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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
行く年 来る年
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行く年 来る年(2)

「いわやあ、いわやあ、いわやあ」

 ぽおん、ぽおん、ぽおん。


「いわやあ、いわやあ、いわやあ」

 ぽおん、ぽおん、ぽおん。


「いわやあ、いわやあ、いわやあ……」

 ぽおん、ぽおん、ぽおん。

 雲一つ無い青空めがけて何か大きなものが放り投げられては落ち、放り投げられては落ちるというのを繰り返している。それも一つ二つなどではない……何十、いや、何百という数だった。

 それは物ではなく、人――いや、妖達であった。放られた者達は満面の笑みを浮かべながら両手を広げ、いわやあいわやあと空に近づく度叫ぶ。

 彼等の体を放っては受け止め、受け止めてはまた放る特別力の強い妖達もまた楽しそうな表情を浮かべ、いわやあ、いわやあと言っている。周りでその姿を見ている者達も物を放りなげるような動作をしながら言っている――いわやあ、いわやあ、と。

 放り投げる者達は非常に器用で、放られた者同士がぶつかったり、変な所へ飛んだりすることは殆どなかった。


 彼等を取り囲む四方の柱、その柱を繋ぐ紐には赤と白の提灯が交互に吊り下げられている。今はまだ明るいから灯りはついていないが、夜になれば眩く優しい光をその身に灯すだろう。


 ここは、こちら側の世界ではない。彼等が今いるのは、彼等の世界……紗久羅達が『向こう側の世界』と呼ぶ所。

 その中でもここはかなり特殊な場所で、十二月三十一日から一月七日までの日以外は閉じられており、人間はおろかこの世界の住人ですら入ることの出来ない場所。そもそも『向こう側の世界』と同じ層に存在する場所なのかも分からない。もしかしたら紗久羅達の住む世界とも、この世界とも違う別の世界にある空間なのかもしれなかった。真実を知る者は誰もいない。というか、そもそもこの世界の住人達はそういった真実を知りたいとか思いもせず、突き止める為の行動も当然のことながら起こさないので、いつになっても真実が明らかにならないのだ。


 限られた期間にしか行き来の出来ないこの場所は『(さい)寿(じゅ)京』と呼ばれている。

 そんな歳寿京の一角で行なわれている一見奇行にしか見えぬ、胴上げを超えてフライングボディーになってしまっているそれは、長い歴史のある儀式というか風習である。

 「いわやあ、いわやあ」という掛け声と共に放られることで体にたまった悪いものを空へ放って体外に出し、逆に天から幸運等良いものを受け取る――ということを目的としたもの。といってもそれは建前で、実際の所はただ馬鹿騒ぎをしたいというだけ。大勢の妖と一緒に声をあげながら、高く高く空に放ってもらうというのは彼等にとっては遊びなのだ。ちなみに掛け声の「いわやあ、いわやあ」というのは元々は「祝えや、祝え」というものだった。それが「いわえや、いわえや」になり、最終的に現在の「いわやあ、いわやあ」というものになった。いつ頃からそうなったのかはもう誰も覚えていない。そんなことはどうでも良いことなのだ。

 桜町にあるお化け通り、そこで何かが放られては落ちていく(さま)を目撃する者がこの時期ちょくちょく現われるが、それはお化け通りで今も暮らしている人々が彼らと同じことをやっているというだけの話。通りに住む怪力の妖数人で住人達を放ってくれるのだった。彼等は一応人間に気取られぬようある程度気配を消しているが、完璧ではないので時たま人の目に触れてしまう。


 限られた期間だけ開かれる歳寿京。そんな所でやることがこれだけ――ということは決してない。あくまでもこれはここで行われている多くのイベントの一つに過ぎない。

 この京は元々十二月三十一日から一月七日までの間、各地に住まう神達が集まり盛大な宴をする為の場所だった。この世界の多くを占める妖達には縁もゆかりもなく、広大な土地に超巨大宴会場を始めとした建物が幾つかあるだけの静かで、どこか寂しい場所だった。

 しかしある時、ここへ世界中に住む妖や精霊といった自分達よりも格下の者達を招き、皆で一年の終わりと始まりを祝おうじゃないかといった話が出た。

 話は進み、やがてこの京は『神が宴をする場』ではなく『皆で大騒ぎして年末年始を迎える場』へと変わっていったのだった。それが一体どれ程前のことであったか、誰も覚えていない。記録は残されているから調べようと思えば調べられるのだが、皆いつからこんな風になったかなんてことにはてんで興味が無いのである。


 大きな宴会場は京の奥にある森近くに移され、広大な土地には無数の大小様々な屋台が建てられた。そしてこの京への道が開かれた時、橘香京等他の京で店を構えている者達がその屋台を使い、自慢の料理を訪れた人々にふるまうのである。多くは屋台だが、沢山の客を一度に入れることの出来る建物(早い話が店)もそれなりにあり、またこの京を訪れた者達が泊まる為の宿も用意されている。

 屋台や店の他にも、様々なイベントを行なう為のステージや闘技場、木製の建物や布で作られたテント等も多くある。

 ぱっと見は京とか街というよりは、超巨大フィスティバルの会場。


 数多くのイベントの企画運営を行なったり、屋台や店の掃除やメンテナンスをしたり、宿で客をもてなしたり、出店してもらう店を決めたりする者達はここ歳寿京で暮らしている。歳寿京がこの世界に住む全ての住人に開放されることが決まった直後、神々は自分達の世話を任せていた者の幾らかをこの京へと送った。彼等は早い話が『年末年始祝祭運営実行委員会』である。彼等が死ぬ気で頑張ったからこそ、今の歳寿京があるのだ。実行委員会のメンバーはその後も増え(初期メンバーの子供だったり、神々が新たに送った者だったり)今ではそれなりの数だそうだ。彼等は祭の期間中は忙しなく働き、京への道が閉じられた後は来年に向けた準備を始める。酷く寂しく、静かになる京で。


 今日という日を迎える為、最後の最後まで多くの人々に楽しんでもらう為、彼等がどれだけ苦労をしているか、どれだけ頑張っているか。今飲み食い騒いでいる者達はそんなこと、考えようともしない。

 何も考えず、ただ彼等は歳寿京で過ごす時間を楽しむのである。

 実行委員会達もそれで良いと思っているから、全く問題はないのだ。


 今、ずらりと並ぶ屋台に挟まれた道を歩いている妖――出雲の愛すべき使い間、もとい下僕であるやた吉とやた郎もまた、この祭を運営している者達のことなど微塵も考えず、飲み食いを楽しんでいる者の一人だった。


 彼等が今手に持っているのは焼き芋だ。ついさっき通りがかった屋台で手に入れたものである。紙に包まれた赤っぽい紫色の芋。所々焦げて黒っぽくなっているのがまた美味しそうだ。


「焼き芋なんて食べるつもりなかったんだけれどな。ちょっとだけ焦げっぽい匂いも混ざったあの甘い香りを嗅いだら、ああそういえばおいら焼き芋が食べたいんだったと思ってしまって。その気がなくても、ふとあの匂いを嗅ぐと無性に食べたくなるというか、最初から食べるつもりだったような気になってしまうというか」

 

「匂いって色々反則だよね。食べたことがあるものだと、嗅いだだけで味が想像出来て……それでもって想像してしまうと、食べたくなってしまう。不味いものとか、好きじゃない食べ物は別として。それよりさっさと食べようよ。芋はあつあつほくほくの内に食べるのが一番だ」

 やた郎はやた吉より一足先に芋を割った。中から現れたのは眩い黄金。包丁で切ったものより断然魅力的な断面と、そこからあがる湯気にうきうきしてしまう。やた吉も同じように芋を割り、綺麗な色に唸り声をあげる。


「これは美味い。食べなくても分かる。絶対甘い、甘くないわけがないよこの色で!」

 それだけ言うともう我慢出来なくなったのか、大口開けてがぶりと一口。

 出来たてほやほやゆえに、かなり熱い。実際かぶりついた途端やた吉は「熱い熱い」と声をあげたが、それでも芋を口から離すことはなかった。熱さと美味さにうーうー言いながら悶える様子は見ていて滑稽だ。全く大げさだな、と嘆息し、それから芋を口にしたやた郎もやた吉と全く同じ状態に。


「やっぱり焼き芋っていいな! 甘い蜜をかけたものとか、薄く切って砂糖まぶして揚げたものとかも好きだけれど、焼き芋が一番だと思うよおいらは。こういう甘さは砂糖とかじゃあ出せないよなあ。皮のちょっと焦げた匂いもたまらない。あまり焦げすぎると苦いだけで美味しくなくなっちゃうけれど、全くこういう焦げがなくても寂しいよなあ」


「ほくほくで、それでいてちょっとねっとりしている感じの舌触りも好きだなあ。濃い味付けの料理も好きだけれど、素朴な味も好きだ」

 冷めない内にと優しい甘さをもつ芋に夢中でかぶりつきながらも、終わりの見えない屋台の群れにも目を向け、次なる標的を探す二人。彼等の腹はまだ満たされていない。塩だけで味付けした、大き目に切った鶏肉と葱の串焼き、丸々一個の玉ねぎと細かく切った人参、じゃがいも、セロリをコンソメスープで煮た丸ごと玉ねぎスープ、様々な魚の卵と細かく切った昆布を混ぜたご飯に醤油をかけたもの、旨みも独特の臭いも通常のものの数倍はあるするめ、肉をシソで巻いて焼いたもの、チキン南蛮等等をすでに胃の中に収めているにも関わらず。

 通りも、屋台に用意されている椅子も、所々にある飲食スペースもどこもかしこも妖達でいっぱいである。昼にも関わらず顔が真っ赤で酒臭い連中がごろごろいるが、そんな光景はこちらの世界ではそんなに珍しいものではない。

 人がどれだけ溢れていても、彼等が屋台に並ぶ料理の数々の姿を見逃してしまうことはない。彼等の目は食べ物や酒の姿をよく映す。ゆえに昔からこの世界には『好いた女の姿を見失うことはあっても、好物を見失うことはない』などという言葉がある。


 あっという間に芋を食い終えたやた吉とやた郎の目に、もくもくあがる白い湯気にすっかり覆われてしまっている屋台が映った。湯気の向こう側には巨大な蒸し器らしきものと、何かを盛りつけているらしい巨大な器が見える。何かを蒸したものを取り扱っている店のようだ。

 白い湯気に引き寄せられるかのように、二人はその屋台の前までやって来た。

 同じようにしてやって来た妖達に囲まれながら、器に盛られている物に目をやり、そして目を輝かせる。


「うわあ、うーまーそーうー!」

 湯気に包まれている物の正体は、茹でた里芋だった。ごわごわした、白い線がうっすらと入っている茶色の皮に包まれた芋は普通のものより大きい。

 全く、湯気があるだけでものすごく美味しそうに見える。それが無い時より十倍は美味しそうに見え、食欲をそそる。皮を剥いて、まだ熱いだろう芋に思いっきりかぶりつきたいとやた吉は思った。

 気がつくと二人は屋台に用意されている椅子に座っていた。同じように湯気に包まれた芋に魅せられ席についた者は多い。茹でたてあつあつほくほくの芋を早く食べたいと皆思う。


 茹でた芋は簡単に皮が剥ける。茶色い皮を剥くと、ほんのり黄色っぽい白い芋がお出迎え。その芋に塩をつけてぱくりと食べる。熱い熱いと言いながら、皆満足気に笑顔を浮かべた。焼き芋同様ほくほくしていて、それでいて粘り気がある。くちゃりくちゃりという音をたてながら食べる芋はほんのりと甘く、また少しつけた塩が良いアクセントになっていた。

 他にも醤油をちょっとつけて食べてみたり、醤油とマヨネーズを合わせたものにつけて食べたりしてみる。芋の味を損なわない程度に、ほんのちょっとつけて思いっきり口に入れるのがまた美味い。最初はつけた調味料の味がきてそれから芋の香りと味がふんわりと広がる。噛めば噛むほど素朴で優しい味と香りで口の中がいっぱいになる。


「煮物も勿論美味いが、ただ茹でて塩とかほんのちょっとつけて食べるというのが一番美味い食べ方だと俺は思うよ」

 そう言うのはこの屋台の主だ。確かに芋本来の味を楽しむのなら、こういう食べ方が一番だろうなとやた郎は思った。

 こういう単純でいて美味しいものは、一度食べるとなかなかやめられない。

 この京には里芋以外の美味しい料理もうんとあるということを思い出していなければ、お腹いっぱいになるまで食べていたかもしれなかった。


「ああ、美味しかった! さつまいもとはまた違った甘さで。ちょっと粘っこい感じも良いんだよなあ。塩とかちょっとつけるだけで美味いってことは、芋字体の味がしっかりしているってことなんだろうな。良い芋だったんだろう……ああ思い出したらまた食べたくなってきた!」


「味噌と(たまご)()(この世界ではマヨネーズをこう呼んでいる)と混ぜたものをつけて食べても美味しかった。酸味ががつうんときた後、芋の優しい味と味噌の香りが口の中に広がってさ。普通の卵酢と食べるよりこくがあって、より深い味わいになって美味しかった」


「卵酢に七味を混ぜたものをつけても美味かったなあ」

 振り返ると、先程までと変わらず屋台は湯気で覆われている。それを見たら今すぐ引き返して、再び里芋を食べたくなった。


「多分ただ里芋が盛りつけられているのを見ただけだったら、ここまで魅力的に感じなかったんだろうな。あの湯気が……茹でたてほやほやで温かいですよってことを示すものが一緒に見えたからこそ、ああ美味しそうだな食べたいなと思ったんだろう」


「茹でたて焼きたてって美味しいもんな。勿論冷ました方がいいものだってあるけれど。そういうことを知っているから、目に湯気が映った時美味いだろうなあって思うんだね。目から入ってくる情報って大切だね、うんうん」


「調理をしている音なんかも聞いていると食欲がわいてくる。……見てよやた吉、あそこで天ぷらを揚げているよ」

 指差したやた郎の腹が、ぐうと鳴る。その屋台には口の字型のカウンターがある。口の中の部分に調理場があり、ねじり鉢巻をしめた蛸の妖が蜂蜜の様な色をした油が入っている大きな鍋で、黄色の衣を軽くつけた海老やいか、しそ、ししとう、茄子等を揚げていた。

 からからからから……鍋で具材が踊っている。その音が、香ばしくて少し甘い、油の独特の匂いが二人の歩をその屋台の前で止める。

 鍋からあげられた天ぷらは、黄金色。その間からちらちら覗く具の色は火を通したことでより鮮やかになっており、宝石のようにきらきらと輝いていた。


 カウンターに座っていた妖達が揚げたての天ぷらに塩をちょっとだけつけて食べる。つゆにつけても勿論美味しいが、ただ塩をつけるだけでも充分美味しい。さく、さく、という音が喧騒に混じって微かに聞こえ、それを聞いてやた吉が唾を飲み込む。

 この屋台では天丼も扱っているらしい。山盛りのご飯に色とりどりの天ぷらをのせ、出汁のよくきいている(匂いを嗅いだだけで二人にはすぐ分かった)つゆをさっとかければ、さくさくかつジューシーな天丼の出来上がり。


「天丼って、つゆのかかったご飯が美味いよな……あのちょっとだけかかっているって感じが最高で。ああ食べたい、天丼食べたい! けれど今日だけで丼もの相当食っているし、おいら達の胃にだって限界ってもんがあるからなあ……ここであまり飛ばしすぎると、年越し蕎麦が食べられなくなる!」

 出汁の香りと油の匂いに身もだえしながらやた吉は頭を抱える。海老天を食べた妖が「この海老美味いな、身がぷりぷりしていらあ」などと言うものだから余計食べたくなってしまう。

 しかも彼等、この屋台を通る数時間前、天ぷらの盛り合わせをすでに食べている。折角色々な食べ物があるのに、店は違えど同じ料理を食べて腹を満たすのは勿体無いと思うのだった。


「ここは我慢だ我慢! 大丈夫、まだ日にちには余裕がある。どうしても食べたければまた後日食べれば良い」

 十分近く店の前で迷った挙句、とりあえずパスという結論に辿り着いた。やた郎もとりあえず今日はいいやと諦める。


「けれどまた後日、なんて言っても結局『あの時食べたあの料理をまた食べたい』って同じ店ばかり毎日巡っちゃって、結局ここの天丼を食べることが出来ないかも……」

 

「ほらほら、もう決めたんだろう。どうするか悩む時間だって今は惜しい。さっさと先に進もう」

 まだうだうだ言っているやた吉の背中をやた郎が押してやった。やた吉は未練がましそうに天ぷら屋の屋台を見つつ、やた郎に押されながら歩く。からからという音が完全に消えてなくなるまで、彼の脳裏にはさくさくの天ぷらや、噛むと素材の味と染みこんだつゆが口の中に溢れる天丼の姿が残り続けたのだった。


 さて、ここで天丼を泣く泣く諦めとりあえずざっと一通り見て回ろうと決めた二人だったが、またすぐに足がある所で止まってしまった。

 鼻に『それ』の匂いが届いた途端、口の中が唾でいっぱいになる。甘辛い、或いはあまじょっぱい唾が口を満たす。二人の足を止めたのは、磯の香りであった。


「見てよやた郎! 牡蠣だよ、牡蠣! 牡蠣を焼いているよ」

 右手の人差し指で網の上で牡蠣を殻ごと焼いている店を指し、左手でやた郎の服の袖をぐいぐい引っ張る。二人の足はその店へと吸い寄せられ、網の上で焼かれている牡蠣に目は吸い込まれ。

 牡蠣を見るやた吉の目はきらきらと輝いている。やた郎はやた吉程感情を顔に出してはいないが、わくわくどきどきしている様子だった。


「見てよあの牡蠣の身! 白くて、大きくてぷりぷりしている。ああやっぱり牡蠣の身と女の子のお尻は大きくてぷりっとしているものに限るね!」


「女の子のお尻って……やた吉は助平だなあ」

 牡蠣の身を見て女の子の尻を連想するというのもどうかと思うとやた郎は苦笑いしつつ、いい音をたてながら飲んだら絶対美味しいに違いない汁を出し続ける牡蠣に釘つけ。

 その身は白く、まるで清廉(せいれん)な乙女のようで。

 或いは魅惑の歌を歌い、人々を誘うセイレーンか。


「そりゃあおいらだって男だもの。ああ、彼女欲しいなあ彼女」


「出雲の旦那の使い魔でいる限りは無理な気がするよ」

 彼等にも彼女がいた時があった。だが毎回出雲が原因で破局してしまったのであった。彼は愛する下僕の恋を邪魔するのを心の底から楽しんでいる。そんな主人がいる限りは、彼等に未来はなかった。

 二人して牡蠣の前でがっくりうなだれる。……しかしブルーな気持ちになっていたのも束の間のことで、美味しそうな匂いと音に彼女が出来ないという悲しい事実も忘れ、そして結局誘惑に負けて彼等は屋台の奥にあるテーブル席に座ったのだった。


 焼いた牡蠣の身をそのままちゅるんと丸呑みしたり、醤油と酒をちょっとかけて焼いたものを食べたり、生の牡蠣をレモン汁をさっとかけて食べてみたり。

 ぷりっとした身はクリーミーで、噛むと中から濃厚なエキスがじゅわっと出てくる。そして噛んでいる内身と一緒に溶けて消えてなくなっていく。

 他にもカキフライをタルタルソースをつけて食べたり、牡蠣のエキスとかつおだしのきいた牡蠣飯を食べたり。あらゆる牡蠣料理を夢中で食べた。結局天丼を諦めた意味が全くなく。だが本人達はその事実に気がついていない。


「ああ美味しかった! 本当橘香京と同じく、歳寿京にある店で出されるものはどれもこれも美味しいなあ! だからついつい食べ過ぎちゃう」


「ここの場合はどれもこれもタダだから、気兼ねなく食べられるしね」

 そう、歳寿京で出される食事は全てタダである。元々この世界ではある程度のものはタダで食べられるものの、グレードが高いもの等は有料である。だがこの京ではなんだってタダで食べられる。ゆえに普段は高くて手が出せない珍しい料理や超高級な料理も気軽に食べられるのだ。そういった料理を食べることを目的にこの京にやって来る者も少なくない。


「ああ次は何食べようかな。そうだ、今の内に年越し蕎麦のことも考えておかないと。一口に蕎麦といっても色々な種類があるからなあ。去年は一杯位しか食べる余裕がなくなって、どれを食べようかと散々悩んだっけ。結局鴨南蛮食べたんだよなあ。今年はどうしよう……なんかまた一杯しか食べられなくなりそうだ。天ぷら蕎麦、山菜蕎麦、かき揚げ蕎麦、とろろ蕎麦、ざる蕎麦ああどれにしよう、どれにしよう!」


「随分悩んでいるようだね」

 やた吉の言葉にそう返したのはやた郎ではなかった。ぱっと前を見ればそこには見知った顔が一つ、二つ。


「あ、鬼灯の旦那に柳の姐さん!」

 そこにいたのは狐面を常につけている、居酒屋『鬼灯』の主人とその妻である柳だった。並んで歩く相も変わらず仲睦まじい二人の手にはみたらし団子。

 柳は二人を見て微かに笑む。桜の花びらの様な、優しく可憐な笑みに二人は思わずどきどきしてしまう。


「これだけ広い場所で会うなんて、奇遇ね。どう、楽しんでいる?」


「ええ、勿論。まだここに来てそんなに経っていないのに相当食べてしまって」

 お腹をぽんぽんと叩くやた郎を見て、柳がくすくす笑った。私もだよと鬼灯の主人も同じように自身の腹を叩いた。面の下にある顔はきっと笑みを浮かべているだろう。


「ここで食べられる料理はどれも美味しいからね、毎年楽しみにしている。楽しみにしている分、どうしてもここに来ると羽目を外してしまうようだ」


「鬼灯の旦那でも羽目を外すんだ。ちょっと意外とかおいら思っちゃったよ」


「私だって羽目は外すさ」

 ははは、と鬼灯の主人が笑う。そんな彼がつけている狐面に柳がそうっと触れた。彼の機嫌を損ねることなくその面に触れられるのは、きっと彼女だけだろうと二人は思う。


「このお面は滅多に外さないけれど、羽目を外して調子づくことは結構あるのよ」


「鬼灯の旦那って絶対俺達の前では外さないよね、それ。外したくない理由とかあるの?」

 首を傾げ常々気になっていることを直接聞いてみる。やた郎の問いに鬼灯の主人は面の右頬にあたる部分をかいた。


「これといった理由は無いのだが、何となくね」


「柳の姐さんは鬼灯の旦那の素顔を知っているんだよね。ねえねえ、どんな顔なの?」

 やた吉の質問に、おいおいと鬼灯の主人が困ったような声をあげる。

 柳は口元に手をやりちょいと考えた後、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「秘密。誰にも教えてあげない」


「ええ、けち」


「とっても気になるなあ!」

 笑う柳は今、十四五の娘に見える。彼女はそんな風に妙に若く見えることもあれば、それなりの年をとっているように見えることもある。可憐な少女に見えたり、艶のある女性に見えたり……女って不思議な生き物だな、と柳を見ると時々そんなことを思ってしまうやた吉とやた郎だった。

 ところで、とやた吉は話題を別の物へと移そうとする。


「白粉姐さんは? 姐さんのことだから『鬼灯の旦那と年を越したいんだよう』とかなんとか言って無理矢理にでも二人についてきていると思っていたんだけれど」

 しかし白粉の姿はない。


「確かに毎年白粉さんはこの人を誘っていますが、断っているので大丈夫です。ついてくるということもしません。私の『お願い』を毎年ちゃんと聞いてくださるのです」

 そう言う柳の顔は相変わらず笑っていたが、その笑顔が妙に怖い。一体どんな風に『お願い』したのだろうと考えただけでぞっとする。鬼灯の主人も、柳も普段は温厚で心優しい(出雲とは大違いである)のだが、怒るとかなり怖く、また時々得体の知れぬ恐怖に人々を陥れることがある。彼等には出雲さえ頭が上がらない。


「そ、そうなんだ……へえ……」

 引きつった表情でやっとこさっとこそれだけ言うやた吉と。


(あの白粉の姐さんを大人しくさせちゃう柳の姐さんの『お願い』の威力もすごいと思うけれど。毎年懲りもせず鬼灯の旦那を誘おうとする白粉の姐さんもある意味すごいなあ)

 と呆れつつ感心してしまうやた郎。ただ何か怖い笑みを浮かべ続けている柳。


「まあ彼女も今頃、それなりに楽しんでいるんじゃないかな。狢辺りと一緒にこの京で遊んでいるかもしれないね」

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