クリスマス・パニック!(11)
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「そうね。さっさと済ませてしまいましょう。ところで一体何で勝負をするの?」
「これだよ」
いつの間にかテーブルの上に現れたのはサイコロと絵と数字の描かれた札、ミニサイズのこけしが二つと文章の書かれたマスがびっちりある厚紙。
どう見ても双六、或いは人生ゲームのボード。しかし先程まで柚季達がやっていた人生ゲームのそれよりもずっと大きく、やり終えるまでには相当な時間がかかりそうだった。さっさと終わらせてさっさとこんな世界とおさらばしたいと思っていた柚季は目の前のボードを見て早くも心が折れそうになる。
そんな彼女の様子など気にも留めず、賭け婆は気味の悪い笑みを浮かべながらゲームの説明をぺらぺら話しだした。
「幸集め、という遊びだ。交互にサイコロを振り、出た目の数だけ進む。そして止まったマスに書かれた指示に従う。大抵マスには幸札を貰う、という言葉が書かれている。幸札というのがこれだ」
絵と数字の描かれた札を指差す。札に描かれているのは金屏風や火の鳥、富士と鷹と茄子の初夢組(扇、煙草、座頭の描かれている初夢組その二というのもあった)、梅、松、竹、陶磁器等縁起の良さそうなものや高級そうなもの。
「貰える幸札の種類は指定されている場合もあれば、裏返したものから一枚選ぶという場合もある。ああ、札にはちゃんと予備があるから『これを手に入れられると書いてあったが、すでに自分か他の人が同じ物を手に入れているから無理』ということは無い。一枚限りしかないものもあるが、それはまあ例外さ。さて……マスに止まって貰えるものは幸札だけではない。悪札というものもある」
そちらの札には気持ちの悪い虫、いかにも縁起の悪そうなもの、妖達にとっては天敵とも呼べる巫女やら何やらの絵等が描かれていた。こちらにも数字が書かれていたが、赤文字で書かれていた幸札に対し、こちらは青色の字だった。
その数字は得点であるらしい。つまり幸札を取れば得点が加算されるが、悪札を取ってしまうとそこに書かれている分の数だけ減点されてしまうということなのだろう。
「他にも手持ちの幸札の中で一番得点の高い幸札を捨てるというものや、相手に悪札を一枚押しつけるとか、そういったマスも多くある。何マスか戻るマス、一気に進むマスもある。……で、二人共あがりマスに止まったら手持ちの幸札と悪札の得点を合計する」
「その合計得点の多かった方が勝ちってことね」
「けっけっけ、そういうことだ。これならお嬢ちゃんにも簡単に出来るだろう」
「出来るけれど……」
何故もっと短い時間で終わらせることの出来るゲームを選ばなかったのか、と文句を言いたかったがぐっとこらえる。
賭け婆に続いて柚季も座布団の上に座る。賭け婆が二人のコマをふりだしに置き、準備完了。じゃんけんに勝った柚季が先行、賭け婆が後攻。
(人生ゲーム同様、運の良かった方が勝ちって感じね。ツキに見放されたら終わりだわ。負ければあのチキンがとられてしまう。どちらかというと和風のタレにじっくり漬けこんだあのお肉が。じっくり焼いたらきっと程よくこんがり、醤油や生姜の匂いと肉の脂の香りが部屋中に広がるだろう、外はパリパリ中はふっくらジューシーになるに違いないあのチキンが! しかもこの人奪ったチキンは焼かずにそのまま食べるに違いないわ。そのまま食べてどうするのよ、そのまま! 火を通すことでより香りが良くなって、中にいれた野菜とかの甘みも強くなって、全部の旨みが綺麗に混ざり合って……美味しくなるというのに! メインディッシュ奪われた上に、こっちのこだわりまるで無視してそのままぱっくり食われたらたまったものじゃないわ)
柚季の脳裏に浮かぶチキンの丸焼きの絵。想像するだけでお腹が空いてしまう。この料理は柚季と紗久羅が最も完成を楽しみにしていたものであり、また一番皆に食べてもらいたいものであった。それだけに万が一賭け婆に負けてしまった時のダメージは計り知れない。
サイコロを振る前に、手を合わせ目を瞑ってお祈りする。絶対に勝ちますように、と。
そんな柚季の両肩に何か温かいものが触れた。まるで誰かが両手を肩に置いたような。
(私達以外に誰かいる?)
振り返る。しかしそこには誰の姿も無い。同時に肩に触れていた何かが離れていくのを感じる。触れられている感覚は消えたものの、温もりは残ったままだった。優しい温もりで気持ち悪さは全くなく、むしろ心地の良いものだった。
まるで、この空間を包んでいる空気のような。その温もりは柚季の心を包み込み、落ち着かせ、そして彼女に活力を与える。
(なんだろう、よく分からないけれど上手くいくような気がする)
賭け婆に促され、柚季はサイコロをころりと振った。出たマスに書かれていたのは「道中にあった松の木の精に気に入られる。幸札『松』を獲得」という文章。それを口に出して読むと、賭け婆が松の木の描かれた幸札を渡してくれた。ちらりと見える他の幸札に書かれている得点と、自分の手に入れた幸札の得点を見比べる。全種類と比べたわけではないからはっきりとは分からないが、まあそこそこの得点であるらしい。
ところで、幸札に書かれていたのは札の名前、得点、絵だけではなかった。
よく見ると得点の下に何やら短い文がある。
「何これ? ええと幸札『竹』と『梅』を持っていれば2000点加算。『天女の羽衣』を持っていれば1500点を加算?」
首を傾げながら読んだ文章に賭け婆が「あ」と反応する。何か思い出したような声であった。
「そうだ、そうだ。そのことを話すのをすっかり忘れていた。幸札の中には、組み合わせ得点を手に入れられるものがあるんだ。今回の場合、もしお前さんがこの後『竹』と『梅』の二枚を手に入れれば『松竹梅』という組み合わせが出来て、合計得点に更に2000点足すことが出来るのさ。『天女の羽衣』と『松』は組み合わせると『羽衣伝説』というものになり、1500点手に入れられる」
「もし私が竹、梅、天女の羽衣の三枚全て手に入れた場合は?」
「2000点も1500点もどちらももらえるから、計3500点手に入れることが出来る。しかし悪札にも同様に組み合わせ得点というものがある。組み合わさると通常以上に点数が減ることになってしまうのさ」
「なる程ね」
素直に頷く。組み合わせ得点で逆転することも、されることも充分有り得るようだ。賭け婆曰く幸札か悪札を手に入れられるマスは多いので、組み合わせ得点が発生する確率は高いらしい。
「一つのマスでしか手に入れられない幸札と組み合わせることが出来る札を手に入れればかなりの点になる。ただそれと組み合わせることの出来る札っていうのもかなり手に入れにくいものだから相当な運が無い限りは無理だがね」
言いながら賭け婆はサイコロを振る。生まれた頃からずっとサイコロを振り続け、賭け事をしている為かその手つきは惚れ惚れする位鮮やかである。
単純なルールで、マスに書かれた文字に従って行動すれば良いだけだったから、ゲームはスムーズに進んでいった。
賭け婆はゲーム中、よく柚季に話しかけてきた。大抵は柚季達の住んでいる世界についての質問だった。何かを企んでいるという風ではなく、ただ純粋に『こちら側の世界』のことについて色々聞きたいだけのようだった。無言のままゲームを進めるのはつまらないから、という理由もあるのかもしれない。
「――ふうん、くりすますっていう祭があるのかい。何だか妙な響きだね」
街中を彷徨っている時に見たクリスマスツリーや浮き足立っている人々が気になっていたらしい賭け婆の質問を受け、クリスマスのことについて柚季が説明してやった。賭け婆はそれを聞き、コマであるこけしを動かしながらため息混じりにそう一言。
「向こう側の世界にはクリスマスって無いの?」
普段なら『向こう側の世界』の話など聞こうとも思わない柚季だったが、それなりに面白いゲームをやっている最中であるからか、もしくは暖かく優しい空気に包まれて余裕があるからかごく自然にそんな問いを口にする。
賭け婆はけけけと笑ってから、答えた。
「無かったね。少なくとも私が住んでいた辺りでは。……だが恐らく、海の向こう側にある土地にはそういう祭も存在しているだろう。ずっとずっと遠くにある地には。私達の世界の文化や言語だって、どこもかしこも全く同じってわけじゃない。結構ばらばらさ。一応言語に関しては共通のものがあるにはあるし、他にも世界共通のものはあるが。言語や文化に関しては、重なり合っている場所に根づいているものに影響されているようだ。まあだからこそ、こうして私とお嬢ちゃんは会話がちゃんと出来ているのさ」
(つまり同じ『向こう側の世界』でも、アメリカと重なっている場所辺りに住んでいる妖達は英語を話して、フランスと重なっている場所辺りに住んでいる妖達はフランス語を喋るってことか。向こうの世界の住人皆が着物を着ているってわけじゃないのね)
賭け婆曰く、住んでいる妖の種類や名称等も土地によって大きく変わるらしい。遠く離れた地には魔女やドラゴン、トロール等が住んでいるのかもしれないと柚季は思った。
「貴方は遠く離れた所に行ったことはあるの? 言語も文化も全然違う所へは」
「ないねえ。遠く離れた地で人気の遊盤や遊札なんかを取り寄せたことはあるが。やり方や用語、名称を覚えるのが大変だったねえ、いや懐かしい。どれもこれも奇奇怪怪な響きだったから」
遊盤、遊札とは何だという柚季の疑問に賭け婆は丁寧に答えてくれた。賭け事や遊びに関することを話すのは大好きらしい。
賭け婆は取り寄せた遊盤(ボードゲームの総称)や遊札(カードゲームの総称)に関する単語だけは覚えたものの、それ以外のものは全く知らないという。
「知らないからといって別に困ることはないからね」
それからも賭け婆は延々と柚季に色々話しかけてきた。
賭け婆の話に柚季は相槌を打ち、時に質問し。賭け婆の質問にも律儀に答えた。そして二人共、幸札を手に入れれば笑顔になり、悪札を手に入れた時は悲鳴をあげてがっくり肩を落とし……相当ゲームを楽しんでいた。
しかしそれもゲームの中盤までのこと。というのも二人のサイコロ運に段々と差が生じてきたからだった。
賭け婆の方は特別ついているわけでも、運に見放されているわけでもなく、良くも悪くも無いという流れが続いていた。手持ちの幸札と悪札の得点は高すぎず、低すぎず。手に入れた悪札の数は少なめで、まあ平均的といえた。
一方柚季はというと。
「やった、やった! 『竹』ゲット! 『美女』の幸札を持っているから『竹取物語』っていう組み合わせ得点がもらえる。しかも『梅』と『松』の札もあるから『松竹梅』の得点も入る」
竹のカード握りしめ、もう片方の手でガッツポーズ。
序盤から中盤にかけてのサイコロ運は賭け婆とどっこいどっこいであったが、ゲームが進むにつれて段々とツキが回ってきた柚季だった。悪札ゲットのマスを上手く避けたり、そこそこ良い得点の幸札を手に入たり、裏返されたカードの中からランダムに一枚選んだ幸札がとても良いものであったり、かなりの原点になってしまう悪札を賭け婆に押しつけることが出来たり、色々な組み合わせが次々と完成をしたり。運命の女神と勝利の女神が自分に微笑んでいる、いや自分をみて大爆笑しているような気がする位絶好調。
得点の差がどんどん広がっていることは、わざわざ厳密に計算をしなくてもお互いよく分かっていた。劣勢になっていることにあせりを感じ始めたらしい賭け婆は全くといっていいほど柚季に話しかけてこなくなった。時々彼女の口から漏れる呻き声。しかし呻いても喚いても嘆いても、彼女のサイコロ運が良くなることはなく、むしろ終盤にさしかかり、追い詰められれば追い詰められるほどどんどん状況は悪化していった。
こん、からから、ころ。勝利の女神の笑い声を思わせる、柚季が振るサイコロの音。
こん、かたかた、ころり。迫る敗北に賭け婆の心が揺れ動く音が、彼女が振ったサイコロを通じて柚季の耳にも届く。
「わ、この幸札ものすごく得点が高い。流石金色のマスだけあるわ。あら、私この幸札持っている……ってことは組み合わせ得点が発生、と」
柚季の頬を染める、紅、梅、桜。一方向かい側に座っている賭け婆の顔は青、白、灰。これだけは取りたくないと呟いていた悪札を取ってしまっていた賭け婆は最高得点である幸札を手に入れた柚季を見てうなだれ、しだれ柳。
ゲームが終わった頃には賭け婆はすっかり死んだようになっていた。やる必要は無かったが一応得点を計算。数字にすると二人の間にあった差がどれ位だったのかますますはっきりくっきりと目に見えた。賭け事を幾度と無くしている賭け婆、負けることも決して少なくないはずだがまるで初めて負けたような落ち込みよう。敗北というものは何度味わっても慣れないものなのだろうかと心の端で思う。
しかし今の柚季にとって、ゲームに負けてしまった賭け婆が落ち込もうが嘆こうがどうでも良かった。賭けに勝ち、チキンを守れたことに喜び、意気揚々と立ち上がる。
「お祈りが通じたのかしら。さて。私が勝ったのだから、あのチキンは渡さなくても良いのよね。それと私をさっさと元の場所へ帰して頂戴」
賭け婆が賭けた首飾りについては何も言わない。どんなに綺麗なものでも妖から物など貰いたくなかったのだ(美沙など一部例外はいるが)。ただ一刻も早くこんな綺麗ながらも妙ちくりんな世界から出たかった。このゲームに大分時間を費やしてしまったが、まだ皆と遊べる時間も少しはあるだろうし、それにもうしばらくしたら紗久羅と一緒に夕食の支度をしなければいけない。こんな場所で貴重な時間を潰す余裕など今の柚季にはないのだった。
賭け婆はうなだれたまま、無反応。ただぶつぶつと小声で何やら呟いている。
「いつまで落ち込んでいるのよ、全く。さっさと私を元の世界に帰して。これ以上ここにいる理由なんてどこにもないの、私には」
語気を荒げ、改めて賭け婆に自分を帰すようお願いする。
それからどれだけの時間が経ったか、ようやく賭け婆が顔をあげ言葉を返す。
だがその答えは柚季にとって非常に面白くないものであった。
「……帰すものか。誰が、帰すものか」
その言葉に柚季は怒るよりまず先に呆れてしまった。
「何を言っているの? 貴方、賭け事にはいつも真剣と言っていたわよね? いつも真剣にやっているのなら、潔く負けを認めると思うのだけれど。負けたことが納得出来ないから帰しませんって、かなりふざけていると思うわ」
「ええい、黙れ黙れ!」
テーブルを勢いよく叩きながら立ち上がった賭け婆の眼に怒りと狂気入り混じった光が。裂けた口、吊りあがる眉。鬼、般若、山姥の顔。あまりの形相に柚季は怯み、一歩後ずさる。
賭け婆の勝手な怒りはとどまることを知らない。
「認めない、認めるものか。有り得ない、これだけの差が開くなんておかしい、あまりにおかしすぎる……イカサマしたね、この小娘が。一体どんな手を使ったんだい? え?」
再び賭け婆がテーブルをどん! と叩いた。腹に響く音と共に、テーブルが砕けて散って消えちまって。その光景を前にした柚季の中に恐怖の感情が芽生えた。
不味い、そう思った瞬間世界が様相を変える。
かたかたかたかたかた。かたかたかたかたかた。
壁にはめこまれている丸窓が小刻みに震える。外にある木の枝がまるで生き物のように蠢きながら呻き声をあげ、そこに止まっていた鳥達は巨大化し、凶悪な顔つきになり、甲高い声をきいきいあげつつ窓にどん、がん、どんと体当たり。
かたかたかたかたかた。かたかたかたかたかた。
震えているのは窓だけにとどまらない。部屋の天井から吊るされているつるし雛までかたかたと小刻みに震えていた。命、或いは邪悪な意思が宿ったらしい飾りは震えながら呪詛の言葉や悲痛な叫びを口から吐いて、撒いて、柚季を追い詰めていく。
許さぬ、死んでしまえ、怖い、助けて、消えればいいのに、寒いよ、苦しい、苦しんでしまえ、毒を飲め、首を刈ってやる、皮を剥いでしまおう、痛い、何も見えないよ、恐ろしい――。
彼らを吊るしている紐は蛇に変わり、しゃあと威嚇。飾りから赤い液体がたらたら零れて伝って、畳に落ちていく。畳が染まる、赤く、赤く、赤く、鼻につんとつく嫌な匂いが辛く、辛く、辛く。
「いや、何よこれ!」
柚季は英彦に何度も言われていたことを忘れ、すっかりパニックになっていた。心を落ち着かせるどころかどんどん乱していき、目の前にいる賭け婆を倒すのではなく、逃げるという選択肢を選んでしまった。
自分に迫ってくる賭け婆から逃げようと走り回っていた時何かが割れる大きな音が聞こえ、柚季は悲鳴をあげた。窓にはめこまれていたガラスらしきものが割れたのだ。破片は全て透き通った体の烏に変わり、喚き散らしながら部屋中を飛び回る。彼等の体からひらひら落ちる羽は触ると非常に冷たく、それがまた柚季の肝を冷やすのだった。
「イカサマは許さない。絶対に許さないぞ。罰としてお前の体を喰ってやる。この空間を清浄な気で満たすその巨大な力を私のものにしてやる」
「清浄な気……!?」
この空間は元々異様に落ち着く、心地の良いような場所ではなかったようだ。
賭け婆はこの空間が優しく温かな空気に包まれたのは柚季の力によるものだと思っているらしい。しかし柚季にこの空間をそんなもので満たした覚えはない。
(あれは私のせいじゃない。波動というか、そういうものが私のものと全然違う。それじゃあ一体誰がこの空間をあんな風にしていたの?)
疑問に思ったが、今はそんなことを考えている場合ではなく。
ぼとぼとぼとと落ちる飾り、それと共に蛇が畳の上に着地してゆっくりと柚季めがけて這って来た。落ちた飾りは呻き声をしばらくあげていたが、やがて動かなくなった。
ガラスの烏に危うくくちばしで目を突かれそうになった柚季は思わずその場にしゃがみこむ。その時うっかりバランスを崩してしまい、思いっきり尻餅をついてしまった。慌てて立ち上がろうとしたが、恐怖と緊張に縛られた体はすっかり言うことを聞かなくなり、どうしても立つことが出来ない。かろうじて動く両手を使って後ろへ移動するが、あまり動きが遅いものだからどんどん賭け婆との距離が縮まっていく。
とん。おまけに運が悪いことに、柚季の背は何かにぶつかってしまった。見ればそこには壁が。ならば横へ移動するしかない、とずらした手が生温くてどろりとした何かにぴちゃりと浸る。そこには厭な匂いのする赤い液体。それが血なのか、血に似て非なるものなのか今の柚季に判別はつかなかった。ただ彼女は大声で悲鳴をあげた。
「お前を喰って、あの場にいた者達も喰って、鶏肉も平らげてやる。今日は馳走じゃ、け、け、け」
結っていた髪はいつの間にかほどけていて、何かに吊るされているかのように逆立っている。その体から溢れ出ている気はますます邪悪なものになっており、柚季の肌をちくちくと刺す。
(どうにかしなくちゃ。このままじゃいけない、いけない……)
自分の力を飛ばせば、賭け婆は倒せるかもしれないと柚季は考えた。しかし烏の羽ばたきや鳴き声がうるさく、また頭が真っ白になっていたから思うように集中出来ない。そもそも上手く倒せたとして、自分はその後無事元の世界に帰れるだろうかという不安もあり、踏ん切りがつかなかった。
どうしよう、どうしようと考えている間に賭け婆は柚季の目の前まで来てしまった。そして彼女は柚季が半ばヤケクソ君に両手を前に突き出すより先に、飛び掛ってきた。
もう駄目、と思わず柚季は目を瞑ってしまう。
途端温かい何かが柚季を包み込んだ。自分の血か、一瞬彼女はそう思った。
だが痛みは襲ってこない。またその温もりに柚季は心当たりがあった。さっきまでこの空間を包んでいたもの、そしてゲーム開始前彼女の肩に触れた何かと同じものであったのだ。
同時にあがる悲鳴。それは柚季のものではなく……賭け婆のものだった。