空の海を泳ぐ魚(2)
*
準備したばかりのシートや石、ノートを一瞬にして片付け終えた晴明は桜海と共に山に背を向け歩き出す、否、泳ぎだす。
これといった目的地もなく、ただ二人行きたい方向に足を運んだ。
手足でかく水は相変わらず冷たく、入浴後きちんと乾かした髪もとっくに濡れて冷たくなっている。何気なくそれに手をやり、あまりの冷えように骨にびりびりと衝撃が走った。濡れているのは髪だけではない。身につけているコートやセーターもだ。染みて、濡れて、やがて肌にそれが伝わって。
しかし不思議なことに晴明よりも圧倒的に寒そうな格好をしている桜海の方は、全く寒がっている様子を見せていない。ちょっと紳士ぶろうと晴明は彼女にコートを貸してやろうとしたが、彼女は笑いながら「全然寒くないから大丈夫」と彼の申し出を断った。遠慮しているようにも、強がっているようにも見えず、本当にそう思っているようだった。
「寒くないのかい、貴方は」
「寒い? どうして?」
まさかそんな言葉を返されるとは思っていなかったから、さしもの晴明も面食らい、絶句。
「とても心地良いわ。私はこれ位の方が好き。貴方はこの海に冷たさしか感じないの?」
「いや、そんなことはない! 確かに冷たいし、寒い! だがしかし同時に心地良い! 生き物の体温が殆ど入り混じっていない、純粋な海の冷たさをこうして感じられること、広大な海を独り占め……最も今は貴方がいるから二人占め……していること、世界を海と例える人と今宵出会えたことに私は今震えている! おっと、別に寒さで震えている訳ではないぞ! やせ我慢する必要は無いって? うむ、確かにそうであるな。女性の前ですぐ格好をつけたがる……雄とは全く困った生き物であるな、うん。寒い! 寒さで体が震える! だが、さっき言ったことも嘘ではないのだ」
「声、また大きくなっている」
桜海がくすりと笑ってから、すっかり元通りになっていた晴明の耳元に囁く。
小魚が入り込まれたかのようにくすぐったくなった耳を思わず押さえ、俯いた。体の中にすうっと入り込み、自由に泳ぎまわる彼女の声は冷たくて、温かかった。
「あんまり熱くなっちゃ駄目よ。空の海の水温が上がっちゃう。ありのままの海を楽しまなくちゃ」
上がる手、揺れる袖。水面に見える月と同じ色をした彼女の手が、光を受けてますます輝く。光は手を伝って彼女の全身へ。金銀の光の粒を散りばめた髪は時折揺れ、それと同じように輝いている唇は桜色。闇に溶けて見えない袴の下にあるはずの足。この世のものではないものを見ているような気がして、晴明はどきりとした。今見ている彼女のその姿を文章にしたらどれだけ美しいものになるだろう、そう彼は思った。ノートの入ったバッグに手を伸ばしかける。
(いや、やめておこう)
普段ならそこで迷わずノートを取り出し、相手の都合など関係無しに文章やら簡単な絵を書き始める彼だったが今回はそうしなかった。
今はただその姿から一瞬も目を逸らしたくなかったからか、彼女のその姿を文字に出来る自信が今の自分にはなかったからか、それともその姿を自分だけのものにする為、自分の瞳と頭以外に決して記録すまいと思ったからか。
彼女がどれだけの間そうしていて、自分がどれだけの間それを見ていたのかは分からなかった。長かったのか短かったのか分からないその時間を終わらせたのは桜海だった。そろそろ行きましょうか、という言葉を聞いて時間という概念を思い出した晴明はこくりと頷く。
大きな海の中を泳いでいる間、晴明はよく喋った。声のボリュームはかなり絞っていたが。
話の内容の殆どは自分のことで、自分が今まで書いた物語、これから書こうとしている物語のこと、ペットのジョセフィーヌのこと、担任教師の恥ずかしい秘密などノンストップで話続けた。喋っても喋っても、彼の言葉の泉は枯れることがない。
晴明は時々桜海に質問をした。彼女のことを色々知りたかったからだ。だが彼女が彼の問いにまともに答えてくれることは殆どなかった。秘密、の一言で終わったり上手いこと話題を変えられたり、しんと黙ってしまったり。結局桜海という名前と、彼女の趣味が夜の海を泳ぐというものであること以外は分からないままだった。
不明な点が多くなればなる程、そのものの神秘性は増すのだ、神秘のヴェールに包まれている方が美しくていいじゃないかと思い以後殆ど彼女に、彼女自身のことについて質問することはなかった。何も教えられなかったからといってへこたれる晴明ではない。彼は前向きであった。というか前しか見ない男だった。
晴明がひたすら喋り、それに対して彼女は笑みや笑い声、言葉を返す――それの繰り返し。桜海は晴明の話を本当に楽しそうに聞く。彼の声があまりにも大きくなりすぎた時、静寂を楽しみたい時だけ彼をたしなめたが、それ以外の時は彼の喋りを止めなかった。時に目を瞑り、両耳に手をやって、まるで波の音を聞く時のような仕草をみせる。
「貴方の声は心地良いわ。寄せては返す波の音のよう。……もっとも、私は実際にその音を聞いたことがないけれど。でもきっと貴方の声のような音に違いないと思うの」
「そんなことはないさ。私なんて」
晴明にしては珍しく、謙遜している。
実の所、彼は先程まで自分のことを『空の海を泳ぐ小魚』と喩えていたことを恥ずかしいと思い始めていたのだ。それは空の海を泳ぐとか、なんて痛々しいことを考えていたのだと思い恥ずかしくなったという意味ではない。
彼は、自分なんぞを『魚』と喩えたことを恥ずかしいと思い始めたのだ。
そんな思いが芽生えたのは、桜海と出会い、彼女と一緒に泳いだことが原因だった。彼女と出会い、一緒に泳ぎ始めてからまだそれ程長い時間は流れていない。だが『本物』と『似非』の違いを思い知るには充分すぎた。
彼女の泳ぎ方は本当に美しい。成程確かに自身を『山の人魚』と喩えただけある。彼女の動き方はまるで『歩いている』という感じがなかった。地面に足がついているように見えないのだ。そして流れに逆らわず、うっとりするほど滑らかに手を動かして水をかく。別に晴明の歩き方が特別汚いということはない。むしろ男の子にしては綺麗に歩く方だった。だが彼の場合はあくまで『歩いている』のであって、誰がどう見ても『泳いでいる』ようには見えない。
二人の声にも違いがあった。今二人が喋る声の大きさは(基本的に)同じ位である。だが晴明の声は海の中にそのまま残り続けるのに対し、彼女の声は聞こえたと思ったらすぐ海に溶けて消えてしまう。彼女の声は海に属するもので、晴明の声は属さない異物であった。少なくとも晴明はそう感じた。
彼女は本当に海のものだった。この空という名の大海に属するものだった。
人では無い。彼女は魚だ、人魚だ。
山という名の巨大な岩で寝起きし、海を泳ぎ、海の声をそのまま口にし、日々を生きる――空の海を泳ぐ人魚。
「私は海に住む微生物ですらなかったのだなあ」
「ん、何か言った?」
「貴方はとても美しいと言ったのだ」
「あらいやだ、褒めたって何もあげないわよ」
と言いつつ彼女はとても嬉しそうに笑っていた。
晴明が喋り、それに桜海が返しながら一晩中泳ぎ続けた。ずっと喋り続けても話題が尽きることはなく、ただあてもなく誰もいない海を泳ぎ続けてもそれに飽きることはなかった。
水の色が明るくなり始めたのを見、流石にもうそろそろ帰らねばと晴明が別れを告げた時、桜海は酷く寂しそうな表情を浮かべた。しかしその後彼女は思いもかけない言葉を口にする。
「ねえ貴方、また会える?」
「え?」
「またこうして会えるかしら? 会えるのなら、また貴方とこうして二人この海原を泳ぎたいわ」
その提案は晴明にとってとても喜ばしいものだった。だから彼は即答した。
「勿論! 断る理由がどこにあろうか。貴方がそれを望んでくれるとは思ってもいなかった! 会おう、また会おうではないか。私も何度も貴方と一緒に泳いだなら、もっと本物の『魚』に近づけるだろうか。私は貴方のように泳いでみたい。海と一つになり、海のものとなりたい!」
それを聞いて桜海はほっと肩を撫で下ろし、それから静かに晴明の手を握った。彼女の手の冷たさは、この海と同じ冷たさだった。
「それじゃあ、また会いましょう。三日後の夜、今日貴方と私が出会った場所に来て。きっと、きっとよ」
「勿論。私は約束を破らない男だ。嘘もつかない男だ。ミツツキミツキカケ様は約束を破ったり、嘘をついたりする人間に加護を与えてはくださらないからな! ああ、そうだ今度貴方にミツツキミツキカケ様と交信する為の方法を教えて差し上げよう。美しい女神であると私が信じて疑わない彼女の加護を得ることで、貴方はますます美しくなるに違いない」
「これ以上綺麗になったら、あんまり眩しくなってしまって見た人の目を焼いてしまうかもしれないわ」
「あはは、貴方は面白いことを言うな!」
「本当のことを言っているのに」
などと言いながら桜海は笑っている。無邪気な子供のように。
それから二人は別れた。また会うことを約束して。
晴明は彼女の姿が見えなくなるまで見ていようと思った。ところが彼女はあっという間に闇色をした水と同化し、一瞬にして見えなくなってしまった。少しの余韻も残さず彼女は消えてしまった。
*
その後度々二人は夜落ち合っては、誰もいない夜の海を泳いだ。全く本当にこの町は夜とても静かである。二十四時間営業している店もなく、やんちゃな坊や達の視界にさえ映らないせいか、舞花市や三つ葉市のものとは比べ物にならない位心地良い静寂に包まれている。
誰も二人を咎める者はおらず、彼らの会話に耳を傾ける者もいない。静寂の海、二人だけの世界。誰も侵すことの出来ないものが、人知れず現れ、そして消えていく。
相変わらず桜海の泳ぎ方は人であるとはとても思えない位美しい。目に見えない、実体も無いはずの『幻』の空の海の水が、彼女の身の回りにだけ確かに存在しているように思える。
彼女は時々、意味も無いのにジャンプしたり、スキップしたり、くるりと回ることがある。その時彼女の体は本当にゆっくり浮かんで、そしてゆっくりと沈んでいく。晴明のようにぴょんとジャンプしたと思ったら重力にぐいっと引っ張られてべちん! と着地するということがまるで無かった。彼女がそうやって動く度、袖も一緒にふんわりと舞い上がり、手から離したヴェールの様にゆっくりとふんわりと落ちて、元に戻って、しいんとなって。髪だって同じだった。重さなんて殆ど無いかのようにふわっと浮かんで、時間をかけて元の位置へと戻る。
彼女の動きは皆軽くて、ふわりとしている。本物の水の中でなら普通の人間にも出来そうな動きを、空の海の中でもやってのけることが出来る人間はきっとこの世界に彼女の一人しかいないだろうと晴明は思う。彼女の体は、自分のように腕力皆無の人間でも簡単に持ち上がるかもしれないとも思った。高い高いもいとも簡単に出来るような気もした。彼は少しそれを試してみたい衝動に駆られたが、晴明少年は紳士であるから女性の体をいきなりつかんでひょいっと上げるなどという乱暴なことはしない。
桜海はある日の夜、何を思ったのか道路を挟むブロック塀の上にひょいっと上った。晴明はいきなりそんなことを彼女がしたことにも驚いたが、それ以上にあまりに軽やかで綺麗な上り方に驚いた。
塀の上へ手をかけ、よっと飛び上がる。そしたらいとも簡単に彼女の体は地上から離れ、高く高くふわり舞い上がって、あっという間に塀の上。ほたて貝のように扇形に広がった髪が晴明の遥か頭上でゆっくり閉じて、ぱさり。
ブロック塀に上った桜海は、鳩が豆鉄砲食らったような顔をしている晴明を見て、にこり。それから塀の上で軽やかなステップを踏む。海の水に溶けて矢張りよく見えない足が微かな音を立てる。
交差して、回って、けんけんして、また回って、回って、回って。大きくジャンプして、飛んで跳ねて、回って。
そこまで幅がないはずの塀の上でそれだけの動きをしても、彼女がバランスを崩すことは無い。彼女も絶対そこから落ちることはないと確信している風だった。全く危なげなく進むので、晴明も「落ちてしまうかもしれない」とはらはらすることはなかった。嗚呼魚が、人魚が遊んでいる――海の中で私に微笑みかけながら……そんなことを思いながら、ただ彼女の姿をうっとりと見つめている。水面から注ぐ僅かな月の光を受けて輝く彼女の姿は美しい。
しばらくして彼女が塀の上で動くのをやめ「どう?」とばかりに晴明の方を見た。
「貴方はすごいな。私だったら絶対そんな所でそんな動きは出来ない。新体操でもやっているのかい、貴方は」
「新体操? 何それ」
「はっはっは、惚けずとも私には分かっている。貴方はきっと新体操会期待のエースとか呼ばれているに違いない。袴姿の貴方もいいが、レオタードを着た貴方の姿もまた美しいだろうな! 袴姿とは別の色気を醸しだしているに違いない。うんうん。私も新体操部に入って死ぬ気で練習すれば貴方のようになれるだろうか?」
半分冗談、半分本気で言っている。桜海は何を言っているのかしらこの人はとただ首を傾げるばかり。
「ところで貴方はいつまでそこにいるのだ? 私を一人にしないでくれたまえよ」
「貴方も上がってくればいいじゃないの」
「貴方は本当に面白い冗談を言う人だなあ!」
「冗談じゃないのに。貴方にだって出来るわ。貴方も私と同じ海の魚じゃないの」
桜海の言葉に晴明は笑った。
「私なんて、まだまだ。こうして貴方と会い、共に泳ぎ続けていればいずれは貴方に近いものになれるかもしれないが」
「自分は空の海の魚ではないと思い込んでしまっている内は、私とは同じものにはなれないわ。初めて会った時の貴方は私と同じものだったのに。どうして考えを変えてしまったの? まあ、いいわ……いずれまた貴方は私と同じものになるだろうから。とりあえず貴方の要望通り、ここから降りてあげる。……ねえ貴方。そちらに向かって沈んでいく私の体を受け止めてくれる?」
それはつまり、今から飛び降りる私を抱きとめてちょうだいなということである。
普通に考えると、勢いよく飛び降りる少女の体をバランスを崩すことなくきちんと受け止めるなんて芸当は晴明には出来なかった。桜海ごと地面へダイブしてしまうことは目に見えている。
しかし飛び降りる相手が桜海なら話は別かもしれないと晴明は思った。ゆっくりと、ふんわりと両手を広げた自分の胸の中に飛び込んでくる彼女の姿を夢想する。そうすると何だか自分にも彼女を受け止められるような気がしてきた。
「うむ、よかろう! さあ私の胸に今すぐ飛び込んでくるがよい! 私はきちんと受け止めるぞ、受け止めてみせるとも!」
両手を広げ、彼女を受け入れる準備を整える。
ところが、飛び降りるから受け止めてくれと言った本人の顔が妙に難しい顔になっている。或いは、晴明を軽蔑するような顔。
「……やっぱりやめたわ」
「どうしてだい? 矢張り私では不安かな?」
「そうじゃないわ。全く……今すぐ鏡で自分の顔を見てごらんなさいな。腹が立つ位いやらしい顔しているから」
……また別の日の夜。
「幻想というものは、面白い。色々な生まれ方があるからだ」
どういう流れか、晴明的幻想論なるものが始まった。
「現実にあるもの、幻想のかけらもないもの。それが本来持っていない要素を付け加え、ちょっと『変』にしただけで現の世界にあるものが簡単に幻想的なものになる。例えば金魚。金魚自体はこの世界に沢山いる、夢の生き物でもなんでもない存在だ。彼らが金魚鉢の中を泳いでいても、それは何にもおかしなことではない。だが、彼らが金魚鉢の中ではなく、空で泳いでいたらどうだろう。空を飛ぶ魚と一緒に、沢山の赤い魚が泳いでいたら。とても幻想的な光景だとは思わないだろうか。どこにでもいる金魚が、泳いでいるはずのない空を泳ぐ――それだけで『幻想』が生まれる。空を泳ぐ、という『変』な部分が『現実』にいる金魚を『幻想』的なものに変える」
彼はそれから歌うように、他の例を述べてみた。光る鬼灯、人の言葉を喋る猫、冬の空から桜の花びらが雪の様に降ってくる、異次元と繋がるカバン、夜毎歌いだす人魚像……。
「ほんの少しヘンテコ要素を加えるだけで物事は変わる。『現』に『変』を加えると『幻』になる。全く面白い世界だと思う。しかし空を金魚が泳いでいるのが当たり前の世界では、空泳ぐ金魚は幻想的なものではなく現実的なものになって……そんな世界に住む人にとっては金魚鉢を、水の中を泳ぐ金魚の方が変で、幻想的に見えて……何が『現』であるかによってその他のものも変わる、うん、本当に幻想というものは面白い」
「貴方はそういうことを色々考えながら物語を書いているの?」
「考えながら書いている時もあれば、何にも考えないで書いている時もあるな。変に考え過ぎると『幻想』ががっちがちに固まってしまうからだ」
「がっちがちに固まった幻想ってどんなもの?」
「さあ、分からん!」
「分からないのに言ったの? もう本当に困った人ね」
「後『幻』と『変』は紙一重、という考えもある!」
ちょっと、無視? という桜海の言葉を晴明は無視する。
「空を金魚が泳いでいる光景、というものを私は幻想的なものだと思っている。しかし、人によってはそれを見ても幻想的だとは思わず『うわ、空を金魚が泳いでいるよ気持ち悪いな、変だなあ』としか思わないだろう。冬に桜の花びらが、しかも空から降ってくるなんて変だ、何で鬼灯が光っているんだよ変なの! という風に。『現』に加えた『変』の部分だけ際立って見えてしまって『幻』を感じない。幻想というものは見ようによっては変なものであり、変なものは見ようによっては幻想となる……。正確にいうと紙一重、という言葉は意味合いが違うかもしれないが、まあ紙一重って響きが何かいいから紙一重ということにしておこう、うん! いやあ、本当に幻想というものは面白い! 貴方もそうは思わないか!」
「さあ、どうかしら?」
「そうか、面白いと思ってくれるか!」
桜海が意地悪っぽく返した言葉も晴明の耳には半分も届いていないようだ。
彼はそれから彼女に乞われたわけでもないのに延々と自分の思う『幻想』を語り続けるのだった。
夜を重ね、日を重ね、会う時間を重ね、幾度と無く泳ぎ続ける内、少しずつ晴明は自分が『本物』の『空の海に属するもの』に近づいていっている気がした。また、自分と彼女の『違い』をあまり意識しなくなっていった。そのような思いは彼女と共に過ごす美しい時間を壊すだけだと思うようになったから。
泳ぐのは大分上手くなった。段々と自分が海と上手く同化出来るようになっていっていると思う。彼女に比べれば全然だが、もうそんなことはどうでも良くなっていた。
彼女と会う夜、彼女と過ごしている間だけは自分のことを空の海に属するものと、空の海を泳ぐ魚だと思うことにしよう。自分は彼女と同じ、彼女は自分と同じ。同じ者同士、誰もいない海を泳ごう。
その思いが、自身を『本物』に近づけていっているかもしれなかった。
「ねえ、今から一緒に踊りましょう」
「踊る?」
桜海がそんなことをいきなり言ってきたのはいつの夜のことだったか。
鳥一羽飛んでいない、澄みきった水、美しい海の底にあるとある道路。両脇には生き物の住まう巨大貝がずらりと並んでいる。
「そう。素敵でしょう、夜の海で二人手をとって踊るのって。夢物語の一場面みたいで」
「しかし私は踊りなどは上手くないぞ。創作とか芸術系統に明るいはずの私だが、そういうものはどうにも。振り付けを考えるのは得意だがな! ああ懐かしい、少し前高校の授業でやったダンス! グループを作り、自分達で考えた振り付けで一曲踊るというものでな、私はその時色々な振り付けを考えたものだ! ミツツキミツキカケ様と交信する時や、彼女から色々なパワーを受け取る時等に使っているポーズを元にしたのだ。それを見せた時の彼らの表情といったらなかった。衝撃と感動のあまり目を丸くし、口をぽかんと開き、何とも面白い顔をしていた!」
「衝撃は合っているだろうけれど、感動はどうだったのかしら。ま、いいわ。踊りの上手い下手なんて関係ないのよ」
「そうか! それを聞いて安心した! ところで具体的にどんな風に踊るのだ? フォークダンス? ワルツ? タンゴ?」
「何それ。私そういうの全然分からないわ。型がどうとかこうとか言いたいの? そんなものはなんだっていいのよ。ただこの海の流れに身を任せて踊ればいいの。二人で手を取り合ってね」
そう言って桜海は晴明に手を差し伸べる。こういう時は普通男の方から手を差し伸べるべきなのでは、などと言いながらも晴明はその手をとった。彼女の手は冷たくて、柔らかくて、優しい。
二人はそれから町の中――海の底で踊り始める。歌も、型も、何にもない。
回って、離れて、近づいて、手を離して回って、また手を繋いで。海の中、桜海の髪が、袖が、揺れて回って広がって舞って落ちて。
晴明は踊る内、色々なものを忘れていった。時間の流れも、周りにあるものが貝などではなく本当は家であることも、足元にあるのがコンクリート製の道路であることも、自分に二本の足がついていることも。
自分が魚などではなく、本当は『人間』であることも。
体が水の中に溶けていく、境界が無くなっていく、体から重さがなくなっていく……。視界が青みを帯びてくる、ぐんぐん水面へ向かって上っていく泡沫が見える、水の流れが見える……今まで見えなかったものが、初めて晴明の目に映った。晴明は高揚する。頬が紅葉していく。
桜海が笑う。晴明も笑う。世界が青くなっていく。青く、青く……そして明るくなる。
晴明はその日の夜、本当の魚になった。空の海に属するものになった。
二人は飽くことなく踊り続けた。夜が終わるまで。
誰もいない夜、二人で踊り続けるその姿。その姿に『幻想』を見る者もいるだろう。なんと美しい姿だろうと、現にはない光景だと思う者もいるだろう。
一方、それを見ても『頭のネジが二、三本位外れた危ない人達が夜奇怪なダンスを踊っている』としか思わない者も多いに違いなかった。どちらも間違ってなどいない。
『幻』と『変』は紙一重なのだ。