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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
行く年 来る年
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行く年 来る年(4)

 一方こちらは人の世、舞花市。時折冷たい風がひゅおお、と吹く中をさくらが歩いている。大掃除を昨日の内に終えた彼女は、整理した本棚から出てきたあまり自分の肌に合わなかった本、恐らく読み返すことはないだろう本を今日舞花市にある古本屋に売った。幾らあまり好きにならなかった本でも彼女にとっては大切な宝物。出来ることなら売りたくはなく、泣く泣く手放した。そうやって少しでも数を減らさねば、部屋にある本棚がパンクしてしまうからである。


「けれど結局……」

 古本屋から出たさくらの手にあるバッグ。入れていた本を売ったことでそのバッグの中身は空になり、財布はほんのちょびっとだけ膨らむはずだった。

 ところが今バッグは店に入った時よりもむしろやや膨らんでおり、財布は明らかに痩せ細ってしまっている。何故か。何のことはない、古本屋で本を売るついでに色々見ていたら「これ欲しい」「これも読みたい」という風になり、結果古本を大量に購入してしまったのである。さくらの場合古本屋に入ったら売るだけでは済まない。必ず売り場を見て回り、そして売った以上の数の本を購入してしまうのだった。

 

「これならいっそ売りに来ない方が……ああ、でも今日ここを訪れていなければ出会えなかった本もあるわけだし、結果オーライよね!」

 えらく前向きなさくらはバッグの中身を見てにやにやする。彼女にこれだけ気持ちの悪い笑顔を浮かべさせることが出来るのは『本』だけである。


 一応用事を済ませたさくらだったが、そのまま家に帰るのはつまらなかったので、そのまま市内をふらつくことにした。本はやや重かったが、散歩することを妨げる程ではない。帰りはバスに乗れば良いから全く問題はなかった。

 時代を感じさせる建物が多く、三つ葉市とは違って静かでどことなく優雅な空気が漂っているこの街が、さくらは桜町同様好きである。古い建物に囲まれた石畳を歩く時間を、彼女は愛おしく思う。


(それにしても不思議ね……舞花市と桜町、三つ葉市ってそれぞれ見事に街の雰囲気が違う。舞花市は中心の方は三つ葉市と同じような感じだけれど、それでもあの街程騒がしくてごちゃごちゃしてはいないし)

 町と街の境を越えただけで、がらりと世界の様相が変わる。それは『こちら側の世界』と『向こう側の世界』にも言えることかもしれなかった。境界を越えた先に広がるのは別世界。住んでいる人も、文化も、考えも何もかもが変わる。似ている部分は多いけれど、根本的な部分が全く違う。


(そういえば『向こう側の世界』の人達も年の終わりと始まりをお祝いするのよね。弥助さんが言っていたっけ。美味しいものを食べたり、遊んだりするって……出雲さんも行くのよね、確か。出来ることなら行きたかったけれど、出雲さんには『大晦日まで君のお守りなんてしたくない』って言われるし、弥助さんは喫茶店での仕事が終わった後に行くみたいで……流石に今日の夜は家で過ごしたいし)

 また、弥助にも「あの喧騒の中でお前の面倒をちゃんと見られる自信はない」と言われてしまった。恐らく、少なくとも今回は彼等が年末年始をどう過ごすのか自身の目で見る機会はないだろうと思うと、残念だった。


 妖達が集まって大騒ぎしている姿を思い描きながら街中を歩く。たまたま通りかかった蕎麦屋はてんてこ舞いといった様子。閉じられた戸から店の人達の声が漏れ、格子つきの窓の向こう側には蕎麦を美味しそうにすすっている人達と、調理や接客におわれている人達の姿をうかがい知ることが出来た。更にそこからやや離れているこの辺りでは有名な蕎麦店に行くと、先程の店が随分おとなしく見える位の忙しなさ。店の前にはずらりと人が並び、寒さに震えながら順番を待っていた。


「流石大晦日。蕎麦屋さんは大忙しね……」

 蕎麦を見ると弥助の顔が思い浮かぶ。彼は蕎麦と寿司が大好物。今日も歳寿京なる京で年越し蕎麦とご馳走をたんまり食べるのだとはりきっていた。

 その後は文房具屋や本屋、雑貨屋等を見て回る。年賀状や来年の干支の置物等もまだ沢山あり、それをちょっと眺めるだけでも楽しい。ふと目にとまった置物が大変可愛らしかったので、つい一つ購入してしまった。

 大忙しの蕎麦屋、年賀状、来年の干支の置物、正月飾り、年始の営業予定の書かれた紙――そういう物を見ていると、ああ年が明けるんだなあという実感がわいてくる。

 さくらは買った手のひらサイズの置物を見ながら微笑んだ。


「後で机の上にでも飾っておきましょう。……もう明日か。文芸部の皆から来る年賀状とかが楽しみだわ。深沢さんの年賀状ってやっぱり個性的な絵が描かれているのかしら」

 文芸部の部員は皆仲が良い。去年もさくらやほのりは佳花を初めとした先輩達(といってもほんの数名だが)と年賀状を送りあった。今年入部してきた環と陽菜も必ず送ると言っていた。すでにさくらは全員(文芸部員、祖父、紗久羅と一夜などなど)に年賀状を送っており、後は皆から来るものを待つのみ。

 しかしまだ一枚、手元に残っているものがある。それは出雲に宛てたもの。


(後は出雲さんの分だけ。今度満月館へ遊びに行った時にでも渡しましょう)

 とりあえず貰ってはくれるだろうとさくらは思う。その後破り捨てたり、焼いたりしそうな気がしないでもなかったが。

 そんな風に色々なことを考えているさくらは兎に角前を見ない。結果、どんという音と共に誰かとぶつかってしまった。ああまたやってしまった、謝らなくてはと顔を上げるとそこには飽きる程見た姿が。


「ああ……なんだ、一夜か」


「何だとは何だ。ぶつかっておいて酷い言い草だな、おい」

 さくらを睨む一夜が白い息を吐きながらさくらの態度に対して文句を言う。

 そんな彼は気のせいか、ぐったりとしている様子。彼女に対して言った言葉にも何だか覇気がない。


(今日は部活休みって言っていたわよね、確か。大掃除でもしてくたくたになったのかしら。けれど一夜が学校もないのに舞花市に来ているなんて)

 一夜の場合暇なら舞花市ではなく、三つ葉市の方に行くことが多い。静かでゆったりとした空気は、馬鹿みたいに元気な彼には合わないのだ。


「珍しいわね、一夜が舞花市をふらついているなんて。お使い? それとも友達の家にでも行こうとしているの?」

 そのどちらでもなかったらしく、一夜は「いいや」と首を振る。それじゃあ暇つぶしに散歩でもしているのかと聞けばそれも違うと言う。

 一夜は何故だか妙に気まずそうに視線を逸らし、口を手で覆う。それから小さな声でもごもごと。


「この街に来る予定なんてこれっぽっちもなかった。けれど、ここまで来てしまった……俺、家に帰れないんだ。婆ちゃんと喧嘩したからとか、そういうものじゃない。帰れないんだよ……家に。今絶賛迷子中なんだ」


「はあ!?」

 滅多に出ないような声がさくらの口から飛び出す。驚きの表情を浮かべた顔を一夜に向けながら。彼の顔を見れば冗談でそんなことを言っているわけではないことは明白で。

 今二人がいる場所は学校からは大分離れた所にある。一夜は通学時以外あまり舞花市に足を運ばない。だからここから桜町まで、自分の家までの道が分からないというのも有りえるかもしれない……と思おうとしたが、やっぱり妙だった。一夜は方向音痴ではないし、ここから桜町までの道のりは難しいものではない。道を尋ねるなり何なりすれば比較的簡単に帰れるはずだ。お金があるのならバスを使っても良い。

 

(けれど道を尋ねた様子はない。そもそも用事もなく、散歩をしているわけでもないのにここまで来るなんて変だわ)

 一夜は戸惑っているさくらに対し、ますます訳の分からないことを言いだした。


「ここから家までの道のりはちゃんと把握しているんだ。けれど、その正しい道を今の俺は辿れない。俺どうも迷わされているようなんだ」


「迷わされている?」

 ただもう訳が分からず、さくらは聞き返すことしか出来なかった。一夜は続きを話そうとしたが、今自分達がいるのが建物に挟まれた道のど真ん中であることに気がつくと話すのをやめた。


「……こんなど真ん中にいつまでも突っ立っているわけにはいかないな。場所を変えよう」

 一夜はさくらに顔を近づけ、小声で囁く。


「多分妖怪か何かが関係している」


「妖が?」

 それもまた予想外の言葉であった。結局二人はその場を離れ、一本隣の小さな通りにあるこれまた小さな喫茶店へと入る。客は殆どおらず、案内されたテーブルの周りには誰もいなかったから気兼ねなく話をすることが出来そうだった。とりあえず何も頼まないのは悪いと一夜はメロンソーダ、さくらはカフェオレを注文する。カフェオレは妙に甘ったるいだけでこくも旨みもなく、秋太郎の作るものとは天と地程の差があった。


「今から何時間も前、俺は桜町をふらふらしていたんだ。家にいると掃除しろって婆ちゃんがうるさいからさ。といっても桜町には何もないから、すぐに飽きた。それじゃあこれからバスに乗って三つ葉市にでも行こうかと思っていた矢先に、一人の女の子が俺に話しかけてきたんだ。小学三、四年生位かな。姿とかははっきりと思い出せない……不思議なことに」

 少女は一夜に道を尋ねたという。一夜は頭をわしゃわしゃとかいた。


「どこまでの道を尋ねられたのか、思い出せない。おかしいな、本当に全然思い出せない。けれど俺が知っていてかつ簡単に教えられるような所までの道だったことは確かだ」

 一夜が道を教えてやると少女は礼を言い、彼の目の前からいなくなったようだ。少女と別れた一夜は三つ葉市まで行けるバスの来るバス停を目指して再び歩き始めた……のだが。


「ものの数分もしない内に、またその子が俺の前に現れて道を聞いてきたんだ。俺はまた教えた。そしたらまた二十分位後……バス停でバスを待っている時にその子が現れて道を尋ねてきた。その子と話している間にバスは行った。しょうがないから俺はその子をそこまで一緒にいってやることにしたんだ。そうすれば確実だと思ったから。確実に連れて行こうと手を繋いで歩いた……にも関わらず、上手く行かなかった。その子はいつの間にか俺の手から離れて消えてしまったんだ」

 ため息一つ、メロンソーダを一口。それから少女は数分後また一夜の前に現れ、道を聞いてきたこと、また手を繋いで連れて行こうとしたのに先程同様いつの間にか消えてしまったこと、それからまた少しして再び一夜の前に姿を現したことなどを話してくれた。


「何回も繰り返して、ようやく俺はどうも変だということに気がついた。普通ならもっと早く気がつくはずなのに、何故かなかなか『何か変だ』っていう考えにいきつかなかったんだ。それで俺はもう三つ葉市まで行くのを諦めて、家へ帰ることに決めた」

 ここからが問題だったようだ。一夜の表情が明らかに曇っている。その表情にはあせりや苛立ちも混ざっていた。


「そこから家までの道のりは把握している。俺はいつものように家までの道を歩いたつもりだった。けれどどうも俺は無意識の内に全く違う方向、違う方向へ足を運んでしまったらしい。ふと気がついて足を止めると全然違う場所に来ている。おかしい、おかしいと思いながら何度も何度も家を目指して歩いた。けれどやっぱり変な場所に出ちまう。上手いことバス停を見つけて、そこから出ているバスに乗ろうとするとまた例の女の子が現れて話しかけてきて邪魔をする」

 一夜はさまよった、さまよい続けた。歩いている時一夜の頭はぼうっとしていて、自分がどこをどういう風に歩いているのか分からなくなるらしい。自身は正しい道を歩いているつもりなのに、実際は全く違う道を歩いている。右も左も、正しいも間違いも分からなくなる。自分は歩いているのか、走っているのか、止まっているのか、どこにいるのか、どの道をどんな風にして歩いているのか、この世界に自分の家は本当に存在しているのか、何もかも分からなくなり、ぐちゃぐちゃになって、ぼやけていった。現実の世界から切り離され、何もかも曖昧になった幻想の世界を延々と歩き続ける。そんな感じがしたと一夜は語った。


 そしてそれを何度も繰り返す内、ここ舞花市まで歩いてきてしまったようだ。

 一夜が最初女の子と出会った場所からここまではそれなりの距離がある。それはそれはご苦労様、とさくらは心の中で一夜に慰めの言葉をかけてやった。


「変だと思った時にはもう遅かったんだな、はあ。……女の子は舞花市にも現れた。こいつと関わってはいけないと無視しようとしても、俺が返事をするまでしつこく話しかけ続けてくるし、俺がもう道は教えないというとぴいぴい泣き出すし……」

 そんな女の子に幾度も道を聞かれ、家に帰りたくても帰れず全く違う道を歩いてしまうことが彼の心を相当疲れさせた様子。妖に絡まれることでくる疲れは大抵肉体的なものより精神的なものの方が大きい。

 

「このままじゃあ家に帰れそうもない。おいさくら、俺をこうして迷わせているその女の子の正体、分かるか?」

 藁にもすがる思いで彼は聞いているようだった。さくらは幼馴染の話を聞きながら、脳内で検索をかけていた。彼の話に該当する妖の情報を引き出そうと。

 その情報はすぐに彼女の頭に現れた。全く一夜が今日さくらとあの場所で出会えたことは幸運であったとしかいいようがなかった。


「多分、知っていると思う。今日は大晦日だし……きっとその妖はまた一夜の前に現われるわ。そして再び道を聞いてくるはず。その時……」

 さくらは店の人に頼んでペンとメモ用紙を貸してもらい、あることをすらすらと書いていく。そしてそれを一夜に渡し目を通してもらった。それから二人はお代を払い、店を出る。


「あっ」

 からんころん、という音と共に開かれたドアを出るなり一夜が声をあげた。

 それは再び一夜の前に女の子が――一夜を迷わせる者が現れたことを知らせるもの。確かに二人の前には自分達よりずっと小さな誰かが立っていた。

 さくらはその姿を見た時に思った。


(この姿を見て、一夜は少しも変に思わなかったの……?)

 それ位目の前にいる者の姿は異様だったのだ。

 菊の花と彼岸花の描かれた黒い着物を着た小さな体を(みの)で包み、酸素に触れた血に似た色をした髪が青白い顔を覆っている。そこから覗く目は気味が悪い位大きく丸い。まぶたらしいものは見当たらない。歪む口はありえない位大きい。

 背丈だけで判断するなら確かに小学三、四年生位だろう。だが一夜が何をして目の前にいるものを『女の子』と判断したのかさっぱり分からなかった。

 彼女としておこうの姿を何回もその目で見ながら『姿ははっきり思い出せない』と言った一夜はどう考えてもおかしい。恐らく彼女の術中にはまってしまったが為なのだろうが、それが分かっていても矢張り変だと思ってしまう位彼女の姿は強烈で。さくらはごくりと唾を飲み込む。暖房がきいている店にいて暖まった体が一瞬して凍りつくのも感じた。


「お兄ちゃん。道を教えて。何度聞いても全然辿り着けないの。ねえ、教えて」

 声はがらがらで、とても性別を判断できるようなものではなく。彼女は困った風に言いながら一夜をじいっと見つめ、そして笑った。青白い顔に浮かぶ真っ赤な三日月が、歪む。


「ねえ。――永遠の檻までの道を教えて」

 彼女はそう言った。


(何が知っている場所よ。何が簡単に説明できる場所よ……)

 彼女が言った言葉。それを聞いた後、喫茶店で一夜が話したことを思い出しぞっとした。普通の人が聞けば絶対妙だと思う言葉も、彼女の標的にされた一夜には妙に聞こえなかったのだ。そして彼は彼女の問いに答えた。一体どんな風に答えたのかさくらは知る由もないが、考えただけで恐ろしいと思う。

 一夜は深呼吸し、それからさくらが先程渡したメモを見る。そしてそこに書かれた言葉を一語一句間違えずに言った。全く意味が分からない上に、妙に長い文言であった。だが目の前にいる彼女はその言葉の意味をよく理解しているらしい。

 彼女はそれを最後まで聞くと舌打ちした。自分の思い通りにことが進まなかったことを悔しがっているのだろう。途端一夜が「げえっ」という声をあげた。どうやらようやく目の前にいる『少女』の姿が異様なものであることを認識出来たようだ。それは彼女の術中から一夜が逃れることが出来たという何よりの証でもあり。


 彼女は悔しそうな表情を浮かべながらべろを出し、それから走って二人の前から姿を消した。

 脅威が消え去ったことを感じ取ったらしい一夜は安堵の息を漏らした。さくらも上手くいって良かったとほっとする。


「ああ助かった」


「あの妖は大晦日にだけ現われるそうよ。そして外を歩いていた者を迷わせる。まあとりあえずこれで無事家まで帰れるでしょう。良かったわね、一夜」


「ああ、本当に良かったよ」


「もし今日中……年が明けるまでの間に家に帰れなければ、貴方一生家に帰れず彷徨い続けることになっていたのだから」


「はあ!?」

 さくらの口からさらっと出た衝撃発言に一夜は絶叫した。


「あの妖に迷わされ、年明けまでに家に帰れなかった人はどうもあの妖が言っていた『永遠の檻』に閉じ込められてしまうのですって。次の年の世界へ進めず、人々が置いていった前の年の世界に閉じ込められたまま、永遠にその世界を彷徨う者になるのですって。だからあの妖に道を尋ねられたらさっきの言葉を言わなければいけない。もしくは年が明けるまでの間、彼女をどうにか頑張って無視し続けなければいけないとか」

 つまり一夜はさくらに会っていなければ、そして彼女があの妖から逃れる為の言葉を覚えていなければ永遠に彷徨う者になっていたのだ。後少しで人々が置いていく年の世界に、永遠に進みも戻りもしない世界に閉じ込められて。

 一夜はぶるっと体を震わせる。その震えは寒さからきたものでは決してないだろう。


「何だよそれ……滅茶苦茶すぎるよ。くそう、やっぱりあいつらってひたすら迷惑な存在だな。しかしお前よくあんな言葉覚えていたな。あんな意味の分からないもの、絶対俺には覚えられない」


「もしあの妖に会っても大丈夫なように、昔必死になって覚えたのよ」

 などと大真面目に言う。一夜は彼女に感謝する気持ちも忘れ、呆れ顔。


「お前は本当に……まあ、いいや。ああしかし嫌になるよなあ、来年になってもああいう奴等に絡まれ続けるなんて。今から憂鬱だよ」


「そう? 私はわくわくしているけれど。勿論そうも言っていられないような出来事も起きるだろうけれど、それでも楽しみだわ。きっと色々な出会いが来年も待ち受けて……痛いっ」

 さくらは頭をおさえる。一夜が彼女の頭をはたいたのだった。その痛みが彼女を妄想物語のお花畑世界から連れ戻す。長年の付き合いがある彼は、さくらが『あっち』の世界に行ってしまっている時の表情などをよく理解していた。


「何暢気なことを言っているんだお前は。来年どんなことが起きるのかとか妖怪が云々とか考える前に、進路のこと考えろっての。俺達今度三年生になるんだぞ」


「まあ、一夜の口から進路なんて言葉を聞くなんて。びっくりしちゃった」


「失礼な、俺は結構真面目な人間だ。お前はどうする予定なんだ今のところ」


「文系の……日本文学とか、日本語とかそういったものを学べる大学へ行くつもりよ。幾つか気になる大学もあるわ」


「予想通りの答えだな。好きなこととか、やりたいことがある奴等はまだ楽だよなあ。俺はこれを勉強したい、これになりたいっていうのがないんだよなあ……かといって高卒で就職っていうのもぴんと来ないし」

 一夜は腕を後ろにやった頭を上げ、空を見る。さくらは一夜も色々考えているんだなあと感心しつつ、くすりと笑った。


「それじゃあいっそあの妖の罠にはまって、永遠の檻の中を彷徨い続けていた方が良かったかもね。そうすれば進路のことなんて考えずに済むんだから」


「阿呆言うな!」

 あはははと笑いながら走るさくらを、一夜が追いかける。彼はさくらが冗談で言っていることが分かっているから、本気で怒ってはいない。ただ怒っているフリをして、拳を振りあげながら追いかける。

 その姿は傍から見るとバカップルのそれそのものだったが、本人達は一切気がついていない。


 さくらは一夜に追いかけられながらもふと考える。これからのこと、来年のことを。

 もう少しで始まる新しい年。ぼやけていてはっきりとはしないが、光り輝いているように見えるそれに向かって二人は走った。前へ、前へ。

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