聖なる日に舞い降りる白羽(5)
*
「桜山ですか?」
「うん、桜山。桜村にかつていた巫女・桜と化け狐出雲が祀られているっていう桜山神社に行ったんだ。私言い伝えとか、妖怪とかが出てくる話って大好きだから足を運んでみたんだよ。まあ、ついでに山の中をふらっと歩いたけれどね」
写真も撮っちゃった、と梓は満面の笑みを浮かべながらデジカメを取り出す。
先程の妖しく、どこか恐ろしいとさえ感じた雰囲気は今の彼女にはない。どこにでもいる、明るくボーイッシュな女の人。しかし一度あの笑みを見た以上、二人共身構えずにはいられなかった。
よく見れば彼女の顔や服は所々汚れている。小さな葉っぱもちょこちょこついていた。山を歩いている時についたものなのかもしれない。
「この町に伝わっている話なら、こいつに聞いてみるといい。こいつもそういうのが滅茶苦茶すきだから、結構詳しいんだ」
さくらは弥助にぽんぽん、と大きな手で頭を軽く叩かれた。それを聞いた梓の目の輝きが増す。まるで夜空を加工して作られたかのような瞳がさくらへと向けられた。星の瞬く眩い夜空がさくらの目の前に広がる。梓が顔を彼女へとぐっと近づけたのだ。それを見れば彼女が本当にそういったものが好きであるということは容易に分かる。
「そうなの? やった! さくらちゃんだっけ、今度沢山お話聞かせてね。それじゃあ私はこれで」
そのまま店で何か頼むと思われていた梓だったが、どうやら違うらしかった。
彼女をテーブルへ案内しようとしていた弥助は拍子抜け。
「あれ、帰っちまうっすか?」
「うん。本当は何か飲んでいこうと思ったけれど後にするよ。何だかまた外に出て色々したくなっちゃって」
「色々って仕事? 遊び?」
「秘密。それじゃあ、後でまた来るね。……あ、そうそう二人のサクラちゃん」
開けたばかりのドアを再び開け、元気よくぴょんと外へ出た梓はくるりと振り向き、何とも言えない表情を浮かべている紗久羅達に微笑みかけた。その笑みはとても明るく眩しいものなのに、どこか不気味で二人はぞっとする。
「白い烏、どうにかなるといいねえ」
それだけ言うと梓はドアを閉め、外の世界へと消えていく。かららん、というドアについているベルが不吉な音をたてながら、彼女を見送った。
店の中に残された三人は、しばらくその場に立ち尽くしていた。少しの間続いた沈黙の後、まず口を開いたのは紗久羅。
「……怪しい。あの姉ちゃん、絶対に怪しい」
隣にいたさくらには彼女の言葉を否定することは出来なかった。呆れ、頭を抱えるのは弥助のみ。
「お前等なあ! 何でそこまで彼女を怪しむんだ? たいした根拠もないくせに」
他にお客さんがいる以上あまり大きな声を出せない弥助は、やや小さな声で話す。紗久羅は口を尖らせ、こちらもまた小さな声で答えた。
「だってあの人、出雲と同じような雰囲気漂わせているんだもん。ものすごく明るい姉ちゃんって感じなのに、どこかやばいというか怪しい感じもして。本当は白い烏のこと何もかも知っているくせにしらばっくれているんじゃないかって思えてくるんだよ」
「具体的にこうっていう根拠はないけれど、何だか怪しいと私も思うわ。ええと……こういうのって女の勘っていうのかしら」
「そうそう、女の勘だ女の勘! 男のお前には分からないだろうなあ!」
「どっからどう見ても女捨てているお前等が何言っているんだ」
ごもっとも。実に冷静なツッコミである。
「兎に角。たいした根拠もないくせに、そうやって人を疑ってかかるのやめろよなあ。お前達は人を信じるってことを知るべきだ」
「お前は人を疑うってことを知るべきだ。あんなに怪しいオーラ垂れ流していることにも気がつかないなんて、弥助って本当お人好しっていうかにぶちんっていうか……ああ、両方か。悪い悪い」
「確かに普通の人とは違ったものを持っているって感じはするが、悪さをするとか、人を困らせて楽しむとか、そういうことをするような人間だとは思わないな。動物の勘ってやつだ。やた吉達が言うには白い烏は――なんだろう? 協力者っていうのも同じなんじゃねえのか? しかし奴さん、どんどん行動が派手になってきているようだな。目撃情報とか色々聞いたが、どうも最近は人間のみに関わらず、猫や犬、鳥まで襲っているとか。上手いこと胸をがつんと突くそうだ。……どうも昨日、その白い烏に襲われた直後一匹の老犬が死んじまったらしい。元々もうそんなに長くは無いといった感じの犬だったらしいし、烏に襲われたことが直接の原因だったのかどうかは分からないそうだが」
近頃あまり元気が良くなかった犬が、散歩に行きたがっていたので久しぶりに外へ出し、飼い主と一緒に歩いていたところを烏に襲われたらしい。犬が驚き、一瞬体勢を変えた瞬間胸の辺りをついたのだそうだ。
「三つ葉市や舞花市にも白い烏に襲われた奴がいるようだ。胸を突かれた人間も大分増えている。ただ相変わらずその場に大勢の人間がいても、そうやって襲う人間は一人だけのようだが。単純な悪戯ではなく、胸を突いて何かをしているのかもしれない。ただその『何か』は一回につき一人相手にしか出来なくて、時間を置くとか何らかの条件をクリアしないと再び出来るようにはならんのかもな」
その何かとは何か、とさくらは聞いたが弥助は「分からないから『何か』って言ったんじゃないか」と返すのみ。
結局二人は弥助に追い出されるようにして店を後にした。
秋太郎の家へ戻ってみると、やた吉がいなくなっていた。一人寂しくちょこんと正座をして二人の帰りを待っていたやた郎が事情を話す。
「やた吉は今、桜山へ行っているよ。実は二人と話をする前から、山の空気が妙にざわついていて……ずっと気になっていたんだ。そのことが白い烏と関係あるのかは分からないけれど、念の為やた吉が様子を見に行った。俺も一緒に行こうと思ったけれど、二人が帰ってきていないのに勝手に家を空けるわけにはいかないと思って」
今からやた郎も山へ向かうらしい。
「あたしも一緒に行く!」
「私も」
どうせそう言うと思っていた、とやた郎。本当は何が起きているのか分からない場所へ連れて行くのは気が引けるようだが、拒否したって二人がついてくることは分かっていたから特別その申し出を断りはしなかった。
鍵をかけ、再び喫茶店へと足を運んで秋太郎へ鍵を返し、桜山へ。道中二人はやた郎に夏目梓のことと、白い烏の行動がますます派手になっていることを話す。
「動物も襲っているんだ。人間に限らず、生き物だったらなんだっていいってことか。で、その烏を助けているかもしれない人と今日二人は会った……と。出雲の旦那と同じ感じ、か。その人が持っている異質な力がそういう印象を与えているのかもしれないね。けれどそれだけじゃあその人が真実術とか扱える人で、白い烏のことを何かと助けていると結論づけることは出来ないね」
やた郎はいたって冷静だ。そういう風に言われると二人もそうだよなあという気持ちになる。弥助のように全力で否定されると、こちらもついムキになって自分の考えを押し通そうとしてしまうのだが。
先に山へ行っていたやた吉は、この登山道の入り口辺りに立っていた。彼は早く何かを報告したくていてもたってもいられない様子。三人の姿を認めると、顔を上気させながら手招き。
「やた吉、やっぱり山で何かあったのか?」
「ああ。空を飛んで山の様子を見ていたら、倒れている妖を見つけた。その妖がついさっきまで山で起きていた出来事を話してくれた。聞いてくれよ、例の烏、今日はこの山に住んでいる妖達を襲ったんだ! かなりの奴が何かしらの被害にあったらしい」
これには三人、びっくり。
「とうとう妖怪にまで手を出したのか……ていうかこの山って結構いるの、妖怪」
「ああ、うん結構いるよ。最低ニ百人はいるんじゃないかなあ。昔に比べるとかなり減ったけれど」
「こんな小さな山に、それだけの数の妖怪が住んでいるのかよ!」
鞍馬という天狗がこの山に住んでいることは知っていたが。紗久羅はうんざりした顔。対してさくらといえば、沢山の妖がこの山に住んでいるという事実に興奮気味だ。今度徹底的に山を探検し、妖を見つけたいと考えていそうな顔が痛い位眩しい……というか痛い。
それからやた吉は、白い烏に襲われたという妖から聞いた話を三人にしてやった。
「やっぱり白い烏は妖のようだ。妖がそう言っているんだから、間違いないだろう。それでその妖も、そいつ自体はそれほど強い力を持っていないって言っていた。一言で言うと『雑魚』なんだってさ。けれどえらくすばしっこい上に、ものすごく強い力をもった誰かが彼を助けていて、その誰かに全員振り回されまくったと」
妖達の攻撃を打ち砕いたり、跳ね返したり、彼等に幻を見せて混乱させたり――あらゆる手段で妖達を翻弄したようだ。白い烏は自分は守られているという安心感からか余裕ぶっていて、またその態度に皆大層むかついたが結局彼に傷一つ負わせることは出来なかったようだ。
「死人こそ出なかったようだけれど、怪我した奴は結構いるようだよ。重傷を負ったのもいるって。おいらが話を聞いた妖は怪我こそしていなかったけれど精神的にへとへとって感じだった」
妖と白い烏、姿の見えない誰かの戦い自体は四人が秋太郎の家で話を始める前には終わっていたようだ。人が最早足を踏み入れない場所で、人知れず起きていたとんでもない騒ぎ。白い烏と誰かによって平穏な時間をぶち壊された山の妖達に紗久羅はほんの少しだけ同情した。一方、彼女はある人物のことを思い浮かべていた。さくらも同様に。紗久羅の視線がさくらへ、さくらの視線が紗久羅へと向けられる。お互いその目を見れば自分と考えていることが一緒であることはすぐに分かった。
「さくら姉、あの姉ちゃん確かさっきまで桜山にいたんだよな」
「桜山神社に行っていたと本人は言っていたけれど、それが本当のことなのか」
彼女に対して抱く疑惑に拍車がかかる。もしかしたら梓は桜山の奥の方へ行って、白い烏と一緒に遊んでいたかもしれない。
二人が何のことを話しているのか分からず首を傾げるやた吉に対し、さくらが梓のことを話した。話を聞いたやた吉は腕を組み思案顔。
「二人してそう感じた以上、何かしらの力は持っているのかもね。ううん、けれど人間が妖達の住んでいるような場所までそう易々と行けるとは思えないんだけれど。割と登山道に近い場所にいる妖もいるけれど、殆どは相当な山奥、人間用に整備された道なんて少しも無いような場所に住んでいる。実際今回襲われた妖達も殆どそういう場所で暮らしていた奴だし。しかも白い烏を追う妖達の邪魔をしていたってことは、協力者も彼等と一緒に山道をひたすら走っていたんだろう? 人間にあんな場所走れるかなあ?」
「九段坂のおっさんみたいに、妖怪を支配下に置いていて、その妖怪に助けられながら……ってこともあるかもしれないじゃないか。それで、その妖怪も気配を隠していた」
まあそれなら可能かもしれないけれど、という彼の声は小さい。
「ていうか気配を消すってすごい技だな、万能すぎるな」
「場が混乱していて、かつ皆の注意が白い烏に向いているから余計気がつかれにくいんだ。白い烏にではなく、隠れている奴に目を向けようとしても意識はどうしても烏の方に向いてしまうし。後は気配を消している人の力量だね。普通は完璧にまでは消せないよ」
悔しいが感心せざるを得ないとやた吉。やた郎もそれに同意した。
「これからどうする、やた吉。白い烏を探すか、それとも他の妖達に話を聞くか」
「もう少し話を聞いて情報を集めた方がいいかもしれないね。もしかしたらより有力な情報をもっている妖がいるかもしれない」
「私達も」
行く、と言おうとした。
その時、四人の耳に届いたばさ、ばさ、ばさという羽音と聞き慣れた鳴き声、かあ、かあ、かあ、烏が、かあ。一同ぎくりとし、まさかと思って音のした方――登山道がある方――を向いた。そしてああ、そこには想像した通りの姿があった。
登山道をほんのちょっと登った場所に、一羽の烏が舞い降りていた。
まだ昼なのに、夜を身にまとってざわついている木々。その木々に囲まれた茶色、山のでこぼこ肌。そこに二本の足をつけるのは、羽もくちばしも真っ白な烏。地面に触れて汚れる前、空をひらひら舞っている時の雪の色と全く同じ色が眩しい。触れたらとてもひんやりしていそうだ。
近頃桜町を騒がせている、一羽の白い烏が四人の前に現れた。
とても悪戯などしそうもない、人に災い一つ運ばぬ者に彼は見えた。むしろ生きとし生ける全てのものに幸福を授ける者に見える位その体は美しい。
だが実際は、人間だけではなく他の動物、妖等誰これ構わず襲うとんでもない烏なのだ。普段は死んでいるのではないかと思える位静かで平和な町が、最近悲鳴や叫ぶ声、怒声などでいっぱいになってしまったのは殆ど彼のせいである。
白い烏は四人の姿を順番に眺めた後、笑い声をあげた。それは明らかに人が発するようなもので。けたけた、けらけら。
「あんた達、俺のこと調べているんだろう?」
「ぎゃあ! 烏が喋った!」
「ちょっと待って紗久羅ちゃん落ち着いて! 喋る烏なんてもう私達にとっては珍しくもなんともないわ! 今紗久羅ちゃんの真横にいる二人のこと思い出して!?」
無邪気な少年のような声で喋った烏に対して悲鳴をあげた紗久羅に、さくらが即つっこんだ。ついさっきまで一緒に喋っていたやた吉やた郎もまた烏であることを紗久羅は忘れているらしい。いや、或いはある意味ずっと会いたくて仕方がなかった烏が突然現れたことに動揺したからなのかもしれなかった。
烏はそれを見て大層愉快そうに笑う。またこの笑い方が非常に腹立つのだ。
その馬鹿にしたような笑い方は出雲がよくやるものだった。出雲にそうやって笑われるのが大嫌いな紗久羅は当然のことながら怒り、自分達を見下ろすようにしている彼を睨んで叫んだ。
「うるせえ、笑うなこの烏野郎! 鳥の糞みたいな色の体しやがって!」
「失礼な、人のことを糞扱いするなんて。それに俺は烏野郎って名前じゃないよ。俺にはちゃんと烏白って名前があるんだ」
白い烏――烏白が、全く嫌になっちゃうよとばかりに息をつく。
「くそ烏の分際で一丁前に名前なんてあるのかよ!」
「うん、何かごめん……」
「いやお前達には言っていないから……」
烏白の方はさほど気にしていないようだが、彼女の言葉を隣で聞いていたやた吉とやた郎が肩を落とす。
「あはは、あんた達面白いねえ」
「うるさい、この烏野郎!」
「だから烏白だって。二度三度言わないと人の名前を覚えられないのか、あんたは」
「覚えられるっての! ただお前みたいな悪戯糞烏野郎の名前なんて呼びたくないだけだ!」
「あんた女の子でしょう? だったらもう少しその乱暴な喋り方どうにかしなよ」
何言われても冷静に言葉を返す烏白に対し、紗久羅は顔真っ赤、かんかんお冠である。そんな紗久羅をなだめるのはさくらの役目。まあまあ紗久羅ちゃん落ち着いて、といいながら顔を烏白へと向ける。
「ねえ烏白……君、でいいわよね。烏白君、貴方はここの生まれではないわよね。貴方全国を飛び回って、あらゆる所へ行っているの?」
「ああ、そうだ。どこで自分が生まれたかは忘れてしまったけれど、まあここではないことだけは確かだと思うよ。そしてあんたの言う通り、俺は全国を飛び回っている。まだこの島国の外へ出たことは無いかな。いずれ出たいとは思うけれど」
「色々な所で海や空、花を眺めている貴方の姿が目撃されているようだけれど、貴方の目的はそうやって色々な所の色々な景色を見ることにあるの?」
烏白はさくらの問いに頷いた。
「そう、俺は沢山の世界をこの目に焼き付ける為に旅をしている。何十年だか何百年だか前からね。俺はこの目でどんな世界だって見ることが出来る。人の世界も、犬の世界も、虫の世界も……勿論鳥の世界も、何だって見られるんだ。あんた達が見ることの出来ない世界も、俺は見られる。あんた達が見ている世界も、俺は見られる。あらゆる場所の、あらゆる世界を俺は見る。俺だけがきっと見られるんだ」
一体それはどういうことか、誰にも意味は分からなかった。烏白もわざわざその言葉の意味を説明してやるつもりはないらしい。
また、その全国を飛び回って色々な世界を見るという目的と人や動物を襲い、胸を突くことはどうしても結びつけることが出来なかった。その二つにどんな関係があるというのか。
「ただ色々な世界を見るのが目的なら、人間や妖を襲う必要はないはず。貴方は一体どうしてそんなことをするの? ただの悪戯なの? それとも人の胸を突いている時、何かしているの? 貴方は一体何がしたいの」
さくらの問いかけに烏白がぶるぶる頭を振る。何だかうんざりしている様子だった。
「ああ、そんな一度に幾つも質問しないでよ」
「それじゃあ一つずつ。貴方を助けている人は誰? 人間なの、妖なの?」
「ちょっと、ちょっと。それ、さっきあんたがした質問の中には入っていなかったじゃないか」
「いいから答えやがれ!」
質問をしていたさくらではなく、ようやくほんの少しだけ落ち着いた紗久羅が怒鳴る。だが烏白はそっぽを向き、知らん顔。どうやら教える気はさらさらないようだ。
「俺のことを守っている人がいることは事実だよ。その人は俺にとってとても大切な人だ。それ以上のことは教えてやらないよ」
人間か妖か。ずっと前から知り合いだったのかつい最近知り合ったのか。何もかも教えるつもりはないらしい。しかし彼の表情を見れば、本当にその人が彼にとって大切な存在であることだけは確かであるようだった。
「それじゃあ次の質問。人や動物を襲っている目的についてよ。ただ悪戯したい、遊びたいってだけなの? けれど貴方はその場に複数の人がいても胸を突いて襲うのは一人だけ。しかも誰か一人の胸を突くと一旦その場を離れる。遊びたいってだけならそんなことする必要は無いわよね。胸を突く、ということには何か意味があるの? 胸を突いている時同時に貴方は何かしている、けれど一度それをするとしばらく同じことは出来ない。そういうことなの」
「このくちばしで胸を突くことには意味がある。悪戯をしているってわけじゃない。ま、ついでにちょこっと遊ぶこともあるけれど」
商店街へ現れた時も誰かの胸を突くついでに『ちょこっと』遊んだのだろう。
「あの人が、一緒に遊ぼうと言ってくれたから。そういう時は派手に遊ぶね。楽しいよ、本当。皆俺にされるがまま、俺に仕返し一つ出来やしない。あの人が俺を守ってくれているからね」
そういう烏白の声は弾んでいる。本当に楽しかったのだろう。
「そうやって人の胸を突くようになったのはいつのこと? ずっと前から? それともこの町に来てから?」
「さあ、どうだったかなあ」
しらばっくれるつもりらしい。紗久羅はその態度に腹をたて、きいきい叫ぶが矢張りこれも完全に無視される。基本的に四人の質問に答える気はないようだ。しかし無理矢理でも聞き出さなければ、いつになっても全ての真相が明らかにならないような気がした。となるとやることは一つである。
紗久羅がびしっと烏白を指差す。
「こうなったら力尽くで答えさせてやる! というかこんなふざけた真似やめさせてやる!」
烏白に対して啖呵を切る……のだが、結局の所普通の人間である彼女には妖である烏をどうにかすることなど出来ない。ここにいる者の中で烏白をどうにか出来そうな者といったら。
「ようし、行け、やた吉やた郎コンビ! 桜町の命運はお前達にかかっている!」
「まあ、やっぱり……」
「そうなるよねえ……」
結局の所、この状況を何とかできるのはやた吉とやた郎位しかいない。
格好良く決めた直後、何もかも二人に任せてしまった紗久羅に対し若干二人は呆れつつも、烏白を捕獲しようと戦闘態勢に入る。金の錫杖が、しゃらんと緊張の音を立てる。
対して、烏白はといえば余裕綽々といった様子。自分は絶対に捕まらない、力でねじ伏せられないという確証があるに違いなかった。
「やれるものならやってごらんよ。どうせ無理だとは思うけれどねえ。ま、まだまだ遊び足りないし、あんた達ともたっぷり遊んでやるよ。あの人もどうやらそれを望んでいるようだしね」
烏白は笑い声をあげながら、ふわりと宙へ浮かぶ。雪、白砂糖、天女の羽衣。
やた吉とやた郎が走り出す。それに続くようにして、紗久羅とさくらも走り出した。
烏白は茶色の道をなぞるようにしながら飛び、山を上っていく。本来ならば空高く飛ぶこと位容易なはずだが、わざと低い位置を飛んでいた。紗久羅やさくらといった空を飛べぬ人間でも捕まえられる位の高さ。飛ぶ速度もあまり速くは無い。やた吉とやた郎は人間の形態を保ったまま、烏白を追う。そうしながら二人は後ろをついてきている紗久羅達の方を見た。
「二人共、無茶なことはしないでね! 相手は何をするか分からないんだから。出雲の旦那に殺されないよう、しっかり守るつもりではいるけれど!」
「下手をしたら胸を突かれるかもしれない。俺達は烏白を捕まえることに集中するから、結界を張ってやることは出来ない」
そう言いつつ、二人に少しだけ疲れにくくする術をかけてくれた。以前さくらが雨音を探した時にやた吉達からかけられたものと同じものだ。
烏白は登山コースを外れず、彼等から一定の距離を保って飛び続ける。
「桜色! 二人共、春に咲く花の色をしている! 短い時を精一杯生きる為、少ない命を燃やして激しく咲き誇る花の色! 春の柔らかな日差しを浴びて、微笑む優しい花の色だ!」
「何訳の分からんことを言っているんだ! くそ、絶対に捕まえてやる!」
桜山にて始まる追いかけっこ。四人の手が目の前を飛ぶ白く美しい体をつかむことはあるのだろうか?
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男はいつものように会社で仕事をしていた。二十六日の夕方白い烏に襲われたことなどすっかり忘れてしまう位に、毎日多忙である。大変ではあったが、決して今やっている仕事が嫌いではなかった。
ただ最近やや体がだるい。仕事に支障が出る程のものではないが、少し辛い。
疲労によるものなのか、風邪でも引いたのか原因はよく分からない。恐らく前者だろうと思い、それなりに体調管理に気をつかっているが一向によくならない。
男はあくびを噛み殺しながら席を立つ。
刹那。ぐらり、と世界が揺れた。地震ではない。彼の世界だけが、揺れている。男はあせった。
上下左右が分からない。今自分が目を向けているのはどこなのか、自分はちゃんと立っているのか、それとも倒れているのか。世界の音がぐちゅぐちゅになって遠く、遠く離れていく。世界が回る。世界がぼやける。世界が、消えていく。いや世界から自分が消えていく。
自分が今息をしているのかどうかも分からない。何が何だか分からない。頭の中は真っ白で、何も無い。何もかも無くなってしまった。
どおん、という音がした。だが今の彼はその音の出所が自分であることさえ分かっていない。悲鳴、大丈夫かという声……その声も消えていく。
体の内で響く音、どくん、どくんという命の音も段々小さくなって消えていく。
消えていく。消えていって。消えてしまった。
消えて……しまった。