かしかり(3)
*
その少年には見覚えがあった。割と近所に住んでいる子で、伊代の記憶が正しければ去年だか今年だかに高校生になったはずである。小学生位の時は公園で他の子達と一緒に遊んだ覚えがある。今は会話だってしない。無論一緒に遊ぶことなんてない。時々すれ違った時挨拶をする位である。それゆえ彼の正確な名前も記憶の彼方。
そんな彼が今まるで伊代をかばうかのように、あの老人に声をかけた。彼はすたすたと伊代の横を通り過ぎ、彼女と老人の間に割り込み、いやらしい笑みを浮かべている老人を睨む。彼は目の前にいる老人を全く恐れていないようであった。それが伊代には信じられなかった。
(私がおじいさんに絡まれているのを見て助けに来てくれたのかしら。嗚呼、でもこの人は人間じゃない。人間では有り得ないものを持っている。この子は気がついていないのだろうか。気がついたならまともにあの人と向き合えるはずがない)
その人は人間では無い、そう叫びたい思いだった。少年は伊代をちらっと見、それから再び老人へと視線を戻した。
老人にねっとりした笑い声が伊代の耳を撫で回す。
「ひひひ。……坊主、お前さんわしが何なのか分かっているような顔だな」
その言葉は伊代にとっては衝撃的な言葉であった。対して、少年の方はその発言に動じることはない。今は彼の背中しか見えていなかったが、それでもそのことは何となく分かった。
「ああ。あんた『向こう側の世界』の住人だな。人間ではなく、妖だ。あんた、この人に何しようとしているんだ」
「妖……向こう側の世界?」
前者は分かるが、後者の意味はよく分からない。疑問を声に出すがあんまり小さかったものだから、二人の耳には届かなかったらしい。老人は伊代の口をついた言葉には何も返さなかったが、少年の問いには答えた。
「わしとその娘は契約を交わした。この娘が望んだもの全てを貸すというものだ。そして今日、貸した分の金などを返してもらう為こうして来た次第。借りたものは返す、これ世界の常識なり、だ」
老人が堂々と答え、笑っている間に少年は再びちらりと伊代の方を見る。彼の言葉が真実であるかどうか確認したかったのだろう。
そんなの知らない、そんな契約交わしてなんかいない! と言いたいところだったが、残念ながらそれは真実ではない。
もうただ体を縮め、小さく頷くしかなく。
「あの人の言っていることは本当……でも私、したくてしたわけじゃないの。あっちが勝手に勘違いして、勝手に契約して……」
「成程。……まあそう言ったところで『ああそうだったのか、それはすまなかった、契約はなかったことにしよう』とは決してならないでしょうね。けれどこのまま放っておくわけにもいかない……」
少年は伊代の方を見たまま固く口を結んで思案顔。それから何か決意したのか頷き、その顔を老人の方へ。
「今日までに返せば良いんだよな、お金は」
「お金だけではない。命もだ」
「命?」
予想外の言葉を聞いたせいか、先程までとは大違いの間の抜けた声だった。
続けて老人は請求する命の年数を告げ。これにも相当驚いたのか、よろける少年。伊代はもうただただ申し訳なく、また老人へ変わらず抱く恐怖心もあり体を小さくするばかり。
「命は命でしか払えない。何も一人で払えとは言わない。名前と生年月日を知っている者から少しずつ貰って集めれば良い。さあさあ、払え、払え」
これ以上話すことは何も無いと言わんばかりに、老人が再び歩を進める。
伊代は思わず二三歩後ずさったが、少年は逃げない。そして改めて老人に「待て」と言うのだった。
「そのお金と命は、今日中に返せばいいんだろう。日が変わるまで時間はある。多分この人も今すぐにはそれらを払うことは出来ない。……夜まで待ってくれないか。夜になったらきっと払うから」
少年の提案に伊代は驚いた。だがここで自分が何か喋るのは得策ではないと思い、黙る。老人はあごに手をやり「ふむ」と一言。にべもなく断る、ということはなさそうだった。
「時間稼ぎ、というわけか」
「ああそうだ、時間稼ぎだ。けれど仕方無いだろう。返せといわれてああはいはい分かりました、それではどうぞ……なんてぽんと返せるものじゃないんだから。彼女は俺が説得する。絶対に払わせる。だからとりあえず今は」
老人は顔を右に、左に傾ける。まるでやじろべえのようだ。いや、やじろべえのように可愛らしさとか愛嬌とかそんなものはないのだが。伊代はとりあえず「うん」と言ってくれ「うん」と……と心の中で手を合わせて必死に願った。
一歩、下がる老人。
「仕方ない、そこまで言うなら待ってやろう。今日の日付が変わる頃その娘の前に再び姿を現す。その時までにしっかり調達してもらおう」
そう言ってすぐ消えるかと思えばそうでもなく。老人は少年に何かを手渡した。
「その帳簿に人の名前と、その者の生年月日、住んでいる場所、手渡す命の年数を書くがいい。書けばその者から自動的に書かれた分の命が奪われ、この帳簿にしまわれる。いい加減な名前や住む場所を書いても無駄だからな。さて、それではわしは一旦去ろう。感謝するんだな、娘。だが次にお前の前に姿を現した時はもう一刻の猶予も与えぬから、そのつもりで。もし返さなかったら酷いことになるぞ、恐ろしいことになるぞ、死ぬより辛い目にきっと合わせてやるからな」
彼は本気で言っているらしい。黒く禍々しい気が再び伊代を撫で、その身を激しく凍えさせる。伊代はただ頷くことしか出来なかった。
それからひゅおう、と強い風が吹いて。
その風が止む頃、老人の姿は綺麗さっぱり消えてなくなった。
ひゅるり、もう一度吹く風、後、無音。しばしの間続いた静寂が伊代の緊張の糸を緩ませ、彼女に安堵の息を吐かせた。
「助かった……」
「いや、まだ助かったわけじゃありません」
きっぱりと言う少年。その言葉に伊代はそうよね、とがっくり。夜再び彼と対峙しなくてはいけないと思うと頭が痛む。あの老人と出会ってからというもの、その痛みに悩み続けている伊代だった。
少年はくるりと体を反転させ、ようやく伊代の姿を真正面から見据える形になる。彼の姿をじっくり見るのは久しぶりである。前髪の両脇だけ伸ばしていて、顔立ちはどちらかというと中性的だがなよなよしているという印象は受けない。彼は自分のことをじろじろと見ている伊代に軽くお辞儀した。
「ええと酒井さん、ですよね。小さい頃よく遊んでもらった」
相手は自分のことを名前も含めてちゃんと覚えてくれていたらしい。伊代も彼のことは覚えている。だが名前までは覚えていなかったから、少し驚いた。
「ええ。この辺りに住んでいる子達でよく遊んだわ。けれどごめんなさい、ええと……」
「奈都貴です。深沢奈都貴です」
彼は伊代の言いたいことをすぐ察知したのか微笑みながら名を名乗った。伊代が自分の名前を忘れていたことに対し、気分を害している様子は無い。そのことにほっとしつつ、伊代は「ああそうだった、そんな名前だった」と脳内で手をぽんと叩く。
名前を思い出すと、ついさっきまで忘れていたことも次から次へと思い出していく。しょっちゅう転んだりどこかに頭をぶつけたりしていた、のんびりほわわんとしたあまり似ていない双子の妹がいること、元気で明るい一方割合落ち着いている部分もあり、結構真面目な子という印象を抱いていたこと、あだ名で呼ばれる度その呼び方やめろよと言っていたことなど。
「ああそうだ、奈都貴君か。思い出した。確かなっちゃんって呼ばれていたよね」
「それに関しては思い出して欲しくなかったです……」
と肩を落とす少年――奈都貴。聞けば彼は高校生になった今もそう呼ばれているのだという。本人はその女の子っぽいあだ名で呼ばれることを嫌がっているようだが、その呼び名が妙にしっくりしていることは事実だった。彼が眉毛が太くて、がっちりとした顔つきで声もものすごく低い――そんな男の子らしい男の子であったなら、きっとそのあだ名は定着しなかっただろう。
(女の子に間違えるってことは絶対ないんだけれど、男の子っぽいって感じの顔でもないのよね……って今はそんなこと関係ない!)
そう。今は奈都貴に「なっちゃん」というあだ名が合っているかいないかとか、彼の顔がどうとかそういったものはどうでも良いのだった。
「あ、あの、とりあえずありがとう。奈都貴君が来ていなかったら私きっと……。あと、その」
あの老人のような、非現実的なものが実在しているというとんでもない事実を、まるで以前から知っていたかのような彼。それだけでなく、伊代がまだ知らない更にとんでもない事実を知っているだろう彼。
奈都貴に聞きたいことは山ほどあった。だが生じた疑問を上手いことまとめ、それを言葉にすることに彼女は手間取った。
彼女がまごついている内に、先に奈都貴の方が色々組み立て終えたらしい。
「とりあえず、いつどんな風にあの老人と出会って、彼と契約を結んだことでどういうことが起きたのかなるべく具体的に話してください。話はそれからです」
年下の彼の方がよっぽどしっかりしているじゃないか、と一人てんぱっていた伊代は恥ずかしくなった。
伊代は一度家に戻り、加世子の家に伊達巻を届けたこととまた外へ出ることを伝え、家の近くで待っていた奈都貴と落ち合い、歩き始める。特にここへ行くというのは決めていなかったが、とりあえず町の外れの方へ向かって足を運んだ。
歩いている間伊代は奈都貴に約一年前からのことを話した。このことに関して誰かに話すことは今までなかった。誰にも言えず、吐き出すに吐き出せずずっと体内に封じ込め続けていたそれを彼女は、この絶好の機会を逃すまいとあらいざらいぶちまけた。そうするとまだ何も解決はしていないのに、涙が出る位すっきりした。溜めていたものを吐き出すことがこれ程までに気持ちの良いものだったなんて、と感動すら覚える。
奈都貴はそれを大人しく聞いている。時々相槌を打つことで伊代を安心させていた。がたがた揺らされている、今にも壊れそうな吊り橋。彼はその上を渡る彼女の手を優しく握り、そして引っ張ってくれている……そんな気持ちなった。安心、安堵、きっと渡れると自信を持って思える気持ち。
「何というか……月並みの言葉ですけれど、大変だったんですね」
「ええ、とっても大変だった。今まで誰にもこの話をすることが出来なくて、随分苦しい思いをしたけれど、こうして君に話しただけで大分楽になった」
奈都貴は笑顔でそう言われて照れたのか、急にそっぽを向いた。その様子が何だか可愛らしく、ますます零れる笑み。
それから伊代は奈都貴が老人に向かって言った『向こう側の世界』のことや妖のこと、どうして奈都貴はそのことについて色々知っているのか……自分が疑問に思ったことを次々と聞いた。
奈都貴は難しい顔をしながらぽつぽつと話してくれた。
世界は一つではないこと、人々が妖怪や精霊と呼ぶようなものが住んでいる世界が、この世界と重なり合うようにして存在いること、小学生五年生の時あることがきっかけでその世界と関わりを持つようになったこと、高校生になった今この世界に迷い込んできた、もしくは昔からここに住んでいた妖達が引き起こすトラブルに幾度となく巻き込まれたことなど。
彼は簡潔にまとめた事柄を事務的に話す。伊代はもっと詳しいことを知りたくて、沢山質問をしたのだが彼はその殆どにまともに答えようとしなかった。
自分は何もかも喋ったのに、彼は自分の知りたいことを殆ど話してくれない。
そのことに彼女は若干の不満を覚えたが、彼が詳しいことを話さないのはわざとで、伊代のことを思ってのことだったことを知る。
「あまり知らない方が、関わらない方がいいんです。知れば知るほど、向こう側の世界に引きずり込まれてしまうから。俺はもう手遅れですが。酒井さんだって、もうこんな目に合うのは嫌でしょう?」
当たり前じゃない、と即答。奈都貴は苦笑いし、それからまたすぐに真剣な表情に戻った。
「だったら、これ以上詳しい話を聞こうとしないで下さい。そして、上手いことあの老人を退けることに成功して、今まで送ってきた『日常』を取り戻すことが出来たら、今回のことはなるべく忘れるようにしてください。あれはなんだったのだろうとか、妖怪とか向こう側の世界のことについてもっと知りたいとか思わないようにしてください。約一年に渡って起きた非現実的な出来事、それをなかったことにしてください。勿論簡単に忘れることは出来ないでしょうし、忘れたとしても何もかも元通りになるわけではないかもしれないですけれど」
知ろうとしないこと、関わろうとしないこと。奈都貴が伊代に手を貸す条件はどうやらそれであるらしい。
伊代は分かった、と頷く。こんな目には二度とあいたくなかったから、そうすることで『日常』を取り戻すことが出来ると言うならと。
「けれど、あの老人をどうやって退けるの? 奈都貴君はあの人をどうにか出来るような力を持っているの?」
奈都貴はすぐ首を横に振った。
「いいえ、俺にはそんな力はありません。皆が知らないことを知っているだけで……結局の所俺一人の力では酒井さんを助けることは出来ません。そういう力を持っている人が知り合いにいますけれど、欲しいとは思いません。力は色々な物を引き寄せるんです。そして否応無しに妖達と向き合い続けなければいけなくなる」
「それじゃあ一体どうやって」
「その知り合いの一人に相談するしかありません。本当はその人の住んでいる家に直接行って話をした方がいいんですが。確か今日から数日間実家に帰省するって言っていたんですよ。だから電話をかけるしかない。……相手の都合が余程悪くない限りは、相談にも応じてもらえるはずです。幸い携帯も充電したばかりですから」
そう言うと奈都貴は懐から携帯を取り出し、その知り合いへと電話をかけるのだった。
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「もしもし、深沢君ですか」
その声を聞いた時、奈都貴はほっとした。最初かけた時、彼は電話に出なかった。もしかしたら電話が出来る状態ではないのだろうかとあせったが、それから一分後位に相手から電話がかかってきた。
明らかに人では無い者に女性が絡まれているのを見て、思わず助けに入った奈都貴だったが、彼自身には妖をどうこうする力はない。格好をつけて二人の間に割り込んだものの、内心は「これからどうしよう」とかなりあせっていた。
幸い妖である老人は奈都貴と、自分がかばった女性に何もすることなく一旦退却してくれたが、もし彼が逆上して襲いかかってきていたらと思うとぞっとする。
老人と不本意ながらも契約してしまったという女性は奈都貴の知り合いで、幼い頃公園や車などが殆ど通らない道路などでよく一緒に遊んだことを覚えていた。自分を始めとした低学年の子供の面倒を、彼女を含めた年長者がみていたのだ。かろうじて思い出せたのは名字位、声を聞くのもじっくりその姿を眺めるのも随分と久しぶり。相手が一応自分のことを覚えていたことには驚いた。
そんな彼女から奈都貴は話を聞いた。物や命を貸し、そして大晦日借りた分のお金や命を徴収する為にやって来る妖。彼と契約を結んでしまったが為に、随分と怖い目にあわされたらしい彼女は泣きそうになりながら奈都貴に今までのことを話してくれた。
さて、老人に迫られていた彼女を助け、こうして話を聞いた以上どうにかしなくてはいけない。ああそうですかそれは可哀想ですね、ですが自分にはどうしようもないのでこれにて失礼します、と言って逃げるような真似は彼には出来なかった。出雲はそういうことを平気でやりそうだったが。彼の場合自分が不幸にした相手の前に現れ「助けてあげますよ」といったオーラを出し、そして相手が自分にすがってきたら「さようなら」と言ってその場を笑いながら去る――ということを何の罪悪感もなくやってのけるだろう。
まあそんなこんなで彼は知り合い――九段坂英彦に電話をかけたのだった。
英彦がコールバックしてきてくれたことにほっとしつつ(彼が電話に出なかったらどうしようもなかった)早速話を切り出す。
伊代から聞いた話を元に、英彦にことの経緯を説明した。英彦は時々質問を挟んだものの基本的には静かに話を聞いた。
「成程……確かにそういう妖はいますね。江戸時代の借金取り同様、貸したものを大晦日返してもらう為あちこち回ったそうです。その妖が酒井さん以外の人に何か貸したかは不明ですが。まあその辺りは良いとして、ええと深沢君はどうにかして老人に支払いをせずに済む方法を知りたいのですよね」
「はい。お金の方は返そうと思えば返せる金額だそうですが、命の方が……。複数の人から数年ずつ集めて返せばいいそうですが、住所氏名生年月日全て把握している人なんてそんなに多く無いですし……第一、自分が助かりたいが為に他人の命を少しとはいえ奪うなんてこと……酒井さんはしたくないと言っています。俺も、そう思います。お金も命も支払わずにあの妖との関係を断ち切る術があるなら、是非教えていただきたいのですが」
それを聞いた英彦はそうですねえ、としばし考え込む。
「一番良い方法は大人しく支払うことなのですが。借りたものを全て返しさえすれば、その妖はさっさと姿を消すそうです。まあ魔に憑かれていたり、余程性格が捻じ曲がっていたりしなければの話ですがね。しかし命が関わっているとなると……全く聞いたことありませんよ、命まで貸してしまうなんて話は。君達が会った妖は余程強い力を持っているようですね」
「あの老人を倒せば大丈夫ってことはありませんか?」
「残念ながら。むしろ下手に殺してしまうと、交わした契約が性質の悪い呪いに変わって、余計酷いことになるという場合があります」
「それじゃあ……」
「あまりオススメはしたくないというか、成功するかどうか微妙というか……一応上手くいけば何も支払うことなくその妖との契約を終えることが出来るのですが」
それは何ですか、どういう方法なんですか、と思わず奈都貴は声を荒げる。
英彦はそんな彼を落ち着かせた上で、話す。
「――その妖を騙すんです」
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伊代は今、最高に緊張していた。本来ならば体の疲れを癒す、どこよりもくつろげる場所であるはずの自分の部屋。だがそこにいても彼女の緊張はほぐれもせず、鼓動は早鐘を打ったまま。暖房がかかっているのに体はがたがた震えているし、寒いし、だが握りしめている拳は汗ばんでいて、火で熱した石でも持っているかのように熱い。
カーペットの敷かれた床の上に正座している伊代の前には、札束と小銭、それから帳簿が置かれている。それを凝視すればする程胃がきりきりと痛んだ。
(これを渡して、上手く相手が騙されてくれれば良いのだけれど……でも本当に騙せるのだろうか)
目の前に置かれている物に対して抱く信頼が揺らぐ。するとそれの姿がぐにゃりとして、揺れて、霞む。ああ駄目だちゃんと思い込まないと、信じないと駄目だと思ったら元通りになった。
そう。彼女が今見ているお金と帳簿は本物ではない。目に映っている姿は真の姿ではなく、実体は複雑な紋様や難解な文字が沢山書かれた紙っぺら二枚である。
英彦が二人に提案したのは、術によってお金と帳簿に見えるようにした紙を妖に渡すというものだった。
――術式を書き、力を込めた紙をその妖に渡すんです。術の力によって、その紙は本物のお金や帳簿に見えてしまう。それを渡すことで契約を終了させ、さっさと彼とお別れすれば……わざわざ本物のお金等を支払う必要はありません。ですが、上手くいくかどうか。そういう術を見破る力に優れていない者、術によって生まれた、複雑な行動や考えが出来ない者、元々頭が空っぽな者相手なら上手くいくんですがねえ。相手はそういう者ではないでしょうし……失敗すれば余計面倒臭いことになるのは目に見えて明らかです。かなりリスクの大きい方法ではあります――
それを聞いた奈都貴が伊代に彼が話してくれたことをそっくりそのまま話す。
リスクは大きいが、それでも良いかと確認したかったのだろう。
伊代は随分迷ったが、結局その作戦を了承した。一か八か。失敗すれば自分はおろか家族にも迷惑がかかってしまうかもしれなかったが、それでもあの老人の言うことを大人しく聞く気にも、複数人の命を勝手に頂戴する気にもならなかったのだ。
彼女が了承すると、奈都貴がその旨を英彦に話す。
――その紙、俺達には作れませんよね?――
――作れないでしょうね。ごく簡単なもの……さっき言ったような人達をごまかす位のものならともかく。相当な力量が必要となるでしょうねえ、特に帳簿の方は作るのが難しい。出来ることなら私が作って、何らかの手段でそれを今日中に深沢君達の所まで送りたいのですが……残念ながら今日は私も忙しくて、そちらに手を回せる程の余裕がないのです。ですので……――
――及川に代わりにやってもらう?――
――ええ。それしかないでしょう。とりあえず使鬼の一人である阿古をそちらへやります。彼女は様々な術に関する知識を持っていますから、彼女に教えてもらいながら及川さんに作っていただきましょう。彼女も人の運命がかかっているような事案を断りはしないでしょう――
それしかないな、と奈都貴も頷く。後々伊代が聞いたところによるとその及川柚季という娘は奈都貴のクラスメイトで、霊的な力を持っているらしい。だが彼女はその力を持つことを望んでおらず、また妖達と極力関わりたくないと思っている人なのだという。
伊代は奈都貴に、彼女の存在を口外しないこと、自身がこういったものと関わりを持っていることも絶対に誰にも話さないで欲しいと頼まれた。伊代は分かったとその願いを受け入れる。話したところで誰も信じてくれないようなものだし、彼等がそれを望んでいるのにぺらぺらと周りの人に話すような無神経なことは、少なくとも伊代はしない。
それから奈都貴は、今度はその柚季という少女にメールを送った。その後彼女から電話があり、奈都貴がそれを受ける。二人はしばらく話しこんでいたがやがて電話を切り、ふうと奈都貴が息を吐いた。奈都貴が喋っていた言葉から察するにどうにか相手の了承を得たようだ。
「協力してくれるそうです。とりあえず作るのには時間がかかるそうです。出来たら連絡するので……あの、メアドか電話番号教えていただけませんか」
「あ、うん、分かった」
伊代は奈都貴とメアドを交換し、一度別れた。
術を書いた紙が完成したので取りに来て欲しいという連絡があったのはそれから数時間後、日が暮れてからだった。家から出、奈都貴からその紙を渡された。
どうやら術の効果は人間相手にも現れるらしい。それが術のかかった紙であることを知っていた彼女だったが、渡されたものはどう見てもお金と老人から渡された帳簿で。だが強く「これは本物ではない」と念じたら、急にその姿がぶれて、何か複雑な紋様や難しくて読めない文字などの書かれた紙が見えた。
「渡す時は弱気にならず、堂々とした態度でとのことです。あやしまれるような態度はとらないように、と。……成功するかどうかは微妙なところだそうです。それでも、信じてください。上手くいくことを」
奈都貴に言われ、伊代は頷いた。自分の為に頑張ってくれた彼等の為にも何としてでも成功させなければいけないと彼女は思った。
ここから先は、彼女一人の戦いとなる。終わったら必ず連絡して欲しいと言って、奈都貴は伊代の前から姿を消した。
……そして、今に至る。夕飯も食べ終わり、風呂にも入った。そしていつもは最後まで見ている大晦日恒例の歌番組を途中で見るのをやめて、自分の部屋にこもっている。
だん、だん、だん、だんだんだん……冷たい風が窓を叩く。その音は、リズムは今の伊代の鼓動によく似ていた。時の流れを告げる、時計の針の動く音もまた今はとても恐ろしいものに聞こえ、伊代の体をちくちくと刺す。
今、何時か。それを確認しようと顔を上げた時。
いつの間にか彼女の真向かいに立っていた老人と目が合った。老人はにい、と笑い伊代はきゃあ、と悲鳴をあげた。これ程までに唐突に来るとは思ってもいなかったのだ。
部屋がとても良くないもので一瞬にして満たされたような気がし、出来るなら窓を全開にして換気をしたいと思った。だが体は動かないし、そもそも窓を開けたところで消えるようなものでもなく。
「約束通り、取りに来たぞ。さて、ちゃんと用意はしたかな」
心の準備がまだ出来ていなかった伊代は口をぱくぱく。そのままパニックを起こし、暴れまわりそうになったがすんでの所で爆発しそうになった感情を押さえ込み、目の前にあるお金と帳簿を指差す。
「用意してやったわ。不本意だけれど……ちゃんと、返すわ」
「ほほう、感心感心。どれどれ」
老人は感心などと言いつつ、まるで伊代を馬鹿にしているかのような声をあげて笑う。その声にいらっとする一方、ばれたらどうしようという不安で胸がいっぱいになり、油断していると震えてしまう体をどうにかしようと躍起になる。
ひゅおう、おう、たっく、たっく、ちくたく、ひゅおう、おう、どくん、どくん、ちくたく、ひゅおう、どくん。
一見静寂の中に混ざる幾重もの緊張の音。早く、早く何か言ってくれとただひたすら念じる。緊張で、その願いで体が詰まって息が出来ない。
ああもう苦しくて、怖くて、死にそうだ。そう思った時だ。
老人が、笑い出した。腹を抱えてそれは愉快そうに笑うのだった。ぽかんとしている伊代を無視し、ずっと、ずっと笑っていた。
ひとしきり笑ってから老人はにたりとした。その顔を見て凍りつく背筋。
「ほうほう。これはまた……見事な偽物を作ったものだな、え?」
ばれた。ばれてしまった。
頭の中が空っぽになる。何も考えられない。しまったとか、どうしようとか、そんなことも考えられない位の絶望が彼女を襲う。
しばらくして、ああもう駄目だという気持ちが湧き上がってきた。今更ごめんなさい、本物を渡しますから許してくださいなどと言っても相手は決して許してくれないだろう。
階下から両親の笑い声が聞こえる。その声は彼女の気を確かにするどころか、彼女をより絶望させるものだった。彼等の笑い声を、笑顔を自分が、娘である自分が奪ってしまうかもしれない。
ああ、もう駄目だ。何もかも。ぎゅっと目を瞑り、ただ震えることしか出来ない。
だがいつになっても老人から騙されたことに対する怒りのオーラが出る様子がなく、また伊代に危害を加えんとする動きもない。
何なんだ、と目を開きかけた時再び老人が笑った。いきなりのことだから伊代はびっくりし、短い悲鳴をあげる。
「ひっひっひ、面白い。これだけ素晴らしい物を作れる者がまだこの世にいたとは。このような術などとうの昔に廃れたものとばかり。力を持った者も最早いないと思っていたが……いやいや、しかし傑作だなこれは。後少しで騙されるところだった。きっとわしみたいに力を持ったものでなければ、これが偽物だなんて考えもしなかっただろうさ。はは、本来ならこんな偽物など渡されたらよりお前さんを恐ろしい目に合わせるところだが、今回はそうだな、この術の完成度の高さに免じて許してやろう」
「は?」
「これを受け取ることで契約を終わらせてやる、と言っているのだ。なんだ、それでは不満か?」
不満なわけがない。伊代は慌てて首を振る。ただ予想外の展開に脳がついていけない。あれが偽物であることに気がつきながら、怒りもせずペナルティも与えず、許す、契約もこれで終了――そんな展開になったら誰だって唖然とする。
「どうせこの偽物を作ったのはお前さんじゃないんだろう? お前さんにこれを作れるとは思えない。ふん、感謝することだなこれだけの物を作った者に。それでは、わしは帰るとするか。また年が明けたら新たな獲物を探すとしよう。それを止めることはお前さんには出来まい? まあ、これ以上わしらのような者に関わりたくなければ余計なことはしない方が賢明だ。それでは娘よ、良いお年を」
閉めきっている部屋の中、突如発生した冷たい風。それがおさまったかと思ったら、老人の姿はもう消えていた。ぱっと姿を現し、ぱっと消えた男。
喜びを噛み締め、安堵する気力さえ今の伊代にはなく、彼女は「ああ」と気の抜けた声をあげながら床に寝転んだ。
作戦は失敗した。だが最終的には大成功。相手がとんでもなく変なじいさんで、とんでもなく気まぐれな妖だったお陰で伊代は助かったのだった。
徐々に体を動かす気力を取り戻していった伊代はまず奈都貴に電話をした。
予想外の顛末に彼もまた驚いた様子だったが、経緯はどうあれ上手くいって良かったと伊代の無事を祝ってくれた。その後彼は老人を感心させた紙を作った柚季に連絡をすると言った。伊代は見ず知らずのその少女に心から感謝したのだった。
全てを終えた伊代は階段を下り、TVを見ながら笑っていた両親と共に新しい年が始まる瞬間を迎えた。
その瞬間を迎えた時、伊代の体から去年一年の間にたまった色々な悪いものが綺麗さっぱり消えたような気がした。心も体も軽く、良い気持ち。
老人は真実伊代との契約を終わらせ、彼女との関係を断ったらしい。その後あの「貸してやろう」という声が聞こえることはなかったし、ないはずのものが急に現れたとか、カードや定期が勝手に新しいものになっているということもなくなった。
一方で、大事な物を買い忘れたり、必要な物が必要な時になくて困ったりすることもなくなった。変な現象は起きなかったが『物』に困ることもなくなり、その後彼女はそれなりに満ち足りた、程ほど幸せな生涯を送った。
それが老人のお陰であるかどうかは分からないが。