かしかり(2)
*
一度「絶対にこうだ」という確信を持ってしまった以上、ありえない、恐ろしい現実から目を背けることはもう出来なくなっていた。新たに買わなければいけないような物がなくなりそうになる、もしくはなくなるだけで胃が痛み、その度聞こえる「貸してやろう」という声に体震わせる。ちょっと目を離した隙に、さっきまでなかった物が現れ伊代を打ちのめす。タイツやコンタクトレンズ、ボールペンの替え芯、ルーズリーフ……数えだしたらキリが無い。
なくなりそうになるずっと前に買いだめしておけば大丈夫では、とも思ったが結局上手く行かなかった。もっと早めに買っておこう、と思った時点であの老人の「貸してやろう」という声が聞こえ、自分が買おうと思った分のそれが現われるのだ。
ある時、通学に使っている電車の定期が切れそうになった。
定期に書かれた日付、その日が近づくにつれ伊代は憂鬱になってくる。まさかこういう物も新しい物に変わってしまうのだろうかと思うと気が気ではない。
定期代に関しては親が出してくれる。もう少しで定期が切れるんじゃないかと聞かれ、そうだと答えたら新しい定期を手に入れる分のお金をくれた。このお金をちゃんと使って、ちゃんとした手段で定期を手に入れることを伊代は心の底から望む。
お金を財布に入れ、期限の迫った定期をカバンに入れる。時間的な余裕を考えて、帰りに新しくすることに決めた。
授業が終わる度、ちょっと時間がある時はカバンから定期を取り出し、新しいものになっていないか確認する。そして変わらぬ日付を見て安堵するのだった。その様子を見た人達はきっと何事だろうと思っただろう。鬼気迫る表情で定期を頻繁に見ては、心の底からほっとしたような息を吐くのだから。
(きっとこういう物なら大丈夫……)
根拠は一切無い。だが根拠のあるなしなど今の伊代にとっては問題ではないのだ。
その日の授業を全て終え、伊代は電車に乗る。その時までは確かに定期は古いままだった。それの入ったカバンを彼女は強く抱きしめながら電車に揺られる。誰にも手は出させまい、とカバンの奥底にしまった定期をあの老人から守る為に。そんなことをしたところで無駄だと分かっていたけれど、それでもそうせずにはいられなかった。
駅に着き、定期を取り出す。そしてそれを見た瞬間震えている手から定期がこぼれ落ちた。
定期が新しい物へと変わっていた。それは有効期限を見れば明らかで。財布の中をのぞく。そこには親から貰った定期代がそっくりそのままあった。老人は定期の代金を『貸し』勝手に更新したのだった。
近くにいた人が落ちている定期に気がつき、それを伊代へ渡してくれた。彼女はどうにかお礼を言いそれを受け取る。その時の彼女の顔色があんまり悪い上に体が震えているものだから、渡した人が心配し「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。大丈夫ではなかったが、大丈夫と答えるより他無い。彼女は何とか大丈夫だと答え、お辞儀すると逃げるように駅から離れる。
老人の笑い声が遠くから聞こえたような気がした。
定期代を親に返す訳にはいかず、かといって勝手に使うことも出来ずとりあえず自分の口座に預けておいた。そのことに彼女は罪悪感を覚え、きりきり痛む胃を押さえる羽目になる。勿論こういったことは一度きりではなく。春、新たな教科書を購入することになった時も、いつの間にかカバンにその日買う予定だったものが入っており、親から貰った教科書代は手元に残りということがあった。その時も結局お金は預けることとなり。
年会費がかかる、更新しなくちゃと思ったカードも勝手に更新され、定期は期限が迫る度新しい物に変わる。
伊代が「新しい物を買わないと」と思ったものは、最終的に彼女の物になるならないに関わらず老人は『貸して』しまうのだった。
ある販売店でバイトをしている伊代が備品の注文をしようとする時もそうだった。販売袋や掃除用具諸々の在庫が少なくなってきた物のチェックをするという仕事を彼女は時々やる。
(ああ、大きいビニールの販売袋大分少なくなってきたなあ……そろそろ注文しないと駄目だ)
発注したい物を書き込むリストの入ったファイルを開き、残りが少ない物の名前を書き記していく。後はそれを社員が見て発注をかけてくれる。
千代は自分の物になるわけではないものまで老人が貸すとは初め、夢にも思っていなかった。貸してやろうという声も聞こえなかったから、びくびくすることもなかった。ところが、だ。
「酒井さん」
「はい?」
タイムカードを押そうと事務所に入った時、一人の社員に名を呼ばれる。
何か仕事を頼むつもりなのだろうか、それとも何か失敗でもしてしまったのだろうかと不安になる伊代。
「販売袋とか色々発注リストに書いてくれたみたいだけれど……これ全部、まだ充分あるよ」
「え?」
予想だにしなかった言葉に伊代はぎょっとした。備品の置かれている棚を確認したら、確かにさっきまではなかったはずの箱が積まれている。どう見ても発注など必要ではない。
「……どこか別の場所にあった箱をここに持ってきたんですか」
「ううん? 最初からそこにあったよ。だからどうしてここに書いたのか不思議に思った」
「え、あ……えと、はは、何か寝ぼけていたんですかね……そうでしたか、ありましたか、あったならいいんです、すみません」
タイムカードを急いで押し、事務所から飛び出す。社員はきっと目を丸くして驚いただろう。尋常では無い様子で事務所を後にした伊代を見て。
休憩室で休憩している間も、先程の出来事が頭から離れずみるみる内に体温が下がっていく。
(まさか、何で。私が『新しいものを買わないと』と思ったものは自分の物かそうでないかに関わらず『貸されて』しまうわけ? そんなの滅茶苦茶じゃない!)
半ば一方的に交わされた契約。しかも契約の相手はどう考えても人では無い。
彼女の住んでいる桜町には、妖怪が出て人々に悪さをしたり、良いことをしたりしたという話が腐るほど伝わっている。それらを集めた本も存在しており、小学生の頃地域学習の一環としてその本に書かれた物語に触れたこともあった……が、当時読んだ物語がどんなものであったかなど今の彼女は殆ど覚えていない。そういうものに興味が殆どなかったのだ。勿論その本に書かれていたような者が実在しているなど夢にも思っていなかった。そんなこと思う者など周りにだってほぼいなかった。
妖怪は物語の中でのみ生きられる存在。現実には決していない存在。それが伊代の常識で、伊代の世界を創りあげている様々な要素の一つで。
(けれどこんなこと、普通の人間には出来ない。出来るはずがない……)
老人が貸すのは「後少しで無くなりそうな物、新しい物を買わなければいけないと思った物」だけではない。「絶対に必要な物ではないが、お金があれば買いたいと思った物、今すぐ買うものではないがいずれは買いたいと思った物」もそうだ。例えばあの春物のワンピース。あれだって絶対に必要な物ではないが、給料が入ったら買いたいと思ったものだ。
好きなアーティストのCDアルバム、洋服、アクセサリー、新しい音楽プレイヤー……買いたいと思った物がいつの間にかクローゼットの中や机の上、CDラックに現われる。それを見る度伊代はうんざりした。
買いたい、買わなければ、と思っただけで老人は貸してしまう。なるべくそう思わないようにしなければ、と心に決めるが『思わないようにする』というのは想像以上に難しいものである。思わないようにしよう、考えないようにしようと思ったからといって出来ることではない。自然にふと湧いて出てくるものなのだ。それでも無理に押さえつけようとして、疲れて、失敗して、また疲れる。
いっそ開き直ってしまえば楽なのかもしれない。だが開き直って何でもかんでも手に入れようとすれば痛い目に合うことは明確。老人は伊代に全てを「あげる」と言ったわけではない。あくまで彼は「貸す」と言っているのだ。
――だが忘れるな、わしはあくまで『貸す』のであって『あげる』のではない。年の終わり、貸した分の代金等は必ず返してもらうからな。勿論元の代金にちょいと上乗せしたものを請求する。それじゃあ、また大晦日に会おう――
老人の言葉が時々自分の意思に関係なく再生される。あの日のことを夢で見ることも珍しくなかった。
借りたものは返さなくてはいけない。高いもの、安いもの問わず数ヶ月の間に相当伊代は借りた。全てを合わせた金額のことを考えるだけでぞっとする。しかも彼はその代金に少し上乗せをするとも言っていた。そのちょっとと言うのがどれ位であるかも分からないから怖い。
借りれば借りる程苦しむ。だが借りないようにするのは難しい。その事実が彼女を苦しめる。
彼女はTVを見たり、店を回って買い物をしたりウインドウショッピングを楽しんだりすることが好きだった。だが今は気軽にそんなことが出来ない状態にあった。見れば何かが欲しくなる。だが欲しいと、買いたいと思ってしまったら老人がすかさず『貸して』しまう。彼の人の体を撫で回すような声を聞くのも、なかった物が突然現われるのを見るのも嫌だった。ほんの少しでもそれを回避しようと、そういったものを避けた。
恐怖や陰鬱な気持ちはたまる一方。そんな気持ちを少しでも晴らすには好きなことを沢山するのが一番……なのだが、今の彼女の場合そういった好きなことが己を苦しめる出来事を引き起こすきっかけの一つになってしまっている。
伊代を蝕む重苦しい気持ちは、彼女を狂わせる。
ある日のこと。伊代は授業に使う物を持ってくるのを忘れてしまった。
「忘れちゃったの? 伊代ったらドジだなあ。仕方無い。これを貸してあげる。一緒に使おう」
何気ない言葉。親切心から出た言葉。普段なら「ありがとう」で済ませる彼女だったが。
貸してあげる。
その言葉を聞いた途端、胸が不吉な音を立てた。
貸してあげる、貸してあげる、貸してあげる……頭の中でにこにこ笑っている友人の声が響く。
貸してあげる、貸してあげる、貸してあげる……無数の声に眩暈がする、気持ち悪い、息が詰まる、嫌だ、助けて、嫌だ……!
友人の声はやがてあの老人の声へと変わっていく。
貸してやろう。
教壇の前に立ち、にたにた笑う老人の姿が見えたような気がした。
「いや!」
心からの拒絶の言葉を大声で張り上げる。まさかそんな反応をされるとは思わなかっただろう友人は呆然とし、青ざめながら叫んだ伊代を見た。
どうしたの、と言うことさえ出来ない状態の友人。その姿を見て伊代は正気に返る。そして自分の態度がどれだけ妙で不自然に映ったか理解した途端恥ずかしくなり、また気まずくなった。伊代は必死で言い訳した。一体どんな言い訳をしたのか、それを二度と思い出すことはなかった。
友人は一応そんな言い訳を聞いて納得した風な態度をとったが、表情を見れば心底納得しているわけでないことは明らかである。
だからこそ彼女は「どうしたの、最近伊代変だよ?」と最後、付け加えたのだ。その問いかけに伊代は矢張り必死にそれっぽく聞こえるような説明をし、どうにかその場を切り抜ける。
伊代を絶えず苦しめている恐怖。それを明かすことは絶対に出来なかった。
(出来るはずがない。絶対誰も信じてくれない。信じるはずがない。私だって、聞く方の立場だったら信じないもの。どうしたの、疲れているのって言うに違いないもの。誰にも言えない、言えないんだ……)
そのことがまた彼女を苦しめる。いっそ誰かに話してしまえば少しはすっきりするだろうが、こんな荒唐無稽な話を「本当のことなの!」と言いながらすることは無理、無理、絶対に無理だった。
そんな彼女に鞭打つような出来事が、そろそろ十月になろうという頃起きた。
ある休日、伊代は舞花市にいた。気分転換に散歩をしていたのだ。店などにはなるべく近寄らなかった。ただ古き良き日本を思わせる、落ち着いた街並みを眺めて楽しむだけのもの。こういうただ歩くだけっていうのも悪くないなと伊代は思っていた。
散歩を楽しみ、ほんの少しだけ晴れやかになった気分。もしあんなことがなければその気分はもう少し長い間持続していただろう。
そう、そろそろ帰ろうと決めた時鳴った電話――母からの――をとるまでは、本当にそれなりに良い気持ちだったのだ。
メールならともかく、電話をしてくるなんてそうそうない。一体何だろうと思いながら彼女は携帯電話を耳に当てる。
「どうしたの」
「伊代、伊代……!」
酷く取り乱した様子の母。直後彼女が放った言葉は伊代を一瞬にして奈落の底へと突き落とした。
最初伊代は母が何を言っているのか理解出来なかった。あまりにも衝撃的なものだったからだ。
加世子ちゃんが交通事故にあって……かなり危険な状態なんですって。
その言葉は槍となり、伊代の体を貫いた。
加世子というのは伊代の幼馴染かつ親友である。家族ぐるみの付き合いがあり、伊代の家族と加世子の家族で一緒に遊園地に行ったり、キャンプに行ったりもした。勿論二人だけで遊んだり、どこかへ出かけたりしたことも沢山あった。きっと彼女以上に大切な友人はこの先出来ないだろうと思える位の子で。
そんな彼女が交通事故に遭った。しかも、かなり危険な状態だという。
伊代は急いで家へ帰ると、母と一緒に彼女が搬送されたという病院へと向かった。母の話では三つ葉市で買い物をしている最中、信号無視をして突っ込んできた車に撥ねられてしまったらしい。
彼女の頭は真っ白になった。自分を苦しめているあの老人のことさえ忘れてしまう位、動揺していた。
病院で加世子の両親と合流する。加世子の母は伊代とは比べ物にならない位打ちのめされている様子で、涙を流し続けながら震えている。そんな彼女の肩を加世子の父が優しく抱き、慰める。だがその慰めの言葉を紡ぐ彼の唇も酷く震えており、色も悪い。
伊代は、祈った。加世子の無事を。手を合わせ、心の中で祈り続けた。
(お願い、お願いだから無事でいて。死なないで、加世子! 絶対に……生きて! 加世子、死なないで、死なないで、生きて、生きて、加世子。私達約束したよね。おばあちゃんになるまで、ううん、おばあちゃんになってもずっと一緒だって。まだ私達おばあちゃんどころかおばさんにもなっていない。大人といえるかどうかも怪しい位だ。ねえ、お願い、生きて……ああ神様、お願いです。加世子の命を奪わないで下さい。加世子を死なせないで……!)
親友を思い必死に祈る少女。嗚呼、その祈りは確かに聞き入れられた。
「貸してやろう」
その声が、祈る伊代の頭の中で確かに聞こえた。
「え……!?」
あの老人の声が。間違っても神様などではないだろう者の声が確かに、聞こえた。伊代は予想だにしなかった事態に思わず瞑っていた目を見開いた。
それから間もなく、加世子の手術が終わった。
加世子は、死ななかった。一度彼女の心臓は停止したそうだが、懸命な処置が身を結んだのか、或いは奇跡かしばらくして再び動き出したそうだ。
それから彼女はみるみる内に回復し、これといった後遺症もなく予定よりも少し早く退院した。
そのことを伊代は本当に喜ばしいことだと思った。嬉し涙も沢山流し、良かった本当に良かったと何度も、それこそ加世子に「しつこい」と苦笑いされる位言った。
しかし。その一方で伊代は不安に押し潰されそうになっていた。加世子の無事を祈っていた時に聞こえた老人の声がそうさせたのである。
(まさか、あの人……加世子に『命』を貸したのでは……本当はあの日彼女は死ぬはずで、けれどあの老人が命を貸し与えたことで加世子は……まさか! そんなことあるわけない! 幾ら何でも命なんて、命なんて……)
考えては否定し、否定しては「でも」と考え。それを彼女は何度も繰り返す。
この一件は更に伊代を苦しめることになり、結局彼女は大晦日が訪れるまでこのことについて何度も考えることになるのだ。
*
そして、とうとうその日が訪れてしまった。
今年一年を振り返るという番組がTVで流れている。番組表の多くを占めるのは特別番組。夜はどの局も四時間とか五時間とか随分長い時間の番組をやり、丁度年が切り替わる午前零時前になると大抵の所は生放送になり、カウントダウンを行なう。カウントダウンが終わった後――深夜も様々な番組が放映され(生放送が多い)、騒いで騒いで大騒ぎ。朝になってもその騒ぎっぷりは途絶えることなく、結局しばらくの間お祭騒ぎは続くのだ。
誰も彼も新しい年の訪れを控えて浮かれ気味。だが千代は違う。この日が来ることを彼女は望んでいなかった。三十日からいきなり一月一日に飛べば良かったのにと本気で思った位だ。
冷たい風が、窓を叩く。その風の様に彼女の体は冷たく、それに叩かれて振動する窓の様に彼女の心は揺れ動き続けている。どんどんどん、という音が体内からも聞こえる。それはきっと心音に違いなかった。
(とうとうこの日がやって来てしまった。きっとあの人は私の前に現われる。そして、この一年で借りた分のお金を要求するんだ……ううん、お金だけじゃない、もしかしたら、でも、幾らなんでも)
みかんの置かれたこたつに足を入れている伊代は頭を抱える。事故に遭い生死の間を彷徨った親友。彼女の生を望んだ時に聞こえた「貸してやろう」という声。頭にこびりついて離れない、声。
(命まで、まさか……物ならともかく、命なんて貸せる訳がない)
そう思っても、不安になる。あれはきっと気のせいだ、気のせいに違いないのだと思い込もうとするが、思えば思うほどあの時のことが離れなくなった。
今日は外に出るのはよそう、と伊代は固く誓う。外に出なかったからといって老人と会わずに済むとは限らない。むしろ何をどう抗っても無駄だと思っている。だが、気持ち的にそうしたかったのだ。外に出なければきっと大丈夫だと、信じたかった。
だが、そう思った時に限って。
「伊代、あんた今暇でしょう? ちょっと頼まれて欲しいことがあるんだけれど」
「え」
その言葉を聞いた時、伊代はとても嫌な予感がした。そしてそういう予感というものは往々にしてよく当たるものである。
母親が何か入っているらしいビニール袋を伊代に向かって突き出す。良い匂いがそこからした。
「手作り伊達巻。加世子ちゃんちに持っていって頂戴」
ああ、やっぱりだ。伊代は心から落胆する。母は毎年おせち料理を作り、そして伊達巻を加世子の家におすそ分けするのだ。そのことを彼女はすっかり失念していた……毎年彼女の家へ行き伊達巻を渡す役目を担っているのは自分であることも。
出来れば断りたかった。だが断る理由が何一つ無い。
仕方なく伊代は立ち上がり、その袋を受け取り外へと出る。不吉な位冷たい風が伊代の体を痛めつけようとする。
(さっと行って、さっと帰ろう)
幸い、行きは無事であった。伊代は加世子に伊達巻を渡した。伊代が今どんな気持ちで外に出ているか知らない彼女はそれを笑顔で受け取った。
「やった。伊代のお母さんが作った伊達巻美味しいんだよねえ。あの時もし死んでいたら、この伊達巻ももう食べられなかったのよね。ああ生きていて良かった!」
「そんな冗談が言える位元気になって本当に良かったわよ」
「ありがとう。それじゃあね、伊代。良いお年を」
「うん、良いお年を……」
無理矢理笑いながら手を振ると、加世子の表情が変わる。元気が無い伊代のことを心配しているようだ。
「大丈夫、伊代? あんた最近元気ないよ」
「ううん、大丈夫。あんまり外が寒いからテンションが低くなっているだけ。ほら私って寒いの嫌いだから」
「そう……そっかあ。確かに伊代ってば小学校の時お相撲さん体型になる位厚着して登校していたもんね」
そう言って加世子は笑った。その時の様子から察するに、伊代の言葉を信じてはいないようだ。だが彼女はそれ以上追及することはなかった。無理して利かないのが一番だと思っているからだろう。その方が伊代にとってもありがたかった。
改めて挨拶し、伊代は加世子と別れる。
加世子の家から伊代の家までの距離はそんなに無い。さっさと走って帰ろう。
そう思い、伊代は走り出す。歩いても数分で着く距離、走ればもっと早くなる。あっという間に目の前に現れた、家。
そこまで行けば安全だ……そんなことを彼女は思った。
だが。伊代の足が急に止まる。体中を冷たい電流が走ったからだ。黒くて冷たくて禍々しい何かが自分の方へと迫ってくるのを同時に感じる。何か――人ではないナニカが、近づいている。体中が冷たくて熱くて、頭の中は真っ白で、真っ白で何もないはずなのに何かがうごめいているような感覚が襲う。
体中を掻き毟りたい、悲鳴をあげたい、逃げたい、怖い、泣きたい、嫌だ、嫌だ! だが体が動かない、何も出来ない。
「約一年ぶりだ」
老人の――伊代を一年近くに渡って苦しめ続けた者の声が背後から聞こえた。
ほんの少しだけ自由になった体を動かし、振り向けばそこにはあの老人の姿があった。彼は帳簿らしきものを手にしながらにたにたと笑っている。
悲鳴をあげるにあげられない状態にある伊代を尻目に、彼は少しずつ近づいてくる。その気になればもっと早く歩けるだろうに、伊代の恐怖を煽って楽しむ為かわざとゆっくりと、のろのろと歩を進める。
(ああ、あれが、あんなものが、人間であるわけがない!)
改めてそのことを、嫌というほど実感させられることとなった伊代だった。
目の前にいる『それ』と僅かながらも言葉を交わした(伊代の方は「はい?」の一言しか言わなかったが)事実が信じられない。よくもまああの時の自分は正気を保ったままでいられたものだとも思った。今は、あれが何であるのかはっきりと悟った今は呼吸一つままならない。
「久しぶりだ、娘よ。随分と色々借りたなあお前さんは。昔の人間はここまで借りなかったが……」
帳簿をめくりながらそう言う老人に伊代は怒りを覚えた。その怒りが、腹立たしさが彼女に活力を与える。気がつけば彼女は怒鳴っていた。
「別に借りたくて、借りた訳じゃない! 貴方が私の『はい?』って言葉を勝手に勘違いして、勝手にこんなことをしたんじゃない! そのお陰で私がどれだけ苦しい思いをしたか」
「そうか、苦しい思いをしたのか。それは結構。人間が恐怖に支配され苦しむ姿を見るのは大好きだからな。理不尽だと怒る姿もまた格別」
そのあんまりな返答に伊代は何も言うことが出来なかった。怒りも衝撃も呆れも何もかも突きぬけて、何もかも真っ白だ。
老人は唖然とする彼女の表情を愉快に思ったのか、けらけらと笑う。そして彼女のすぐ前までやって来ると、自分の持っていた帳簿を差し出した。
伊代は仕方なくそれを受け取り、唾を飲み込み、それをゆっくりと開く。
そこには老人が貸したもの、その金額等がずらりと書かれていた。元の値段の隣に、実際に請求する金額が書かれている。初めて出会った日、彼の言った通り元の値段に若干上乗せされている。といっても伊代が思ったよりも高くなっていない。だが、一つ一つはそうでも全て合わせると元の値段よりもかなり高くなってしまっていた。
本当に沢山の物の名前が書き連ねられている。改めて見てみるとこれだけの数を『借りて』しまったのかとただひたすら驚く。
全て合わせた金額。それはこの日に備えて貯めていたこと、母から渡されたお金をとっておいたこともあり、払えないものにはなっていなかった。だが出来れば払いたくないというレベルであった。
伊代は迷う。大人しく払うべきか、意地でも払わないようにするべきか。
(払えばこの老人は私を解放してくれるだろうか。いや、そうなるとは限らない。むしろこの先もずっと私を苦しめるかもしれない。そもそも私にこれを支払う義務はあるの? 勝手に取り決められたことなのに……理不尽じゃない。でも、払わないと言ったら……あら?)
伊代が何気なく次のページを開くと、まだそこにも一個だけ何か書かれていた。一体何だとそこに書かれているものを読み、伊代はあっと声をあげる。
そこには『命 提供年数60年 請求:420年』とあった。
「何、これ……」
「見ての通りだ。カヨコなる娘に命を貸し与えた。借りたものはその分のお金も、命も全部返してもらう。別にあの娘の命を返す必要も、一人で全部返す必要もない」
「でも、なんで、おかしいじゃない……420年なんて……そもそも命を『貸す』というのもおかしいけれど、でも……そんな……七倍なんて……」
「当たり前だろう。命というのは尊いものであり、とても貴重なものだからな。さあ、話はこれ位にしよう。娘よ、娘。早速借りた分の金と命、返してもらおうか。必ず今日中に、返してもらう。さもなければお前さんから全てを奪うぞ。お前さんの家族も、友も苦しむことになる。それが嫌なら、返せ、返せ、借りたもの全てを」
老人がその顔を伊代にずずっと近づける。生暖かい息が顔にかかる、瞳が伊代の体を締めつける、開けた口の奥にある闇に吸い込まれそうになる……。
逃げることは出来ない。いや、いやと彼を拒絶する声は蚊の鳴く声より小さく。
払わなければいけないのか、そうしなければ逃げられないのか。そもそも逃げることなど果たして可能なのだろうか。払ったとしても逃げることは出来ないのかもしれない。
だが、払わなければ自分だけでなく家族や友人にも老人は危害を加えるようだ。
諦めるしかないのか。頷くしかないのか。
涙をためた瞳をぎゅっと閉じ、全てを受け入れようとしたまさにその時。
「ちょっと待て」
誰かの声が背後からした。老人の注目が伊代から彼女の背後にいる人物へと移る。途端伊代は呪縛から解き放たれ、自由になる。老人の放つ禍々しい気が少しだけ薄らいだ。
一体誰だろう、と声のした方を見た。
そこには一人の少年が立っていた。