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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
灯換え 灯換え
172/360

灯換え 灯換え(2)

 広場で延々と緑色の炎を囲んで踊っている人々や、道端にちょこんと座り歌いながらお手玉をし続ける少女、お辞儀をしては背中にしょった籠に入っている蜜柑を落とし、それを拾い、またお辞儀をして蜜柑を落として……を繰り返す女、手に持った花をどうにか売り切ろうと声を張り上げながら彷徨(さまよ)い続ける小僧を横目に見ながら二人は延々と歩き続ける。

 宙に浮いている無数の花、椿。くるくると、からからと、ひらひらと回り続けて風車。回る度鮮やかな赤色の花びらが地面へ落ちていく。けれど回る花の花びらがなくなることはない。花びらで出来た桃色っぽい赤色のじゅうたんが、続いている。歩く度、さく、さく、くちゅりという気味悪くまたどこかいやらしい響きの音が二人の耳に入った。甘い香りが空に漂い、宙にいる椿の姿をより可憐で艶やかなものにしていく。


 歩いている間、あまりさくらと女は話をしなかった。さくらは喋っていないと不安と緊張で心臓が固まりそうだと思い、いつもよりもずっと多弁になったが、どうにも会話が続かない。女はさくらを無視することはなかったが、返す言葉はどれも淡白で短く、元々話すことがそこまで得意ではないさくらには彼女のそんな言葉を上手いこと膨らませる技術というものが全くといっていいほどなかった。

 喋れば喋る程気まずくなっていく。彼女と過ごす重く冷たい時間が、さくらの体にずしりとのしかかる。女が今手にしている元々さくらのものだった提灯の灯りに照らされていなければ、今頃自分はおかしくなって死んでしまっていたかもしれないとさくらは何度も思う。


 ふと、かんかんかんという音が聞こえた。見ると二人の右側にある木々の奥に開けている場所。そこに人が沢山集まっていた。ぱちぱちという拍手の音が森中に響く。

 女はさくらの袖をきゅっとつかむ。


「あっち、行ってみる? お芝居が見られるわ」

 それを聞いてああそれではさっきの音は拍子木を打つ音だったのかとさくらは合点する。芝居を見た所で気分が楽になることもないだろうとは思ったが、それでもこのまま気まずい時間を過ごし続けるよりはずっとましだろうとさくらは「行くわ」と頷いた。


「貴方はお芝居、好き?」


「嫌いではないわ。貴方は?」

 さくらが聞くと女はさあ、と首を傾げた。少なくともものすごく好き、或いは嫌いだということはないだようだ。

 森の中にある舞台は背後に松の木が描かれた巨大金屏風がある。

 舞台の前にずらりと並ぶ赤い毛氈(もうせん)の敷かれた長椅子には多くの客が座っていた。団子を食べたり、お茶を飲んだり、蜜柑を剥いたりしながら舞台に目を向けていた。


 舞台には派手な装束に身を包んだ狐面の男が立っていた。男は手に持っている刀を振り回しながら猛々しい舞を見せている。舞台の両端に座っている男達の奏でる音色に合わせて。彼が頭を振る度かつららしき豊かな赤髪が生き物の如く揺れる。

 登場人物はその男だけにあらず。狐面の男に故郷を滅ぼされたらしい、地につく位長い鉢巻をしめ、刀を手に男の眷属と戦う女。彼女は狗の面をしていた。どうやらこの芝居の主人公は彼女であるらしい。他には彼女の相棒らしいひょうきんだが頼りになる猿面をつけた男、狐面の男の眷属であり彼に懸想している同じく狐面の女。


 狐面の男――妖狐の手で故郷を滅ぼされた人間の女。その男に復讐しようと、彼の眷属と戦いながらも彼の行方を追う。

 人間に化けた妖狐はある居酒屋にて主人公の女と出会う。妖狐と、男が故郷を滅ぼした妖狐が化けた姿であることに気がついていない女は恋に落ちてしまった。

 妖狐は自分が本当は妖であることを女に話そうかどうか、悩む。その内彼は自分が彼女の憎き仇であることを知ってしまいますます頭を抱えることになるのだった。

 

 観客の中には時々、劇の邪魔にならないタイミングで役者の名前を叫んだり、よっ色男とかそんなことを言ったりする者がいた。下手なものがやると折角の舞台を台無しにしてしまうが、少なくとも今ここにいる観客の中にはそんな『素人』はいないようだ。場面によって観客達がリズム良く手拍子をすることもあった。

 舞台と客席は分かれている。二つの間には明確な境界線がある。だがそんな境界線など感じさせない位二つは一つになり、溶け合って、一体化しているような気がした。舞台だけでは、客だけでは決して成り立たない世界が今さくらの目の前にある。


 物語のクライマックス――妖狐と女が戦う場面の激しさは言葉では言い表せないものだった。妖狐の持つ刀と女の刀が何度もかちあい、互いの首や足をかすめ、蝶のようにひらひら軽やかに、かと思えば獅子の如く雄雄しく激しい動きを見せた。段々と大きく、そしてテンポが速くなっていく音楽。あまりの迫力にさくらは呼吸するのを忘れた。他の者達もごくりと唾を飲み込みながら戦いの結末を見守る。


 最後、女の刀が妖狐の体を貫いた。妖狐はわざと彼女に刺されたようだった。

 女が倒れた妖狐を抱きかかえる。息も絶え絶えに彼は女に謝り、私がお前にしてやれることはこれ位しかないと言って、やがて動かなくなった。

 ひらひらと舞台に舞い降りる紙吹雪。女の泣く声、やがて舞台上につけられていた明かりが一つ、二つと消えていき、暗闇。舞台の終わりを告げる声がしいんとした世界に響く。

 割れんばかりの拍手は、当分の間鳴り止まなかった。さくらも役者全員が舞台に再び戻ってくるまでずっと拍手をしていた。役者達の挨拶が終わり、舞台は本当の終わりを告げた。


 だが、劇が終わっても観客達は席を立とうとしない。それどころかまるで舞台がこれから始まるかのような会話をしている。さくらのすぐ近くにいた観客が膝に置いている皿。そこに盛られていた団子は観劇中に全て消えていた。だが、いつの間にかその皿には先程と同じだけの数の団子が。

 それを不思議そうに見ているさくらを見て、女が呆れた風にため息をつく。


「ここは閉じられた世界。誰もが永遠の環の中で生きる。もうしばらくしたら、さっきと全く同じ劇が始まるわ。役者の喋り方も、動きも、観客の反応も全く同じ。何もかも同じ時間が再び始まる。ぐるぐると廻り続ける。強いて変わる点があるとすれば、それは私と貴方がこの場から去ってしまうというところ位」

 拍子木の音が、鳴り響く。さあさっさと行きましょうと女は舞台へ背を向ける。さくらはもう一度位あの素晴らしい舞台を見たいと思ったが、女に置いていかれても困るので、観念して舞台へと背を向けるのだった。


 女の喘ぐ声が聞こえる。炎に包まれた村から必死に逃げる、幼き時分の主人公の声が。

 それも段々と小さくなって、やがて消えてなくなった。


「この世界は繰り返しの世界なのね。この世界の住人は、一つの環を延々と廻り続ける……永遠に。ここは何も変わることのない、永遠の世界なのね」

 橋のかかった虹色硝子の川を二人は渡る。その川には溺れて流されている河童の姿があった。左から右、上流から下流へ流されていく河童の姿は段々と遠くなっていったが、しばらくするとまた上流からさっきと全く同じ河童がやってきたのが見えた。彼は永遠に流され続けるのだろう。助けてくれい、助けてくれいと叫びながら。助かることも、死ぬこともなく、永遠に。


「狂っているわよね、永遠って。普通じゃない。永遠を美しいもの、尊いものだと思っている人達にこの世界を見せたらどうなるかしら? 狂ってしまうかしら? この世界には永遠がある。けれどこの世界は狂っている。永遠というものは狂っている。ああ、嫌だ嫌だ」

 女がぼやいている間に何故か急に森が明るくなった。その原因が木々になっているものにあることにさくらは気がついた。

 赤い光を内に秘めている、硝子の林檎が木になっている。喉を思わずごくりと鳴らしてしまうような、甘い香りが漂っている。人々を誘う魅惑の香り。


 途中、道が二本に分かれている。分かれている道、根元の部分に一際大きな木があり、一際美味しそうに輝く林檎が沢山なっている。

 その木の枝の一本に、緑色の蛇が巻きついている。蛇は二人に気がつくと赤い舌をちろちろと出した。


「お食べよお食べ、美味しい林檎。甘い蜜が沢山詰まっているよ。さあさあお食べ、食べれば至福の時を過ごせるだろう」

 意地の悪い、明らかに何か企んでいるような声を聞いたら目の前にある林檎を食べたいとは思わなくなってしまったさくらだったが、女の方は表情一つ変えず、木から林檎を一つもいだ。それを見た蛇がにたりと笑ったような気がした。

 食べない方が良いのではとはらはらするさくらを尻目に、女は林檎を真っ二つに割った。ただ彼女が少し力を入れただけでそれは簡単に割れたのだった。

 すると魅惑の果実の中にあった赤い光が外に出ていって、ふわふわと天へと昇っていった。それを見た蛇は舌打ちするとくねくねと体を枝の上を這いながら生い茂る葉の中に隠れる。


「果実の中に詰まっているのは甘い蜜と、赤い罪。果実をかじれば知恵を得られるけれど、それは食べた人を必ず堕落させる。赤くて、甘くて、堕落させる恐ろしい果実。でもこうやって割ってしまえば知恵は逃げていく。これなら食べても大丈夫。知恵はつかないけれどね」

 女は手に持つ果実の半分をさくらに寄越す。硝子の林檎は中も同じ。割った部分からは虹色の果汁が溢れてきている。その果汁の発する匂いがさくらをどうしようもなく刺激し、気がついた時にはすでにその実を口に入れていた。

 見た目こそ違うものの、味はごく一般的な林檎と変わらない。ただ噛んだ時に鳴った音はしゃりしゃり、というものではなくぱき、ぱきという薄い氷を踏み潰した時に鳴るようなもので、中に何も詰まっていない、薄く伸ばした飴で作った林檎を食べているような風。


「あの蛇はああやってここを通る者に言葉をかけて、林檎を食べさせようとするの。林檎を食べ、恐るべき知恵を手に入れさせ、そして堕落させる。それがあの蛇の目的。けれど、皆知恵を逃がした上で林檎を食べる方法を知っている。だからあの蛇の目論見は上手くいかない。蛇は自分の目的を上手く果たせず、人々は美味い果実を食することが出来る。けれど、どれだけ失敗してもあの蛇は諦めない。いつかきっと、と来るはずのない瞬間を待ち望みながら毎日を過ごしているのよ」

 女は林檎をかじる。表情一つ変えずに。


「この林檎の中に詰まっている『知恵』を食べたなら、彼等は気がつくのかしら。自分達が同じことを延々と繰り返していること、その繰り返しに終わりというものは存在していないことを。ねえ、気がついたら皆どうなるのかしら。滅茶苦茶になるのかしら。知るということは幸せなこと? それとも不幸なこと?」

 その問いにさくらは答えることが出来なかった。


 また、しばらく無言になる。この世界には存在しない右腕を探し続ける市松人形、同じ話を繰り返しながらお茶会をしている動物達、生まれた時から存在していないことにも気づかないまま自分の『顔』を思い出そうと頭を抱え続けるのっぺら坊、花いちもんめを繰り返している少女達……。あらゆる人々が現れ、そしてさくらの心を痛めつけるのだった。

 苦しくて、冷たくて、上手く息が出来ない。この世界を縛る『永遠』がさくらをも縛りつける。この世界は狂っている。永遠に同じことを繰り返し続ける、終わりというものも進展というものも存在しない、どこよりも整っていて狂っている世界なのだ。


 女に導かれ、さくらは開けた場所へとやって来る。闇を吸って黒くなった土には殆ど草が生えていなかった。

 その暗闇の地面の上にずらりと並ぶのは、平べったい石を積み重ねて作られた三十センチ位の小さな塔。その塔の前には地面をほじくって作られた大きな穴。その穴の中には何も無い。


「ここは『物語の墓場』よ。誰かが途中で放ってしまった物語、考えはしたものの形にすることのないまま忘れ去られた物語などが葬られている場所。けれどこの墓場に葬られた物語は皆目を覚まし、墓穴から這い出て、自分を形作る『物語』通りに動くの。そうね……きっとこの近くに『彼』がいるはず」


「彼?」

 さくらが聞き返すと女はにこりと笑った。暖かな灯りに照らされてなお彼女の笑みは冷たい。


「王子様」


「え?」

 まるで彼女には似つかわしくない単語が飛び出してきたのでさくらは目をぱちくり。お殿様とか若旦那とか、そういう単語ならまだ合っている気もするのだが着物を着た、異国というものを知らないだろう娘が言うと何だか違和感を覚えてしまう。

 しかし彼女が言った『王子様』を見た時、さくらは驚いた。驚く一方納得もした。


(ああ、確かにこの人は王子様だわ……王子様としかいえないような姿だ)

 暗い、暗い森の中白馬に乗っている男の姿はまさに外国の童話に出てくる『王子様』そのもの。

 先端をくるんと巻いた金髪、宝石を散りばめた黄金の王冠。かぼちゃパンツ、赤いマント、白タイツ、腰にさしているのは剣。

 彼の容姿はこの世界ではかなり浮いて見える。この世界の住人はさくらの知る限り皆着物を着ていた。髪を金や茶色に染めている者もいないし(さくらと共にいる女の髪は黒ではないが、染めたようには見えない色だった)、この世界にあるものは和を思わせるものばかりだったから。着物を着た女と、白馬に乗った王子様のツーショットはなかなか強烈である。


(森の中に王子様、という構図自体は物語的にはよくあるものなのだけれど……)

 王子様は辺りをきょろきょろと見回している。何かを探しているようだった。


「彼は何を探しているの?」

 さくらが小声で尋ねると、女はすぐに答えてくれた。


「自分の妃となるお姫様」


「お姫様?」


「そう。彼はある人が生み出そうとした『物語』なの。その物語というのは、こういうもの。昔々ある国に、一人の王子様がおりました……今私達の目の前をうろうろしているあの男のことね。その王子様はね、昔話に出てくる『王子様』に憧れていたのよ。様々な出来事の果てに、美しい女性と出会い、その人と結婚する格好良い王子様に。そして彼は願うようになった……自分もそんな王子様になりたいと」

 それを聞いた時さくらは「ん?」と思った。どこかで聞いたような気がする物語だったからだ。女は話を続ける。


「王子様には許婚がいたけれど、彼はその人と結婚するつもりはなかった。物語に出てくる王子様のように、自分も運命的な出会いをしたいと、この世界のどこかにいる美しい女性と出会いたいと思っていたから。そしてとうとう王子様はそんな人を探す為の旅に出るの」

 そこまで聞いた時さくらははっとし、それから青ざめる。

 聞いたことがあるはずだった。……それは数年前、さくらが考えた物語だったのだから。そういえば確かに目の前にいる男は、その物語を考えていた時頭に思い浮かべていた『王子様』の姿とそっくりな気がした。しかしさくらはそのことを女に言い出せない。女はさくらの異変に気がついているのかいないのか、笑みを浮かべながらもなお口を開き続ける。


「ところがこの王子様、そういう行動力はあるくせに度胸も勇気も男気も何もない人でね。行く先々で彼は多くの好機と巡り合う。呪いの茨に抱かれ百年の眠りについた姫、林檎を喉に詰まらせて死んだ姫、高い塔に閉じ込められた娘などなど……そんな人達の噂を耳にしたり、その人達の関係者から助けを乞われたりした。けれど王子様はやれ茨になんて近づきたくもないだの、死んだ娘に興味はないだの、髪を使って塔を上るなんて恐ろしい真似なんて出来るわけないだのなんだの言って、その全てを無視し、どんどん先へと進んだ。そしてあれも嫌だこれも嫌だと言っている内、世界中を巡ってしまった」

 その先の展開もよく覚えている。王子様は女とさくらには全く気がついていない様子で、白馬の上から辺りをきょろきょろ見回している。その顔は死人のそれそのもので。


「困った王子様は『仕方がない。決められた女と結婚するよりはましだ』と元来た道を戻っていって、さっきは無視した娘達を助けることに決めたの。けれど時すでに遅し。その人達は皆、他の勇敢で心優しい『本物の王子様』に助けられた後だった。王子様はがっくりし、仕方がないから許婚と大人しく結婚することにした……のだけれど、王子様が戻った時にはその許婚も別の王子様と結婚してしまっていたの。折角の好機を逃し、美しい娘と結婚出来ず、おまけに許婚をも失ってしまった愚かな王子様。行き場を失った王子様は、彷徨い続けることになる。まだどこかにいるかもしれない、運命の人を求めて」

 今もああして運命の人、美しいお姫様を探しているのだと女は王子様を指差した。死人の様な顔をしながらも、彼はまだ諦めてはいないらしい。きっとさくらがその物語を形にすることをやめたその日から、ずっと彼はこの世界で探し続けているのだろう――どこかにいるかもしれないお姫様を。


「けれど、そんな人は見つからない。見つかるはずがない。だって彼の物語にそんな結末は存在しないのですもの。存在しない道を進むことは彼等には出来ない。だから彼は永遠に探し続けることになる。訪れるはずのない未来を夢見ながらね」

 

(ああそうだ、確かに私はそんな結末をあの王子様には与えていない……)


「あの墓場に捨てられた者達もまた、永遠に同じことを繰り返す。運命の人を探すという『物語』である彼は、永遠に運命の人を探し続けるのよ」

 運命の出会いを果たすという結末を与えられなかった物語。与えられなかったものは一生手に入れることは出来ない。与えられたものだけが、彼等の――物語の全てなのだ。


(私がそうさせてしまった。彼は誰とも出会えない。そのことを知らぬまま彼はこの森を彷徨い続ける……)

 それを思うと、胸が痛む。


 与えられたものだけで動く『物語』は彼だけではない。墓場に葬られたありとあらゆる物語を道中二人は沢山目にした。彼等もまたこの世界の住人同様ある一つのことを延々とやり続けたり、同じことを繰り返したりする。


「私達は『環』から抜け出せない。永遠に『環』の中。他人が環の中に閉じ込められていることには気がつくけれど、自分が閉じ込められていることには決して気がつかない。難儀なものよね……」


 果たしてそれから、どれだけのものを二人は見ただろうか。

 絹糸の滝を見、音楽を奏で続ける巨大樹の前を通り過ぎ、ゆりかごのように揺れる三日月から零れた星の雫の数を数え、同じ所で崩れては積みなおされる獣の角の塔を見、くわえた手紙を渡す相手を――もうこの世のどこにもいない娘を探して飛び続ける鳥とすれ違い。

 森の中を歩きながら、そういうものを見ている内さくらは気が狂いそうになっていく。女の解説がまた、さくらの心を抉るのだ。


 綺麗に、あまりにも整いすぎている世界。ほぼイレギュラーは存在せず、淡々と同じことをする。終わりを、幸福な結末を夢見ながら何か一つのことをやり続ける者、同じことを繰り返し続ける者。繰り返し、繰り返し、繰り返し。

 整いすぎているものは、恐ろしい。さくらは出雲の顔を思い浮かべた。彼の顔もまたあまりに整いすぎているがゆえに美しくも気味悪く、恐ろしいのだった。

 ただ永遠に同じことを続けている、整えられた道を決められたように進むもの……それらをずっと見ていると頭がおかしくなりそうになる。じわじわと心と頭を侵食していき、叫ばずにはいられなくなっていく。じわじわと、ゆっくりと頭が狂っていく。


(このままこの世界に居続けたら、おかしくなってしまう。私はここからちゃんと出られるかしら。まさか私までこの世界に組み込まれて、環から抜け出せなくなって、永遠に彼女とこの森の中を彷徨い続ける者になるなんてことは)

 不安が押し寄せる。ぎゅうっと握りしめた、灯りを吊るした棒は握り続けてなお冷たい。冷たくて痛い。


 その時、急に空が明るくなったのをさくらは感じた。……この世界にも朝というものが来るらしい。闇色の空が、藤色に、そしてそこから水色へと変わっていく。空と地の境界線辺りは黄色交じりの白色。光の炎が空を少しずつ包み込んでいった。

 それを見ながら大分明るくなった木々に挟まれた道を通り、ある開けた場所へとやって来た。見るとそこには見覚えのある池と睡蓮。二人は出会った場所まで戻ってきたのだった。

 女は池の前で歩みを止める。さくらも同じように足を動かすのをやめた。


「朝が来たから、もう終わり。明るくなったからもうこの灯りもいらないわね? 灯を消してしまいましょう。頭で灯を消す姿を想像しながら息を吹きかければこんなもの、簡単に消えてしまう」

 そう言うと、女はさくらの灯り――金魚型の灯りを両手で包み込み、口の近くにそれを持っていった。

 さくらはそれを見てはっとした。心臓が爆発したようになる。


(いけない! このままじゃあ……)

 さくらは慌てて女から貰った、睡蓮型の灯りを手に持ち同じように口の近くへと持っていく。灯りの部分は、それを吊るす棒以上に冷たく、あまりの冷たさにさくらは一瞬それを落としてしまいそうになった。しかし今これを落とすわけにはいかない。

 彼女は何としてでも、女よりも先にこの灯りを吹き消さなければならなかったから。


 しかしさくらは息を短く吸ったところで止まってしまった。その息を吐き出すことが出来なかった。女が邪魔したからではない。さくら自身が目の前の灯りを消すことを躊躇って(ためらって)しまったのだ。

 女が灯りから口を離す。そして迷うさくらの姿を見て微笑んだ。


「貴方は知っているのね。この灯を消すということが一体どういうことなのかを」

 そう、さくらは知っていた。この灯が何を象徴しているのか、それを消すということはどういうことなのか。

 だからこそさくらは躊躇(ちゅうちょ)しているのだ……女の灯を消してしまうことを。

 だが女が自分の灯を消す前に女の灯を消してしまわなければ、恐ろしいことになる。それを彼女は知っていた。だが知っているからこそ、迷った。


「……桜村奇譚集というものが、私の住んでいる町にあるの。周辺の地域で起きた不思議な出来事や、土地の風習などが書かれたその本に貴方の話も載っている。とうかえひいかえよみちをあるく……と歌う女の人のことが。夜眠っている時出会うその人は自分の提灯と、貴方の提灯を交換しましょうと言ってくる。それを拒否することは出来ない。夜が明けるまでその人と歩いた後、女の人は交換して手に入れた提灯の灯を消そうとする。けれど、彼女がそれを消す前に、彼女から貰った提灯の灯りを吹き消さないと……死んでしまう。だから彼女と出会い、提灯を交換したら……朝が来た時、彼女よりも先に灯りを吹き消しなさいってその本に書かれていた」

 桜村奇譚集を何度も読み返しているさくらは、その話のことも覚えていた。

 灯りというものはいつだってあるもの――命を象徴するものなのだ。女の灯りを吹き消すということは、女の命を吹き消すこと。女の命を吹き消すということは、女を殺すということ。


「だから躊躇っているの。馬鹿な子。貴方がその灯を私よりも早く吹き消さなければ、貴方死んでしまうわ」


「分かっているわ。けれど、けれど」


「私は構わないわ、どちらでも」

 本当にどちらでも構わないという様子だった。自分が死ぬか、さくらが死ぬか……どちらでも良いようだった。


「貴方は死んでも、また生き返る?」


「さあ。けれどこの世界は永遠の世界だから……そうね、生き返るかも。そしてまた新たな人間をここに連れてきて、同じことを繰り返すのかもね毎晩、毎晩。案外私もまた、あの王子様と同じ『物語』なのかもね。誰かが作り、葬った物語。それをその桜村なんとかというものを書いた人が拾い上げてしまったのかも。誰かの灯を消すか、誰かに灯を消されるか、永遠に続ける『物語』なのかもね、私って」

 自らを嘲るように、笑う。彼女もまたこの狂った世界の住人。ならば当然彼女も他の者達と同じように永遠に何かし続ける存在なのだろう。


「貴方も同じなの? 自分がどういう者なのか、知らないの? 分からないの?」


「ええ、分からないわ。他人のことは馬鹿みたいに分かるけれど、自分のことは呆れる位何にも分からないの。私に『昨日』の記憶はない。歌いながらあの道を歩き、貴方と出会った所から私というものは始まっている。もしかしたら私達、毎晩こうしてこの世界で会っているのかもしれないわね。貴方は産まれる前からずうっとここで私と、今晩と同じことをしていたのかも。ねえ、それを絶対に有り得ないということは私にも、貴方にも出来ないわ」

 そして、と短い沈黙の後再び女が口を開く。


「この物語の結末……どちらが先に相手の灯を吹き消すかということも私は知らない。分からない。それは貴方にも分からない。さあ早く選びなさい、自分が生きるか、相手を生かすか。貴方が選ばないというのなら、私が選ぶ。私は決められたことしか出来ない。相手が灯りを吹き消さないなら、私が灯りを先に吹き消す」

 女の椿花の唇が再びさくらの灯りに近づく。金魚の間抜けな目が、今はとても怯えているように見えた。

 それを見た時さくらは心に決めた。生きるのを簡単に放棄出来る程、さくらは自分の人生をつまらないものだとは思っていなかったから。


 ふう、と青白い灯りに向かって息を吐く。吐息は風となり、女の灯を散らす。

 風に吹かれた花びらのようにそれは散って、消えてなくなる。途端その灯りを包んでいた睡蓮もぼろぼろと崩れて地面に落ちてすっかりなくなってしまった。

 気がつくと、さくらは先程まで冷たくて仕方のなかった右手が、そして心と体が温かくなるのを感じた。見ればさくらはあの金魚型の提灯を手に持っている。


 その提灯をついさっきまで持っていた女は、消えていた。一つの言葉も残さず、あまりにあっけなく逝ってしまった。しかしこの世界が繰り返しの、永遠の環の世界ならばまた彼女は次の夜が訪れる頃には生き返り、今晩のことは忘れてまた同じようなことをするのだろう。

 灯換えをする相手はさくらかもしれないし、別の人間かもしれない。


 さくらは目を覚ますと、全てを忘れてしまっていた。夜出会った物語は、夢の彼方へと葬り去られてしまい、もう彼女の頭のどこにもない。ただ何となく恐ろしい夢を見たことだけは覚えていた。

 だから、もしさくらが今晩もあの世界へ行ったとしても彼女は「ここはどこだろう?」と思うだろし、あの女と再び出会っても初めて出会った人だと思うだろう。

 もしかしたら、さくらは毎晩彼女と出会い、狂った世界を歩き、そして彼女の提灯の灯りを吹き消しているのかもしれない。

 もしかしたら、もしかしたら。


 とうかえひいかえ よみちをあるく

 おまえのひいは わたしのものじゃ

 わたしのひいは おまえのものじゃ


 とうかえひいかえ よみちをあるく

 あさがくるまで よみちをあるく

 よるがきたら おわりじゃ

 あかりをけしたら とうとうおわる


 とうかえひいかえ よみちをあるく

 とうかえひいかえ よみじをあるく

 

 わたしとおまえ よみちをあるく

 わたしかおまえ よみじをあるく……

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