第三十七夜:かしかり(1)
『かしかり』
始まりは、今から約一年前――新たな年が始まったばかりの時のことだ。
近くの街で買い物をめいっぱい楽しんだ大学一年生の伊代は、戦利品を両手に持ち、鼻歌を歌いながら桜町にある自宅を目指して歩いていた。上機嫌な彼女の足取りは軽い。
凍てつく風も今は全く苦にならない。懐の寒さもただ今だけは忘却の彼方にあり、目当てのものを無事手に入れられたことへの喜びを噛み締めている彼女だった。
冬休みも後少しで終わる。休みが終わってしまうことは残念だったが、勉強はあまり嫌いではなかったし、大学で出来た友達ともまた会えるからそれ程憂鬱な気持ちにはなっていない。
手を振りながら歩いていた彼女の目に、一台の自動販売機が映る。それを見た途端彼女は喉の渇きを覚えた。後少しで着く家にもジュースがあったが、何となく自販機でジュースを買って飲みたくなり、伊代はバッグの中に手を入れ、財布を取り出そうとする。
しかし財布を丁度手にとったところで彼女はあることを思い出し、がっくりと肩を落とした。今日の買い物で財布に入れていたお金を使い果たしてしまったことを思い出したのである。小銭は幾らか入っているが、ジュースを買える程のものはない。
嗚呼貧乏金無し、がっかり。
(まあいいか。別にどうしても飲みたかったわけじゃないし、家に帰ったら何か飲もうっと)
財布をしまい、自販機の前から離れようとしたまさにその時。
「貸してやろうか」
突然背後から聞こえた、年老いた男の声。ねっとりと背中を撫でるような、どことなく不気味で人を不安にさせる声で、また一瞬体中をとてつもない冷気が襲った。
怖いながらも振り向くと、少し距離をおいた所に一人の老人が立っていた。
側頭部に生えている長い灰色の髪。ゼリービーンズに似た形の瞳、ぷっくり膨れた両頬、立派なあごひげ。身につけているのは藍色の着物。現代でも着物を着ている人はまあそれなりにいる。だが、目の前にいる男の様に色褪せた、ぼろぼろの着物を着て歩く者はそうそういないだろう。
小柄のその老人に、伊代は見覚えが無かった。この町の……少なくとも近所に住んでいる人でないことは確かに思える。
(貸してやろうかって……ジュース代を貸すってこと?)
話の流れから考えるとそういう意味にとれる。だが見ず知らずの老人にそんな提案をされる意味が分からない。この老人なりのジョークなのだろうか。
何かしら返答すればいいのか、それとも無視してこの場を去ればいいのか分からずしばしの間押し黙っていたら、再び老人が喋りだした。
「貸してやろうか。何だって貸してやろう。お前が望むもの全て、お前に貸してやろう」
「はい?」
先程以上に訳の分からない言葉に、伊代は思わず聞き返した。だが、これがいけなかった。
彼女は彼の言っている言葉の意味がいまいち分からず、聞き返す意味で「はい?」と言った。だが訳の分からない言葉に頭が真っ白になっていたせいか、イントネーションが若干おかしくなり、聞きようによっては相手の提案を受け入れる為の返事――すなわち「はい」と言ったように聞こえるものになってしまい。
老人は「はい?」ではなく「はい」と認識してしまったらしい。
それを聞いた時の老人の嬉しそうな顔と言ったらなかった。伊代は老人が自分の言葉を間違って受け取ってしまったことに、相手の様子を見てすぐ察したが時すでに遅く。
ぞっとするような笑みが、伊代を震えさせる。
「そうか、そうか。ならば貸してやろう。お前さんが『欲しい』とか『これをまた買わないと』と思ったものをな。だが忘れるな、わしはあくまで『貸す』のであって『あげる』のではない。年の終わり、貸した分の代金等は必ず返してもらうからな。勿論元の代金にちょいと上乗せしたものを請求する。それじゃあ、また大晦日に会おう」
老人はそれだけ言うとくるり方向転換、伊代が辿ってきた道をすたすたと歩き始めてしまった。
待って、いかないで、違う、私そういう意味で言ったんじゃない!
伊代は手をそちらへ向かって差し伸べながらそう叫ぼうとする。だがこういう時に限って声が出ない。人になることと引き換えに声を失った人魚にでもなったような気持ちだ。口は開いているのに、声が出ない。声を出すことを何かが許してくれない。
そうこうしている内に老人は伊代の前から完全に姿を消してしまった。と同時に彼女は自由になった。
最初、かなり彼女は動揺していた。何かとてつもない『契約』を交わしてしまったような気がしたから。頭が熱くて痛くて、真っ白だ。どうしよう、追いかけなくては……そんなことを考えた。
だがそれもほんの一時的なもので。自販機の前でしばし立ち尽くしている内、彼女は平静を取り戻す。
(あんなの、ただの冗談に決まっているじゃない。私をからかったのよ。もしくは、ちょっと頭がおかしいおじいさんなんだ。私が望むものを何だって貸すなんて、そんなこと出来るわけがない。全く私ったらなんて馬鹿なんだろう。あんなものを真に受けて、一人でパニックを起こすなんて)
確かに少し人間離れした雰囲気を持つ老人ではあったが、それでも彼が人間であることは間違いない。
(相手が妖怪とか、人間では無いものだったらともかく。そんなものこの世にいるはずもない。この町には昔そういうのがうじゃうじゃいて、人間に悪さをしたって話が山程残っているみたいだけれど、あんなものはただの作り話だし)
そう考えれば考える程、心は落ち着いていく。しばらくしたらもう何ともなくなった。
全く変なおじいさんに会ったせいで……と心の中で悪態をつきつつ、彼女は再び家へ向かって歩き出そうとする。
一歩、彼女は前へ進んだ。その時ポケットから「じゃらん」という音がしたのを聞いていなければ、彼女はそのまま歩き続けていたことだろう。
「え?」
コートの右ポケットに何かが入っている。おかしいな、何か入れた覚えはないのだけれどと思い何気なくポケットの中に手を突っ込み、中に入っていたものを取り出し……そして戦慄する。
彼女の手のひらにあったもの。それは百円玉一枚と十円玉二枚。百二十円、丁度ジュースが一本買えるお金だった。お金を丸裸のままポケットに入れることなどまずない。
「な、何で……?」
そう思った時、老人の「貸してやろうか」という言葉が頭の中に響き渡る。
まさかあの老人が自分のポケットにジュース一本分のお金を入れたのだろうか。だが伊代はすぐにその考えを打ち消し、頭を振る。
老人は伊代のポケットにお金を入れられる程近くにはいなかったし、接触もしてきていない。彼がお金を弄っている姿も見た覚えが無い。彼が伊代のポケットにお金を入れられたはずがなかった。
それならば、このお金は何だ。伊代は普段見慣れているその硬貨が急にとてつもなく恐ろしいものに見えてくる。今にも口を開けて襲い掛かってきそうな……そんな考えに支配されかけたが、すんでのところで彼女は正気に戻り、お金を握りしめて頭を振る。そうしたら変な考えもすっ飛んでいった。
「何馬鹿なこと考えているの。ああもう! 違う、これは私がきっと買い物をしている時ポケットに入れたものなのよ。そういえば買い物をしている時、何かジュースを買おうと思って……けれど結局やめて。ジュースを買う分のお金をポケットに入れたまま忘れていたんだ。そうだ、そうに違いない」
そう考えると頭がすっきりしてくる。ジュースを買おうと思ってその分のお金だけポケットに入れ、自販機を目指した。だが途中でやっぱりやめたということになった。その時お金を財布に入れるのを忘れた……そういうことに違いない、本当は今の今までずっと音は鳴っていたけれど、気がつかなかったのだ。
伊代は財布の中にそのお金を入れると、家へと帰っていった。また変なことを考えてしまう前にさっさと帰ろうと、気持ち早足で。
これが一年にも及ぶ物語の、始まり。
*
それから一週間後のこと。学校が始まり、友人達と再会し忙しないながらも楽しい日々を過ごしていた伊代。もう変な老人に話しかけられたことなどすっかり忘れていた。
「ああ……シャープペンの芯が大分少なくなってきたなあ」
授業が終わった後、シャープペンに新しい芯を入れる時そのことに気がついた。ケースの中に入っている芯は後わずか。すぐ買わないといけない、というものでもないが気が向いた時にでも買おうと思った。
その次の日。
「あ、あれ……?」
いつものようにペンケースを開いた伊代はあることに気がつき、目を白黒、ホワイトブラック、白、黒、ホワイト、ブラック、ぱちくり。
ペンケースの中に、新品の芯入りケースが入っていたのだ。あまり汚れていないところを見ると比較的最近買ったものであるらしい。だが昨日ペンケースをのぞいた時には無かったように思えた。
伊代は首を傾げた……が、そのことについて延々と考えることはなく。きっと以前買っていたのだという結論をさっさと出したからだ。前に「ああ芯が少なくなっている、新しいものを買わなくちゃ」と思って買って、それをペンケースの中に入れたことを忘れていたに違いないと。昨日は入っていなかった気がする、というのはただの気のせいだと。
ああもうそろそろこれ買っておこうと思って購入し、後に買ったことを忘れて再び買ったら前に買ったものが見つかった……というのはまあよく起こることで、そう珍しいことではない。買った後に気がつき「ああもう何やってんだ自分は前にも買ったじゃんそういえば!」と地団駄を踏む経験をしたことが一度は人間あるだろう。財布に入れていたお金を使ったことを忘れて買い物をし、財布を開いたらお金がなかった……などということも、まあある。
だから、伊代はこの時点では全く気にしなかったし、老人の言葉を思い出すこともなかった。
そんなことが何度も、何度も立て続けに起きるまで伊代は全く疑問に思わなかった。
ノート、化粧品、イヤホン……「新しい物を買わなくちゃ」と思っていたものが直後、ことごとく伊代の目の前に現われる。最初はああ前に買っていたんだな、と思っていた彼女も流石に何度も同じことが続く内、気味悪く思うようになる。ないはずのものがある。絶対に無いと思っていたものが、いつの間にか伊代の前に姿を現す。
あるはずのものが消えるのも不気味だが、それ以上に無いはずのものがある方が気味悪い。
伊代は紅茶を飲むのが好きだ。彼女の通う大学がある街には、伊代お気に入りの紅茶の葉を売る店がある。そこには色々な種類の紅茶があり、チョコやバニラ等の香りのするものもあったし、紅茶に限らずそば茶や玄米茶等も取り扱っていた。
彼女は家で課題を進めながら紅茶を飲んでいた。今飲んでいるのは期間限定で販売されているもの。彼女はこれが大のお気に入りで、普段買っているものよりあっという間に終わってしまう。
「ああ、もう終わりかあ。……買いだめなんか、していないよね」
袋に入っているパックが後少しでなくなりそうだということに気がついた伊代は、いつも買った紅茶をしまっている棚を物色する。だが案の定そこに未開封のものはなかった。まとめて買ったものの、あんまり飲むペースが早かったからすぐ終ってしまったようだ。
(まだ店にあるかな……期間限定の商品だからもう売っていないかもしれない)
一応明日店に行くことにしたが、何となくもう売っていないような気がして、伊代はため息をついた。こんなことならもうちょっと買っておけば良かったと思った。
その時だ。
「貸してやろう」
伊代の頭に直接語りかけてきた、声。脳を、体内を、心臓を撫で回す――老人の、声。
彼女はその声に思わず悲鳴をあげそうになった。痛みを覚える位激しく揺れ動いた心臓、今度は冷えて固まって動かなくなって、息苦しい。
その声を聞いた時、伊代は一月に入って間もない頃出会った老人のことをようやっと思い出した。今伊代に衝撃を与えた声は紛れもなくあの日出会った老人のものだったからだ。
思い出した途端、いつの間にか伊代の前に現れた新品のノートやイヤホンのことが脳内をぐるぐると巡る。
彼と出会った直後に彼女を襲ったパニックが、再び彼女に刃を向ける。
老人の「貸してやろうか。何だって貸してやろう。お前が望むもの全て、お前に貸してやろう」という言葉が、彼女の中を縦横無尽に飛び交い、熱と痛みで滅茶苦茶になった頭をかき乱し、心臓を締め付ける。
残り僅かのパックが入った袋を握りしめながら伊代は震える。
(まさか、あの買った覚えがないのにいつの間にかあったノートも、イヤホンも全部あのおじいさんが私に貸し与えた物? そんな、そんなこと、あるわけない!)
こんな馬鹿馬鹿しい妄想をするなんて、と伊代は棚を開け袋をそこへ押しやると逃げるように二階にある自室へと向かった。
もし次に階段を下りてあの棚を見た時、そこにパックが沢山入った未開封の袋があったら? そんなことを部屋の中にいる時考えた。考えてから、そんなこと起きるはずがない、ありえない、あるわけないと必死になって否定する。
ひとしきり否定したら、落ち着いた。ちょっと気味の悪いことが何度も続いたからって何変なこと考えているんだろう、馬鹿だなあと先程までの自分のことを笑った。貸してやろうか、という老人の声もきっと幻聴だろうと――課題を進めている内に疲れた脳がありもしない声を作り上げたに違いないと思うようになる。
本当、馬鹿みたいだ私と彼女は笑った。
だから、夕飯の支度の際何気なく見た棚に未開封の――あるはずのない袋が、自分がさっき突っ込んだ殆ど空の袋のすぐ隣にあったのを見つけた時には、手にしていた家族全員分の箸をばらばらと落としてしまった。
「何やってんの、あんた」
「ごめんごめん。ねえ……この紅茶、どこかにしまってあったのを母さんがここに出したの?」
慌てて箸を拾いつつ問うと、頭上から母の「はあ?」という声が聞こえる。
「あんたが買ってそこに置いたんでしょう? 私は何にも弄っていないわよ」
そんな馬鹿な。拾った箸を握る手が震える。さっきまで、あの袋は確かになかったし、棚のどこを探しても新しいものはなかった。
(それじゃあ、あれは? あそこに置いてあるのは……)
「何ぼうっとしてるの、さっさと運びなさい」
「あ、え、うん……」
あそこに置いてあるのは何だというのか。
一度気になりだしたら、止まらない。今日の夕飯は千代の好物が揃っていたが、箸が進まなかった。
(まさか、まさかあのおじいさんが本当に? ううん、そんなことは……)
考えては、その考えを打ち消し、また考えては打ち消す。それを繰り返している内、夕飯は終わっていた。千代にはそれらを食べた記憶がなかった。味も何も覚えていない。
そして更にその数日後。
紅茶の件を未だ引きずる千代は、気分転換の為三つ葉市へと出かけた。服やアクセサリー等を見て回る、それだけで少しだけ張りつめていた気持ちが緩んでくる。
あまり考え過ぎないようにしよう、絶対にありえないことをありえるかもなんて思っちゃいけない、そう心に言い聞かせながらもどうしても気になってしまい、そのことに頭を悩ませた。だがウインドウショッピングを楽しむ内、気分が晴れやかになってくる。視界に映る様々な商品一つ一つが、千代の『ありえない』考えを吸い取って、浄化してくれているような気がした。
足取りが段々と軽やかになっていき、視線も上へ上へと戻ってくる。自分でも何と両極端な人間なのだろうと思ったが、まあ良いかとも思う。
様々な店を巡る内、千代はある一つの洋服店に入った。新作の服が沢山並んでおり、またそのどれもが魅力的に映る。
特別目を引いたのは、いかにも春といった色合いやデザインの可愛らしいワンピース。あんまり自分の好みどストライクなものだったから、彼女の少し沈んでいた気持ちはあっという間に弾んだ。
「ああ、これものすごく欲しい! でもちょっと高い……ううん、今月は買えないかなあ。バイトの給料が入ったら買おうかな」
そう口にした。口にしては……思ってはいけないことを、その時の彼女は忘れていたのだった。
「貸してやろう」
給料が入ったら買おうか……そう言った直後、またあの老人の声が頭の中に響いた。一瞬にして凍りつく、笑顔。
「貸してやろう」
再び聞こえる声。
(まさか、まさかこれまで……)
気がついたら伊代は後ずさりし、走ってその店から出ていた。悲鳴も何もあげることの出来ないまま彼女は走り、体を震わせながらバスに乗り、そして自宅の中へ転がるように入っていく。何事だと目を丸くしている両親を無視し、伊代は二階にある自室へ飛び込んだ。
体を上下させながら、呼吸を整える。その間もずっと老人の「貸してやろう」という言葉が繰り返し頭の中に響き渡った。
(まさか、まさか……あれまで? そんな、ことが、あるわけ)
這うようにして近づいたのは、部屋の左隅にあるクローゼットだ。膝をつき、左右についている木製の丸い取っ手に手をかける。
あるはずがない。あってはいけない……そう思いながら、彼女はクローゼットを、開けた。そこには沢山の服が並んでいる。
そして。
「あ、あ……」
数ある中の一着。それを見つけた時彼女は驚愕した。これ以上無理という位大きく目を見開き、そこにあるものを凝視する。
短い悲鳴をあげ、取っ手から手を離す。派手に尻餅をついたが、今の彼女はその時の痛みすら感じなかった。震えながら、床に座り込んだまま、後ろへ、後ろへ。
大きな口を広げながら伊代を見下ろすクローゼット。
そこに、あの――良いな欲しいなと思ったワンピースが……あった。
最早「ありえない」「絶対違う」と言い切ることは出来なかった。