知れずのまま、家に帰ってきたんだ。咲月のことを三人共、いや多分その他の人達も忘れちゃって……忘れてしまったことも忘れていって。でもあたしは朝、目を覚ます寸前位に夢を見たんだ。あたしとあざみと、咲月って人で遊んでいる夢。それを見てあたしは咲月のことを思い出した。彼女がいなくなったって事実も、何もかも」
けれど、と紗久羅は俯く。今は彼女のことを少しも覚えていないからだ。紙に書いたこと全てを、もう紗久羅は覚えていなかった。書かれたことを読み返した今でさえ、そこに書いたことが真実なのかどうなのか分からない有様だ。
紗久羅は仕方なく、そのことも正直に話した。
「でも、でもあたしは多分ここに書いたことは、本当のことだと思う。あたしは彼女のことを忘れてしまって、でもふとした拍子に思い出したんだ。今日、ここに来る途中携帯のアドレス帳を確認したら、咲月って名前があった。咲月って人は実在しているんだ、でも、忘れちゃったんだ。幼馴染のことを忘れるなんて、おかしい。しかもあたしだけじゃなく皆が突然忘れてしまったなんて……妖怪が関わっているんじゃないかとあたしは思うんだ! もしそうなら、どうにかしたい。咲月って子をあたしは助けたい!」
紗久羅は必死になって叫んだ。もしその咲月という人物が妖怪に攫われてしまっていたとしたら、助けなければいけない。しかし自分の力だけではどうしようもない。出雲の助けを借りなくてはいけないと彼女は思ったのだ。
だが出雲は紗久羅の必死の訴えを聞いても表情一つ変えなかった。あまつさえ眠そうに大きなあくびをし、紗久羅の心を打ち砕いた。
更に彼が発した言葉が紗久羅を失意の底へ落とすのだった。
「放っておけばいいじゃないか。別に忘れたからといって何の支障もないだろう」
「な……っ」
「紙に書かなくちゃ忘れてしまう位、いや、書いたものを読み返してもそれが本当に起きた出来事なのか分からない位、ものの見事に忘れてしまったのだろう? きっと君はこの紙が目の前から消えてなくなったら、ここに書いたことはおろか、紙に何か書いたことさえ忘れてしまうだろうよ。最初の内は『何か忘れているような気がする』位のことは考えるかもしれないけれど。いずれ何もかも忘れて、今まで通りに暮らせるようになるだろうよ」
紗久羅は出雲がもしかしたら手に持っている紙を燃やしてしまうかもしれないと思い、彼の手からそれを乱暴に奪い返した。出雲はそれを見ても愉快そうに笑うだけだった。
「燃やそうと思えばそんなもの、手元になくても燃やせるよ。まあ燃やさないでおいてあげるけれど。その紙を残しておいたとしても、君の心はどんどんとその紙から、そしてそこに書かれている出来事から離れていくだろう。そしていつか、何だこの紙はと言ってそれを捨てるに違いない」
「そんなこと分からないだろう! 兎に角、あたしはここに書かれていることを忘れたくはないんだ! あたしが忘れたら、もうどうしようもなくなってしまうんだ」
「忘れてしまいなよ。忘れたことさえ、忘れてしまえばいい。そうすれば楽になれるはずだ」
「幼馴染のことを、きっとあざみや柚季と同じ位大切だったはずの人間のことを忘れてしまうなんて、出来るはずないだろう! いなくなってしまったのを、そのまま放っておくことなんて出来るわけがない!」
「忘れていたんだろう、君は。少なくとも朝起きるまでは」
出雲は紗久羅を嘲った。そう、確かに彼女は朝まで咲月のことを忘れていた。
そしてまた、忘れてしまった。
「たかだか幼馴染が一人いなくなっただけのことじゃないか。その子だけが友達だったというならともかく、君には沢山の友達がいるんだろう?」
「沢山いるんだから、一人位欠けても問題ないなんて……そんなことあるもんか! 問題なのは人数なんかじゃない!」
だが出雲は紗久羅の答えを無視し、また紗久羅を怒らせるようなことを言う。
「友達にしたって恋人にしたって、いつかはお別れするものだろう。柚季とだっていつかは別れるだろう。別れたっきり一生会わないということだって世の中沢山ある。咲月って子の場合は……その別れの時期が本来より少し早まったってだけの話だ。ちょっと早いお別れが来たんだと割り切ってしまえばいい。そして、忘れてしまえばいいんだ」
「そんなこと」
その続きを出雲は言わせなかった。紗久羅の言葉を遮るようにして、出雲は頬杖をついた顔に満面の笑みを浮かべながら言った。
「紗久羅。私にとってはどうでも良いことなんだよ。君の幼馴染が一人消えたなんて事実は。どうでも良い人間をどうにかする為にあちこち駆けずり回るなんて、ごめんだよ。私は無駄な労力を割いたり、無駄なことに時間を使ったりすることが大嫌いなんだ。君だってそのことはよく知っているだろう? 咲月って子がいなくなったからといって、世界は何も変わらない。世界が破滅に向かうわけでもないし、私に災いが降りかかってくるということもまあまずないだろう。君は最初こそ、差し伸べた救いの手を振り払った私のことを恨むかもしれない。けれど、咲月のことを忘れてしまえば、私に対して抱いていた怒りも忘れてしまうだろう。きっと、すぐに何もかも忘れてしまうだろうさ」
だから問題ない、というような顔である。紗久羅は怒りのあまり、何も言えなかった。出雲は気持ち悪い位良い笑みを浮かべたままだ。
「紗久羅がいればそれで良いんだ。私は紗久羅のことは必要としているけれど、咲月という子のことは少しも必要としていない。だから、いてもいなくてもどちらでも構わない。そんな人間の為に私は頑張りはしない。何もしなくても、紗久羅を失うことはないから、問題ない。さて、そんなことよりお茶にしようか。美味しいお茶を飲みながら、甘くて美味しいお菓子を食べると良い。きっとそうしている内に忘れてしまうだろうよ」
紗久羅は彼に罵詈雑言の数々を浴びせられるだけ浴びせてやりたかったが、あんまり怒っていたので逆に何の言葉も思い浮かばなかった。それがまた腹立たしく、彼女は机を一回思いっきり蹴飛ばしてやった。
「もういい! お前なんかにどうにかしてもらおうとしたあたしが馬鹿だった!」
口から出せた言葉はそれだけで。肩をすくめる出雲に背を向けると出入り口の障子を乱暴に開け、そこから出て行った。それからは怒りに勢いを任せてダッシュして、満月館を後にした。
通しの鬼灯を使い『道』を通り、桜山神社に続く石段前まで戻ってきたところでようやく彼女に色々なことを叫ぶ余裕が出来た。
「馬鹿狐! クソ狐! 面倒臭がり屋! 冷徹野郎! ああもううざい、うざい、うざい、超うざい! むかつく! 死ね、死んでしまえ馬鹿狐!」
あらゆる言葉を彼女はそれから延々と叫び続ける。山の木々に止まっていたらしい鳥はびっくりして枝から飛び上がり、雲は衝撃に震え上がった。
腹の中を暴れまわる怒りのエネルギーを、現状を打破する力を持たない自分に対する苛立ちを、声にして吐き続ける。すうする内溢れていたエネルギーが体内から消えていき、やがて紗久羅は叫ぶことをやめ、がっくりとうなだれた。
強い虚無感に襲われた紗久羅は、広い空を見る。空は今の自分みたいに空っぽであった。
「はあ……あんな奴に頼らなくちゃ何も出来ないなんて。これからどうしよう」
諦めてはいけないと思う。出雲以外の力も借りつつ、どうにかしたいと切に願う。
(九段坂のおっさんは里帰り中だし、柚季は柚季であたし同様色々忘れているし、出来るだけ妖怪絡みかもしれない話に巻き込みたくないし。となるとやっぱり弥助か? まああいつ位しかいないよな、他に頼れそうな人は。ううむ、今すぐ相談しに行くべきか、それとも自分でもやれるだけのことはやるか)
紗久羅は昨日のことを色々思い出そうとする。何か手がかりになるようなことはないだろうか、と。しかし矢張りあざみや柚季とやったことに関しては覚えているものの、肝心な『咲月』に関することを思い出すことは出来なかった。
咲月のことを思い出すことは出来なかったが、別のことを思い出すことは出来た。
――神社とか巡るの好きだから、一つでも多くの場所に行こうと思ってね。それにここで昔起きたっていう奇妙な失踪事件にも興味があったし――
明るく元気で、眩しい笑顔を振りまく女性。しかし一方で出雲のような、得体の知れない、異質で冷たくどこか恐ろしい何かも持っている女性。
紗久羅は昨日大社で梓と会ったこと、そして彼女が話したことを思い出した。
その話を思い出した時、紗久羅に衝撃が走る。
失踪事件。奇妙な、失踪事件。
(そうだ、あの姉ちゃんは確かにそんなことを話していた。妖怪とか伝承とかそういうものが好きらしいあの姉ちゃんが興味を持っているってことは……そういうものが関わっている、もしくは関わっているかもしれないと思わせるようなことがあった事件だったのかも。その事件と『咲月』がいなくなったこととは何か関係があるのかもしれない)
だとすれば話は早い。梓に話を聞いてみようと紗久羅は決意した。彼女のことは苦手だが、背に腹は変えられないし、彼女は出雲と違って人が消えたという事実を聞いても「どうでも良い」と答えて何もしないような人間では流石にないだろうし、自分のことをとって喰うような人でもないのだ。
早速聞きに行こう、と紗久羅は駆け出し……ほんの数十メートル走ったところであることに気がつき、へなへなと崩れ落ちる。
「ってあたしあの姉ちゃんの住んでいる場所知らないじゃん!」
桜町に引っ越してきた、ということは知っているが住所は知らない。この町は確かに小さいが、当てずっぽうに探し回ることが出来る程ではない。
(何か誰かの家の近くに住んでいるって話を聞いたような気がするんだけれど、駄目だ、全然覚えていない。誰の家の近くって言っていたっけ……)
そのことを考えようとすると頭がぼうっとする。そのまま『咲月』のことも、梓に何故失踪事件のことを聞きたいのかということも忘れてしまいそうだったから、慌てて紗久羅は首を振る。
「ああ、どうしよう……」
途方に暮れ、とぼとぼと歩き出す紗久羅。しかし神は彼女を見捨てはしなかった。
仕方なく一旦帰ろうと家へ向かっていた最中、偶然梓と会ったのだ。初めて会った時と同じ格好で現れた彼女の姿を見た時、紗久羅は驚きのあまり叫び声をあげた。
梓はその声にびっくりしながらも、紗久羅との出会いを喜んだのかにこにこしながらてってってと紗久羅に駆け寄る。
「やあ、紗久羅ちゃんじゃないか。どうしたんだい私の顔を見るなり叫び声なんてあげちゃって。私幽霊なんかじゃないよ、ほら、足だってある」
梓はその場でくるりと一回転。そのターンがあまりに見事で、また格好が格好だけにとても格好良く見え、一瞬紗久羅は彼女の姿に見惚れてしまった。
はっとした紗久羅はいや、別に幽霊かと思って叫んだわけじゃないと慌てて否定する。紗久羅に限らず、彼女のことを幽霊と勘違いするような者は誰もいないだろう。それ位エネルギッシュな人なのだ。
「いや、そうじゃなくて。実は梓さんに聞きたいことがあったんだけれど、梓さんがどこに住んでいるか知らなかったから困り果てていて、仕方なく帰ろうとしていたらばったり会ったものだからびっくりして」
「梓で良いよ、梓で。ふむふむ、そういうことか。家はこの辺りにはないんだけれど、丁度今気ままに散歩していたんだよ。途中桜村奇譚集に載っていた物語に関連する場所に寄ってさ。それで私に聞きたいことってなんだい?」
紗久羅に何か聞かれることが嬉しくて仕方無い、という風に彼女は期待をこめた眼差しで紗久羅を見る。その目の輝きの強さが、眩しさが逆に恐ろしい。
「ええとほら、梓……ええと梓姉ちゃん昨日、昔あの大社で奇妙な失踪事件が起きたって話あたし達にしただろう? それがその、気になって。どういう事件だったのかなって思ってさ」
それを聞いた梓は目を丸くし、それから思案顔。だが難しい顔をしていたのもほんの少しの間だけで、やがて彼女は元の笑顔に戻った。
「そう。いいよ、何故そのことを聞きたがっているのか知らないけれど話してあげる。あのね……昔あの大社で一人の女性がいなくなっちゃったらしいの。彼氏と一緒に初詣に来ていた時のことだ。彼氏さんはいなくなった彼女を探した。けれど彼は暫くして探すのをやめてしまった」
紗久羅は嫌な予感がした。まさかと強張る表情。体が寒くて、熱くて、汗が額から頬へつつ、つつ、と流れていく。
心臓が、早鐘を打つ。
「彼は……いや、彼だけでなく彼女に関わる全ての人が、彼女のことを忘れてしまったんだ。彼女がいなくなったという事実はおろか、彼女の存在自体忘れ去られてしまった。そしてこの失踪事件は彼氏がふとした拍子にその人のことを思い出すまで、闇に葬り去られることとなったのさ」