クリスマス・パニック!(10)
*
「よっしゃあ。道端で当たりくじ拾って六千円ゲット! おっさん、六千円頂戴六千円」
人生ゲーム、自分が止まったマスに書かれている言葉を読んだ紗久羅はガッツポーズ。それからプレイヤー兼銀行係の英彦の方を向き、ガッツポーズを決めていた方の手を勢いよく差し出した。まるで親にお年玉をねだる子供のような姿だった。
「ああはいはい、ちょっと待っていてくださいね」
英彦は全くしょうがない子だなという風に笑いながら、六千円……もとい六千ドル分の札を彼女に手渡す。受け取った札をみながらうししししといやらしい笑い声をあげる彼女は現在所持金が二番目に多い。
彼女がお金を手に入れたことで面白く無さそうな顔をしているのは彼女のすぐ後を追っていた奈都貴だ。彼は先程幾分お金を失ってしまった為差が広がってしまった。
「さっきは二千円ゲットして、今度は六千円ゲットだ。このままの勢いでどんどんゲットしていくぞ」
「井上、さっきから何千円何千円って言っているけれど……これ円じゃないからな、ドルだからな」
「そんなの分かっているよ。けれどドルってあんまり馴染みが無いからどうしても円って言っちゃうんだ。他の人だって円って言っているぞ殆ど。全くそんな細かなことをいちいち指摘するなんて。ああ、そうか。このあたしとの差がますます広がったから悔しいんだな、なっちゃん。それで円がどうのドルがどうのとかぐちぐちと。小さい男だなあ、なっちゃんは。心も小さければ背も小さい、可愛い可愛いなっちゃん君」
見た者をいらっとさせる笑顔を浮かべ、今しがた手に入れた札をぱたぱたさせるその姿のいやらしさといったらない。それを見る奈都貴の目、半眼。
「別に、ちょっと気になったから言っただけだ。……それと、身長別に低くないからな俺は。平均位だ」
「ああそうだったな。平均『位』だったね。平均ぐ・ら・い」
わざとらしく強調。平均位――平均に近い数値だが、それよりも若干……高いか低いかは言わずもがな。
赤と青のピンを刺した緑色の車を紗久羅に投げつけてやろうとするが、すんでのところで思いとどまり、それを元のコマの上へ戻す奈都貴。これが一夜だったら絶対に投げていただろうとその様子をぼうっと見ながらさくらは思った。
二人に構わず柚季はルーレットをくるくる回す。
「ほら紗久羅、あんまり深沢君をいじめないの。泣いちゃうでしょう」
「おいこら待て及川。俺は泣かないぞ、こんなことで!」
ルーレットで出た数字通りにコマを動かしながら淡々と言う柚季に奈都貴がつっこむ。英彦に二千ドル渡す柚季は舌をぺろりと出していた。
「大変だな深沢は。俺は同情するよ。ええと……突然トイレからお宝が飛び出してきた、裏返しにしたお宝カードから一枚選ぶ……なんじゃこりゃ? トイレから出てくるってどういうことだよ!? 全く、人生ゲームって結構こういう理解不能なマスがあるよな。路上でやったどじょうすくいが大うけ、三千ドル貰うとか」
「そんなツッコミ所満載なコマを見るのも、こういうゲームにおける楽しみの一つではありますね。何でもないことしか書かれていないのはあまりにつまらない。これ位滅茶苦茶な方がいいんですよ」
英彦は数枚のカードを裏返しにし、その内の一枚を一夜に選ばせる。一夜が選んだのは『超ハイテク掃除機』というもの。用を足していたら突然便器から掃除機がにゅいっと飛び出してきた……そんな図を想像し、全員が腹を抱えて笑い出す。盛り上がっていると、どんなくだらないことでもそれはもうおかしく思えてしまう。箸が転がっただけで爆笑する年頃の娘と同様に。
「折角だから兄貴、掃除機で腸の中綺麗にしてもらえば?」
「馬鹿ふざけるな、そんなの……くそ!」
「糞! 糞だってよ、あっはっは!」
またもや一同、爆笑。言われた相手である一夜も笑っている。普段ならこんなことで爆笑などしなかっただろう、皆。場の空気だけでなく体内に蓄積している疲れも彼等の感覚をおかしくしている原因の一つであるのかもしれない。
回るルーレット、かたかたからから回るルーレット。盤上で回り続ける七人の運命。かたかたからから。
そして皆、笑う。かたかたからから、かたかたからから。
「次は私の番ね」
一夜の次にさくらがルーレットを回す。しかし変に力みすぎたせいで上手く回らず、かたっという音だけたててそれは止まってしまった。その情けない動きを見て吹きだす者もいた。
「お前、そりゃないだろう」
「まあまあ一夜君や。私もよくやるよ。変に力入れちゃうと全然動かないんだよね、このルーレットって」
美沙が、自分の隣で恥ずかしそうにしながらコマを動かすさくらを擁護する。
気の抜けた回り方をしたルーレットだったが、出た目はさくらに幸運をもたらした。英彦から札を受け取った彼女の顔は満足げ。
かたかた回る運命の輪に身を委ねるゲーム。上手い下手、得意不得意――……そういったものは殆どない。運が良ければ勝て、悪ければ負ける。そういったゲームであるからTVゲームが苦手なさくらでも楽しめる。ルールも難しくないから誰だって出来る。
止まった先にあるマスに書かれた文章を見て一喜一憂。
「今度は三千ドル払えだって! ああ、何だか今日私ついていないなあ」
お金をもらえるマスよりも払わなければいけないマスに止まる数の方が圧倒的に多い美沙であった。同じようにルーレットを回していても、異様に運が良くて出目に好かれまくる人と、とことん嫌われる人が出てくる。
「多分美沙さんのツキ、全部そこのおっさんにとられてるんだよ」
美沙のすぐ傍にいる英彦を、というより彼の所持金を指差す。そこにある札は他の人達に比べて明らかに多い。しかも殆どはご立派な額のお札。現在ぶっちぎりの一番であった。
「たまたまですよ、たまたま。私が可愛い美沙からツキを奪うなんてことするはずがないじゃないですか。どうせ奪うのなら井上さんのをとりますよ。普段から私のことをおっさん呼ばわりし、失礼な態度ばかりとっていますから胸も痛みませんしね?」
口調や表情から、それが心からの言葉でないことは明らかだった。紗久羅もそれが分かっているから「やれるもんならやってみやがれ」などと言ってあかんべえ。
「全く君という子は。しかしこれだけついていると後が怖いですね。ずっと絶好調だったのに、最後の方になって急に不調になって負けてしまう……ということがよくありますからね、このゲームの場合」
ゴールが近くなると手に入れられる額も失う額も格段に大きくなる。本当に最後の最後まで分からないゲームなのだ。だからこそ面白く、大いに盛り上がる。
「それもそうだ。絶対逆転してやるぞ……よし、おっさんに呪いをかけておこう。お金を失うマスに沢山止まれ、大金を失うマスに止まれ、止まれ、止まれ」
頭上に掲げた両手をふにゃふにゃうにゃうにゃ動かしながら、不幸になってしまえの呪いをかける紗久羅。変な動きと共に英彦を呪った後、ルーレットを回せば、残念無念……。
「ああ! いかにも怪しい老婆から水晶玉を購入、五千円払えだって! そんなまじかよ折角さっき六千円貰ったのに!」
「人を呪えば穴二つですよ、井上さん。あっはっは、ざまあみろ」
「嬉しそうに笑いやがって、くそう……で、でもこれで終わりじゃないからな! まだまだ逆転の余地はあるんだ! そうやって笑っていられるのも今のうちだぜ!」
無駄に立ち上がり、びしっと指差し気合の入った宣言をするもそれを受けた相手は「ああ、はいはい。楽しみにしていますよ」とすまし顔で軽く流すのみ。
それを見て全く紗久羅ってばと呆れつつも今度は柚季がルーレットを回す。
そうやって全員が順番にルーレットを回し、ゲームを進めるのだった。
*
ぴんぽん。
家のチャイムが鳴ったのはゲームが全員のコマがゴールに限りなく近くなり、所持金の増減が激しくなってきた時――一番の盛り上がりをみせていた時のことだった。チャイムに気がついた柚季は立ち上がり、はいと声をあげつつ玄関へと向かう。一番盛り上がっている時に鳴ったチャイムは一気に場の空気を冷まし皆を大人しくさせた。
柚季は折角盛り上がっていたのに、と若干まだ見ぬ訪問者にいらつきを覚えながらもドアノブにそっと手をかける。
まさにその瞬間、柚季は全身に鳥肌がたつのを感じた。怖気、寒気が彼女を襲った。同時に彼女の体内を駆け巡るのは怒り、呆れ、疲れ。
「まただ……もう、どうしてこう次から次へと」
ドアを突き破り、柚季の体にまとわりつくのはおぞましいもの――邪悪で歪んでいて気持ちの悪い気、妖気。その気を発している者がドアを隔てた向こう側にいる人物であることは確実。彼女が人間では無い、ということも間違いなさそうだった。
のぞき穴に目をやると、ドアの前には一人の老婆が立っていた。着物姿で背中に大きな風呂敷包みを背負っている。彼女はのぞき穴の方へ顔を向け、にっこり笑っていた。いやらしく、そして邪悪な笑みを見た柚季の背筋は凍りつく。
「開けておくれ、入れておくれ」
(誰が入れてやるものですか)
ドア越しに老婆を睨みつけ、唇をきゅっと結ぶ。美沙等ごく一部の者以外の妖は何が何でも家にあがらせたくない柚季だった。下手にあげればろくでもないことが起きるに違いなかったし、最も忌み嫌う存在をわざわざ家へ入れる理由も無い。
柚季の強固な意志を感じ取ったらしい老婆はため息をつく。諦めたか、と一瞬柚季はほっとしたが、それは大きな間違いで。
「開けねばこの戸を焼いてやる。それとも家ごと焼いてしまった方がいいかな」
にやりと笑いながら老婆が口にした言葉を聞き、柚季は思わずドアを開けてしまった。『向こう側の世界』の住人であろう老婆なら本気でやりかねないと思ったからだ。
勝ち誇ったような笑みを浮かべる老婆の顔のなんと忌々しいことか。柚季は彼女の思い通りに動いてしまったことを悔しがり、こぶしを握りしめる。
老婆はその頬の辺りがぷっくり丸っこい顔を上げ、柚季を見つめる。細く小さな目がわなわなと怒りに震えている柚季をしっかりととらえていた。
しばしそうして彼女を見つめた後、老婆は小さな口を開ける。口の中の歯は何本か抜けている。その隙間から覗く闇が柚季の心をわざつかせ、不安にさせる。
「けっけっけ。ようやく開けてくれたねお嬢さん」
「……何の用」
「け、け、け。その様子だと私がどういった者かよく分かっているようだね」
「ええ、分かっているわ。貴方人間じゃないのでしょう。向こう側の世界から来たのね」
「けえ、けえ、けえ」
「その変な笑い声やめて頂戴!」
癪に障るその笑い方に思わず怒鳴り声をあげる。しかし相手は気にしておらず、むしろ怒っている柚季の顔を見て愉快そうに笑った。
「けっけっけ。まあそんな怒りなさんな、可愛い顔が台無しだよ。そういかにも私はこちら側の世界の者ではない。幾日前だか幾年前だかにうっかりこちらへ迷い込んでしまったのさ。以来向こうの世界に戻るに戻れず、延々とこの世界を彷徨っていた。そして辿り着いた先がこの街さ」
ご丁寧に老婆は右手で地面を指してみせた。
「ここはすごいねえ、人の世とはとても思えないものを持っているよ。おまけに妖怪共がうじゃうじゃいて。ま、殆どの人間はそのことに気がついていないようだが、お前さんは違うようだ。いや、今この家の中にいる者の殆どがそうだろうね、私には分かる」
「そ、そんなにこの街妖達が……ううん、今はそんなこと関係ない。一体貴方何の用があってここへ来たの? 用がないなら帰って頂戴。用があったとしても帰って欲しいけれど」
老婆はまたけっけっけと笑う。
「他の家からは感じられないものを感じ取ったから、興味が沸いて訪ねただけのこと。強い力、妖怪の匂い、向こう側の世界の匂い……け、け、け。でもそうだね、こうして出会ったのも何かの縁。久しぶりに『あれ』でもするとしようか」
「あれ……?」
老婆がにんまりと笑った。
「かけっこをしよう」
そしてそんなことを言ったのだった。それを聞いた柚季は眉をひそめ、その言葉をオウム返し。かけっこ、と聞いてまず思い浮かべたのは駆けっこであった。というよりそれ位しか思い浮かばなかった。
(駆けっこなんかしてどうするの? どこか走ってそれに負けたら私を食べるとか……そういうこと?)
「かけっこ……賭け事のことですか?」
突然の意味不明な提案に頭を抱えていた柚季の代わりに老婆に話しかけたのは、いつの間にか柚季の背後に立っていた英彦だった。家の中にいた者誰もが異変に気がついていたが、英彦以外の者はリビングに残っていて、そこから玄関の様子を黙って見守っている。大勢で来ても何にもならないし、また危険であると判断したからだろう。
英彦が傍に来たことで張り詰めていた緊張の糸が少し緩む思いがした柚季だった。しかしまたすぐにその糸をぴんと張りなおす。向こう側の世界の住人に隙を見せてはいけないと英彦に普段から教えられていたからだ。
老婆は話が分かりそうな人物が来たので、にんまりと笑った。
「そう、かけっこ。賭けっこだよ。お前さんが勝てば小さな幸を与える、お前さんが負ければ小さな幸を貰っていく」
英彦はやっぱり、と小さく呟いた後柚季に目を向ける。老婆のいる方へ神経を集中させながら。
「及川さん。恐らく彼女は『賭け婆』という妖です。桜村奇譚集にも確か載っていました。賭け婆は家を訪ね、そこに住んでいる者にあるものを賭けて勝負をすることを提案します。賭けるものはその人の家にあるもの。賭け婆の場合はあの風呂敷包みの中に入っているもののようですね」
「そう、そう、その通り。あんたはよく知っているねえ、お陰で説明する手間が省けた。さて、という訳でお嬢さん賭けっこをしようじゃないか」
勝手に訪ねてきて、無理矢理ドアを開けさせ、挙句勝手に賭け事の提案をしてきた賭け婆に柚季は憤慨する。怒りに赤く染まった顔を賭け婆に向け、それから彼女をびしっと指差す。
「馬鹿なことを言わないで。誰が好き好んで妖なんかと賭け事をするものですか。駄目、絶対お断……」
「いいでしょう、その提案受けましょう」
柚季の言葉を予想外の言葉で遮ったのは彼女の味方であるはずの英彦だった。
自分の意向を無視し、勝手にそんなことを英彦が言い出したことに柚季は驚き、呆然とし、思わず後ろをぱっと振り返る。そして一瞬彼は賭け婆に暗示か何かかけられて操られてしまっているのではと考えた。しかしそれは間違いだった。
どうしてですか、と英彦に怒鳴りつけようとした柚季の肩を英彦がぽんと叩く。彼が柚季に向けている顔は至って真剣なもの。人生ゲームで遊んでいた時に常時浮かべていた穏やかな笑みはそこにはない。
「断ってはいけません。……奇譚集の記述によれば、賭け婆の提案を断ってはいけないことになっています。断れば彼女はこの家にあるもの全てを奪ってしまいます」
「けっけっけ、その通り。小さな幸を受けることも、奪われることもどちらも拒否する者からは、大きな幸を奪ってやることにしているんだ。お嬢さん、命拾いしたねえ」
「そんな……そんなの理不尽じゃない」
賭け婆に目を向け、再び英彦に戻す。
「そう、理不尽です。妖というものはそういうものです。相手がどうしたいか、なんていうのは関係ないのです。だから気をつけなければいけないのです、彼等との関わり方には。不幸中の幸いといいますか、彼女は人の命などは奪わないと聞きます。仮に賭けに負けてしまったとしても、とても恐ろしいことにはならないはずです」
英彦ははっきりそう言った。自信なさげに言えばきっと柚季をますます不安にさせてしまうだろうと思ったからだろう。
断ればもっと恐ろしいことになる以上、彼女の提案を改めて断るわけにはいかなかった。歯をくいしばりながら柚季が分かりましたと頷けば、満足気に笑う賭け婆。
「けけけ。まあ安心なさいよ、そこの男が言う通りそんな大層なものは奪わないし、イカサマだってしやしないよ。賭け事にはいつも真剣でありたいからね、私は。さて、賭けっこを始める前に賭けるものを決めよう。賭けるものは私が決める。まずは私が賭けるものから」
言うや否や賭け婆は背負っていた風呂敷包みを下に置き、包みを開いた。
風呂敷に包まれていたのは漆塗りの巨大重箱。賭け婆はそれをせっせとばらし、それから箱の中を漁り始める。中に入っているのは皿や簪、置物、人形等……それぞれの箱に詰まっている量は明らかに容量をオーバーしている。賭け婆が賭ける物を決めているのを見ていた柚季は、この箱は異界か何かと繋がっているのでは、と本気で考えたのだった。
箱の中を漁っている間真剣だった賭け婆の表情が、突然ぱっと明るくなった。
彼女の表情をそうさせたのは、右手に持っている首飾りりのようだ。どうやらそれを賭けることに決めたらしい。
「よし、これにしよう。きっとお嬢ちゃんにも良く似合うだろうしね」
賭け婆は手に持っていたものを柚季に見せる。三日月型の手のひらサイズの飾り。色は黒で、所々に美麗な螺鈿細工が施されていた。月の前を飛ぶ虹色の蝶、凪ぐ風、散る花。相当高価なものに見えるそれの美しさに思わず柚季は見惚れ、一瞬「欲しい」と思ってしまう。だがそれが妖の所有物であることを思い出した途端情熱は冷め、嫌悪感だけが残った。妖から貰ったものなど、基本的には身につけたくなかった。しかし柚季がそれを欲しいと思う、思わないは賭け婆には関係ないのである。
けけけと笑う賭け婆は次に柚季が賭ける物を決めると言いだす。それから彼女は柚季の許可なく家の中に上がりこむのだった。柚季は彼女が家の中を探索している間ずっと後ろについていた。傍にいたくはなかったが、常に目を彼女に向けていなければ不安で仕方なかったのだ。英彦は紗久羅達に賭け婆のことを話す。そして皆して柚季と賭け婆の様子をうかがうのだった。
「人生ゲーム一つまともに終わらせることが出来ないなんてなあ」
「あたし達の人生終っているよな、本当」
などとぼやいている井上兄妹や、賭け婆の登場に色々な意味でどきどきしているさくら、本気で柚季のことを心配している優しい奈都貴などを尻目に賭け婆は家中をうろつき、そしてとうとう最後には冷蔵庫を開けだした。中には仕込みを終え、後は焼いたり切ったりするばかりになっているご馳走の数々がある。
「この箪笥は変わっておるの、ひんやりとしておる。しかも衣類などではなく食べ物が入っていて……ああ、良い匂いじゃ。おお、これはうまそうだ。よし決めた、お嬢ちゃんにはこれを賭けてもらおう」
賭け婆はある物を指差した。途端柚季が大きな悲鳴をあげた。あまりに悲痛な声に紗久羅達は驚き、一体何があったのかと揃ってキッチンへと向かう。
冷蔵庫のすぐ傍に立っている柚季の顔は青白く、まるでこの世の終わりを見ているかのような様子だった。しばし呆然と突っ立っていた柚季は紗久羅を見るなりいきなり飛びついてきた。
「紗久羅! 大変、大変! このままじゃチキンが!」
「え、チキン!? そこの婆さんはあのチキンを賭けると言いやがったのか!」
柚季と一緒に料理をしていた紗久羅の顔はさっと白くなり、それから真っ赤になった。
賭け婆が欲しいと言ったのは、今日のパーティーのメインディッシュともいえるものだったからだ。醤油や生姜、にんにくなどを混ぜて作ったタレにじっくり漬けた鶏一羽。中には玉ねぎや人参といった野菜がたっぷり詰まっている。
後はオーブンでじっくり焼きあげれば超絶美味しい鳥の丸焼きの完成……だったのだが。今、その鳥が最大のピンチを迎えている。
「美味しそうな鳥だ。けけけ、これは絶対に勝たねばのう」
「で、でもその鳥焼いていないわよ!」
「何故焼かねばならんのだ?」
きょとんとした顔。本気で何を言っているか分からないという風な賭け婆、柚季は頭を抱え。
(ああそうか、この人妖だもんね……焼かなくても食べられるのね)
人間だったらとんでもない話であるが、相手は妖、何にもおかしなことではないのだ。柚季としては大切な料理を賭けるなんてことはしたくなかったが、文句を言っても仕方無いことが分かっていたから文句は言わなかった。
「大丈夫だよ柚季。ようは柚季がこの婆さんとの賭けに勝てばいいだけのことなんだから。万が一負けたとしてもあたしは柚季を恨まない。うん、多分恨まない!」
「絶対って言ってよ、絶対恨まないって言ってよ!」
いい笑顔と共に言った紗久羅に全力で柚季がつっこむ。それからそれを見てかっかっかと大声で笑っている賭け婆を思いっきり睨んだ。
「貴方はさっさと冷蔵庫を閉めて! 冷気が逃げるでしょうが!」
「れいぞうこ?」
「貴方が今開けているそれよ!」
この箪笥はれいぞうこという名なのかと賭け婆は頷き、素直に冷蔵庫をぱたんと閉めた。
「これで良いかの? さて、賭けるものも決めたし早速始めるとしようか。覚悟は出来ているかい、お嬢ちゃん」
「ええ、出来ているわ! 貴方に鳥の丸焼きは絶対に渡さない!」
「威勢がいいのう。元気な娘は嫌いじゃないよ」
「及川さん、頑張って下さい。出来れば私が代わって差し上げたいのですが……賭け婆は訪ねた家に住む者と戦うようですから。妙な真似はしないと思いますが、油断は禁物ですよ」
英彦のアドバイスを受け柚季は頷く。言われなくても油断するつもりはなかった。
「私は静かな場所で、二人っきりで勝負をしたい。場所を移すとしようか」
賭け婆が柚季の手を握り、ぐいと引っ張った。叫ぶ間も、あっと言う間もなく柚季はバランスを崩し、前へ前へおっとっと。瞬間ぐるぐる回る世界、ぐるぐるぐるぐる、回って回って、今度は逆回りになって、ぐるぐるぐるぐる。ぐにゃぐにゃぐるぐる意味不明。紗久羅達の声もぐるぐる回って、遠ざかって、やがてどこかへ消えちまった。
やがて回転は止まって、世界がぴんと真っ直ぐ綺麗に伸びて、元通り。
いや、元通りにはならなかった。
「何ここ……」
畳の敷かれた広々とした空間が柚季の目の前に広がっていた。柚季と賭け婆はその空間の丁度真ん中に立っていた。面と向かい合っている二人の間にあるのは黒塗りのテーブルと紫色の座布団二つ。
天井伸びるのは大量のつるし雛。毬、花、少女少年、鳥、魚、桃……赤くて青くて緑で黄色で鮮やかで、眩しくて。壁には丸窓がずらり、そこから覗く風景はばらばら。北には冬、東には春、南には夏、西には秋の風景が広がっているのだ。
「ここは賭け婆の賭け場さ。けっけっけ。素敵な所だろう?」
素敵かどうかは分からなかったが、何故か柚季の心は妙に落ち着いていた。
(何でかしら? あまりここ、嫌な感じがしない。温かい何かに自分の体が包まれているような、心地の良い感じさえする。どうしてかしら)
妖気を垂れ流し続けている目の前の老婆にはふさわしくない空間に思える。
肩の力がすうっと抜けていく。しかし決して油断してはいけないという英彦の言葉を思い出し、改めて体に力を入れなおす。賭け婆の方は最初から一切緊張などしておらず、余裕の表情。
「そんなにがちがちにならんでもいいのに。さあさあ、楽しい楽しい遊びを始めるとしよう」