空の海を泳ぐ魚(3)
*
「んせい……せい……」
遠くから誰かが誰かを呼んでいる声がする。それをぼんやりと聞きながら、晴明は意識の海の中を漂い続けている。
その声はやり止まない。誰かが誰かを呼んでいる。その声は遠くから聞こえる。
「せん……んせい……せんせ……おい先生!」
その声の主は遠くにではなく、晴明のごく近くにいること、そしてその人が呼んでいるのが晴明自身であることに気がつき、晴明ははっと我に返る。
晴明は教室の椅子に座っていた。生徒達が思い思いに集まって、ぺちゃくちゃ喋ったり、ふざけたりしている。ぼうっとしていた晴明の耳にはそんな喧騒も全く聞こえていなかった。自分の世界から、皆の世界に引き戻された瞬間世界に音が溢れる。
そんな晴明を呼んでいたのは机を挟んだ向かい側にいる二人の男子生徒。
彼らは転入早々ド強烈過ぎるキャラを見せつけまくり、多くの人からどん引きされた晴明と友達になった物好きな人間である。どれだけ破天荒な人間にも友というものは出来るらしい。実際前住んでいた街にもそこそこ友人がおり、割合楽しくやっていた。ちなみに晴明含めたこの三人、成績は学年上位である。
「おお、やっとこっちの世界へ戻ってきたか。お帰り、先生」
先生、というのは二人が晴明につけたあだ名である。小説家になりたい、という晴明の夢を聞いてそう呼ぶようになったのだ。晴明も大変しゃれた響きである、とそのあだ名を気に入っている。
「うむ、瀬尾晴明只今戻ったぞ」
と椅子に座りながら胸を張る晴明を見る二人の顔は何故だかとても心配そうだった。そんな顔をされる心当たりのない晴明は小首を傾げた。
「なんかさあ……先生、大丈夫か?」
「大丈夫、とは? もしかして現在趣味で書いている小説の進行状況のことか? それならなに、案じることは無い。一度不覚にもスランプ状態に陥ってしまったが、今はちょくちょく進んでいる。いずれ君達に読ませることが出来るようになろう」
「そうじゃないって。俺達が心配しているのは、先生の体だよ。何か先生最近元気ないっていうか……顔色が悪いよ」
見た目はバリバリスポーツ少年、しかし実際はスポーツが苦手な文系少年。
そんな彼は目の前に座っている晴明を指差した。隣にいる理数大好き眼鏡少年がその言葉に同意するように頷く。
二人からそんなことを聞くまで、晴明は自分の顔色が悪いことを全く自覚していなかった。指摘されたものの今鏡が無いので確認は出来ないが、二人が悪いと言っているのだから実際悪いのだろうとぼうっと思う。
それから、ああそういえば確かに最近体の調子があまり良くないかもしれないとようやく思うようになった。
晴明は最近頭がぼうっとしたり、自分が何を喋っているのか分かっていない状態に陥ったり、体にいまいち力が入らずややふらついたり、妙な浮遊感に襲われたりすることがあった。体がだるくなり、何もする気にならない時などもあった。能天気な本人はその症状を特に気にしていなかったが……こうして指摘されると、ちょっとだけ気になり始める。
「確かに、最近調子があまりよろしくない気がするなあ」
「大丈夫か? 全く……夜更かしのし過ぎなんじゃないの」
「私は夜行性人間、夜に生きる男。夜更かしや寝不足が原因で具合が悪くなったことなどただ一度もない!」
即答、断言。そう言われるともう、ああそうですかと答えるしかない。そう言いつつも二人共心底晴明のことを心配そうに見ていた。
まああまり無理はするなよ、体調管理には気をつけろよと言って二人はそれぞれの机へ向かい、次の授業の準備を始める。晴明も同じように机から教科書等を取り出しつつ、意識は再び彼岸へ。
頭の中が、水で満たされる。普通の水ではない。空の海の水だ。生まれ、結ばれ、昇り、消えていく泡沫の数は無数。大きかったり、小さかったり。
ぼこぼこ、という音が聞こえる。その音に混じって女の声が聞こえる。
晴明を空の海に属するものにしてくれた、美しい少女の笑い声。――彼女が笑っている……名前を呼んでいる……月の色に輝く彼女の手が晴明に向かって差し伸べられる……。
がしゃん。不快なだけの大きな音が鳴り響き海を、彼女の声を、彼女の姿を一瞬で消し去る。見れば床にペンケースと、その中に入っていたペンや定規等が散らばっていた。それは晴明のものだった。どうやらぼうっとして手に持っていたペンケースを落としてしまったらしい。
すぐ近くにいた女生徒が戸惑いながらも拾うのを手伝ってくれた。いつものオーバーな調子で礼を言いながら、彼女の手を見る。ピンクと黄色が混ざったような肌色。月の光を跳ね返すだけの、この世にごろごろいる只の人間の肌、手、指。
彼女に、桜海に会いたい。早く会いたい。その時晴明は強く思った。
「貴方は本当、自分の趣味の話をしている時が一番輝いているわね」
もう何度目か分からない邂逅。桜海と晴明は夜の桜町を抱く海の中にいる。
いつものように殆ど自分から喋ろうとしない桜海に代わり、晴明が自身の書いている小説のこと、愛読書のこと、創作の面白さなどを語っていた。それを聞いている最中、桜海がくすくす笑いながらそう言った。
「何というか、とても生き生きしている」
「うむ! 私にとって文章や物語と触れ合うことは生きがいだからな! 文字が、言葉が、文章が私の糧、私を生かし続けるものなのだ! 勿論それ以外のものも食べないと生きていられないがな!」
そりゃそうでしょうね、と桜海がまた笑う。彼女はよく笑う。晴明の一挙一動が面白くて仕方無いようだ。
しかしどういうわけか、今日の彼女は少しだけ様子がおかしかった。微笑み、可憐な笑い声をたてている彼女の瞳は、どういうわけか寂しそうで、悲しそうで。だが話に夢中になっている晴明はそのことに気がついていない。
「書くことは、創ることは私にとって『生きる』ということなのだ。そうやって生きて、生きて、生き続けて……ゆくゆくは素晴らしい作家になり、私の作品を世界中に駆け巡らせるのだ! 物語で世界征服! おお、何と素晴らしく壮大で美しい夢なのだろう! あまりに素晴らしすぎて動悸がする、ああ体が熱い! この感覚! 幸福、至福!」
自身の夢に酔い、背景に花を咲かせ。それからまた語り始める。自分にとってその夢がいかに大事なものかというところから始まり、自分がこれから書きたい物語、今までに書いた物語についての話にまたなり、最後は何故かミツツキミツキカケ様との出会いやら何やらの話になった。
静かに微笑みながら彼の話を聞いていた桜海が口を開いたのは、大分後のこと。
「貴方は本当に夢物語を愛しているのねえ。私ちょっと妬けちゃうなあ」
その声がやや上擦っていることに矢張り晴明は気がつかない。
「妬いてくれるのか! はっはっは、女性からそんな風に言われたのなんて初めてだ! 私の溢れんばかりの才能に妬いていた者はいたがな。そっか、妬いてくれるのか!」
「まあ、それは置いときましょう」
「置いておくのかい」
「置いてってやる」
悪戯っぽく笑い、桜海が晴明に顔を近づける。自分を見つめるその瞳に、その上についている長い睫毛に、晴明はどうしようもなく惹きつけられる。目が、魂が、吸い込まれていく……。段々近く、彼女の顔が、近づいて、近づいて、くっついていって……。
「そんな夢物語愛好家君に、一つ物語を聞かせてしんぜよう」
だが彼女の瞳は、顔は急に離れていった。桜海が飛ぶようにして彼から離れたのだ。彼女は晴明からやや離れた場所でくるりと回った。彼女は回ったり、跳んだりするのが本当に好きだった。どうしてそんなに跳んだり回ったりすることが好きなのかと以前晴明は尋ねたことがある。その時彼女は珍しく彼の質問に答えてくれた。
――そうして体を動かすと、この世界を満たす水をより感じることが出来るから――
彼女はそう言った。そんな彼女が回った瞬間、彼女の体から無数の小さな泡が生まれ、水面へ向かって上っていく。彼女が生み出したものは海のものになって、世界に溶け込んでいった。その姿に見惚れた後、晴明は首を傾げた。
「物語?」
「そう、物語。……この世界に住んでいるある妖のお話」
「妖?」
その言葉に晴明の胸が躍る。その響きはいつだって彼の心を簡単に鷲掴みにする。桜海は晴明を見、微笑んだ。綻んだ顔は春の花。けれどその花を包むのは暖かな風では無く、冷たく寂しげな風。憂いを帯びた笑みは月の光射す海によく映える。
「山に住んでいる人魚の話よ。昔はこの世界にある山という山に沢山住んでいたのですって。人魚といっても下半身が魚ってことはなくて……見た目は普通の人間とそう変わりないのだとか。その人魚達は普段山奥で暮らしている。山で起きて、山で暮らして、眠くなったら山で眠る。夜になると時折彼女達は山を下りて、この空の海を泳ぐの。自由に、悠々と……まるで魚のように、美しく。丁度今の私達のようにね」
突然桜海はくるりと晴明に背を向ける。白い両手を後ろで組み、顔を上げて水面に映る月の姿をじいっと見つめる。
「……山の人魚には女しかいない。男の人はいない。だからといって、自分一人の力で子を成すことは出来ない。異性がいなければ恋も出来ないし、体中に溢れる欲望を満たすことも出来ない。だから彼女達は……別の種族の男性を手に入れる。妖でも人間でも、誰でもいい。気に入った人を魅惑の術で自分の虜にして自分のものにして、自分と同じ空の海を泳ぐものにして、それから愛して、愛して、愛して、愛し続けるの。激しく、とても激しく、ね」
桜海の体が何故か震えているような気がして、晴明は心配になって彼女に近づこうとした。だが体が動かなかった。
「けれどね、長くは続かない。単純に飽きるってこともあるけれど……そうじゃないの。山の人魚は恐ろしい妖。彼女達に愛されるということは、死ぬということ。彼女達の愛は、相手を食らい尽くす。身も心も……魂さえも、全部。だから彼女達に愛して、愛して愛し抜かれた者は遠からず死んでしまう。必ず、死んでしまうの。山の人魚は愛した人を殺す。相手が死んで動かなくなるまで、相手を屠り続けるの。彼女達は加減をすることが出来ない。美しくて、激しくて……恐ろしくておぞましい女達なの」
お互い、無言。泡沫だけが静まることなく音をたて続けている。その時初めて晴明は、その音を恐ろしいものに感じた。何もかも喰らい尽くす化け物の唸り声に聞こえて。それはたった一瞬のことだったけれど。
「それは、君の創った物語かい? それとも誰かから聞いた話?」
晴明の言葉にはっとしたように桜海が振り返る。その表情は見ている方が悲しくなる位切ないものだった。
「作り物の幻想と触れ合いながら生き続けているがゆえに、現実の幻想が目の前にあっても気がつかない人なのね、貴方は。幻想に慣れすぎて」
「え?」
「いえ、何でもないわ。そう……これは私のおばあ様から聞いたお話。怖い話でしょう? ある夏の夜に聞かされたわ。おばあ様の語り方があんまり上手いものだから、私怖くて泣いちゃった」
もうすでにそんな彼女の顔に憂いとか寂しいとか悲しいとかそういったものは残っていない。いや、本当は残っていたのだが鈍い晴明はそのことに気がついていない。
「この物語を使って何か書いてみせて。そして一番に私に完成したものを見せて。さあ、泳ぐのを再開しましょう」
先程までの時間なんて存在していなかったかのように、その後の桜海の態度や振る舞いはすっかりいつも通りのものになった。泳いでいる内晴明は、彼女が物語を語ったことや山の人魚のお話は全て自分が作り上げた夢物語だったのではないかと思い始めた。現実か、幻想か分からなくなってしまう位何事もなかったかのように彼女が振舞っているから。
日中や彼女と会っていない日の夜などは最近体調が今いちよくない晴明だったが、不思議と彼女と一緒にいる時は平気だった。体に力が入らないことも、体がふわふわ浮いているような感覚に襲われることも、夜の空の海の前ではどうということはないものだった。
海の中を泳ぎまわり、追いかけっこして、踊って、泳いで、泳いで、泳いで。
彼女と共に過ごす時、晴明は自分に『足』がついていることを忘れる。二本の足を交互に前へ出し、駆けているという感覚がなくなる。
今の彼に足はない。晴明の下半身は、いや、体全体がは魚になっていて、美しいうろこのついたその体を水の流れに合わせてくねらせている。そうやって泳いでいる、そんな自分の姿を晴明は容易に想像できる。彼女といる時、彼は自分が人間であることを忘れるのだ。今自分と手を繋いで泳いでいる彼女の袴に隠れているのも足ではなく、美しい魚の体だろうと晴明は思う。
月照らす海を二人で泳ぐ。その時間が、二人で過ごす時間が晴明にとっては何より愛しかった。
他の誰でもない、彼女と泳ぐからこそ世界は輝くのだと晴明は思わずにいられなかった。彼女以外は誰もいらなかった。青い海、泡沫舞う世界を自分と泳ぐのは、一緒に泳ぎたいと思えるのは彼女だけ。心蕩かすような笑みを晴明にくれる、彼女だけなのだ。