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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
空の海を泳ぐ魚
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番外編13:空の海を泳ぐ魚(1)

『空の海を泳ぐ魚』


 (はる)(あき)少年は今、紺碧の海の底を泳いでいる。空、という名の海を。


 金銀の月光が水面から降り注ぎ、暗い世界を淡く照らす。水面は瞬く星できらきらと輝いていてとても綺麗だった。時折白い雲――海のすぐ上を悠然と飛ぶ鳥の影――が見える。小さいのと、大きいのと、沢山。

 その海の底に沈んでいる山は緑がかった青、或いは青がかった緑色。空の海と同じようで少し違う色をしているからか、ぼんやりと隔たり――稜線が見えるような気がした。

 晴明よりもずっとずっと……比べること自体おこがましいと思える程大きなその山も、大海の前ではとてもちっぽけな存在だ。水底にそびえる数多くの岩の一つにすぎないのだ。暗い色をした海藻に覆われているでこぼことした桜山という名の大きくて小さい岩。


 そんなものよりもずっと小さい自分は果たして何なのだろう、と晴明は思う。

 海を泳ぐ魚、小魚。いや、それよりももっと小さい微生物かもしれない。そう、岩よりもずっとずっと小さい自分は小魚ですらないのだ――というところまで考えてから、苦笑い。微生物じゃ格好がつかないし、何だか美しくないからここはとりあえず小魚ということにしておこう、という結論に達し一人腕を組んでうんうんと頷く。

 だから晴明少年は今、紺碧の海を泳ぐ魚である。


 木々がざわめく音は波の揺れる音。ざん、ざん、ざあ、さあさあ。泳ぐ晴明の体を冬の空の海の水が冷たく撫でる。その度吐き出す息は白いくらげとなって海の中ふわりふわりと漂って、やがて遥かな海の中に溶けていなくなり。

 夜、この辺りを泳いでいるのは彼だけで後は誰もいない。巨大な海も、水の音も、今は彼だけのものだった。


 近づけば近づくほど大きくなっていく桜山、一瞬でも気を抜けば身も命も何もかも飲み込まれてしまいそうだった。光の一切届かない深い深い海の底をそのまま切って貼ったような色は巨大な怪物の口にも見える。

 両手両足を使ってかく水は本当に冷たく、動きを著しく鈍らせる。しかしその痺れるような冷たさも今の晴明にとってはとても心地良いものだった。遥かな海の中を泳いでいる、ということを実感して震えるのは心。冷たさに震えるのは体。


 ざあ、ざあ、ざあん。


 遠くから聞こえる波の音に耳を傾けている内に、多くの命を抱いている岩へ辿り着いた。眼前にそびえるそれは全国各地にあるものと比べるとそれ程大きい部類には入らないものだが、それでも晴明に比べたらずっと大きい。すぐ近くまで行くと見上げても輪郭が見えない。

 空の海の底、静かに佇むそれのことを晴明は気に入っていた。月光を浴び自身が創りあげ、信仰している『ミツツキミツキカケ』様の加護を受けながらここにいると、色々な物語や文章、設定などがぽんぽん浮かぶからだ。彼は夜中度々外を抜けだしてはここまで来てノートを広げる。三つ葉市に引っ越す前もそうやって夜遅くに家を出ることがあった。これはもう昔からの習慣なのだ。


 麓にぽつんとある鳥居のすぐ近くに青いレジャーシートを敷き、四方を赤・青・緑・黄の玉で押さえる。その手際の鮮やかさといったらなく、見れば誰もが「手馴れてやがるな、こいつ」と思うに違いなかった。

 魔法瓶に入れていたココアを一杯飲み、背伸びする。


「今宵は満月! ミツツキミツキカケ様の力を最も多くこの身に受けることの出来る日だ! ふっふっふ、はっはっは! 素晴らしい、素晴らしいぞ、素晴らしすぎて涙が出る位だ。ふつふつと湧いてくる幻想の水を私は今から汲み上げるのだ!」

 両足と下げた両手をクロスさせ、顔を上げる。誰に聞かせるわけでもなく放った透き通っている良い声が静寂の海をかき回した。


「さて、早速始めるとしようか! 夜というのは長いようで短い。一秒たりとも無駄にでは出来ないのだ! 見たら最後二度と元の世界に戻れなくなるという恐ろしくも美しい、黒い着物を着た人達の行列……自分の口から出てきた蛙を我が子のように育てる女の話……夜毎動いて宴会をする狸の置物……ああ、素晴らしい、なんと素晴らしいのだ!」

 てん、とん、とんと謎のステップを踏みながら独り言、独り言、独り言、ごちゃごちゃ。

 誰もその場にいない以上、晴明の独り言は自らの意思でやめない限り永遠に続くと思われていたが。


「……随分賑やかだと思ったら、こんな時間に――人?」

 突如背後から聞こえた、声。

それは晴明がぐちゃぐちゃに引っかきまわした静寂を、一瞬にして再びその世界にもたらした。


 自分以外誰もいないと思っていた晴明は突然聞こえた声に驚きを隠せない。

 ある日の夜この場所で出会い、その後も幾度となく顔を合わせている男――出雲の声ではなかった。出雲のはずがなかった。何故なら今晴明の耳に届いた声は明らかに女のものであったから。

 大変良いものの、海にがつんごつんとぶつかり色々ぶち壊す晴明のものとは違い、彼女の声は海にすうっと溶けた。その溶け方の心地良いこと。


 この美しい声の主は誰だろうと晴明は足元に置いていた懐中電灯を手に取り、ぱっと後ろを振り返った。


「こんばんは」


 光に晒され、その姿を露にする女。いきなり懐中電灯を向けられても女は全く動じなかった。


 女は鳥居の背後から頭上高くまで伸びている石段――下から数えて四段目――に腰を下ろしていた。晴明よりは少し年上だが、少女だけが持つことを許されるあどけなさが残る顔を見る限り、ぎりぎり成人はしていないように見える。

 石段に触れる程長い黒髪はやや緑がかっていた。青も若干混ざっているように思える。その色は今彼女が背を向けている山の色に似ていた。だからまるで背景と彼女が一体化しているように見えた。

 藍色の着物、闇に溶けて消えそうな位濃い緑の袴、頭のてっぺんには袴と同じ色の大きなリボンという、まるで明治だか大正だかからタイムスリップしてきたようないでたち。一度や二度ではなく普段からそういった格好をしていることは着こなし具合から容易に察せられる。


 自分から目を逸らすことも、声を漏らすことも出来ないでいる晴明を見て女は笑み、それから立ち上がって石段から飛び降りた――否、舞い降りた。

 石段から離れた体はふわり宙に浮かび、それからゆっくりと、本当にゆっくりと地上めがけて落ちていく。彼女が着地した時に聞こえた音は、体重を感じさせない位軽いもの。

 それにもまして軽かったのは彼女の髪だった。それは果てない海の中にさあっと広がり、時間をかけて元へと戻っていく。


 今自分は本当に海の中にいるのではないだろうか。彼女の姿を見て割合本気で晴明は考えた。

 普段の彼を知っている人なら誰もが気味悪く思う位静かになった晴明だったが、しばらくしてようやく口を開いた。口を忙しなく開け閉めしなければ呼吸出来ぬ魚なのだ、彼は。


「まさかこんな時間、こんな場所に人がいるなんて驚いた。一体どうして?」


「それは貴方も同じでしょう? 一体こんな時間、こんな場所で何をしているの?」

 尋ねたら、逆に尋ね返された。


「何故、どうして、何をしている? よくぞ聞いてくれた! 私は今からミツツキミツキカケ様の加護を受けつつ新たな幻想物語をこの世に生み出そうとしているのだ。いわゆる小説執筆、というものだな。ん? 文章を書くのはとても大変だろう、辛いだろうって? ううむまあ確かに大変だが、やりがいはあるし案外楽しいぞ。私は昔から文字を書いたり打ったりすることが好きだった。小学四年生位から色々書いていたな。初めて書いたのは突然凍ってしまった空の上をペンギンが優雅に滑るという話だった。自由研究の為、逆さになって空に足をつけているペンギンを一人の少年が観察するのだ。実にかわゆい話だろう? 誠に残念なことにその小説が書かれているノートは家にあるので、今すぐ見せることは出来ないが」


「そんなことまで聞いていないわよ」

聞いていないことまでぺらぺら喋る晴明に呆れつつも、不快には思っていないらしい。口元に手をやりくすくす笑う。可憐な笑みが晴明の胸を打つ。


「そう、楽しいの。私はそういうものを書いたことがないから分からないわ。けれど貴方が楽しいと言うのなら、きっと楽しいのでしょうね。よく見たら貴方……確かにそういうものが好きそうな顔している」

 女が晴明を真っ直ぐ見つめる。その瞳に身も心も何もかも吸い込まれそうになった彼ははっとし、そうはさせじと女の瞳から逃れるように再び口を開いた。


「うむ! 皆そう言うのだ。職業適性テストなるものをやった時もそういったものが一番向いているという結果が出たしな。私という存在はまさに『物語』を創り、生み出す為に産まれてきたのだ! 今はまだひよっこだがいずれは世界にその名を轟かせるような素晴らしい作家になってみせる。きっと私なら出来る。何故って? それは勿論、この私がミツツキミツキカケ様に愛され、守られているからだ」

 そこまで言って、彼は自分がまだ自己紹介していないことに気がついた。

 初めて会った人には必ず自己紹介をしなさい――そう彼は昔から両親に言われていた――ような記憶があった。その記憶が正確であれ、捏造したものであれ、彼は自分という存在を相手に主張することを怠らない人間であった。何より彼は……目の前にいる女に自分のことを知ってもらいたかった。もうすでに彼の心、魂の一部は彼女に吸い込まれていたのだ。


「そうだ、自己紹介がまだだったな! 私の名前は瀬尾晴明、十六歳、乙女座……」

 さっきまでより一層大きくなり、興奮気味になった声でしようとした自己紹介。だが彼は最後まで言い切ることが出来なかった。


 ざあ、さあ、ざあ。


 何かが晴明の唇を押さえたのである。

 それはふわり、ゆらりと泳いで晴明の間近まで来た女の――右手の人差し指。


 細いのにとても柔らかい、白い指。それは驚く程冷たくて、体が一瞬で火照る位熱かった。多くの人々に恐れられた化け狐、出雲相手にも殆ど怯むことなく自分のペースでことを進めることが出来た彼も、彼女の指には敵わなかった。

 それが離れた後もしばらく唇に感触と熱が残る。口を開くことが出来ず、ただ手を伸ばせば触れられる位近くにいる彼女の顔を見つめることしか出来ない。


「そんなに大きな声を出さないの。折角の美しい静寂が台無しになってしまうわ。……ねえ貴方。今から私と一緒にこの遥かな海原を泳いでみない?」


「海原……」

 ようやく口にすることが出来た言葉、それに対し女は頷く。


「そう、海原。私にとって青い空に包まれたこの世界は大きな海なの。この世界を歩くということは、泳ぐということ。山は海の底にある岩で、貴方は魚。煌く星は水面の輝き、或いは弾けた泡沫。空の海を泳ぐ――それってとても幻想的な響きに聞こえない?」

 空の海。海に沈む岩、海の中を泳ぐ魚。ここまで来る間に思い描いていたものと同じようなことを女が口にしたので、晴明はどきりとした。同じ幻想に浸りながら、同じ時間同じ場所を泳いでいた人……そんな人との出会いが、彼を高揚させる。

 そんな彼女の誘いを――自分の目を、心を一瞬にして奪った女性の誘いを――断る晴明ではない。

 

「勿論。実は私もここに来るまでずっとこの海の中を泳いでいたのだ。多くの命が眠るこの巨大な岩を目指して」

 彼の言葉に女は目を丸くした。それから嬉しそうに笑んだ。その笑みを見ると晴明の鼓動が早くなる。声はやや上擦りながらも大きくはならない。彼女にあまり大きな声を出さないで、と言われたからかもしれない。


「創作活動などどうでもいい――いや、どうでも良くはないな。私にとって命の次に大事なものだから。けれど今日は、いいや。物語を生み出すことはいつだって出来るけれど、貴方と一緒にこの海の中を泳ぐことは今宵しか出来ないかもしれないから。ところで貴方の名前は何と言うのだ? ああ、ちなみに私の名前は瀬尾晴明、十六歳」


「それはさっき聞いたわ。私の名前は……」

 女は袴を両手でちょんとつまみながら、頭を下げ、それから最高に美しく、愛らしく、妖しい笑みを浮かべた。


「私の名前は(おう)()。……山の人魚よ」

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