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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
ひいさまは社へ帰る
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ひいさまは社へ帰る(3)

 紗久羅の言葉を聞いた二人は目をしばたかせ、それから信じられない、といった風な顔つきになった。やがて更にそれは彼女を非難するものへと変わっていった。無理はない。普通ならそうなるだろう。

 腰に手を当て、前のめりになりながらあざみが口を開いた。


「何言っているのよ紗久羅。普通そんな大事なこと忘れる? この薄情者。決まっているじゃない、あたし達が探しているのは……」

 紗久羅に向かって捲したてていたあざみの口の動きが、止まった。元々大きい瞳をますます大きく見開き、両手で間抜けな形に開いたままの口を覆う。


「あれ、え、嘘……嫌だ、あたしも思い出せない」

 二人は藁にもすがる思いで柚季を見た。だが彼女の表情を見れば答えは明白で。三人はただ呆然とその場に立ったまま、互いの顔を見ることしか出来なかった。


 誰かがいなくなった。でも、誰がいなくなったのか、思い出せない。

 ついさっきまでは確かに覚えていて、その誰かを探す為に必死だったのに――その人の名を叫び、息を切らしながら探していたはずなのに。

 何故か、思い出せないのだ。


 その事実は三人の頭を真っ白にし、新年の訪れにうきうきしていた心をぐちゃぐちゃにかき乱した。


「え、え? あ、あたし達誰かを探していたん……だよ、ね? 三人で手分けをして」

 あざみが二人に確認をとる。最後の方はかなり自信がなさそうで、今にも消えてなくなりそうな声になっていた。いつも無駄に自信があり、根拠がなくても「大丈夫、大丈夫」と自信満々に言っている彼女がそんな風になることは滅多にないことだった。

 二人は頷いたが、あざみ同様自信が持てない。ぜえぜえ言いながら走り回っていた自分達の姿がとても遠く感じられ、そもそもあれは実際に起きた出来事ではなく、白昼夢だったのではないかとさえ思ってしまう。


「誰を探していたんだ、あたし達。そもそもあたし達は三人でここに来たんじゃなかったのか」

 紗久羅はコントロールを失い、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりを繰り返し暴走する思考をどうにかしようとする。だが暴走は止まらず、少しも考えがまとまらない。記憶もまた同様で、一番大事なそれが紗久羅から逃げ回り続ける。

 

(誰か、誰かを探していたはずなんだ。その人を探す為あたし達は……でも、あたし達三人の他に一体誰が一緒にここへ来ていたんだ。本当にあたし達は誰かを探す為、さっきまで走っていたのか? 本当に? 記憶違いではなく?)

 その時紗久羅は、ふとお賽銭をあげた後写真を撮ったことを思い出した。それにはきっと消えた誰かの姿が映っているはずだ。

 紗久羅はあざみにデジカメで撮った写真を見せるように言った。あざみも紗久羅の意図に気がついたのかはっとし、それからすぐデジカメを取り出すと電源を入れて操作をする。

 ところが、何故かあざみは「あれ? あれ?」と言うばかりで一向に撮ったはずの画面を見せてくれない。どうにも様子がおかしいので紗久羅はどうかしたのかと聞いた。


「無い……無い! あの時撮った写真が!」


「ええ!?」

 紗久羅と柚季が同時に声をあげる。あざみは画面を二人に見せた。確かに、一番新しい写真は去年のもので今日の日付のものがなかった。


「お前、間違えて消しちゃったんじゃないの? それかちゃんと保存しなかったとか」


「そんなことないよ! さっきまではあったよ! 絶対にあったもん……まさか……いや、そんなことは……」

 とぶつぶつ呟いている。その姿を見るといまいち信用が出来ない。


「どの道残っていないんじゃ確認しようが無いな。あ、そうだ携帯! 携帯のメールの履歴とか見れば何か分かるかも。今日のことを書いたメールとかあるだろうし」

 紗久羅の提案で、今度は皆して自分の携帯を取り出す。


「私の携帯にはめぼしい情報が無いわね。紗久羅から集合場所と時間の書かれたメールが来ているけれど、他の人からは特に無いわ」

 柚季はそれから着信履歴ではなく送信済みメールの確認をするが、矢張りピンとくるものはなかったようだ。

 だが、紗久羅とあざみの携帯には気になる名前があった。それは「咲月」という名前で、二人共その人物と今日のことについてメールでやり取りをしていた。しかし名前を見てもその人のことを全く思い出せないのだった。


「いなくなったの、この人かな。でも咲月って誰だっけ。思い出せないんだけれど」


「あたしもだ。でもこの人とも一緒に行くって約束していたんだよな」

 文面を見る限り、自分達と咲月という人物は相当仲が良かった様子。なのにいまいちピンとこない。その名に親しみを感じず、懐かしさも覚えず。見れば見るほどその名が霞んで見え、すると芋づる式にメールの文面もぼやけてきて、目で追えなくなっていく。


「その人から朝、あたしの携帯に電話があったみたい。どういうことを話したんだっけ、全然覚えていないよ」

 あざみの頭の上で乱舞するクエスチョンマーク。


「もしかして、急用が出来て行けなくなってしまったって電話とか?」


「え、ああ、そうだったかも。それで紗久羅と柚季、二人と合流した時に咲月は今日急用が出来て行けなくなってしまったんだってことを話したような。それとも具合が悪くなって行けないって話だったんだっけ……ううむ、でもそんなこと、話したっけ?」

 どうにも、はっきりとしない。紗久羅と柚季もその辺りの記憶が曖昧である。

 実はあざみの携帯に朝あった着信というのは、咲月によるモーニングコールであった。朝早くに起きるのが苦手なあざみの為に咲月がかけてくれたのだが、今の彼女はそれさえ思い出すことが出来ない。


 暴走を続けるぐちゃぐちゃの頭から記憶を取り出し、この不可解な謎をどうにか解決しようと三人でああでもない、こうでもないと意見を出し合うがこれといったものが出てこない。むしろ喋れば喋るほど頭はぐちゃぐちゃになる一方で、出てくる言葉は支離滅裂になっていき、訳の分からないことになっていった。

 話せば話す程、咲月なる人物が遠ざかっていく、消えて、いく。


 その人物が消えるにつれ、三人の脳から「誰かがいなくなった」という事実さえ消えていく。

 話の内容は「誰かがいなくなった。それは誰か」から「誰かがいなくなったような気がするけれど、本当に誰かいなくなったのか」というものに変わり、それが更に「そもそもあたし達はこんな必死になって何を話していたんだっけ」となっていった。

 口を開くごとにぽろぽろとこぼれて消えていく、大切なこと。


 やがて三人は、誰かが消えたという事実さえ……忘れてしまった。

 三人の話は最終的に他愛もないものになり、紗久羅とあざみはふざけ始め、柚季はそれを見て呆れて。お喋りに飽きたあざみは紗久羅と柚季を引っ張って再び屋台巡りを始める。

 何事もなかったかのように再び流転を始める楽しい時間。たこ焼きを食べ、チョコバナナを食べ、今は真っ赤な林檎飴を食べている紗久羅。三人とわいわい言いながら過ごす時間の楽しいこと、楽しいこと。


 しかし同時に彼女は妙な寂しさを覚えていた。大切な何かが足りないような気がした。その気持ちが楽しい時間を少しだけ曇らせる。


(何だろう、変な気持ち。鉄球が腹の中でごろごろ転がっているような……気持ち悪い。頭がぼうっとする。あたし達、何か忘れていやしないか? 何かが欠けているような、気がする)

 林檎を包んでいた赤い飴がひとかけら、ぽろりと剥がれて落ちていく。真っ赤な、きらきらと輝く、宝石みたいな、甘くて、綺麗で、色褪せない、何かが、ぽろぽろと落ちて、地べたに落ちる。

 落ちたそれは、紗久羅に拾われるのを待っているかのように、彼女をじっと見つめている。

 早く拾って、早く、早くと言っているような気がした。


 けれど紗久羅はそれを拾わなかった。紗久羅はその場から離れる。一度振り返ってそれが落ちた辺りを見て、またすぐ歩き出した。きっとそれは、紗久羅が置いて行ってしまったそれは誰かに踏まれて、粉々に砕けて誰の目にも映らなくなる。


 三人は大社を後にし、軽く散歩をしてから電車に乗って桜町へと帰っていった。

 柚季やあざみと笑いながら喋っている間も、紗久羅の中で何かがくすぶっていた。心の底から笑っているはずなのに、何だか心が芯から温まらない。冬の、星が全て雲に隠されてしまった夜空を押し込められたかのように冷たく、もやもやしたものに覆われている芯は家に帰っても、そのままで。

 もしかしたら柚季やあざみも同じだったかもしれない。だが紗久羅はそのことを確かめようとは思わなかったし、二人も何も言わなかった。


 家に帰った紗久羅は散々屋台で色々食べたにも関わらず餅を焼き、黄粉をまぶし、緑茶片手にそれにがぶついた。そうしている間に一夜が腹をぼりぼりかきながらリビングへとやって来た。大きく長いあくびをしている彼は、調子に乗って朝まで起きていて、お雑煮を食べるなり自室へ直行。それから今の今までぐうすか眠ってはちょっと起き、眠っては起きを繰り返していたらしい。


「あれ、もう帰ってきたのか」


「帰ってきちゃ悪いかよ」


「別に。あ、俺も餅焼いて食おう。磯辺焼き、磯辺焼きっと。あれだっけ、確か及川って子とお花トリオでわざわざ電車に乗って初詣に行ったんだよな」


「そうだよ、それが何だよ」


「別に? 懐かしいなあ、お花トリオ。お前等本当三人共仲が良かったよなあ。男女(おとこおんな)のお前に、幼稚園児娘のあざみに……あり? 後一人って誰だったっけ」

 一夜が首を傾げる。餅を口に入れ、びょいんと引っ張っていた紗久羅の動きが、止まる。


(あれ、そういえば誰だっけ? 柚季ではないよな、お花トリオって名前はあたし達が小さい時からあったものだし。あたしとあざみと、後一人……)

 すでに、携帯のメール履歴を確認した時に見た『咲月』という名前を彼女は忘れていた。馴染みのない、親しみを感じない名前はすぐ頭から離れていく。

 

(トリオなんだから三人であることは間違いないはずなのに。あたし、あざみと誰かと、柚季で初詣に行ったんだよな兄貴の言葉が正しければ。でも、あれ? あたし達今日三人しかいなかったような。数が合わない……ん? あたし、何か忘れて……)

 また思考がぐちゃぐちゃになっていく。何かを忘れているような気がする、という思いがむくむくと――しかし、その思いははっきりとした形を取らず、ぐちゃぐちゃで。意識しないとすぐ崩れて消えそうな。


「トリオ……トリオだったっけ、お花コンビじゃなかったっけ?」

 トリオという言葉がしっくりこない。それに、トリオでなくコンビなら人数がぴったり合う。紗久羅の言葉を聞いた一夜は少し考えると「そういえば」と言った。


「そうだったかもしれない。うん、そうだ。確かコンビだった。紗久羅とあざみで、お花コンビ。でも何でトリオだと思ったんだろう?」


「柚季を含めたんじゃないの?」


「ああ、成程な。お花コンビに及川を足してお花トリオ」


「柚季は花からとられた名前じゃないけれど、まあ柚だって花はあるだろうしさ。微妙に無理矢理柚季をねじ込んで、お花トリオって感じで。ばあちゃん辺りがそんなこと言ったような気がする」

 柚季とお花トリオでもなく、柚季とお花コンビでもなく、お花トリオで初詣。

 三人。四人ではなかった、決して、なかった。


(数が合った。大丈夫だ……間違ってなんか、いない)

 しかし釈然としない。飲み込んだ餅はやがて消化されて消えていく。だが、そのもやもやした思いは、漠然とした不安は消えない。


 おかしい、何かがおかしいと紗久羅は思うのだった。


 咲月は闇の中を老人と走り続けた。走らないで、もうこれ以上先へ進まないでと何度言っても彼は聞く耳を持たない。

 彼女の意志に反して、足は動き続ける。足を動かしている、という感覚もない。感覚がないなら、矢張り夢なのだろうかと思うが先程尻餅をついた時の痛みは間違いなく本物だった。

 疲労は感じない。時の流れも感じない。だから自分がどれ位の時間走っているのか分からない。案外大して走ってなどいないのかもしれない。


 延々と続く闇は咲月の不安や恐怖を増幅させ、彼女を外から、内から飲み込んでいく。全て飲み込まれたら自分はどうなってしまうのだろうかという思いが新たな闇を生み、彼女を飲み込んでいく。

 

(これ以上ここにはいたくない。嗚呼、帰りたい……!)

 咲月は心から望んだ。しかし望んでから、気づく。


(帰るって……どこへ?)

 自分の帰る場所を思い浮かべることが出来なかった。故郷も、生まれ育った家もはっきりと思い出せない。家族の顔、きっといたはずの友人の顔、自分が今まで関わってきたありとあらゆる人物の顔も同様に。全く思い出せないわけではなく、一瞬ぼやけた像がはっきりとし、その人の名前や為人(ひととなり)が浮かぶことがある。だがそれはまたすぐにぼやけて消えていってしまう。


(私の居場所はここではない。私はひいさまなどではない。それならば、私の居場所は、帰る場所はどこなの? どうしてはっきりと思い出すことが出来ないの? 私は一体どうしてしまったの?)

 頭は混乱するばかり。幾ら考えても答えを導き出すことは出来そうになかった。

 それだけ混乱していても、このままではいけないこと位は分かる。逃げなければ取り返しのつかないことになるような気もした。しかし老人の力は強く、どれだけ乱暴な真似をしても逃れられそうにない。仮に逃れることが出来たとして、一体どこをどういう風に走れば元の世界へ帰れるのか――分からなかった。闇に覆われたその世界に目印などはない。自分が元来た道を、少しも迷うことなく辿ることは不可能に近かった。辿ることが出来ても、無事帰れるかどうかは分からない。そもそも、帰る場所がどこなのかも分からない。


(私は今までどこで生きてきたのだろう。誰と、どんな風に毎日を過ごしていたのだろう……)

 その問いに対する答えは、時間が経てば経つほど闇に包まれて見えなくなっていく。それが怖くて、悲しくて、仕方がなかった。

 ふと走る二人の前に光が見えた。随分とぼやけた光だが、この闇の中ではそれすら太陽光の様に輝いて見える。縦二列にずらりと並ぶその光の正体は多数の人間であるらしかった。


 光を発する人々は二人の姿を認めるなり歓声をあげた。

 

「ひいさまだ」


「ひいさまがお戻りになった」


「ひいさまだわ」


「ああ、良かった。流石は縁之(えんの)(すけ)様。あっという間にひいさまを連れて戻ってきてくださった!」


 二人の帰還(咲月は帰ってきたわけではないが、彼等はそう思っているらしい)に沸く人々は、老人(どうやら縁之助というらしい)同様古風な出で立ちをしており、年の頃は様々で男もいれば女もいる。

 しかし皆矢張り縁之助同様どこかぼんやりしていて、目の焦点もあっておらず、生気も感じられない。生きる屍、という言葉が頭に浮かび咲月は身震いした。

 ようやく縁之助は走るのを止めた。


「屋敷に着きましたよ、ひいさま」


「……屋敷?」

 思わず、呟く。

 

「ええ。ひいさまがお造りになった屋敷です。どうなさったのですか、ひいさま。まさかほんの少し外へ出ている間に、長い間住んでいたここのことをお忘れになったなどということはないでしょう?」

 そういうことではない。そもそも咲月はここの住人などではない。それだけは言える。

 そういうことではなく。


(屋敷など……どこにもない)

 咲月の目に映るのは闇だけで、屋敷など見当たらない。目をこらしてみても、どこに目を向けても、屋敷はおろか建物一つ見えはしない。

 ここの住人にしか見えないものなのかもしれなかった。もしそうならば咲月に見えるはずがない。


「ささ、ひいさま。部屋に戻りましょう」

 縁之助は再び咲月の手をとると、彼女を『部屋』へと案内する。

 途中何度も彼は方向転換して進んでいった。咲月には見えない廊下を渡り、角を曲がり、壁や部屋に体をぶつけないようにしながら。咲月はただ彼に導かれるまま進むしかない。

 屋敷の壁や天井は全く見えなかったが、調度品や湯船らしきもの等見える物も若干ではあるがあった。何故見えるものと見えないものがあるのか今の咲月には皆目見当がつかなかった。


 やがて咲月の目にあるものが飛び込んできた。

 見えない天井から吊るされているらしい、桜の花を思わせる薄絹。その奥には畳や脇息、雪洞、漆塗りの箱等があった。その背後にあるのは、几帳。何かを隠しているのか、それとも装飾なのかは分からない。

 そこがどうやら『ひいさま』の部屋であるらしかった。青白く光るそこの近くまで行くと、何故か心安らいだ。清浄な気というものを感じるような気がした。


 手を離した縁之助は「さあさあ着きましたよ」と言った後、何故か咲月の顔をじいっと見つめる。それから体も――胸から足の爪先まで眉間に皺を寄せながらじろじろ見るのだった。

 もしかしたら人違いであることに気がついたのかもしれない、と咲月は淡い期待を抱いたが、どうやらそうではないらしい。


「ひいさま、また御髪(おぐし)を……童ではあるまいし、みっともない。何故わざわざそのようなことをなさるのです。折角少し伸びてきたと思ったら、またお切りになって……その着物もどうなさったのです。それは人間が着るものではありませんか。花の糸で織ったものの方が貴方にはふさわしい。また外を出る時にお脱ぎになったのですね……仕様のない方。その辺りのことは侍女に頼んでおきましょう。それまでの間、ひいさまはどうぞこちらで疲れた体を癒してください。それでは、失礼いたします」

 抑揚のない声でそれだけ言うと、縁之助はその場を去った。咲月はただ一人、残されてしまった。


 畳に腰を下ろした咲月は、体から急速に力が抜けていくのを感じた。

 静かで冷たい闇から身を守るように存在する部屋の中、彼女は両手で顔を覆い嘆息。


(どうしてこんなことになってしまったのだろう。これから私はどうなってしまうの? この闇の中で私は彼等のひいさまとして生きていかなければいけないのだろうか。ずっとずっと、毎日をここで過ごして……そうする内に、私は本当にここのひいさまに、なってしまうのだろうか)

 それはとても恐ろしいことのように感じられ、咲月は恐怖に震える体を丸め、涙を流す。どうにかして、ここから逃げたい。元の世界へ戻りたい。けれどどうやれば戻れるのか、分からない。

 そもそも自分が元いた世界というのがどんなものだったのか思い出せない。

 ここではないどこかであることは確かなのに、それがどこで、どういった所だったのか、思い出せない。時間が経てば経つ程その姿は遠ざかっていく。


 いつか、本当に、何もかも忘れてしまうかもしれない。それを思うと矢張り泣かずにはいられないのだった。


 紗久羅は夢を見る。夢の中の紗久羅は小学生で、今よりももっと幼い顔をしたあざみと、どう見ても自分と同い年には見えない少女がいた。だが紗久羅は知っている。彼女は自分とあざみと同い年であることを。

 紗久羅とあざみがふざけてじゃれあっているのを、彼女は笑いながら見ている。見ているとほっとする、優しい笑顔だった。あざみが彼女の手を取り、くるくると回りだす。彼女は困ったように笑ったが、あざみにされるがまま、同じくくるくると回った。あんまり回りすぎて二人共目を回して、原っぱへ倒れこむ。目をぱちくりしてから二人は大きな声で笑った。


 それから三人でシロツメクサを摘んで、冠を作った。あざみは不器用でバランスの悪い変てこなものを作り、紗久羅は上手いとも下手ともいえないものを作った。彼女だけが、完璧な冠を作った。それを紗久羅がもらい、戴冠式と称して調子外れの歌を歌いながら彼女の頭へとのせた。完璧な冠を被った彼女はまさにお姫様。とても綺麗で、踊りや歌も上手い、素敵なお姫様。自分達とは大違いの人だけれど、でも、彼女と自分達は友達だ、親友だ。お姫様のような、お友達。


――あの三人は本当に仲がいいわね――


――流石お花トリオ。いつだって三人一緒にいるのねえ――


 そんな声がどこからか聞こえる。それは何度も何度も聞いた言葉だった。


 そう……私達は、いつまでも一緒。ずっと友達。

 そのことはわざわざ口に出さずとも皆分かっていた。口に出して確かめる必要もないことなのだ、そんなことは。

 仲良く三人で、笑う。その声が青空いっぱいに響き渡る。


 だが。突然空は曇りだし、雨が降りだした。いや、雨ではない。降ってきたのは雨粒ではなく真っ赤な紐だった。その紐一つ一つを、鋏がちょきちょきと切っていく。

 ちょき、ちょき、ちょき。それを聞いた紗久羅は不安になった。隣にいたあざみと肩を寄せ合い、震えながらその赤い雨が止むのを、鋏の音が聞こえなくなるのをじっと待つ。


 ちょき、ちょき、ちょき、じょき、じょき、じょき。


 それを聞くと、叫びたくなる。誰かの名前を叫び、それからやめろ、やめろ、やめろと見えない誰かに懇願するのだった。けれど、その音は止まない。

 その音が聞こえる度、紗久羅は何か大切なものを失っていくのを感じた。

 しばらくして、その不可思議な雨が、止んだ。あざみと怖かったねと言い合ってからほっと息をつき――だが、あることに気がつくと大きな悲鳴をあげた。


 彼女が、いない。さっきまでいたはずの彼女が。お姫様の冠を残して。

 紗久羅とあざみで彼女を探す。けれど彼女は見つからない。彼女はどこにも、いない。


――き……どこいったの、つき……さつ……――


「咲月!」

 紗久羅は自分の叫び声ではっと目を覚ました。ベッドからばっと起き上がった紗久羅は息苦しさに胸を押さえ、それから名を叫んだ口を押さえる。


「咲月……咲月……」

 紗久羅の脳裏に、シロツメクサの冠を被った少女の姿が浮かぶ。その少女は紗久羅の脳内でどんどんと成長していき、やがて鮮やかな着物を着て微笑む少女になった。

 その時紗久羅は思い出した。


「咲月、咲月! そうだ……忘れていた……やっぱりあたし達は四人で初詣に行ったんだ。そして、あの大社で咲月が……咲月が消えたんだ!」

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