クリスマス・パニック!(6)
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「えいやっさ、ほいやっさ!」
そんな声と共に、女の後ろに並んでいた人々が四方八方に散っていく。
女だけがその場に残り、扇を持った手を上げたり下げたり、片足立ちしながらリズムよく周ったり、手を返して扇をひらひらゆらゆらさせたりしながら歌い続ける。
何の変哲も無い住宅街に変化があらわれたのはそれから間もなくのことだった。
塩辛くて、そしてどこか甘い――そんな匂いが呆然と立ち尽くしていた二人の鼻を通じ、体内へと入り込む。それは海から発せられるものと全く同じものであった。しかしこの辺りには海など無いし、その匂いはつい先程まではしなかったものだ。
ならば何故と思っていたら、答えはすぐに出た。
道路を挟むブロック塀がいつの間にか、海へと姿を変えていたのだ。空よりもずっと深い青色、緑かかった青、空と全く同じ色の入り混じった美しい海。
広さ(この場合厚さと言った方が正しいかもしれない)は塀のそれとほぼ同じ。そして海中には沢山の魚が泳いでいた。タコ、イカ、アジ、イワシ、マグロ、サンマ、タイ、ウツボ……。地面に近い部分、つまり海底には様々な種類の海草、珊瑚、いそぎんちゃくがいる。どれもこれも実際のそれよりも大分小さい。
英彦の近くにいた漁師らしき男数人が塀の海に梯子をかける。梯子は海に沈むことなくちゃんと固定され、男達が上ってもびくともしなかった。波打つ水面にはいつの間にか木の船が浮かんでおり、男達はそれに乗り込むや否や手に持っていた網を海の中へ投げ入れたり、竿についた糸を垂らしたりし始める。
見ると海のあちこちに同じような舟があり、それぞれ漁に勤しんでいた。中には海女らしき女もおり、海の中へ潜ってはうにや牡蠣らしきものを獲っては波に揺られながらぷかぷか浮かんでいるたらいらしきものに入れ、また潜って獲っては浮上しを繰り返している。
波を分け分け 網投げ竿振り
朝な夕な 幸獲れやあやあ
波を浴びても 命は消えぬ
風が吹いても 命は飛ばぬ
さあさあ 獲れ獲れ えいやさ、よいさ
てんてこ舞い、てんてこ舞い!
それが今塀の海で漁をしている者達に向けられている歌であることは明確だった。女の歌を聴いた者達が「よいさ、えいさ、そいさ!」と威勢の良い返事をする。
変化が起きているのは塀だけではない。周りにある家――屋根の部分――も変わっていた。
英彦と美沙の右隣にあった家。ついさっきまでは赤色の屋根だったのがいつの間にか茶色い土で出来た畑になっていた。畑には青々とした葉がぎっしり植わっている。恐らく大根やかぶ、さつまいも等の野菜畑なのだろう。その畑にも人がおり、せっせと野菜を抜いていた。矢張り人間からしてみればミニサイズであったが、彼等にはかなり大きく見えるだろうと思う位の大きさだった。
数人の女が畑からひょいひょいとじゃがいもらしきものを獲っては背に置いてあるかごへ次々と放っていく。皆かごの位置とどの位の力で投げればそれに入るかということをきちんと把握しているらしく、顔は前を向いたままだ。放物線を描いたじゃがいもが吸い込まれるようにかごへ入っていく様は圧巻だった。しかし約一名まだこの作業にあまり慣れていないのか、数個に一個かごから全く離れた場所にいもを放ってしまう娘がいた。
野菜でいっぱいになったかごなどは、いつの間にか出来ていた木製の手動エレベーターによって次々と運ばれていく。そして空っぽのかごが再び屋根へと上っていくのだった。
屋根の下からはなにやら「これは駄目」「これは良い」といった声と、小さな音が聞こえる。海の向こうにかすかに見える人影。どうも収穫された野菜の良し悪しを見、分けているようだ。選別作業の終わった野菜は(彼等にとっては)大きな箱に詰められ、台車に置かれ、それを子供やら若者やらがいずこへと運んでいく。アスファルトの道路にそんな彼等の列が出来ていた。
土を掘れ掘れ 大地を踏みしめ
朝な夕な 幸獲れやあやあ
味の善きもの 姫に食わせよ
見目の善きもの 姫にあげよ
さあさあとれとれ えいやさ よいさ
てんてこ舞い てんてこ舞い!
今度は畑で作業している者への歌だ。その歌が終った後、屋根の畑で作業をしていた者達が元気の良い返事をする。
「これは一体……」
「桜村奇譚集によると、彼等は年に一度大きな宴を催すらしい」
「宴、ですか?」
「ああ。その宴というのがどうやら今日行われるようだ。……急いで宴の仕度をして、夜大いに騒ぐのだろう。その宴の場に迷い込んでしまった村人というのもいたらしい。迷い込んだその人は彼等と心通わし、帰り際すばらしい宝を貰ったとか。しかしそんな村人も村に帰る頃には彼等の住処の場所を忘れてしまっていたそうだ。この世界――三つ葉市や桜町のどこかにあるのか、それとも向こう側の世界にあるのか、こちらとも向こうともつかぬ不思議な領域で暮らしているのか……その辺りのことは分からない」
「妖……の気配は感じられません。多分精霊の類だと思います。邪悪なものでないことは確かです。とても澄んだ気をもっているようですから」
「確かに悪いものではなさそうだね。それにしても……一体ここは『どこ』なんだ? 気がつかない内に彼等の領域に引きずり込まれたのか、それとも」
「こちら側の世界から動いてはいないか、ですよね。ただ彼等の力で色々なものの姿形が変えられてしまっただけで」
風景が同じ(もっとも今は塀や屋根等がその姿を変えてしまっているが)だからといって同一の世界であるとは限らない。世界と呼ぶにはあまりに薄い層が『こちら側』と『向こう側』の間には沢山あると云われている。その層へ出入りすることは『向こう側の世界』へ行くよりずっと難しい。大抵の場合、その層の住人に引きずりこまれでもしない限り、足を踏み入れることは出来ない……ということになっている。結局の所本当のことは何一つ分かっていないのだ。同じようで違う世界と思いきや、実は同一の世界でした――なんてこともあるかもしれない。その辺りのことを把握している者など、人間の中にも妖の中にも恐らくいないのだった。
「前者だとかなり厄介ですよね。領域から抜け出すことが出来なければ『こちら側の世界』にあるゆずちゃんの家にはいつまで経っても辿り着けないですもんねえ……」
「後者なら、ここにいる小さき人々を無視してさっさと及川さんの家へ行くことも出来るかもしれない。普通の人がこの光景を見たらさぞかし驚くだろうが、まあ害は無さそうだし、見てみぬフリをして……と言いたいところなんだけれど、桜村奇譚集の記述を信じるとすれば宴の準備をしている彼等と遭遇すると面倒なことになってしまう。とりあえず先に進んで、辺りの様子を見てみよう」
英彦の提案に美沙が静かに頷いた。
二人はいつ何が起きてもすぐ対応出来るよう緊張状態を保ちながら道を進む。
ある家の屋根には沢山の女が集まっている。また黒塗りの箱や桐の箪笥、行李もずらりとあり、そこから着物や飾りなどを引っ張り出してはああだこうだ言っている。どうも宴の場に施す飾りや、宴で着る衣装の準備等をしているらしい。一人の女が虫に食われて穴の空いてしまった衣装を見て悲鳴をあげ、思わずそれを放り投げてしまった。穴の空いたそれは羽衣の様に風に揺られ、舞い、いずこへと消えてしまう。隣にいた女が何をしているんだいこの馬鹿とその女の頭に拳骨を食らわせ。
蓋を開け開け 取り出し広げて
朝な夕な 動けよやあやあ
身を飾れば 命が輝き
場を飾れば 空気輝く
さあさあ ゆけゆけ えいやさ よいさ
てんてこ舞い てんてこ舞い!
女からは徐々に遠ざかっていったが、耳に届く彼女の声は小さくならず近くにいた時と殆ど変わらない。
桶から逃げ出してしまった魚を追い掛け回す人、舞台に変わった庇の上で舞の練習をする少女達。綱に変わった電線、そこに吊るしていた何かを回収する人の姿。衣装……には見えなかったから恐らく干物とかそういった類のものだろう。自動販売機の横にあったゴミ箱は井戸に変わり、うんしょよいしょと一際小さな子達が水を汲む。汲んだ水の入った桶を同じくうんしょうんしょと可愛らしい声をあげながらいずこかへと運ぶ姿も目に映った。
絵本の世界の様な風景に思わず緩む頬、警戒心。
そんな二人がある事実に気がついたのはそれからややああってから。
「あ、あれ英彦様! さっきの女の人が」
「え? あ……!」
美沙が指差した先に、もうずっと後ろにいるはずの女が立っていた。別人ではない。そっくりさんでもない。扇を手に踊り歌っている彼女は紛れも無く英彦と美沙が最初に出会った小さき人であった。
よく見てみれば辺りの風景も彼女と出会った地点のそれと同じ。どうやら二人はスタート地点へ戻ってきてしまったらしい。試しにもう一度彼女の脇をすり抜け前へ進んでみたが、矢張り最後には元の場所へ辿り着いてしまう。
女はこの残念な事実にため息をつき、頭を抱える二人には目もくれず、一心不乱に踊り続ける。いっそすがすがしくなる位の無関心っぷりだった。
「これは、かなりまずいんじゃないでしょうか英彦様」
「かなりまずいね。うん、相当まずい。やっぱり彼等の領域に引きずり込まれたか? いや……それとも空間を歪められてしまっているだけなのか……どちらにせよ、面倒なことになったものだ」
これからどうしようかと、顔を上げる。すぐ近くの家の庭にある木が目に映った。太い木の枝の上には木の台が幾つかあり、台一つにつき一人の男がその傍らについている。台の上に置かれているのは砥石か何かであるらしく、包丁らしきものを歌を歌いながら延々と研いでいた。女の歌よりも勇ましく、節も全く違う。
さいさいよいさい、すいさえっさ
うえさ したさ うえさ したさ
とげい とげい とげい とげい
さいさいよいさい すいさえっさ
その木の背後にある家の屋根。二人の記憶が正しければそこの屋根は畑だったはずだが、いつの間にか厨房へと姿を変えている。綺麗に揃った包丁がまな板を叩く音、鍋でぐつぐつと何かを煮込む音、何かを焼いている音と共に漂う醤油や味噌の匂い。大きな皿に切った魚の身らしきものを盛りつけている者、窯に何か入れている者。隙をついてつまみ食いをし、こら坊主と老いた女に追いかけられている男の子。タレに漬け込んだ鶏肉、香るしょうがやにんにくの匂い。あれがないこれがない、あれはどこへ行ったんだと右往左往する女。つまみ食いして逃げていた子に背中を押されて調味料が入った壷に頭を突っ込んでしまった哀れな人。
恐らく料理係の人達が一番忙しなく動いている。一瞬も休めることを許されない体。調理台等がびっちりあるから通路は狭く、しょっちゅう接触もしくは衝突事故が起きている。その拍子に手を切ったり、熱されたものに手をついて火傷したりする人が後をたたなかった。しかしそんな怪我人に構っている暇もないのか、誰もがその人達に声をかけなかった。怪我をした人は呻きながら屋根についているはしごを降りる。下には空っぽの犬小屋があったが、今は医務室になっているらしく、料理の良い香りに混じって薬らしきものの匂いがした。
怪我人は小屋の出入り口にいる治療係から簡素な治療を施される。調理係だけではなく、他の係の者の中にも怪我人はいるようで、あちこちから何かしら怪我をした人が犬小屋目指しやってくる。
腕によりかけ 焼き切り煮て炊き
朝な夕な 幸生めやあやあ
命を解いて 命を紡げ
宴の肝じゃ 命を懸けよ
さあさあ お作り えいやさ よいさ
てんてこ舞い てんてこ舞い!
厨房で働く者達はてんてこ舞い、それでも女の歌に威勢の良い声を返す。
そんな彼等や、塀の海などでそれぞれ決められた仕事をこなしている者達の体から、何かが出て来ている。まだ明るい空の下、あまり目立たなかったが黄色っぽい白色の光の粒だ。その粒から猛烈な力を感じた英彦と美沙の体がぶるっと震え、心臓がぎゅっときつく締められたようになった。女が歌い始め、人々が四方八方に散ってすぐの時からその光の粒は見えていたが、あまり数はなかったから二人もあまり気にしていなかった。しかし今は気にせずにはいられない位の数が小さい人から出ている。
彼等の気、力の秘められたその光の粒がこの歪んだ世界を包み込んでいく。
女は歌う、踊る。恐らく宴の準備が終わるまで。そして、この光の粒は彼等が宴の準備を終えるまで際限なく増え続けるに違いなかった。
「何だかものすごい勢いで増えていますよ、光の粒! 多分彼等の気というか力の結晶だと思うのですが……これだけのもの……絶対この場に色々な影響を及ぼしますよ!」
美沙の言葉に対し、英彦は頭を抱えて唸り声。
「及ぼすだろうね。ああ、桜村奇譚集に書かれていたような出来事がこれから起きるんだ」
英彦の言う通りだった。光の粒で溢れた世界が、直後。
てんてこ舞い、てんてこ舞い!