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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
空の海を泳ぐ魚
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        空の海を泳ぐ魚(4)

 夜が明け、晴明は桜海と別れる。今日は平日、数時間後には学校があるにも関わらず彼は彼女と泳ぎ続けていた。

 授業中、彼はあくびをしながらぼうっとしていた。先生の話など少しも耳に入らない。桜海といる時は意識しなくなる体のだるさなどが、日が昇り彼女と別れ、人間の世界に戻った途端はっきりと感じられるようになる。最近は前以上に症状が悪化している。


 そんな晴明はぼうっとしながら思う。

 何故彼女とは夜にしか会えないのだろう、と。毎晩ではなく数日に一度会い(その頻度は前より増している)夜が明ければ別れる。


 何故、別れなければいけないのだろうと思う。最初の頃は夜、ほんの数時間彼女といるだけで満足だった。幻想というものはつかめそうでつかめない位が丁度良い。永遠の幻想はもう幻想ではなくなり、ただの現実になってしまうからだ。ほんの僅かな時間しか近づけないものだから美しい。そのことを晴明はよく理解しているつもりだった。なのに最近はといえば、それが分かっていながら彼女との『永遠』を望むようになっている。こうして人の世に戻っている間、そのことしか考えられなかった。


(私はずっと彼女といたい。ずっと、ずっと……)

 そう願う程までに彼女との時間は、彼女という存在は自分にとって大切なものになっていたのだ。

 今の晴明の耳に聞こえるのは彼女の声と、水の音だけ。彼女と泳ぎ、踊り、語った時の映像が頭の中で延々と繰り返される。


 どうしてそうなったのか、どうして彼女のことだけしか考えられないのか。

 晴明はその理由を何となく察していた。彼がそんな想いにとらわれたのは、産まれて初めてのことであった。


(彼女との永遠が欲しい。彼女と一緒にいたい。私はそれほどまでに、彼女のことを……)


 それから、次の授業の為晴明は友人達と一緒に教室を移動する。階段を下り、特別教室へと向かった。二人の友人はいつも通り楽しそうにお喋りしており、晴明も彼らと話をする。だが彼らが何を言っているのか、自分がそれに対してなんと返しているのか、全く分からない。

 まだ晴明は桜海のことを考えていた。彼女のことが一瞬たりとも頭から離れない。そのことを彼は恐ろしいとか、不快であるとは全く思わない。むしろ、自分が今『泳いでいる』のではなく『歩いている』状態になっていることに強烈な違和感を覚えていた。


(足……何故私には足があるのだろう。何故私は人の世界で、人として生きているのだろう。私は空の海に属するもののはずなのに)

 そう思った瞬間。色々考えていた晴明の頭が真っ白になる。

 晴明は二本の足の使い方を突然忘れてしまったのだ。足というものはどう動かすのか、どう動かせば歩いたり走ったり、上ったり下りたりすることが出来るのか本当に分からなくなってしまった。人間としての晴明がそれを忘れてしまった、ほんのわずかの間だけ。


 バランスを崩したと思ったら、彼の体はあっという間に階段を転げ落ちていった。全身を痛みが襲う。それなのに彼の頭は驚くほどぼうっとしている。痛みさえ、彼の意識を覚醒させてはくれなかったのだ。

 それから後、保健室のベッドで目を覚ますまでのことは覚えていない。


 目を覚ました後、保健室の先生に「大事に至らなくてよかった」と言われた後、散々説教された。食事も睡眠もろくにとっていないのだろうと彼女は言った。睡眠はともかくご飯はちゃんと食べていたのだが、晴明は特に言い訳せず、彼女に大人しく説教されていた。だが実際のところ彼女の話など殆ど聞いておらず、桜海のこと、空の海のことばかり考えていた。


 それから念の為病院に行き検査をしたが特に異常は見当たらず。そのまま自宅へと帰る。思いっきり打ったせいか全身が痛んだ。それでも彼は大人しくしているつもりはなかった。

 今夜、桜海と約束しているからだ。


 両親が眠りについたことを気配で何となく察知した晴明は、いつものようにこっそりと家を抜け出す。痛む体も夜の海の中なら何の問題も無く動かせた。

 いつもの場所で桜海が待っていた。彼女は晴明の姿を見るなりはっとしたような表情を浮かべる。階段を転げ落ちた時に負った怪我が目に映ったのだろう。


「貴方、どうしたの……? 怪我、したの?」


「いや、大したものではない。不注意ゆえに起きたちょっとした事故でちょっとすりむいただけだ。何、泳ぐのに支障はない」


「そう……」

 ほっと肩を撫で下ろす桜海。そんな彼女の顔は切なげで、苦しそうだった。

 

 満月の下、二人は泳ぐ。晴明は何事もなかったかのように桜海に色々語ってみせた。桜海はそれを聞いている。だがいつもならにこにこしながら話を聞いているはずの彼女の表情は、今夜霧に覆われた月のようだった。笑い声にも元気がなく、殆ど言葉も返さず黙っている。

 流石の晴明も彼女の様子がおかしいことに気がついた。一体どうしたのだ、私の怪我のことならなんの心配も必要ない――そう彼が言おうとした時、桜海が突然その場に立ち止まった。隣にいた晴明は体の向きを少し変える。彼女も同じように。二人は向かい合う。


「ねえ貴方。私が前話した山の人魚のことは覚えている?」

 彼女のする話はなんだって覚えていた晴明はこくりと頷いた。質問をした桜海はそれを見て俯き、胸の前で組んでいる両手をじいっと見つめている。

 やがて彼女は何かを決意したかのように顔をあげた。晴明の全てを吸い込む瞳は海の水で潤んでいた。


「私が、私がもしその山の人魚だったら貴方はどうする? 貴方を魅了し、住処である山へ連れて行き、貴方の全てを奪う恐ろしい人魚だったら。このまま私と一緒にいると、貴方は死んでしまう。私がそうさせてしまう。……そうなれば貴方はもう、物語を紡ぐことも、本を読むことも出来なくなる。夢を叶えることも出来なくなるわ。けれど、今ならまだ間に合う。人の世に戻っていける。……もしそうだったら、どうする? 私とここでお別れする? それとも、私と一緒に行く? 人の世を捨てて、人を捨てて、命を捨てて……」

 彼女が語り始めたのは『もしも』の夢物語。だがその表情は真剣そのもので、冗談でそんなことを聞いているわけではないことは容易に察せられる。

 彼女が本気で聞いている以上、自分も本気で考えて返事をしなくてはいけないと晴明は思った。


 晴明は考える。

 彼女の手をとって死ぬか、人の世で幻想を生み出し幻想と触れながら生きるか。昔ならば晴明は迷わず後者をとった。彼にとって物語を創ること、物語に触れることは生きるということと同義であったからだ。それを捨てるということは、生を捨てるということ。今よりずっと子供だった頃から思い描いていた夢を捨てるということは、死ぬということ。


 迷い、晴明は桜海を見る。彼女の瞳、彼女の髪、彼女の肌。全てが美しく、その全てが非現実的なものに見える。

 その姿を見た途端、晴明は自分の『生』が遠ざかっていくのを感じた。遠ざかって消えてしまえば、自分は死んでしまう。だが彼はそれを取り戻そうと手を伸ばすことをやめた。その時彼の答えは決まった……決まってしまった。


「私は、貴方と一緒に行く」

 桜海の目が見開かれる。


「貴方と一緒にいたい。夜にだけ会い、夜が明ければ別れる――そのことを私は嫌だと思っていたのだ。私は貴方とずっと一緒にいたいと思う。貴方の愛に殺されるなら本望だ」


「でも、でも……もしそうなったら……私と一緒に行ったら、貴方もう物語を創ることが出来なくなるのよ? 物語に、幻想に触れることも出来なくなる。そんな暇を私は与えない。与えることが出来ない。それでもいいの? お友達や、家族の人とももう会えなくなるのよ」


「全然全く問題ない、といえば嘘になる。それでも私は選ぶ。貴方と共にいられるならば、その他一切のものはいらない」

 晴明は笑った。そしてその後、自分の気持ちを――桜海に対して抱いている気持ちを彼女に伝えようとした。

 しかしそれは出来なかった。それを伝える前に、桜海が泣き始めたのだ。

 大きな瞳からこぼれる大粒の涙は、透明な真珠。水面から注ぎ込まれる月の光を受けて、赤青緑に光る。上り続ける泡沫、沈んでいく涙。


 喜びの涙ではなかった。彼女は悲しくて、辛くて泣いている。鈍い晴明にも、それだけは分かった。


「私はもう、貴方とは一緒にいられない」

 それは衝撃の言葉だった。晴明の一番望まなかった言葉。


「私は貴方から、最も大切なものを平気な顔で奪おうとしていた……自分の願いを叶える為なら、何をしても構わないと本気で思っていた。私は、私は」

 桜海が後ずさる。


「それを奪ったら貴方は貴方でなくなってしまう。私には貴方を貴方ではないものにすることなんて耐えられない……今分かった。今になってようやく分かった」


「桜海……桜海? どうしたのだ」


「私は貴方と一緒にいてはいけない。貴方を貴方のまま生かし続けるにはそれしかない。ごめんなさい、ごめんなさい」

 顔を覆い、彼女はわんわん泣いた。何が何だか晴明は全く分からない状態だったが、兎に角彼女をなだめねば、と桜海へと手を伸ばす。だがその手が彼女の体に触れることはなく。

 桜海が一気に晴明から離れる。それは明らかな拒絶だった。


「さようなら。貴方とは二度と会わないわ。二度と……。今までありがとう。私に素晴らしい時間をくれて」

 それだけ言うと桜海は晴明の前から泳いで姿を消した。あっという間に彼女の体は海の中に消えて、見えなくなってしまった。

 晴明はただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。彼はそれからしばらくして桜海の姿を探したが、結局見つからず。肩を落とし、とぼとぼと帰った晴明。


 以後、不思議と芳しくなった体の調子は徐々に快方へと向かい気づくと完治していた。同時に、夜の海を見ても泡沫も水の流れも見えなくなり、泳ぐことも出来なくなった。

 桜海への想いも執着も薄れていく。自分が創作を捨ててまで彼女を選ぼうとしたことは夢であったとさえ思うようになる。


 それでも、彼女への想いが綺麗さっぱり消えたということはなかった。

 それが何を意味するのか、当時の晴明には分からなかった。


 夜の桜町を、晴明は久しぶりに歩いていた。三つ葉市を離れ、年を重ね、夢を叶えて小説家となった今も時々三つ葉市を、そして桜町をこうして訪れている。

 季節は冬で、歩く度冷たい風が肌を刺す。厚手のコートもこの風を完全に遮断してはくれない。


(全く、よくやれたもんだ……こんな寒空の……しかも誰もいない、何が起きるか分からないような場所に腰を下ろして物語を考えたり、書いたりするなんてこと。昔の私はすごかったよ、色々な意味で)

 そう考えてから晴明は苦笑する。大人になった今も時々家からこっそり出、庭に座って創作活動に取り組んでいることがあることを思い出したからだ。変わったようで、変わっていない――以前お茶を一緒に飲んだ時、化け狐の出雲にそう言われたが確かにそうかもしれないと自分でも思う。普通、とは少し離れた所にいるという点は今も昔も変わらなかった。


 そんな彼を容赦なく襲う、吹きすさぶ風。何にも守られていない顔が痺れるように冷たい。激しく暴れ狂う水の中に自分は今飛び込んでしまっているのではないだろうかと思い、体を震わせる。

 その時晴明はふと、十年以上も前に出会った一人の女性のことを思い出す。


「桜海……」

 その声は荒ぶる水に攪拌(かくはん)され、そこらに舞う細かい塵に紛れて漂う。彼女と別れ、空の海に属するものではなくなってしまった彼の声は矢張り海に溶けていかない。

 彼女と会わなくなってから、この世界を満たす冷たくも美しい、紺碧の水は見えなくなった。この世界に生まれては消えていく泡沫も見えなくなり、この海を美しく泳ぐ術も失った。この世界が本当に美しい海に見えていた日々は夢幻の彼方へ追いやられてしまっている。あの日々が現実であったことを、今の晴明は実感出来ない。


 人ならざる者が実在していることを知っている今、晴明は彼女が何者であったのか理解している。彼女は人ではなかった。人のわけがなかった。鋭いようで非常に鈍かった子供時代は『人間とは思えない』と思った位で、本当に人間ではないなどとは夢にも思っていなかったが、今なら分かる。


(彼女は山の人魚だったのだ。山で寝起きし、山で過ごし、夜毎この広い空の海を泳ぎ……そして気に入った男を誘惑し、その人が息絶えるまで愛する妖……)

 桜海は晴明のことを気に入り、自分のものにしようとした。そして彼女は晴明を魅了し、空の海に属するものに変えていった。


「そうしながら彼女は私の命を、エネルギーを喰らい続けていたのかもしれない。だからあの時の私は体調が優れなかったのかな。もしくは、完全な『空の海に属するもの』になりつつあったから、人の世というものに体がなじまなくなってしまったのか……」

 色々考える内、晴明は桜山の前まで来た。神秘的で、静かで、雄大で、恐ろしくて、美しい山はいつ見てもこの世ではない、別の世界に属するものに見える。


 白い息が空へ昇っていく。見上げるとその先には満月。晴明は笑みを零しながらその月を飽くことなく見つめていた。

 そんな彼の視線を月から逸らしたのは――短い悲鳴。女の声。こんな時間、こんな場所に女性? と驚きながら声のした方――桜山、鳥居のある方――を見て彼は更に驚いた。


 石段に立ち、己の口元を押さえているその人は間違いなく……桜海。

 想像通り彼女の姿は記憶の彼方に存在しているものと一切変わっていなかった。


「桜海……」

 十年以上ぶりに呼んだ名前。それを聞いた桜海の体がびくんと揺れる。名前を呼ばれたことで、今自分の目の前にいるのが晴明であることを確信したのだろう。

 静寂。ざわざわと揺れる木々が、二人の心を表している。


 先に動いたのは桜海の方だった。そのまま晴明に背を向け逃げてしまうのではないかと思われたが、そうではなかった。

 彼女は石段から下り、晴明の方へと向かってきた。初めて彼女と会った時と全く同じ光景が今、目の前にある。ゆっくりと近づいてきた桜海。それに対し晴明は動かない。動けば彼女は逃げてしまうのではないかと思った……というのもあるが、結局の所予想もしなかった再会に体が言うことを聞かなかったのだ。


 静かに、ゆっくりとやって来て晴明の目前までやって来た彼女の両手が伸びる。伸びた先にあるのは晴明の顔。彼の頬を、冷たい彼女の肌が包み込む。


「……大きくなったのね。初めて会った時は私とそこまで背丈も変わらなかったのに、今は見上げないと貴方の顔が見えないわ。すっかり大人になって……一体幾つになったの?」


「最近、二十九になりました」

 

「そう……私と会った時は十六だったわね、確か。そう、もうあれから十三年経ったの……十三年……。貴方と最後に会った日から、まだ一日しか経っていないと思っていたわ」

 晴明にとっては彼方へと追いやられた思い出。だが彼女にとってはそうでなかった。それを聞いた彼は胸が痛むのを感じた。


「貴方は矢張り、妖だったのですね。夜の海を泳ぐ山の人魚……」

 桜海の顔に笑みが浮かぶ。悪戯っぽい、無邪気な、懐かしい笑み。彼女はぱっと晴明の頬から手を離す。


「そうよ。やっと気がついたの? 貴方って本当鈍い人ね」


「ええ、自分でもそう思います。ところで、この山には貴方の他にも沢山の山の人魚が?」

 桜海は寂しげに微笑みながらゆっくりと首を横に振る。


「いいえ。もう殆どいないわ。今のこの世界はね、私達にとってとても住みにくい場所になっているから。住処にしていた山を崩されてしまった者もいるようね、今のところこの山は残っているけれど。……仲間の殆どはもう、向こうの世界にいるわ。妖達の住む世界に」


「貴方は残ったのですね、この世界に」


「向こうへ行く時機を逃してしまっただけ。今の私には自力で向こうに行く術はない。偶然境界を飛び越えない限り、死ぬまで私はこの山で生き続けるわ。数少ない仲間と一緒に」

 そう言って桜海は山へ目を向けた。暗い色をしたその山。その山に抱かれている命の中に、彼女と同じ山の人魚のものがある。誰にも気がつかれず、ひっそりと暮らしているだろう美しい人々が。現実に存在していながら、非現実の空気も孕んでいる。現とも幻ともつかぬ存在である山。この世界が彼女達にとって住みにくい世界になっても、山だけはまだ彼女達を優しく包んでいる。

 晴明は山から自分の方へ視線を戻した彼女に、どうしても聞きたいことがあった。


「……貴方は何故、私の前から姿を消してしまったのですか」

 桜海はそれを聞き、俯いた。質問を変えない限りずっと口をつぐみ続けるつもりだろうかと晴明は思ったが、彼女は予想に反して口を開く。


「言ったでしょう。私は貴方を貴方のままでいさせたかったって。私は貴方を自分のものにしようとした。魅惑し、海のものにして、やがて山へと連れて行って……貴方から全てを奪おうとしていた。あの日の夜まで、ずっとそう思っていた。一方で迷っていたわ。……このままでいいのだろうかと……今までためらったことなんてなかったのに」


「貴方は、私に選択させた。私は貴方を生きることを選んだ。けれど貴方は」


「その他一切のものはいらない、そう言って笑った貴方を見た時ようやく気がついたの。私は貴方が夢を語る姿を、自分の生きがいを語る姿が好きだった。私は貴方のその姿に惹かれていったの。初めは、他の人よりも海に属するものに近い、他の人とは何かが違う貴方に興味を持って。その後貴方と話すうちに……。私は夢を語る貴方が好きだった。自分の好きなこと、自分の好きなものを楽しげに語る貴方の姿が好きだった。けれど、私と一緒に来たら貴方は夢を叶えることも、物語を創ることも出来なくなる。私が好きになった貴方は、永遠にいなくなってしまう。貴方の大切なものを奪い、私が好きだった貴方をこの世から消してしまうことになる。……そう思ったら、耐えられなくなった。私に加減は出来ない。貴方の全てを食らい尽くすことなく共に生きることは出来ない。私達山の人魚はいつだって愛して奪うか、愛さずに奪わないかなのよ」


「私は貴方といることを選んだのに……私は貴方を」


「貴方がそれを望んだのは、私が貴方を魅惑したからよ。貴方は私の術にかかっていた。だから……。私は貴方が何と言うのか何となく分かっていた。分かっていて質問して……予想通りの答えを聞いて……予想通りだったのに、でも」

 桜海は、晴明が自分のことをどう思っていたのか喋らせようとしなかった。

 

「私と会わなくなってから、貴方の私への想いも消えたでしょう? 術が効果を失ったからよ。貴方の想いは全てまやかしのものだったのよ」

 彼女はそう言いきった。顔をあげ、しっかり晴明の顔を見据えながら。

 晴明にも何となくそれは分かっていた。だが。


「違う……」


「え?」


「違う! 全てじゃない! 確かにあそこまで強く貴方を想ったのは、貴方が術をかけたせいだったのだろう。物語を創り、読むことを捨ててもいいと思ったのは貴方が魅惑したせいだったのだろう。けれど、全部じゃない! 思いの全てがまやかしのものだったなんて、私は思わない! 確かにあったのだ! 本当の……誰かにつくられたものではない、本物の想いが! 昔の私はそのことに気がつかなかったけれど、今なら分かる……。私は全てを忘れなかった、貴方への想いが全て消えることはなかった。私は、私は……!」


 十三年ぶりに激しく動いた心。晴明は彼女に伝えられなかった言葉を、今度こそ伝えようと思った。

 だが、出来なかった。晴明はそれ以上口を開くことが出来なかった。

 何かが彼の唇を押さえたのだ。それは柔らかくて、冷たくて、それでいて熱いもの……十三年前と同じ。いや、違う。


 今晴明の唇を押さえているものは彼女の指ではなかった。

 凍りついていた時間が再び流れ、また、止まった。


 桜海の顔が離れる。同時に晴明の唇を押さえていたものも離れていく。


「……夢を叶えてね。自分の書いた幻想物語で世界を征服するという夢。そして生き続けて。私の好きだった貴方のままで。貴方を諦めて良かったと、貴方を殺してしまわないで良かったと思えるような人に……きっと、きっとなってね。それだけが私の望み。その望みを胸に、私は生き続ける」


 彼女はそう言って、晴明から離れていく。彼に背を向けた時、何か輝くものが見えたような気がした。一瞬だけ見えた無数の泡沫が彼女を慰めるように、守るように彼女の体を包み込んでいく。晴明と桜海と隔てる、海のもの。

 桜海は一度も振り返ることなく、石段を上っていき、そして晴明の前から姿を消した。いつものように、水に溶けて消えてしまった。


 それ以後、彼が桜海と会うことは二度となかった。

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