ひいさまは社へ帰る(2)
*
拝殿の前は特に人が多い。静謐な雰囲気漂うその前は、参拝客達の声で随分と騒がしかった。だがどれだけ前が騒がしくても、その中にある静かで、厳かな空気が侵されることはなく。
紗久羅達は大きめの賽銭箱の前に並んだ。そして順番が来ると仲良く五円玉を放り込む。黄金の輪が、きらきらと輝きながら放物線を描き、やがて賽銭箱へと落ちていく。咲月から教わった通りに動き、そして神様にお願いする。
(なるべく妖怪絡みの事件が桜町とかで起きませんように……)
無駄だと分かっていても、願わずにはいられない紗久羅だった。目を開け、隣を見る。隣に立っている柚季はそれはもう必死にお願いしている様子で、何となくどんなことをお願いしているのか察した紗久羅は苦笑する。一方あざみはさっさと終えたらしくすでに列から外れて伸びをしていた。神様に報告やお願いをするよりも、一刻も早く屋台巡りを始めることの方が彼女にとっては大事なようである。
全員が神様にお願いをした後は、拝殿をバックに写真撮影をした。持ってきたデジカメをあざみが近くにいた人に渡し、写真を撮ってもらうようお願いする。快く引き受けてもらった四人は仲良く並び笑顔でピース。撮れたものを確認してから全員でお礼を言った。
画面に映った四人の姿は、きらきらと輝いて見えた。太陽の、黄金の、未来の輝き。それが小さな画面いっぱいに溢れている。
「去年もここで写真を撮ったよね。今年は柚季も入ってますます良い写真になったねえ」
「そうだな。しかし柚季も咲月も綺麗なもんだよなあ……写真からもお姫様オーラが溢れてらあ」
「あたしは、ねえあたしは!?」
「お前からは幼稚園児オーラが溢れているよ。幼稚園児よりも幼稚園児らしいかもなあ」
「ああ、紗久羅ってば酷い! あたしってばとっても傷ついちゃった! この心の傷を癒すには焼きそばとたこ焼きとフランクフルトを食べるしかないわ! 紗久羅、おごりなさい、おごりなさいったらおごりなさい!」
むきい、と怒りながら笑い、手を振り上げるあざみ。対して紗久羅はげらげら笑いながらあかんべえをする。そして二人で小さな円を描くようにして追いかけっこを始めるのだった。
「全く二人して子供なんだから。ほら、おみくじ引きに行くわよ。お守りも見ましょう。早く止めないと置いていくからね」
「はあい、お母さん!」
「お母さんじゃないわよ、全く……困った子達」
そう言って笑う様子はどこからどう見てもお母さんである。柚季はそんな咲月を見ながらくすくす笑う。
拝殿のすぐ傍に設置されたテントでは、お守りや破魔矢、熊手等が売られており大勢の参拝客で賑わっていた。この正月限定のアルバイトに来たらしい若い娘達は彼等の対応に追われており、随分と忙しそうだ。彼女達は皆巫女姿だったが、あまり神聖な感じはしない。ただのアルバイト用の制服に見える。本物の巫女と彼女達はあまりに違いすぎている。それも仕方のないことではあるが。
紗久羅はキーホルダー型のお守りを手に取る。紅白の糸で作られた紐の先に青い玉がついている。心に安寧をもたらす、という効果があるらしいがラムネ瓶に入っているビー玉と一体どこが違うのだろうかと正直思う。他にもブレスレット型のものや、達磨や招き猫等がついたもの、紙か何かを入れているらしいお守り袋等が売られているがどう見ても機械で量産しました、というような代物でありがたみも何も無いし、持ったところで効果など微塵も現れないような気がする。それが分かっていても買ってしまうというのは全く不思議なことであった。
――幸福なんかを招く力は一切込められていないけれど、思わず買いたくなるように仕向けるような何かは込められているんじゃない?――
などと出雲が昔言ったことを紗久羅は思い出した。いやいやそれは幾らなんでも無いだろうと言ったら彼は、本当にそうだと言いきれる? と彼は笑った。
(いかんいかん、新年早々あいつのことを考えるなんて……縁起でもない)
出雲のことを考えたらろくでもないことが起きる。紗久羅にとって彼は災厄の象徴であったのだ。
気がつけば紗久羅は幸運を招くというお守りを購入していた。ご利益があるなんて本気で信じてはいないけれど、それでも目に映ったら買ってしまう。そして買ったからには肌身離さず持ち歩きたくなるのだ。
柚季もお守りを買っていた。何のお守りだと聞いたら、家内安全のお守りだと言う。
「これを置いておけば、家に入ってくるあいつらの数も少しは減るかしら。破魔矢も買っておこうかな……家中に飾っておけば少しは効くかも」
割と本気で言っているようだ。こういう物にすがりたくなる程苦労しているのだと思うと涙を流さずにはいられない。まあ、頑張れと肩を叩いてやったら、そんな哀れみの目で見ないでよ馬鹿と頬を膨らませてしまった。
お守りを買ってから、おみくじを引く。咲月とあざみはまだ買うものがあるらしいので、柚季と一緒に一足早く引いた。
どきどきわくわくしながら紙の袋からくじを取り出し、開く。
「うわあ小吉かあ、なんだか微妙だな。さて、どんなことが書かれているかな」
小吉、大吉云々よりも書いてある文面の方がおみくじの場合むしろ大事である。
健康面は、自分の力量ではどうしようもないことをどうにかしようとして、怪我をしたり命の危機に瀕したりすることが多々あるかもしれない等と書かれていた。学業面は知り合いや友人と共に勉学に励むと良い、とある。金運は良くも悪くもないといった風で、友情面は喧嘩することもあるかもしれないが、心配する必要はないらしい。旅行はトラブルの元になるかもしれない、あまり遠くへ行くのは止めたほうが良いとあった。今年は修学旅行もあるというのに、もしそこで何かあったら嫌だなあとため息。旅行という言葉を見て、出雲が温泉旅行に誘ってきたことを思い出す。結局冬休み中に行くことは出来そうにないが、春休みならと彼には言ってある。
(あまり遠くへ行くのは止めたほうが良い、か。あっちの世界は近いようでとても遠い場所だからなあ……ろくでもないことが起きるのかな)
一通り目を通し、最後に一番どうでも良いと思っている恋愛面を見る。
「何々……色々進展あり? 進展って……進展も何もあたし、好きな人なんて別段」
と紗久羅は首をひねるしかない。スタート地点に立ってすらいないというのに。一方、運勢があまりよろしくなかったらしい柚季はずーんと随分落ち込んでいる。どうやら今年も受難の年になりそうだ。
「ある程度は回避出来るが、自分が特に何もしなくても怪我をするような出来事に何度も見舞われるかもしれないなんて……ああ、もう勘弁してよ……。旅行へ行けばその先でトラブルに遭うかもしれないって。金銭と友情は可もなく不可もなく、恋愛は信頼できる異性を得ることはあっても、恋愛には発展しないとか……紗久羅、こんなものさっさとくくってしまいましょう」
「はいはい」
苦笑いしつつ、おみくじを扱っている場所近くにある、引いたおみくじを結ぶ為に設置されているみくじ掛けの前へ行く。太い柱の間にかけられている、木の棒。そこにはすでに多くのおみくじが結ばれていた。木に結ばれたそれは、白い鳥に見える。木々に止まり羽を休める鳥達に。
紙を綺麗に折りたたみ、まだかろうじてつけられそうな部分を探す。
柚季は随分熱心に結んでいるようだった。書かれていることの殆どをなかったことにしたいのだろう。
「ああ、一体どこへ行ってしまわれたのだひいさまは」
見つけたスペースにおみくじをくくりつける紗久羅はふとそんな声を聞いた。
嘆くように言ったその声は老人――恐らく男――のものと思われる。上品でさぞ育ちの良い者なのだろうと姿を見なくても分かるような声だった。だがその声の主が自分のすぐ近くにいるのか、遠いところにいるのか分からない。他の人達の発する声に混じることなく聞こえたその声ははっきりとしているような、ぼやけているような何ともいえないもので。そもそもその声の主は本当に「ここ」にいるのか。それさえ分からない。
何だか不気味だ。紗久羅はそう思った。人の声ではないように思える。
妖かもしれない。だが、邪悪な感じはしない。邪悪さはないが、不気味で、どこか恐ろしい。気のせいか、その声に『心』や『生』が感じられない。
こんな所にも『向こう側の世界』の住人がいるのか、と思わず舌打ちしたくなった。声の主がどういう者なのか気になったが、変に目を合わせるとろくなことにならないような気がしたので、無視することにした。
「前も、この辺りにいらっしゃった時があった。今度もそうかもしれない……ひいさま、ひいさま」
老人は「ひいさま」なる人を探しているらしい。いらっしゃるとか何とか言っているところを見ると、そのひいさまというのはえらい人なのかもしれない。
彼の声はすぐ、聞こえなくなった。おみくじを結び終えてから、一応その辺りをざっと見回してみたが、声の主らしき者は見当たらなかった。柚季もまたその声を聞いたようだ。顔を見ればすぐ分かる。だが紗久羅は多分人ではなかっただろう老人のことは口に出さなかった。面倒ごとには巻き込まれたくなかったし、邪悪な感じもしなかったし、ただ人探しをしているだけのようだったから放っておいても問題ないだろうと思ったからだ。
間もなく用を終え、おみくじも買ったあざみと咲月と合流しその場を離れる。
老人のことは、すぐに忘れてしまった。
「ちょっとお手洗いに行ってきても良いかしら?」
拝殿のある場所を後にした直後、咲月が申し訳無さそうに言った。
「分かった。それじゃあこの辺りで待っているよ」
「それじゃあ、あたしはこの辺りにある屋台を見ているとしますか」
もう我慢出来ない、とばかりにあざみはさっさと屋台の並ぶ道へと走っていく。止める間もなかったし、止めても恐らく無駄だっただろう。
本当あざみは食べるものに目がないのね、と咲月は苦笑しつつお手洗いに向かって歩いていった。トイレはそこからそう離れていない場所にあるし、きっとすぐ戻ってくるだろうと、紗久羅と柚季は彼女が戻ってくるまでの間すぐ近くにあったお土産屋を見て回ることにした。
それじゃあ入りますか、と店の中へ一歩足を踏み入れた直後、どたんという音が聞こえた。ついで聞こえたのは子供の泣く声。どうも二人の真後ろですっ転んだらしい。
案の定振り返ってみれば地べたに座り込んでぴいぴい泣いている少年がいる。
転んだ位で泣くのだから相当幼い子供だろうと思ったらそうでもなく、ぱっと見小学校中学年位である。顔や髪型にこれといった特徴はなく、見るからに状態のよろしくない藍色の着物など着てさえいなければ、どこにでもいる少年に見えただろう。
しかしそんな少年以上に目を引くものが二人の前にあった。泣き喚く彼の周りを青い大きな火の玉が三つ飛び回っていたのだ。しかもただの火の玉ではない。それには顔がついており、少年を馬鹿にするような表情を浮かべていた。
火の玉が飛び回っている、顔がついているだけでも異様なのに。それには更に小さな角が二本生えていた。鬼みたいな火、鬼火。いや、鬼火って角が生えているものなのか? それを見てもあまり驚くことはなく、叫ぶこともなく、そんなことを考える紗久羅だった。感覚が麻痺している。それに比べれば、ひいっと紗久羅にしか聞こえない位の声で悲鳴をあげ、青い顔をしている柚季はまだしも一般人に近いかもしれなかった。……妖に絡まれることが紗久羅以上に多い彼女だったけれど。
「やあい、弱虫」
「転んだ位で泣いてやんの。本当お前は弱虫だな!」
「弱虫をいじめるのは楽しいなあ! ほらほら、どんどん泣けよ、おもらしもしていいぜ? それを見て思いっきり笑ってやるからな!」
「嫌だよ、嫌だよ、うわあん!」
少年と火の玉のすぐ傍を通る人はそれなりにいたが、誰も彼等の存在に気がついていないようだ。恐らく彼等の姿はこちらの世界では儚いもので、向こう側の世界やそこに住む住人と深く関わっている二人以外には見えていないのだろう。
少年が泣けば泣くほど火の玉達は面白がり、ぎゃははという品のない笑い声をあげる。彼等に性別があるとすれば、恐らく皆男だろうと思う。声変わり前の少年の声だったから。
柚季は関わりたくないとばかりに一度はくるりと回ってお土産屋の方を見た。
だが結局店の中には入らず、ばっとまたもや右回れ右。きっと火の玉達を睨むと、右手で何かを弾くような動作を三回する。途端火の玉達がぎゃん、と犬の様な声をあげた。苦痛に歪む顔。
そこでようやく彼等は紗久羅達の存在に気がついたらしい。
「何するんだよう」
「何するんだ、人間!」
「痛いじゃないか、痛いじゃないか!」
「弱いものいじめはよしなさい、悪ガキ達!」
彼等が見えていない周囲の人間達に妙に思われるのを嫌がったのか、その声は随分と小さい。紗久羅が言えば小声でもそれなりの迫力があっただろうが、お姫様のように可愛らしい少女が言ってもあまり効果はなかった。
「うるせえ、人間のくせに指図するな!」
「そうだそうだ!」
「生意気言うと、その着物を燃やしてやるぞ!」
彼等が生意気にも口答えすると、柚季の表情が変わる。彼女は冷たい瞳で三人を射抜いた。出雲程の恐ろしさはないが、それでも火の玉達を黙らせるには充分であったようだ。
「……ふうん。やめないっていうの。どうやら余程痛い目に遭いたいようね。今度は本気でやってやる。そしたらあんた達なんか跡形もなく消えてしまうでしょうね」
そう言って右手を構えると、彼等はぎくりとし、黙り。それから「今日のところはここまでにしてやるよ、感謝するんだな!」という捨て台詞を残すといずこへと行ってしまった。
自分をいじめていた火の玉達が消えると少年はようやく泣き止んだ。紗久羅は彼に手を貸し、立ち上がらせると泥のついている膝を軽くはたいてやる。それが終わると少年は深々とおじぎした。
「ありがとう、お姉ちゃん達。それにしてもびっくりした……お姉ちゃん達、人間だよね。それなのに僕の姿が見えるなんて」
「まあ色々事情があってな。というかやっぱりお前も人間じゃなかったのか」
うん、と少年は頷く。
「人間に悪さできるだけの力も無い位弱いけれど、一応妖怪。僕もあの火の玉達も、元いた世界からこちらの世界に迷い込んじゃって。それから随分経ったけれど、まだ元の世界に戻れずにいるんだ」
「そうなの。……まあそればかりはどうしようもないことだわ。さあ、とりあえずあの火の玉はいなくなったわ。だからさっさとお行きなさい。それから、そのぴいぴい泣く弱虫なところ、早く治した方が良いと思うわ。そのままじゃ、これからもずっとあいつらにいじめられることになるわよ」
「うん、ちょっとだけ頑張ってみる。それじゃあね、お姉ちゃん達。本当にありがとう」
もう一度少年はお辞儀すると、その場を去った。それを見送った後柚季はがっくりと肩を落とす。
「新年早々妖と関わることになるなんて……幸先悪いわ」
「頑張れ、負けんな」
ぽん、と肩叩き。はああ~……という柚季の重苦しい息が周囲にたちこめるのだった。
*
ひいさま、ひいさま、どこへいらっしゃる?
また外に出て行かれて、困ったお方だ。
まだそんなに遠くへ行ってはいらっしゃらないだろう。
ひいさま、ひいさま、どこへいらっしゃる?
ひいさまなら、そこにいるじゃあないか。お前達が探しているのは彼女だろう。
ああそうだ、ひいさまだ、間違いない。我等が姫だ。誰だか存じ上げぬが、礼を言おう。
ひいさま、ひいさま、ひいさま。
私達の前から姿を消さないでください。
私達をおいてどこかへ行かないでください。
ひいさま、ひいさま、ひいさま。
*
数分歩いた先にあるトイレはあまり混んでおらず、程なくして咲月はトイレから出る。大社の中はますます賑わっている様子で、巾着にハンカチをしまう彼女の隣を、チョコバナナを手ににこにこ笑っている子供が通り過ぎる。カップルらしき男女は手を繋いで仲良く歩いていた。
(さて、紗久羅達の所に戻るとしますか。あざみは今頃食べ物でほっぺがハムスターみたいになっているでしょうね。まあとても美味しそうに食べるから、見ているこちらも幸せになるのだけれど)
一度は彼女みたいに周りの目も気にせず思いきり食べてみたいと思わないでもないが、自分には到底出来ないだろうし、そんなことをしたら周りの人にいらぬ心配をかけてしまうかもしれない。
そんなことを考えながら歩いている咲月の耳に何度も「ひいさま、ひいさま」と言う老人の声が聞こえた。どうやら誰かを探しているらしい。何度も呼んでいる辺り、その人を探すのに必死なのだろうがその割に声に気持ちがこもっていない。生気も感じられない気がした。喧騒の中、彼の声だけがはっきりと聞こえる。
何だか、寒い。それは今が冬だからか……それとも。
突然、歩く彼女の進路を大きな何かが阻んだ。驚いた咲月はびくんと体を震わせる。止まる、足。
咲月の前に現れたもの、それは人であった。彼女の足に触れるか触れないという所で片膝をつき、顔を上げて咲月を見る。上品な顔立ちの、七十前後の老爺。あごから生えている髭も整えられており、さらさらとしている。萎烏帽子に直垂姿――まるで室町時代の庶民のそれのような格好であった。
彼は咲月を見て、嬉しそうに笑った。だが彼女に向ける目にはおよそ生気というものが感じられず、咲月はぞっとする。ひいさま、ひいさまと言いながら誰かを探していたのも恐らく彼だろう。
「ひいさま、ようやく見つけましたぞ。また勝手に抜け出して……私はとても心配いたしました。ささ、お屋敷へ戻りましょう」
どうも彼は人違いをしているらしい。自分はひいさま――姫様――とやらと似ているのか。彼はとても目が悪いのかもしれない。
間違いは訂正しなければいけない。彼の時代錯誤な格好に戸惑いつつ彼女は口を開いた。
「あの、私……ひいさまじゃありません。人違いではないでしょうか」
そう言えば彼が間違いに気がついてくれるだろうと思っていた。だが。
「何をおっしゃいます。貴方は間違いなく我らのひいさまではございませんか。惚けたことをおっしゃっても無駄ですよ。ささ、早く帰りましょう。皆ひいさまの帰りをお待ちしております」
違う、と咲月は一歩後ずさる。何か得体の知れぬ恐ろしいものが彼の体から溢れ出しているような気がして、とても怖くなった。そのまま逃げてしまおう、それでも追いかけてくるようなら助けを求めよう、そう思い、また一歩。
しかし老人は素早く立ち上がるなり、逃げようとした咲月の右手首を掴み、ぐいと引っ張った。あまりの強い力に一気に増幅した恐怖心が、彼女に悲鳴をあげさせる。だが、何もかも遅かった。
老人が彼女の手を引っ張ったまま、走り出す。つられて咲月の足も一歩前へ。
途端、世界が急に暗くなった。暗くなった、どころの騒ぎではない。夜よりも深い闇に包まれ、目の前を走る老人と自分の姿以外の一切が見えなくなってしまった。
あまりの出来事に咲月は叫ぶことさえ出来ない。暗い、暗い、黒い、何も無い、無い、暗い……!
頭が真っ白になる。何が何だか分からない。闇に飲まれた、そんな状況を飲み込むことが出来なかった。
何も無い、真っ暗な世界の中を老人は迷うことなく駆ける。彼はこの闇を全く恐れていないようだった。
ぎゅっと強く握られた手首が痛い。相手は老人なのに、その手を解ける気がしない。乱暴な真似はしたくない。けれど逃げたい。逃げるには気持ちを鬼にしなくてはいけない。だが、鬼になったところで、この老人には……勝てない。
しかも老人はえらく足が速く、立ち止まることを許さない。老人に引っ張られた咲月の足は動かしたくなくても自然と動いてしまう。そうしなければ酷いことになるのは確実だった。
自分の足に糸か何かをくくりつけられ、人形師によって操られている――そんな気がした。右足、左足、右足、左足……闇に向かって進む、進む、進む。
(嗚呼、進んではいけない。ここまま進んでいったら……戻れなくなってしまう)
否応無く動き続ける足が向かう先はどこなのか。分からない、だが、この闇の先にあるものは矢張り闇のような気がした。闇でなくても、決して自分が行ってはいけないような場所のような気がした。いや、すでにもうそんな場所に足を踏み入れてしまっているのかもしれない。
疲れは無い。時間の感覚も麻痺している。
(これは夢だわ――夢に違いない。けれど一体どこからが夢なの? 私もしかしてお手洗いの中で眠ってしまっていた? それとも、初めから夢だったの。私本当はまだ、紗久羅達と初詣に行ってすらいないのかも。ああ夢なら醒めて、早く。辿り着いてしまう前に、早く)
だが目は覚めない。頭は覚醒するどころか、どんどんぼうっとしてきている。
何も考えられなくなっていき、何もかもが無へと変わっていく。
その時だ。咲月を進行方向とは逆に何かが強く引っ張ったのは。その力は、老人を凌駕した。その衝撃で頭にかかっていたもやが晴れたのと同時に、咲月は尻餅をついた。お尻に走ったその痛みが、ここが夢の世界であることを否定する。突然のことに男もやや驚いている様子であった。
一体誰が、何が、自分を引っ張ったのか。見てみるといつの間にか彼女の体のあちこちに赤い紐がくくりつけられていた。無数の細い糸で作られているらしいその紐はぴんと張られており、それ以上伸びそうにはない。それはきっと自分と元の世界を繋げる何かに違いなかった。暗闇の中輝くその紐を見ると、咲月は何だかほっとした。
(私にはこれがある。だから私はこれ以上先には行かない。行くことは出来ない……)
何となくそう思う。そして、その紐を辿ればきっと元の世界に戻れるだろうということも確信する。
だが、ほっとしているのも束の間。
「またですか。ひいさま、貴方はどうして毎回毎回これをおつけになるのですか。こんなものは、貴方には必要の無い物」
老人は一度、咲月から手を離す。だがそれは決して彼女を解放する為にしたことではなく。
彼は咲月と、咲月が元いた世界を繋ぐその紐を――解き始めた。彼が触れるとそれは赤い光を放ち、解かせまいと抵抗する。だがその力よりも、老人の力の方が勝っていたらしい。
「やめて……お願い、やめて!」
咲月は懇願する。解いたら、恐ろしいことが起きる。何だかそれを失った時、自分が自分でなくなるような、とても大切なものを失ってしまうような、そんな気がした。咲月は体をめちゃめちゃに動かし、抵抗した。だが彼女の力は彼の前ではあまりに弱く。
老人がその紐を一本一本解いていく。解かれる度、咲月を喪失感が襲う。自分を失うような気がして、怖くて、咲月は涙を流した。そうしてぼろぼろと人前で泣くのは随分久しぶりのことのように思える。しかし彼女が嫌がっても、泣いても老人は気にも留めない。
やがて、最後の一本が咲月の体から離れた。その瞬間咲月は叫んだ。いやああ、と……今まで出したことのないような声で、叫んだ。
老人はそんな彼女の右手首を再びつかみ、無理矢理立ち上がらせるとまた走り出す。
「さあひいさま、後少しで着きますよ……」
咲月は引っ張られ、否応なく走らされる。振り返ると、老人によって解かれた紐の赤が目に映る。それが段々と遠ざかっていく。遠ざかるごとに、自分の中から何かが消えてなくなっていく。
それは見る見る内に遠ざかっていき……。
やがて、完全に消えてなくなってしまった。
*
何かを忘れていると思ったら、咲月の顔が浮かんだ。その時彼女はようやく咲月がまだお手洗いから帰ってきていないという事実に気がついた。時計を見れば、彼女と一度別れてからもう三十分が経過しようとしていた。
何故こんな時間になるまで気がつかなかったのか。柚季とのお喋りに夢中になっていたからだろうか。いや、それにしても。不思議に思いつつ、紗久羅は柚季に咲月がまだ帰ってきていないことを話す。
すると彼女は「咲月?」ときょとんとした顔をし、それから少ししてはっとした。
「嗚呼、咲月さん! そういえばお手洗いに行ったっきり戻ってこないわね。嫌だ、あれから随分経っているじゃない。どうして気がつかなかったんだろう。って今はそれどころじゃないわね……確かに遅いわね、咲月さん」
「うん。ここからトイレまではそんなに距離は無いし……トイレが混んでいるのかな。でもそれだったら連絡の一つ位寄越しそうな気がするし、そもそも幾ら参拝客が多いっていってもそんなに混むか?」
「お腹の調子が悪いとか? けれどそんな様子見せなかったわよね」
「ああ。でも咲月って具合が悪いこととか結構隠すタイプだからなあ。おい、あざみ、あざみ!」
紗久羅は飽きずに屋台を廻り続けていたあざみをつかまえる。彼女はたい焼きを頬張りながら紗久羅をじっと見つめている。
「なあ、咲月まだ戻ってきていないよな?」
たい焼きから口を離したあざみは柚季と同じくきょとんとして。
「咲月……? ええと……あ、咲月! そういえば戻ってきていないね。言われるまで気がつかなかった。というか何だろう、咲月の存在自体すっかり忘れていたというか」
そんな彼女を薄情と罵ることは紗久羅にも出来なかった。紗久羅もまたついさっきまで彼女のことを忘れていたのだから。
(三人して、どうして忘れていたんだ彼女のことを)
そのことを不思議に思ったが、今はそれどころではない。
「あたしと柚季でちょっとトイレへ行ってくる。あざみは悪いけれど、お土産屋の前で待っていてくれないか、入れ違いになるかもしれないし。それでもし咲月が来たら連絡してくれ」
あざみの了承を得た紗久羅と柚季は早速ここから一番近いトイレへと向かった。一応その途中電話をかけ、メールも送信したが反応は全くない。それが二人の不安を煽る。
案の定トイレに咲月の姿はなく。もしかしたら別の所にいるのかも、ともう一箇所のトイレも覗いてみたが、矢張りいない。
お土産屋の前に戻ったが矢張り咲月の姿はなく、それどころかあざみさえいなかった。あいつまでどこへ行ったんだと思っていたら、彼女は先程までと同じく屋台めぐりに夢中で。あの馬鹿、と舌打ちし紗久羅は暢気にわた飴を頬張っていたあざみを叱責する。
「お土産屋の前で待ってろって言ったじゃないか、なのにどうして!」
「え? ああ! そういえばそうだった! すっかり忘れていたよ、ごめんごめん。というかそもそも……何であたし、あそこの前で待つように言われていたんだっけ?」
「何馬鹿なことを。お前って想像以上にお馬鹿さんだよなあ。ええと、ほら、あの……そうだ、咲月! 咲月を探しに行ったあたし達と彼女が入れ違いになったら困るからって」
「ああそうだった、そうだった。それで咲月は?」
「いなかった。一体、どこへ行っちゃったんだ」
不安が三人を押し潰す。ナンパ男に捕まって変な所へ連れて行かれてしまったのか、変態に連れ去られてしまったのか、どこかで倒れてしまったのか。最悪のシナリオの数々が頭の中をぐるぐる回る。
「とりあえず、手分けして探そう。それでももし見つからなかったら……助けを求めよう」
三人は頷き、手分けして咲月を探し始める。
紗久羅は大社内を駆け回り、時に彼女の名前を呼び、咲月の――あのお姫様のような姿をした咲月を探した。
だが走っても、走っても、どれだけ叫んでも彼女は見つからない。何故かそうして走れば走るほど、時間が経てば経つほど彼女が遠ざかっていくような気がして、怖くなった。
どこだ、どこだ。咲月、咲月! 無事でいてくれよ、頼むから。
ねえ、本当にどこにいるの。どこにあの子は……あの子……さ、咲月! 咲月はどこだ、どこへ行ったんだ、お願いだから姿を見せてくれ。
名前を呼ぶ頻度が少しずつ減っていく。単純に疲れて、名前を呼ぶ余裕さえなくなった――わけではない。
咲月、という名前が段々と紗久羅から遠ざかっていく。どんどん離れて、消えていく。名前だけではない。彼女の顔も、姿も、彼女との思い出さえも。
遠くへ、遠くへ、霧の世界へ、遠ざかっていく、消えていく……。
そうはさせまいと手を差し伸ばし、それらを自分の方へ引き寄せる。だがそれはすぐ彼女の手からすり抜けて。
「どこだ。どこだ、どこへ行ったんだ……!」
嫌だ、嫌だ。行くな、行ってはいけない。
必死になって探し回ったが、結局誰も見つけることが出来なかった。
とぼとぼとお土産屋へと戻っていく。その時、何故か脳裏に眩い笑顔を浮かべるお花トリオの姿が浮かび。
そして、消えた。
お土産屋の前にはすでに柚季とあざみの姿があった。二人共浮かない顔をしている。同じ顔をしている紗久羅が戻ってくるのを見、二人は肩を落とす。
「そっちにも、いなかったのか」
「いなかった。時々人にも尋ねてみたけれど、全然駄目」
「あたしの方も駄目だった。見つからなかった……」
「そうか。一体どうしたんだ、どこへ行っちゃったんだ……あれ?」
その時紗久羅はある事実に気がつき、愕然とした。頭が真っ白になり、痺れて、痛んで。
訝しげな表情で自分を見る二人に、問う。
「ねえ。あたし達……誰を、誰を探していたんだっけ?」