第三十四・五夜:地に墜ちる白羽
『地に墜ちる白羽』
何百年前か前のある日、日本のある場所で烏白は産まれた。同じ日に産まれた兄弟達と共に烏白は成長し、みるみる内に大きくなった。
兄弟達も、両親も皆体は黒かった。だが何故か烏白だけは。彼だけは生まれつき違う色であった。
烏白の体は、白い。他の皆は黒いのに自分だけは一点の穢れも無い色、まるで雪を身にまとったような姿をしていた。最初の頃特別彼は自分の体の色と、家族や仲間の体の色が違うことを意識していなかった。ただ毎日生きるのに必死で。そのことを意識し始めたのは一体いつの頃からだったか。自分と他者が違うことに。そのことに気がついた彼は同時に、皆の自分を見る目と、他の者を見る目が違うことにも気がつくようになった。
その瞳に込められている感情が決して優しいものでも、温かいものでもないことを理解するようになったのは更に後のこと。
皆と自分は違う。自分だけ違う色をしている。そして皆はその違いを快く思っていない。
烏白に向けられる奇異の目、恐ろしい化け物でも見ているかのような目、憎悪や侮蔑の込められた目……。母親でさえ彼のことをそういう風な目で見たし、他の兄弟や仲間とはよくお喋りするくせに、自分とは必要最低限の言葉しか交わそうとしなかった。
一人前になった後も、彼を見る皆の目が変わることはなかった。群れの中にも馴染めず、伴侶を得ることも出来ず、彼はどんどん孤独になっていった。
そうやって自分を孤独にした自分の体を、その色を烏白は嫌うようになっていった。胸の中に生まれた小さな気持ちは時を経てどんどんと膨らんでいき、やがて『嫌い』から『憎い』へと変わっていく。
どうして俺はこんな体に産まれてしまったのだろう。こんな色の体でなければ、今頃幸せだったろうに。こんな色の所為で。
彼は白、という色を憎悪する。水面に映る自分の姿を見てどうしようもなく腹が立って、足を使って水をぐちゃぐちゃにかき回してその像を消そうとし、近くにいた他の鳥に嗤われたこともあった。
他の烏が彼は羨ましかった。玉虫を下に敷き詰め、上に黒い布を重ねたような、或いは空に浮かぶ虹と黒を混ぜて作った染料で染められた体が。水に濡れるとそれは赤や緑色に光って、美しい。
烏白の目はやがて仲間の体だけではなく、他の生き物や、周りの景色にも向けられるようになっていく。彼は世界にある、ありとあらゆる『色』に目を向けるようになった。そうしてじっと見ていると、今まで意識しなかったことを意識するようになっていき、気がつかなかったことにも気がつけるようになった。
空の色は時間や、その日の天気によって変わる。全く同じ環境だから全く同じ姿を見せる訳ではない。日によって微妙に変わる。全部同じ色で塗りつぶされているわけではなく、色合いが薄い部分や濃い部分がある。朝や夕は特に色の違いが顕著で、様々な色が集まって一つの空が作られている。空だけではない、他のものも同じだ。
花や果物、動物はそれぞれ自分だけの色を持っている。顔つきや大きさが違うように、色もまた個々で違うのだ。
色というものは本当に面白いものだと烏白は思うようになる。世界には一体どれだけの色が溢れているのか、自分の知らない色もまだ沢山あるのだろうか、そう思うと彼はわくわくした。
彼は色、というものを愛しく思うようになる。思う度、自分の体にそれが存在していない現実を突きつけられ、胸を痛める。胸が痛めば痛むほど、彼は『色』というものに焦がれていった。自分が持っていないもの、自分が持っていない何よりも素晴らしいと思えるものに。
彼は自分が生まれ育った土地を離れ、全国各地を飛び回るようになる。本来ならとっくに死んでいるはずの年数を生きても、彼は死ななかった。彼はいつの間にか妖となっていた。自分が普通の烏からますますかけ離れたものになってしまったことを、以前にも増して自分に向けられる目が痛々しいものになったことに気がついたことで思い知る。そのことを苦しいと思う一方、彼は嬉しいとも思った。普通の烏とは完全に違う者となったことで得た命。
(俺は他の烏よりもずっと長く生きられるようになった。それが何となくだけれど分かる。世界中を巡る旅をずっとずっとすることが出来る。沢山の『色』を見ることが出来るんだ。俺は本当の化け物になってしまった。けれどそれでも構わない)
化け物……妖になっても、自分の体の色は好きになれなかった。もう一生好きになることはないだろうと彼は思った。
自分が持てなかった色、この先も持てない色。様々な色、この世界を満たす色、色、色、色……。
彼の頭は『色』というものでいっぱいになった。長い時を経て病的ともいえる位になった、色に対する執着心。
その執着心が、彼にある力を与えることとなる。
運命の朝。いつものように彼は目覚め、ふと空へと目を向けた。そして彼は驚愕する。
産まれてこのかた見たことのなかった色をした空が、目の前に広がっていたからだ。烏白は言葉を失い、瞬きすることを忘れ、ただその世界を見ていた。
その時彼が見ていたのは、本来彼は見ることの出来ない世界――人間の見る、色の世界だった。四色ではない、三色の世界。明らかに今まで当たり前のように見てきた世界とは違うもの。
殆ど消えてしまった、金銀の宝石。同じように消えていく黄色っぽい銀の真珠。彼等を消し去ろうとするのは赤と青、そして白の混じった空。限られた時間だけ姿を現す藤の花。息を吸えば甘い香りが体内に流れ込んできそうだった。
淡く優しく、この世界に生きる者達を包み込む色。触れたらきっと柔らかいに違いないと思えるような、色。
烏白はそれを見た時、どうしようもなく胸が熱くなるのを感じた。孤独に、自分に向けられる目に冷えた心が熱くなっていく。その熱はやがて目へ行き、大粒の涙となって流れ落ちていった。
色というものを愛しいと思ったことは幾度もあった。しかし、これ程までに強く感動したのは、涙を流したのは初めてのこと。涙はいつになっても止まらない。沢山の思いが後から後から溢れ出る。
美しい、素敵だ、寂しい、愛して、自分はここにいる、そんな目で見ないで、何て素晴らしい色なのだろう、どうしてこんなことになってしまったのだろう……。
がらりと変わった世界に、激しく揺れ動かされた心。一度動いたら、止まらない。烏白はしばらくの間その場でずっと泣き続けたのであった。
泣きながら、思う。
生まれてきて、良かったと。
その日から彼の一番好きな色は、夜明け、或いは夜の訪れを告げる空の色――赤と青が綺麗に溶け合い混ざり合った――藤色になった。
そして彼は、人間や鳥以外の動物が見る『色の世界』を見られるようになった。更に広がる世界。今まで以上に彼は各地を飛び回り、様々な景色を見ることに夢中になっていく。以前行ったことのある場所を再び訪れることもあった。
色々な動物が見る、色々な世界。日によって姿の変わる世界。一日として全く同じな世界は無い。そして少しずつ人間達がそれぞれの色につけている名前も覚えていった。
色が愛しい。自分の持っていないものが、愛しい。長い間続けている旅が、旅先で見る世界が、手に入れた能力が、ますますその気持ちを強くさせていく。
その思いが強くなればなるほど、思い知る。自分は自分が一番愛しいと思えるものを持っていない。一番欲しいものを、自分は永遠に手に入れることが出来ない。白という色が憎くなる。
そして色に対する執着心はますます強くなるばかり。強くなれば……その繰り返し。繰り返して、繰り返して、二つの気持ちは膨れ上がるばかり。それが良いことなのか悪いことなのか、烏白には分からない。
色々な世界を見られるようになっただけでなく、彼はあらゆる生き物が必ず持っている魂の色も見られるようになった。
魂の色も、人それぞれ。魂の色とその人の性格やら何やらが関係あるのかとか、そんなことはどうでもよく、ただ一つとして同じものはないそれを見て楽しんだ。
ところで彼は自分の魂の色がどんな色なのかは知らない。見たことが無いからだ。彼は己の魂の色を見ることを、拒否している。白以外の色だったら良いが、もし魂の色まで白だったら。そう思ったら怖くて見られないのだ。
烏白は旅を続ける。景色や魂を見つめながら。時々人間が自分を指差して、綺麗だねとか素敵な色だねなどと言うのを聞いた。それを聞く度烏白は胸糞が悪くなる。おぞましい色だと、異質な色だと蔑まれるのも嫌いだったが、褒められることも今や少しも望まない。誰よりも忌み嫌っているものを褒められて、嬉しいわけがない。ただそう言われて腹をたてたからって、そう言った者を襲うことはしなかった。自分をじろじろと見る者がいても無視した。
そして十二月の終わり。烏白は長い旅の末、朝方桜町へと辿り着く。町には寝床にするのに丁度良さそうな山があった。旅の疲れをあそこで癒そう。そう思った彼は山めがけ、ゆっくり下降する。
山の麓に、真っ赤な鳥居を見つけた。その鳥居の奥に伸びている石段を何気なく目で追う。その先にあるのは小さな社。
(あの上にでもとまって、ちょっと休もうかな)
烏白はその社のすぐ近くまでゆき、そして驚いた。
社の前に誰かが立っている。そのこと自体には別段驚かなかった。彼が驚いたのは、その人物の髪の色だ。驚いて、声をあげて。目がその髪に引き寄せられ、心がそこにいる者の体に引っ張られて、熱くなる。
あの日、自分に感動というものを与えてくれた空の色と同じ色の髪。触れようと思っても触れられない空と同じ色をした、触れようと思えば触れられる髪、それが今自分の目の前にある。
その人物――男が、人間でないことは一目みて分かった。人が持ち得ないものを、自分とは比べ物にならない力を烏白は体が痛む位感じ取った。
肌は白雪、髪は藤の花。唇と瞳は赤い。恐ろしい位美しく、自分よりも化け物らしい化け物で、触れたらあまりの美しさに身を裂かれてしまいそうだった。
さらさらと揺れる、髪。あの日烏白が見た空を映し出している清水のような、髪。
男は烏白の姿を認め、しばらくは何の感情も無い顔でじいっと見つめていたが、やがてにこりと微笑む。春の陽射しの様な、笑み。
「白鷺だと思ったら、烏だった。これはまた随分と珍しい……それにしても。お前、美しい色をしているね。雪の様に真っ白だ。手で触れたら溶けて消えてなくなってしまいそうだね」
男は笑いながら烏白へと手を差し伸べる。
それを聞いた時、烏白はあの空を見た時と同じ、強く激しい思いに襲われた。
烏白は、自分の体の色が嫌いだ。白という色が大嫌いだ。その色を好きだとか、綺麗だとか言われるのも大嫌いだった。
なのに、不思議なことにその男に言われても腹立たしさを感じなかった。むしろ嬉しいとさえ思った。それはきっと彼の髪が、一番自分の好きな色、自分に新たな世界の訪れを教えてくれたものの同じ色をしていたから。
「俺は、こんな色、綺麗だと思わない」
色々言いたかった。彼の胸に今すぐ飛び込んで泣いてしまいたかった。けれど烏白はその場から動けなかったし、やっとこさっとこ口に出せたのはたったそれだけの言葉だった。
男が微笑みながら首を傾げる。白く細い顔に髪がかかるのも気にせず。
「どうして? どうしてそう思うの」
そう聞かれた烏白は気がつけば自分のこれまでの人生を彼に語り始めていた。
馬鹿みたいに泣きながら、語りたくもなかったことを延々と語り続ける。こんな一方的に、しかも今会ったばかりの烏の話なんかをぺらぺら喋られて、彼は迷惑していないだろうかと不安になったが彼の浮かべている笑みを見る限り、あまり心配する必要は無さそうだった。
一通り喋り終わった時、烏白は全身が冷たくなるのを感じた。恐ろしさを感じるくらい冷たくて、けれどどこか優しい温もりも感じる。気がつけば烏白は男に抱き寄せられていた。
「辛かっただろうねえ、苦しかったろうね。可哀想に……けれど私は美しいと思うよ、お前の体を。お前が他の烏の持っているものを持っていないように、他の烏もまたお前が持っているものを持っていない。その美しさは、その色は、お前だけが持てるものだ。私はお前に会えたことを嬉しく思う。美しい色をしたお前と出会えたことを」
烏白は泣いた。冷たくも優しい声で囁かれた言葉が、どうしようもない位烏白の心を激しく揺り動かしたのだ。
この時初めて彼は、少しだけ自分のことを好きになった。目の前にいる男が綺麗だと言ってくれた自分のことを。
更に男は口を開く。
「ねえ、お前は手にいれたいのだよね。自分が持っていないものを。……流石にその体を別の色に染めることは出来ないけれど……。お前は素晴らしいくちばしを持っている。そのくちばしは、魂をその人から抜き取ることが出来る」
思いがけない言葉に烏白は呆然とした。
「そのくちばしを使えば、お前は魂を手に入れられる。それぞれ違う色を持っている魂を手中に収めることが出来る。それはとても素晴らしいことだと思うよ。……ねえ、私がお前に協力してあげる。魂を集める作業の……ね」
甘い、甘い、囁き声。烏白の胸がまたかあっと熱くなった。
(魂を、手に入れられる。あの輝けるものを……俺のものにすることが出来る。そんなことが俺には出来るのか。知らなかった。しかもこの人が協力してくれる。協力してくれるってことは、この人と一緒にいられるということ。嗚呼、俺はこの人と一緒にいたい……)
烏白は頷いた。そしたら彼はとても嬉しそうに笑った。いたずら小僧と同じ笑みを見て、烏白も自然と笑みを零す。
これが、桜町に流れる退屈な位穏やかで静かな時間をぶち壊した事件の始まり。
ちなみに、烏白というのはこの時男がつけた名前である。それまで烏白には名前がなかった。名前など必要ないと思っていたし、実際ずっと一人であった彼には必要のないものだった。名前なんてないと言ったら男は悲しそうな顔をした後にっこり微笑み、それなら私がお前に名前をつけてあげると言い出した。
「お前の体の色はとても美しい白色だ。だから……烏白、烏白にしよう」
もしこの名前を提案したのが男以外の人物だったなら、今頃烏白はそいつを蹴飛ばしただろう。しかし彼がくれたものだから、白という字の入った名前も受け入れた。
烏白は男に、自分は貴方のその髪の色が一番好きだと言った。そうしたら男は嬉しそうに微笑んで「ありがとう、嬉しいよ」と言ってくれて。またそれが嬉しくて仕方なかった。
男は山のある場所に穴を掘り、術をかけた。魂がどこかに行ってしまったり、地に溶けて消えてしまったりするのを防ぐ為なのだそうだ。そしてその穴は男と烏白にしか見えない。穴を覆う『蓋』を開ける鍵は烏白のくちばし。それ以外に開ける方法は無い。魂を入れる宝の箱。
そして烏白は桜町へ早速でかけ……気に入った魂を持っていた者を次々と襲う。初めて成功した時彼は大いに喜んだ。喜ぶあまり、後少しで折角手に入れた魂を離してしまうところだった。自分の体へ戻ろうとする魂をしっかりくわえ、彼の待っている山まで戻っていく。
それから彼はせっせと魂を集め、箱に入れ、時間が経つのも忘れて集めたものを鑑賞する。そうしながら彼は想像する。その色を身にまとい、空を飛ぶ自分の姿を。魂はほんの少ししか抜き取れなかったが、それで充分だった。量などは関係ない。ただ手元に置ければ、それでいいと思っていた。
紅葉に染められた夕焼け山、赤と黄、緑。
ほろ苦くて香ばしい実を抱いた胡桃の殻。
天へと上る炎。
太陽の子供、向日葵が集まって一斉に伸びをしている畑。
光の網にかかった大海原。
あらゆる景色を想起させる魂の色は、烏白にとって何よりの宝だった。魂だけではなく、この町にある様々な色も思う存分眺めて楽しんだ。
それらの色が、烏白を色々な姿へと変える。想像の中では烏白はどんな色だって手に入れられた。
そんな烏白に男はふくろうの染物屋の話を聞かせてくれた。それを聞いた時、烏白は不思議に思った。彼には、白という色を憎悪している彼には物語に出てきた烏の気持ちが全く理解出来なかった。
(どうしてその烏は怒ったのだろう。良いじゃないか、黒に染めてもらって。俺だったらふくろうに感謝する。ありがとうって絶対に言う。白より汚い色なんてあるもんか。白以外の色は何だって綺麗じゃないか……ふくろうはちゃんと願いを叶えたじゃないか)
思った通りのことを口にしたら男は笑って「そうだねえ、おかしいよね」と烏白の頭を撫でてくれた。
ある日烏白は男に誘われ、人間と、いや、人間で遊んだ。
「お前のことを調べようとしている人間達がいるようだ。ねえ、そいつらをからかってあげよう。そいつらで遊んでやろう」
人間と遊んだことなどなかったが、男があまりに弾んだ声で言ったからああきっと楽しいんだろうな、と思って烏白は頷いた。実際遊んでみたら楽しかった。誰かが慌てふためくさまがこれほどまでに面白かったとは烏白も思わなかった。
商店街なる場所でも、遊んだ。
「烏白、あそこにいる男の髪を思いっきり掴んで引っ張ってごらん。あの男はかつらってものをつけている」
かつらとは何だろう、と思いながらも男の言う通りにしたら髪の毛が丸ごとすっぽん! ととれて驚いた。驚いてから、烏白は大笑い。それをとられてうろたえている者の姿を見たらますますおかしくなった。
男はあの弁当屋だけは襲うな、と烏白に指示する。何でもそこは男のお気に入りの店なのだとか。そしてそこで働いている人も襲ってはいけないと言う。
烏白は男の言うことは何でも聞いた。だからその店も、そこにいた人も襲わなかった。
男は烏白を、あらゆる攻撃から守ってくれた。
「お前の美しい体には傷一つつけさせないよ」
と言った男の言葉は慈愛に満ち溢れていた。烏白は母親っていうのはこういう愛をくれるものなのかなとぼうっと思う。
烏白がちょっと不快に思った音を出す機械も、彼を捕らえようと設置された見えざる網も、彼を脅かすものは全て男によって壊された。
「守ってあげるよ、私が。お前は安心して自分のやりたいことをやればいい。お前が喜ぶ顔を見ていると、私も幸せになれる。だから私は全力でお前を守る。愛しいお前を、お前の笑顔を私は守るからね……」
今までかけてもらったこともない言葉。母親からさえもらえなかったもの。
何百年も生きて、ようやく貰えた。
(この町に来られて、俺は幸せだ。あの人と出会えて……良かった)
改めてこの世に生まれてきて良かったと思う烏白だった。自分のことを愛しいと言ってくれる人、自分が心から愛しいと(勿論恋愛感情などではなく、親愛という感情だ)思える人と出会えたことを心から喜ぶ。
数日間。ほんの数日間だったが、その数日間は今まで過ごした日々全部集めても敵わない位大切で、充実した日々だった。
烏白は彼と一緒に遊ぶこと、そして人間等の生き物をからかって馬鹿にして遊ぶことにすっかり夢中になり、沢山、沢山遊んだ。どれだけ調子に乗っても、強気な態度に出ても大丈夫。何故なら男が自分のことを守ってくれるから。自分を捕まえようとしている人間や妖とも遊んだ。その人達は男の知り合いらしい。
「あの人達とも遊んでいいの?」
「いいさ。私もあの子達と遊びたい。好きな子はいじめたい。いや、好きな子とは遊んであげたい」
烏白は人間の娘二人を傷つけたり、彼女達から魂を抜いたりしてはいけないとだけ男に言われた。後は自由にやった。
男と共に過ごす時間。想像の中で様々な色を身にまとい大空を飛びまわる時間。世界中に溢れる色を飽くことなく眺め続ける時間。
それらの時間は永遠に続くものだとこの時の烏白は思っていた……。
*
烏白は『あの人』と約束した。今日の朝、世界の色が紺から青へと変わっていく様子を一緒に見ようと。
青と赤が上手く混ざり合って、彼の髪と同じ色をした藤色の空が広がれば良いなと烏白は思う。あの日見た、世界を覆った藤棚。あれと同じものを、誰よりも自分が愛しいと思う人と一緒に見られたらどれだけ良いかと彼は思った。
凍えそうな位冷たい空気で身を切り裂かれるような思いをしながらも、彼は静寂の世界を一羽、悠々と飛び回っていた。いつも寒いが、今日はいっとう寒いと思う。もしかしたら今日は雪が降るかもしれないと思ったら、体がぶるっと震えた。あの自分の体と同じ色をしたものが空から降ってくるさまはいつ見てもおぞましく、ただその風景を想像しただけで嫌になる。
金銀の小さな宝石達が少しずつ、見えなくなっていく。ああもうそろそろあの人と約束した場所へ行かなくてはと烏白は高度を少しずつ下げていく。
眼下に広がる建物の群れ、その群れに追いやられるようにして、いや逆にその群れを追いやるようにして存在している一つの山。桜山という名前であることを、彼はあの人から聞いていた。春になると沢山の桜の花が咲いて、薄桃色の衣に着替えるのだという。その時期は本当に短くて、だからこそ愛しく美しいと思えるのだとあの人は語った。今ははげている木の方がどちらかといえば多いこの山が、薄く柔らかい衣を身にまとう姿を想ったら寒さに凍てつく体も温かくなる。春が早く来ればいいと思う。春が、せめて春が来るまではこの町にいたいと烏白は思った。
(大丈夫、あの人はきっと俺のことを守ってくれる。妖怪達が束になってかかってきても俺を傷つけることは出来ないし、あのお嬢さん達がどれだけあがこうが、無駄だ)
烏白は山の麓を目指す。やがて見えてくるのは真っ赤な鳥居。その鳥居の後ろにある石段を上ると、社がある。烏白とあの人が出会った場所だ。鳥居の前に誰かが立っている。ああきっとあの人だと思って烏白はそこめがけて飛んでいく。
だが、そこにあった姿は自分が思い描いていたものと全く違うものだった。
そこにいたのは一匹の狐だ。普通の狐よりもずっと大きく、ちょこんとお行儀よくそこに座っていた。
体の色は、白い。烏白のように純白ではなくほんの少し黄色がかっていたが、ほぼ白といっても良いものだった。艶のある毛並み、細い肢体、妖しい色香漂わせる体つき。しかし女狐ではなさそうだ。その姿に烏白はぞっとする。あまりに恐ろしく、美しいその姿に。ふわ、ふわ、ゆらりゆらりと体の後ろで揺れる大きな尻尾が、烏白の体内を何度も、何度も撫でる。あまりの恐ろしさに彼は吐きそうになった。
白い顔に埋め込まれた、二つの赤く冷たい宝石が、烏白の姿を捉える。空気にやや触れた血の色、月の光を浴びた雪のみせるものと同じ輝きを奥底に秘めている。それを見た時、烏白は悟った。その輝きには見覚えがあったから。
(あの人だ――あの狐は、あの人なんだ)
烏白は今の今まで、あの人が化け狐であったことをすっかり忘れていた。確かに彼は出会ってすぐそのことを話してくれていたのに。あまりにも普段見せている人の姿がさまになっているものだから、真の姿は狐であることを記憶の彼方へと追いやっていたのだ。
白、という色は好きではない。いっそ真の姿も藤色の毛並みに覆われた狐であれば良かったのにと烏白は少し失望する。それでも彼の姿は美しく、それでもあの人のことを愛しく思うことに変わりはなかった。
烏白はあの人の下へと向かう。彼と一緒に朝の訪れを見るのだ、ずっとあの人と一緒に見たかったものを。
しかし彼の間近までやって来た時、烏白の体はとてつもない衝撃に襲われる。
狐が、あの人が烏白に飛び掛ってきたのだ。そして次の瞬間冷たい何かが喉元へと突き刺さる。羽ばたいてもいないのに、宙で止まる烏白の体。狐――あの人に喉元を食いちぎられたことを理解したのは、彼の氷の刃から解放されてからのこと。くるくる回りながら、烏白の体は地へと墜ちていく。予想だにしなかった自体に頭の中もぐるぐる回っている。
べちゃり。冷たい地面についたのと同時に、そんな嫌な音がした。自分の体に液体状の何かがついていることを伝えるもの。
冷たいもので貫かれた場所が、熱くて痛い。そこから生暖かいものが流れ続ける。それの色を見た時、烏白は頭が真っ白になった。それは命を繋ぎとめる大切なもの。それが流れ続けることは、死を意味する。
痛い、熱い、熱い、痛い。熱さと痛みに悶える烏白は自分を突如襲った事態が理解できなかった。頭の中は真っ白で、熱くて冷たい。
自分を見下ろしている狐の口元が真っ赤に染まっている。紅に染まった口を、それとよく似た色をしている瞳を、烏白に向け続けている。その瞳があまりに冷たくて、しかもその中には嫌悪、憎悪、侮蔑という感情が渦巻いている。そんな感情のこめられた瞳が、自分に向けられている。あの人が、自分のことを綺麗だと、愛していると優しく微笑んでくれた人がそんな目を向けることが、烏白には信じられなかった。しかし目の前にいる狐は間違いなく『あの人』だった。
狐が、口の中にたまっていたらしい血を吐く。直後彼の姿はぼやけ、再びはっきりした時には見覚えのある姿になっていた。細い体、赤い瞳、藤色の着物――自分が何よりも美しいと思ったものと同じ色をした、長い髪。
彼は自分の口についた血を着物の袖で拭き取り、それから顔をしかめる。
「ああ、気持ち悪い。後でこの着物は焼き捨てないと……まあもうどうせいらないと思っていたものだからいいけれど」
今着ているものは実際に買って身につけているものらしい。わざわざ着なくても、イメージ出来ればわざわざ買わずとも幾らでも好きなものを着られるが、矢張り本物とイメージしたものだと色々違う点もあるらしい。
「どうして……」
やっと絞りだせたものは声と呼べるかどうかさえ怪しいものだった。しかし少なくとも問いかけた相手には通じたらしい。彼は烏白を見てふん、と鼻を鳴らした。もうそこには烏白の知っている彼はいない。しかしまだ烏白は、今いる彼こそが本当の彼であることを受け入れていない。
「どうして? そんなこと聞かないと分からないの? 馬鹿を通り越して、気持ちが悪いね。ああ気持ち悪いのは元々か。私はね、お前のことなど少しも好きじゃなかった。その体を綺麗だなんて、微塵も思っていない」
それは烏白が彼と過ごした数日間を全否定する、あまりにも冷たい言葉だった。烏白の体に雷が落ちる。氷の様な色をした稲光が、彼を貫いた。体が小刻みに震える、見開いた目を閉じられない。
「お前の姿を初めて見た時、私は大層不快な思いをした。気持ちよく迎えようとしていた朝が、お前のせいで台無しになった。今すぐ殺してやろう、ずたずたに引き裂いてやろうと私は思った。けれど、お前のくちばしを見た時気が変わった。魂を抜き取れる力を秘めた、見えざるくちばし。その存在に気がついた私は嬉しくなったよ。素晴らしい玩具を手に入れられるかもしれないと思い、私はお前に優しい言葉をかけた。どうでも良いお前の歩んできた道のりを、微笑を浮かべながら聞いてやった。全く大変だったよ……お前を殺したいという衝動をおさえながら話を聞くのは。ああ、ぴいぴい泣き出したお前の顔を見て爆笑するのをこらえるのもね。その髪の色は、俺の一番好きな色だと語るお前を心の中で見下しながら『ありがとう、嬉しいよ』と心にもないことを言ってあげた」
突然語られた真実。彼はひたすら冷たく、淡々と語る。その中にある様々な感情は全て烏白を傷つけるものだった。嘘だと思いたかった。しかしどう見ても嘘を吐いているようには見えなかった。
「信じられない? 今話していることが真実だと思いたくない? けれど残念ながら、これが真実だ。今までが嘘だったんだ。私はお前という玩具を手に入れ、沢山遊んだ。私のことを慕ってくれているお前の気持ちを利用して。最後はこうしてお前の心を粉々に打ち砕いて、全て終らせようと最初から決めていた。……全く、お前は今の今まで生き延びていられたことに感謝するべきだ。私は何度お前を八つ裂きにしてやろうと思ったか。その度まだ駄目だ、我慢しろと自分に言い聞かせて、耐えて。気持ち悪くて、おぞましくて、憎らしくて。お前が笑い、お前に触れ、お前に優しい言葉をかけてやる度吐き気がした。もうあんな思いはごめんだよ」
あまりの言葉に、涙さえ出てこない。頭は真っ白なまま。冷たい言葉は氷となって絶えず彼の体を刺し続ける。傷口から体内へ侵入していく、彼が烏白に抱いていた本当の気持ち。憎悪や嫌悪、侮蔑……。
「今だって、そうだ。もういっそ死にたいと思える位気分が悪い。ああ、頭が痛い。口の中がお前の血でいっぱいで、気持ち悪い。……何? どうしてそこまで俺のことを嫌うのかって? 俺は何もしていないのに? そうだね、お前は私に何もしていない。恨みを買うようなことは何一つしていない。けれど私はお前が嫌いだ。どうしてか、分からない? 分からないだろうね、お前は馬鹿だから」
それから男は、今までで一番冷たい瞳、冷たい声で烏白を蔑んだ。
「……私はね、白って色が大嫌いなんだ」
その言葉に、頭をがつんと殴りつけられた烏白だった。
自分が白という色を嫌っていたように、彼もまた白という色を嫌っていたのだ。
「世界で一番おぞましい色だ、白というものは。だから白鷺とか、白鳥とか、そういう鳥も好きじゃない。勿論白い動物もね。お前みたいに本来は黒いはずのものが、白い色をしているなんていうのは尚更だ。普通は黒いはずのものが白い。そしてそんな生き物が私の前に現れて。なんの嫌がらせかと思ったよ。しかも私がちょっと優しい言葉をかけたらすっかりその気になって、調子に乗って。お前のせいで本当私は疲れた。心身ともにね。自分の足で駆けなかったとはいえ、町や山中を動き回る羽目になったのだから。あれだけ疲れる遊びはもうごめんだし、第一もう、飽きた。私が飽きたから、もう遊びは終わり。お前の人生ももう終わりだ」
そう言いながら男は烏白から視線を逸らし、背後にそびえる山を見た。
「紗久羅ややた吉達は、私がお前の協力者ではないのだろうかと一度は考えただろう。けれど、その考えはすぐ排除されたに違いない。やた吉達は私が白という色を嫌い、憎んでいることを知っている。我慢してまで嫌いな色の体をした生き物と行動を共にすることはないだろうと思っただろうね。彼等の考えは間違っていない。けれど、間違っていた。私は遊びの為なら、何かを傷つける為なら自分の気持ちだって偽れる。何だって出来るんだ。彼等は私のことを分かっているようで、分かっていない。馬鹿な奴等だ……けれど、私はあの二羽のことが嫌いじゃない。お前なんかと違って、体の色は黒いし」
烏白は体をぴくぴくさせながら、二日に渡って遊んだ人間の娘のこと、そして彼女の手伝いをしていた少年二人のことを思い出す。その少年達が自分と同じ烏の妖であることは知っていた。背中に生やしている翼を、烏白は羨ましいと思った。自分が手に入れられなかった色の羽は宝物のように輝いて見えた。
人間の方に怪我をさせてはいけない、と言われていたからというのもあったが自分が持っていないものを持っているのが羨ましく、また妬ましかったから彼は執拗にやた吉とやた郎という少年二人を攻撃したのだった。
男は、気持ち良さそうに伸びをする。
「ああ、ようやく楽になった。後は帰って風呂に入って、着物を焼き捨ててしまえば何もかも終わる。晴れやかな気持ちで新年を迎えることが出来る。お前はもう、いらない。さっさと死んでおしまい。お前のその気持ち悪い体を見なくて済むって思っただけで笑いが止まらない。ああ、でも今のお前は嫌いじゃないかもねえ……私の一番好きな色に染まっているから」
男がにっと笑う。生暖かいものに染められた烏白の体を見て。
しかし烏白が本当に望んだのは、この色ではない。求めていた色は、この体を染めたいと思った色は決してこの色ではなかった。
男が烏白に背を向ける。彼は振り返らない。何かを手に握りしめながら、鳥居へと向かっていく。烏白は彼を引きとめようとした。散々傷つけられなお、彼の姿をこの場所に留めておきたかった。
(どうして、どうして、どうして……ねえ、聞いて、聞いてよ。俺だってこの体の色、好きじゃないんだ。大嫌いなんだ。貴方と同じなんだよ、俺だって。俺達、同じじゃないか。白という色を嫌う……同志じゃないか。ねえ、貴方だって知っているでしょう。俺は自分の体の色を嫌っていることを。俺達同じじゃないか、同じ、なのに)
彼に向けて、そう言ってやりたかった。しかし声が出ない。もう何も言えない。
今頃になって瞳から大粒の涙が零れだした。一度零れだしたらもう止まらない。温かく優しい『偽りの』記憶と、命が雫となって後から後から体外へと流れ出ていく。
そして彼はようやく悟った。
自分の気持ちを伝えても全く意味などないことに。男にとって烏白が己の体の色についてどう思っているなんてことはどうでも良いのだ。
相手の好き、嫌いはどうだっていい。男自身が白というものを憎悪していて、烏白を嫌っている。他者の気持ちは関係ない。ようは自分が好きか嫌いか、それだけが重要なのである。今にして思えば彼が『烏白』という名前を与えたのも、嫌がらせだったのかもしれない。白を嫌っている烏に対する、最上級の嫌がらせ。
悟った瞬間、頭がぼうっとしていく。意識が遠のき世界が目の前から消え、自分が世界から消えていくのを感じる。
夜が明ける。空の色が変わる。自分の一番好きな色は世界に広がっているのだろうか、それとも違う色が広がっているのだろうか――もうそれを烏白が確認する術はなく。
烏白は静かに目を閉じる。優しく愛しい思い出は涙と共に全て流れていってしまった。辛く悲しい記憶さえ、映し出されない。
何もかも真っ白になって、憎しみも悲しみも喜びも何もかも無くなって、白になって。ただ今まで白かった体だけが、赤い。
烏白は息を引き取った。直後桜山を散歩していた人が、彼の死骸を発見することになる。そして桜町は再び平穏な時間を取り戻した。
彼によって奪われた魂は地に溶け、消えてなくなった。魂がどこかへ行ってしまったり、地に溶けてしまったりするのを防ぐ術なんていうのは嘘っぱちだったのだ。元から出雲に彼と長い期間付き合うつもりなどなかった。ちょっとの間ごまかせればそれで良かった。
――もし願いが叶うなら、あの日見た空の色にこの体を染めたい。赤と青と白が混ざった、あの空と同じ色に。もし、願いが叶うなら……――