第三夜:桜の夢と神隠し(1)
一人称と三人称が色々入り混じっている為、読みにくい部分もあると思います。ご了承くださいませ。
桜の夢と神隠し
夢の中で咲き誇る桜には気をつけよ。風で舞う薄桃色の花びらの仄甘い香りが貴方を夢の中に縛りつけてしまうだろうから。
夢の中の桜の木に近付くな。行きはよいよい帰りは怖い。行ったはいいが帰れない。桜の木が貴方を決して離さない。近付いたら最後、帰れなくなってしまうだろう。
夢の中の桜の木の枝に座っている乙女と話をしてはいけない。彼女の微笑が貴方を凍てつかせ、清水のような声が貴方を現の世界から引き剥がしてしまうから。
乙女の「私と共に在ろう」という言葉に貴方はきっと頷いてしまうだろう。貴方は、乙女の誘いを拒むことはできないだろう。
頷いてしまったら、もう終わり。乙女は貴方を連れ去ってしまうだろう。この世ならざる世界へと、貴方は連れて行かれるだろう。そしたら貴方は夢から覚めなくなってしまう。そして、やがては現の世界に残った体さえ、消え去ってしまうだろう。
そして、二度と現の世界へ戻ってこられなくなるだろう。
だから、夢の中で咲き誇る桜には気をつけろ。
-桜町に伝わる物語-
*
俺の記憶が間違っていなければ、季節は夏のはずだ。しかも夏の中の夏、つまりは、真夏だ。
夏休みが始まり、俺たち学生にとっては、勉強等の忌々しいものの数々から解放される(まあ宿題とかはあるけれど)至福の時間を、過ごしている。
海水浴、アイスクリーム、スイカに花火……セミの声、くそ暑い外、エアコン、風鈴、水着。そんな単語が連想される季節を俺は生きている。
そんな夏の夜、俺は夢を見ていた。
夢の中に出てきたもの。それは……一本の大きな桜の木だった。
何故、桜。どうして、桜。季節はずれにも程がある。もう桜の季節なんて、とっくに終っているんですけど。
夢に季節もくそも無いこと位は分かっている。しかし、それでも戸惑いは隠せない。今日のおやつが団子だったからだろうか。団子と言えば花見、花見といえば桜……いや、どういう連想ゲームだよ、それ。 そんな下らない連想ゲームの結果が、この桜の木だというのか。
いや、違う。
ああそうだ、思い出した。今日、さくらから夢の中に出てくる桜の木の話をされたんだ。いきなり暇だとか何とか言ってきて、俺を無理矢理引っ張り出して、気がついたら一緒に喫茶店でお茶を飲んでいて。で、確かその時あいつが話したんだよな。聞いてもないのに、また一人、下らない話をぺちゃくちゃと。
確か、夢に大きくて立派な桜の木が出てきたら気をつけろとかなんとか、そういう話だったような。夢の中じゃ、流石にそんな細かいことまで思い出せない。
全く、あいつは本当、ああいう夢物語を話している時と、本を読んでいる時だけは楽しそうだよなあ。ださい大きな眼鏡の下にある目を、キラキラさせてさ。ったく、夢を見るのは構わないけれど、もう少し現実を見て欲しいものだ。ついでに、俺を巻き込まないで欲しい。いつも俺は、臼井さくらの突拍子もない行動に巻き込まれたり、下らない話に付き合わされたりしていて、うんざりしていた。とはいえ、何だかんだいっても幼馴染で長い付き合いだから、冷たく突き放すこともできないのだが。というか、俺が見ていないと、何をしでかすか分かったもんじゃない。危なっかしい子供の面倒を見る親の気分だよ、全く。
それはまあ、置いといて。
それにしても、立派な桜の木だなあ。俺は、自分の夢が作り出した産物に、感心した。
どうやら、夜らしく、辺りは真っ暗。空には星が瞬いている。空と桜の木以外は何も無い。木は、ライトアップされているかのように、仄かに光っていた。
多分、ものすごく古い木だ。数年数十年どころの話じゃない。きっと何百、いや何千年も生きているに違いない。黒い幹は太くて、がっしりしている。そこから伸びる無数の枝。そして、淡い桃色の桜の花がびっしりついていて、可愛らしい姿を堂々と見せていた。風も吹いていないのに、はらはらと桜の花びらが落ちている。
なんて、凄いのだろう。
桜の木は、毎年春になると見飽きる位目にしている。花より団子の俺は、桜を見ても感動することは無い。
そんな俺が、感動しているのだ。夢の中で咲き誇る、その桜の木を見て。桜の木に吸い込まれるように、俺の足は少しずつ前へ進んでいく。もっと間近で、あの桜の木を見たい。足が、とても軽くて、自然に動く。妙な浮遊感に襲われる。それがたまらなく心地よい。
――もっとおいで。もっと近くへ、そう、もっと、もっと……――
女の声が、桜の木のある方から聞こえてくる。大人の、少し低い声だ。その声を聞くと、少しずつ何も考えられなくなってくる。ただ、進む。その桜の木を目指して。
夢の中なのに、桜の花の、むせるほど甘い匂いが漂ってくる。頭がどんどんぼうっとしていく。気づかないうちに口は小さく開き、目は光を失っていった。
桜の花びらが、頬をかすめる。とてもくすぐったい。続いて、手を、頭を、肩を、足を優しく撫でる。すべすべして、柔らかい花びら……女性の手の様だ(といってもあまり女の手に触れたことなんてないから、あくまで想像での話だけれど)。
ああ、なんて心地よいのだろう。もっと、触れていてほしい。もっと、もっと……。
気づけば俺は、木の真下に立っていた。花びらが体中を撫でる感覚にうっとりしながら、桜の木を見上げてみた。
一本の木の枝の上に、誰かが座っていた。多分、女だ。黒い髪の毛の、とても綺麗な……。
――こんばんは、いらっしゃい。お前、名前は何ていうの?――
それは、さっき俺を呼んでいた声と一緒のものだった。女が喋る度、少しずつ甘い香りが強くなっていった。
「一夜。井上一夜」
言えたのは、それだけだった。頭がぼうっとしていて、それ以上のことを話せなかった。名前を告げた瞬間、一瞬苦しくなった。何か細い紐で、身体をぐるぐる巻きにされた感じがした。女が笑う。途端、もうその苦しみも失せてしまった。
――か・ず・や。いい名前ねえ。どういう漢字を書くのかしら――
数の一つ二つの一と、夜中の夜だ、と答える。また一瞬苦しくなって、女の笑い声が聞こえると、苦しみが消える。
――そう、一夜。一夜、私と共にあろう……――
女が俺に向かって細くしなやかな手を差し出す。その手はとても遠いところにある。けれど、一回頷けばその手に触れられるかもしれない。
俺は、気づけば頷いていた。女が笑う。そして、ふわりと枝から飛び降りて、俺の目の前にとん、と立ち俺の手をぎゅっと握り締めた。桜の花びらの様にすべすべして、柔らかな手だった。
女が笑う。高らかに声を上げて。桜の花びらが一斉に飛び散って、俺と女を包み込んだ。
俺の意識は、その瞬間、完全に消えてしまった。いや、桜の木を見た時点でもう、無かったのかもしれないけれど。それを確かめる術は、無い。
*
昼食の時間もとっくに過ぎ、もう十五時だというのに未だ井上一夜は起きてこなかった。夏休み中、遅くまでぐうすか寝ていることは別に珍しいことではない。けれど、昼食の時間を過ぎても起きてこないなんてことは、まず無かった。
一夜の母、井上紅葉は不審に思って、一夜の部屋へ行った。鍵はかかっていない(まあ、かけていないことが殆どだが)。紅葉が戸を開ける。一夜は、ベッドでまだ眠っていた。いつまで寝ているんだか全く、いい加減起こそうかしら。
紅葉は呆れながら、一夜の身体を揺さぶった。さっさと起こして、店の方に戻らなくては。しかし、どれだけ揺さぶっても、一夜は全く起きない。軽く頭を叩いても、大声で呼んでも、目を覚まさない。
まさか、死んでいるってことはないわよねえ?それは無さそうだった。呼吸をする音が聞こえるし、胸も上下している。けれど、一向に目を覚ます様子は無い。
よく見れば、やや顔がいつもより白い様に思える。唇も、心なしか青く見える。
「どうしたんだ、母さん。さっきから大声上げて。兄貴がどうかしたのか?」
開けたドアの前に、一夜の妹である井上紗久羅が立っていた。
「それが、一夜が全然起きないのよ。強く揺さぶっても、大声で叫んでも、びくともしないの」
「はあ? 何それ」
紗久羅もまた部屋の中に入り、試しに兄を叩いてみる。耳元に口を近づけ、バカ兄貴起きろ、と叫んでみる。しかし、矢張り起きる様子は無い。
その後、二人がかりで色々試してみるが、少しも状況は変わらなかった。
「不味いわね」
「不味いな、これは。……ねえ、これってさ、もしかして」
「もしかして?」
「あれだよ、あれ。ほら、最近この町で起きている……」
答えを告げる前に、紅葉はあっと声をあげた。心当たりが一つあるからだ。
「桜町連続神隠し事件!」
紗久羅が、そうだよそれ!と答える。
まさか、でもありえるわ。症状がニュースで言われていたのと似ているし、でもとりあえずお医者様を呼ばなくちゃね。そう言って、紅葉はよくお世話になっている医者を呼ぶべく、電話をかけた。紗久羅はベッドの下、あぐらをかいて座り、とりあえず一夜の様子を伺っている。
桜町連続神隠し事件。それは、二週間ほど前からこの町で起きている、奇妙な事件の名前だ。
最初の被害者(?)は、美大生の女性。夏休みが始まるほんの少し前のことだった。一緒の部屋で寝起きしている妹が、姉がまだ寝ていると母親に告げる。母親は首をかしげた。明日は朝早いからね、と言っていたはずなのに。まさか寝坊?母親は、娘を起こしにいった。しかし、娘は眠ったまま、目覚める気配が無い。どれだけ揺り起こしてもびくともしないのだ。これはおかしいと思い、救急車を呼んだ。救急車はすぐにきて、娘を運び病院へと向かおうとした。
ところが、だ。病院へ向かう途中で、娘が一瞬にして密室の救急車から姿を消してしまった。まさしく、煙のように。
娘が寝かされていたはずの場所には、無数の桜の花びらが落ちていた……。
その様な事例が、連続で起きている。眠ったまま起きてこなくなり、やがてその姿を消してしまう。そして、その人が眠っていた場所には必ず桜の花びらが落ちているのだ。たった二週間で、四件もそんなことがあった。
これは、神隠しかもしれない。そう人々は言いだし、やがてこの事件の名は「桜町連続神隠し事件」となった。
間もなく、医師がやって来た。かず坊が大変なことになっているらしいね、とのん気なことを言いながら医師は家へあがる。そして、すぐさま診察に移ろうと一夜に近づく。
しかし、医師が一夜に触れようとした、まさにその時。
鍵が閉まっているはずの窓が突然開き、そこから強い風が吹いてきた。あまりに強いものであったから、その場に居た者は思わず目を閉じてしまった。
目を閉じている間、紗久羅は春の頃にこの町でする、あのむせて眩暈を起こす程甘い匂いを嗅いだ。
風はすぐおさまり、紗久羅はゆっくりを目を開ける。そして、目の前に広がる光景を見て、あっと声をあげた。紅葉と医師も目を開け、同じように驚嘆の声をあげる。
さっきまでベッドで眠っていたはずの一夜の姿が、無い。
そして、彼がいたその場所には、薄桃色の花びらが……。
*
「一夜が神隠しにあったのは、私のせいだわ」
そう言ったら、はあ?という驚いたような、拍子抜けしたような、そんな声が返ってきた。
ここは私の家の和室。茶色いちゃぶ台の上には、きんきんに冷やしたオレンジジュースが二つ。向かい側に座っている紗久羅ちゃんが、眉をひそめながらジュースを口にする。何を言っているんだ、そう目が語っていた。
「だから、私のせいなの、そうとしか考えられないわ」
私も、ジュースを飲む。けれど、少しも蜜柑の味がしない。冷たさも、何も、感じない。一夜が『桜町連続神隠し事件』の五人目の被害者になった事を紗久羅ちゃんから告げられた時、私の心臓は止まりそうになった。がーんと、何か鉄の塊で頭を殴られたように、ぐわんぐわんと頭の中が揺れた。
「何で、さくら姉のせいなんだよ。何、さくら姉が隠しちゃったの」
「私に、そんな力は無いわ。あったらいいなとは思うけれど、残念だけど、私は普通の人間ですもの」
首を傾げる。紗久羅ちゃんが、何故か頭を抱えた。冗談なのに……本気で答えるなよ、と小声で呟いているのが少ししてから聞こえた。
冗談だったの。全く、気づかなかったわ。
「とにかく。なあ、さくら姉。何で、自分のせいだって思っているの」
本題に戻る。
「私が、桜の木の話をしてしまったからよ」
「桜の木?」
「そう、桜の木。あの連続神隠し事件の話を聞いて、何となく思い出した話があったから、一夜に話したの。桜町に伝わる言い伝えの一つよ、桜村奇譚にも載っているわ」
紗久羅ちゃんはただ目をぱちくりさせるだけだった。
桜村奇譚。それは、数十年前に桜町出身の男性が書いた本の名前。この桜町やその周辺の街には、実に様々な言い伝えが存在している。主に、桜町がまだ桜村と呼ばれていた時のものだ。その数は千個近くになるとも言われていて、両親からその子供へ、子供からその子供へ伝えられてきていた。
全国にあるようなありふれたもの、あまり聞かないようなもの、外国の昔話に似たようなものなど、種類は様々だ。
そんな数多くの言い伝えを、その男の人は丁寧に集めた。お爺ちゃんやお婆ちゃんから聞いたり、残っている書物を読んだりして。長い時間をかけて、集め終わった男性はそれを一つの書物にした。その本は、桜町や隣にある三つ葉市や舞花市等で売られている。残念、本当に残念なことなのだけれど……あまり売れてはいないらしい。皆、自分の故郷をないがしろにしすぎだわ。もう少しこういうことに関心を持ってもいいのに。面白いのよ、とっても。私の一番好きな本。
その桜村奇譚に載っている物語には、桜に関するものも多い。その中に、今回の神隠しを連想させるような不思議な言い伝えがある。
私は、暇だったから、昨日一夜を連れて、おじいちゃんのやっている喫茶店に行って、そのことを話した。一夜は暑いからなのか、寝ていたのを起こされたせいなのか、機嫌が少し悪そうだったけれど、いつものことだから、少しも気にせず、紅茶とチョコレートパフェを食べながら、お話しする。
――ねえ、今回の事件ってきっと桜村奇譚に書かれているお話の一つが関わっていると思うの。桜の花に、神隠し。その二つの単語を連想させるようなお話なのよ。あのね、夢の中で咲き誇る、立派な桜の木には気をつけなさいって話。
桜の花びらの匂いが、その人を夢に縛りつける。木に決して近づいてはいけない。近づいてしまったが最後、戻れなくなるのよ。少しずつその人の意識は桜の木に奪われていく。
そして、最後に桜の木の枝に座っている女の人と出会う。でも彼女とお話してはいけないの。そうした途端、現実の世界から意識は完全に引き剥がされる。そして、女の人の私と共に在ろう、という言葉に頷いてしまう。
女の人は、その人の魂を、異界へと連れ去ってしまう。そして眠りから覚めなくなって……やがて現実の世界に置いてきぼりになった肉体も連れ去られ、消えてしまう……ってお話――
自分で話していて、興奮してきた私はテーブルから身を乗り出した。パンケーキを頬張っていた一夜が、ふうん、と返事した。話に聞き入っていたのか、生返事って感じだったけれど。
――きっと、これよ、これに違いないわ。皆、夢の中でその乙女と出会って、この世ならざる世界へと連れ去られてしまったのよ! 何て羨ましい……ってそんなこといったら、被害者のご家族の方々に失礼ね。でも、ああ、そんな素晴らしい夢を見ることが出来たら、私だったら舞い上がるわ。そして、乙女の言葉にも速攻で「はい」と返事するの!――
――好きにしろ。爺さんや両親を悲しませてもいいっていうんだったらな――
確かに。そうよね、それが問題よね。皆を悲しませるのだけは、駄目よね。それじゃあ、やっぱり「うん」と言うわけにも、夢を見る訳にもいかないわ。ああ、何だかやるせないわ。
――ちなみに、一夜は私がいなくなったら、悲しむ?――
そう聞いたら、何故か一夜は飲んでいたコーヒーを思いっきり噴出した。
――知らねえよ、何でそういう話題に! 別にどうもしねえよ、多分な!――
何故顔を赤くしているのかしら。さっぱり分からないわ。私は、首をかしげた。
結局その後一夜はお代を払うと、さっさと帰ってしまった。
その様子を見ていたおじいちゃんが、夏だというのにお熱いね、と言った。やっぱり意味が分からず、私は目をぱちくりさせた。
そんなことが、昨日あったのだ。
印象に強く残っているものを夢で見る、ということはよくある話。きっと、その時一夜の頭の中に「大きな桜の木」の映像がインプットされて、それが強烈に残って、大きな桜の木の夢を見てしまったのだ。そして、その桜の木の夢が乙女を引き寄せた……。挙句、神隠しにあってしまった。
つまり、私が桜の木の話を語ってしまったことが、原因なのだ。
そのことを、私は紗久羅ちゃんに話した。桜の木の話は、あまり詳しく言わないようにした。だって、変に話して紗久羅ちゃんまで神隠しにあったら大変ですもの。
紗久羅ちゃんが、頭を抱えた。きんきんに冷やしたオレンジジュースのせい?それとも具合が悪いのかしら。
「大丈夫、紗久羅ちゃん。どうしたの、具合が悪いの」
「いや、大丈夫……ああ、うん……」
「怒っているの? 私のせいで、お兄さんがいなくなってしまったから。怒っているのなら、謝るわ。謝って許されることではないと思うけれど」
「いや、そういうことじゃなくて」
ますます元気が無くなってきている気がした。はあ、と大きなため息を一つ。
「別にさくら姉のせいじゃないと思うぜ。まあ、今更誰のせいとかなんとかいっても仕方ないけれどさ。……念の為、警察の人が周辺を探してくれるってさ。まあ、見つかりっこないとは思うけれど。ったく、とんでもない事件に巻き込まれちまったよ」
そう言って、紗久羅ちゃんが立ち上がった。どうやら、もう帰るらしい。
「そう。気をつけて帰ってね。一夜、見つかるといいわね」
「まあな。あんな兄貴でも、一応帰ってきて欲しいとは思うよ」
紗久羅ちゃんはそう一言行って、帰っていってしまった。
兄貴が消えたのは、あたしのせいだ、多分。
そう紗久羅ちゃんが帰る途中呟いたことを、私は知らない。
*
紗久羅ちゃんが帰った後は、彼女の飲みかけのジュースを片付け、自分の部屋へと戻った。机に、宿題のテキストを出してそれを進めようとする。けれど、少しも進まなかった。
エアコンのかかっていない部屋の中は、とても蒸し暑くて、頭がずきずきする。太陽の光が、身体に突き刺さって、胃が焼かれて酷く痛む。鉛筆は歪な模様を描くだけで、答えを書く様子が無い。
どうしよう。頭の中は、一夜のことでいっぱいだった。
幼馴染が、姿を消した。しかも自分のせいで。紗久羅ちゃんは私のせいではないと思うと言ってくれたけれど、それでも頭の中のもやもやしたものは消えてくれない。
行方不明になった人達は、確実に人ではない何かに(恐らく桜の夢の女性でしょうね)連れ去られてしまった。普通の人間がやったとは考えられないことが沢山起きただもの、夢物語を信じない人だって、きっと「あれは人間の仕業ではない」と言うでしょう。
このまま待っていても、きっと彼も、彼の前に消えてしまった人々も帰っては来ない。祈るだけで、全て解決できる世界なら、誰もが幸せに過ごせる。けれど、現実はそうもいかない。
一夜が戻ってこなかったら、どうしよう。私があんなことお話しなければ、彼が消えることは決して無かったでしょうに。桜の夢を彼に見せたのは、他でもない、私だ。
商店街にある一夜の家を通りかかる度に、夏休みが終った学校の教室の空席を見る度に、彼がいなくなったことを嘆く人達の声を聞く度、きっと私の胸は強く締めつけられるだろう。呼吸も、本を読むことも、空想の世界に思いを馳せることも出来なくなる。
私を責める人は、誰もいない。私だけが、責める。毎日、毎日。
こういう時、物語では必ずといっていいほど、救いの主が現れる。その人はすごい力を持っていて、普通の人には解決できないようなことも、解決してくれる。
けれど、私のいる世界は、悲しいことに現実なのだ。
どれだけ嘆き、叫び、救いを求めても、何も起きないことが多い。時間は、ただ無常に去っていく。
私が、人間じゃなかったら。すごい力を持った人だったら、一夜も、他の人達も助けてあげられたのに。
結局、宿題は少しも進まなかった。夕飯も私の大好きな炊き込みご飯だったけれど、少しも喉を通らない。お母さんが心配したのか、優しい声をかけてくれた。それが嬉しくて、情けなくて、それ以上心配させたくなかったけれど、それでも少しも箸は進まなかった。
眠ることも出来なかった。身を削るような暑さと、止まらない思考が、私の意識を夢の世界へ連れて行くのを妨げる。
どうか、一夜が消えたという話が、夢でありますように。そんなこと、あるはずもないのに、私はただそれを祈った。
*
少しも眠れず、開けた瞳は重いまま。朝の光は眩しくて、涙が出そうだった。
その後は、読書をしたりTVを見ようとしたけれど、結局どれにも集中できなかった。ただお部屋の中でぼうっとしているだけ。それでも、少しも気持ちは落ち着かなかった。
少しも落ち着かなかったから、私は逃げるように家を飛び出した。家から出ても何も変わらないこと位、分かっていたのだけれど。
家の中でずっとぼうっとしていた為か、いつの間にかもう15時になっていた。
夕方に近づいていても、少しも涼しくならない。蝉が、短い生を少しでも楽しもうと、賑やかにお喋りしている。太陽は、刃のように鋭い光を地上へと降り注ぐ。激しく動いている訳でもないのに、汗が止まらない。特に、だぶだぶのズボンを履いている下半身は、すでにじめじめと湿り始めている。
あてもなく、歩く。けれど、気づけば私は弁当屋『やました』つまり、一夜の家のある方へと向かっていた。足が少しずつ重くなっていったけれど、それでも私は進んでいく。そこへ行っても、何一つ良いことなんてないだろうと思ってはいた。
けれど、その考えは、間違っていた。
時代の匂いを感じさせてくれる、ゆったりと時間の流れる場所。それが、桜商店街。皆、古臭いし何も楽しいところのない寂れたところだと言っているけれど、私は、好き。暖かくて、とても優しい場所だからだ。逆に私は、高いビルや人の沢山いる場所の方が苦手だ。息苦しいし、時間がやたらせわしなく流れているような気がするから。
沢山のお店に囲まれている、小さなお弁当屋さん。それが『やました』だ。一夜と紗久羅ちゃんのお婆様である菊野さんと、お母様である紅葉さんの作るお弁当は、どれも美味しい。余計な添加物等は少しも使っていないし、素朴で柔らかな味で、身体にとても優しい。たまに私はここで、お弁当を買ってお昼等に食べる。
朝や昼は菊野お婆様と、紅葉お母様、もしくは他の従業員の誰かが店番をしている。けれど、休みの日や夕方は、紗久羅ちゃんが店番をしていることが多い。
今日もきっと、紗久羅ちゃんが店番をしているのだろう。いえ、そもそも通常通り、お店はやっているのかしら。
「大変だね、お転婆紗久羅姫。愛しいお兄様が行方不明になったんだって? 皆大騒ぎしているよ」
驚くほど、冷たくて澄んだ声が、聞こえた。それは、大分先の『やました』の前に立っている人の口から発せられたみたいだった。
他の人の話し声も、お客さんを呼ぶお店の人達の声も、聞こえない。ただ、その人だけの声が、耳に入った。別段、大きな声でもないでしょうに、不思議と、はっきり。
私は、足を止めた。
『やました』の前にいる人の姿は、遠くからでもはっきりと見えた。その人の輪郭だけがはっきりしていて、後の人のそれはぼやけて見えない。
あのお店によくやって来ている、男の人。
背筋が凍るほど麗しい、魅惑の人。
紗久羅ちゃんが「出雲」さんと呼んでいる人だ。
あまり外に出ない私よりももっと白い肌、磨かれた黒曜石の如き黒髪が、腰の方まで真っ直ぐ流れ落ちている。目は鋭く、氷の様に静かで冷たい。身に纏っているのは、藤色の着物。
人間とは到底思えない雰囲気を漂わせている男の人だ。異形の世界の人とは、きっと彼のような人の事を言うのだろうと、会う度に思っている。
そう、まるで。桜村奇譚の中でも幾度と無く登場する、美しく残酷で、風よりも自由で気まぐれな、化け狐『出雲』のよう。
いつも、思う。あの方は『出雲のよう』ではなく『出雲その人』ではないかと。言い伝えの中で、彼の人は巫女の魂に身体を焼かれて、死んだと言われている。
けれど、もし生きていたら。遥か前に立っているあの方は。もしかして。
そんなことを口にしたら、失礼だと感じていたから、私は今まで紗久羅ちゃんにも、一夜にも話していない。ただ、不思議で、素敵な方だとしか言っていない。あの方と直接話したことも、無い。話したとしても面と向かって「化け狐の出雲さんみたいです」と言う気は無い。そう言った時の反応が気にならない、といえば嘘になるのだけれど。
あの方と、お話することは、難しい。声を掛けようと近づいても、いつの間にか姿を消してしまう。瞬き一回する間に、あの方は私の視界から消え失せるのだ。また、不思議なことに、一部の人以外は、あの方を見た覚えが全く無いという。先ほどまで、出雲さんと話していた人も、すぐに彼のことを忘れてしまう、と紗久羅ちゃんが言っていた。
霞のような人だ、紗久羅ちゃんはこの前のお祭の時そんなことを言っていた。
あんなに存在感がある人が、誰の記憶にも残らないなんておかしい。それこそ、あの方が普通の人間ではない証拠ではないだろうか、と常々思う。
出雲さん。彼は、私の求める「物語の世界の人」「異形の人」であるのだと思う。皆、妖怪や幽霊なんて居ないというけれど、私は信じる。桜村奇譚は、妄想や作り話が集められた夢物語ではない。きっと、あの本に記されているものは、真実であると思っている。細かい事実は少しずつ違ってくるのかもしれないけれど。
そんな事を考えるうち、私の頭の中にある一つのアイディアが浮かんできた。
あの人なら、もしかしたら一夜達を助けることが出来るかもしれない。
それは、あまりに情けなくて馬鹿げた考えだと、思う。救世主を求めるあまり、何の関係も無い人を、そういう存在に勝手に仕立て上げようとしている。普通の人ではない、と思う。けれども、それと助けてくれるかもしれない、というのは別の話であるはず。
夢を見すぎだと、笑われることはよくある。何故笑われるのか、理解できないのだけれど。けれど、今回に限っては、笑われても少しもおかしくないと思う。
助けて、一夜を助けて。
一度も話したこともないような人に、そんなことを言うなんて。貴方は人間ではないでしょう、だからお願いです、と頼むなんて。そうして、何も関係ない人を辱めるなんて、そんなの愚かな行為以外のなにものでもない。
普通の人ではない、というのが私のただの空想に過ぎず、彼が真実普通の人間だったとしたら。私の言葉は、失礼以外の何物でもない。
幾らなんでも、そんなの。言えない、言っちゃ駄目。
けれど、私の脆弱な心は、一刻も早く彼に対して何か言わねばならない、と悲鳴にも近い声をあげていた。
心臓が、早鐘を打つ。足が、寒くも無いのにがたがたと震えている。彼は私に気づいていない。私が一人勝手に、何かと戦っているだけ。
気づけば、出雲さんは『やました』を離れ、私がいる方とは正反対の方へと歩いていた。家へ帰るのだろうか。
私の足が、再び動き出していた。ゆっくりと、静かに、私は出雲さんの後を追っていた。
*
商店街を抜け、住宅街を抜け、少しずつ家の数が少なくなっている。出雲さんは、どんどん町の中心から離れていって、殆ど家の無い、桜町の北側にある桜山の方向を目指し、一人歩いていた。
私は、それをまるでストーカーのように、つけていた。彼は、私が後を追っていることに気づかず、ゆっくりと静かに歩いていた。上質な絹糸のような髪の毛が、時々風に揺られている。着物の袖から見える手は、細くて、少し力を加えたら、折れてしまいそうだった。着物に、何か香りでもつけているのか、彼が動くたび、甘い匂いがした。
ああ、もう私ったら、本当に何をしているのかしら。引き返すなら、今のうち。これ以上進んだら、もう後戻りできない。けれど、出雲さんのことは気になる。引き返したせいで、後悔するかもしれない。引き返さなかったが為に後悔する可能性の方が高いのでしょうけれど。
彼から伸びる影は、私のそれと何にも変わらない。影に狐の耳や尻尾がついている、ということはない。ああ、そうだったら素敵だったのに。いいえ、今はそんなことを考えている場合ではないわ。
ざわざわと、ぽつぽつ並ぶ家の庭に植えられているらしい木々が、ざわついていた。それは、これから起きる何かを予言……或いは、これからとんでもない事が起きるよ、ということを警告しているようだった。
それでも、私は足を止めなかった。木々のざわめきが大きくなっても、日光が私を責めるように突き刺してきても、決して。
どれ位、経っただろう。
出雲さんが、ぴたりと足を止めた。私はびっくりして、すぐに足を止め、無駄だと分かっていながら、近くにあった電信柱の影に隠れた。
彼は、しばらく立ち止まっていたけれど、また歩き出した。私はほっと息をついて、また歩き出す。
刹那。
彼が、恐ろしいほど早く、さっと後ろを振り返った。えっ、と思った時にはもう何もかもが遅すぎた。
出雲さんの瞳と、私の瞳がかち合った。途端、私は蜘蛛の巣に囚われたかのように、動けなくなってしまった。
不思議な位、静かな顔をしていた。私が後をつけていたことなんて百も承知です、と言うことだろう。哀れむように、蔑むように、私をじっと見つめていた。
心臓が、止まりそう。私は、呼吸をちゃんとしているかしら。それすら、分からない。
しばらくして、彼は微笑んだ。上手いこと意地悪できたことを喜ぶ子供のような笑みだった。真っ赤な唇が、妖しく光る。
「どうしたんだい、お嬢さん。私なんてつけたりして。あまりに私が美しいから、見蕩れて思わずついてきてしまったのかい?」
男性にしては高く、女性にしては低い声。それは、私の身体の中を一瞬にして冷やした。手の震えが、汗が止まらない。このまま、逃げてしまおうか。
ううん、それじゃ、駄目。
馬鹿にされてもいい、笑われても、怒られてもいい。
今の私は藁にもすがりたい。この行動が、つかむのは、救いの無い只の藁か、それとも希望の光か。
つばを一回飲み込んで、深呼吸する。出雲さんは、そんな私を見つめながらなお微笑んでいた。
あらかじめ、答えが分かっているかのような顔だった。
もう一度、息を吸って、吐いた。そして。
「お願いします……一夜を……神隠しにあった人達を、助けてください」
思えば、この言葉が全ての始まりだったのだ。