雪洞鉄道(12)
*
老紳士は変わらぬ席で変わらぬ笑みを見せながらさくらを迎えてくれた。
おかえり、とさくらを迎えてくれたその声の優しいこと。その声を聞くと何だかほっとし、さくらも思わず笑みを零しすっかり固定席となったそこへ静かに座った。
さくらは老紳士がこの都市のことをあまり好きではないことを知っていたから、ここで自分が見聞きしたことについて話すことを躊躇う。しかし他ならぬ老紳士自身が話してくださいと言ったので、さくらは気兼ねなく話をした。
老紳士は時々頷いたり、質問をしたりしながら話を聞く。
「街にあった建物はどれも高くて、無機質な感じで……私はそういう建物が好きではありません。けれど、あの無機質な建物の中にいる沢山の人達は生きている。この世界のことをもっと知りたいという気持ちや、自分の求めている答えを手に入れる為に頭を使ったり、苦しい思いをしたり色々行動したりすることがあの人達の魂を輝かせている。輝いた魂を秘めたあの人達は、生きている。あの無機質な建物の中には輝く魂や思いが詰まっている……そう考えたら、少しだけ……あの街のこと好きになりました」
言った後何だか気恥ずかしくなってしまい、頬を赤らめながら俯くさくら。
それを見て老紳士が声をあげて笑った。決してさくらのことを馬鹿にしている笑いなどではない。
「素敵な考えですね。そういうものが、目に映る世界の様相を変えるのでしょう。私もそういう見方が出来るようになれば或いは……」
そう言い、窓の外にある『脳回し』を見つめる。その瞳は矢張りどこか物悲しいもので、さくらは胸がしめつけられる思いがした。高いビルが群れなす都会か、研究といったものに対して思うところがあるらしい。
老紳士はさくらがじっと自分のことを見ていることに気がついたのか窓の外から視線を外し、それから恥ずかしそうに笑った。
「失敬、折角の楽しい旅の時間をしんみりとしたものにさせてしまいました。……おっと、汽車が動きます」
高らかな汽笛の音と共に天満月は『脳回し』を後にする。身も心も圧迫する位高さも大きさもあった建物が、あっという間に小さくなっていき、やがてその都市を輝かせていた灯りも星空の中へ溶けて消えていった。
「もうすっかり見えなくなってしまいましたね、あの街も。少しずつ遠ざかっていって、消えていく……その様を見ていると……少しだけ寂しく、悲しい気持ちになります。不思議なものですね、私はああいう場所のことがあまり好きではないのに」
俯きがちにいった老紳士、その言葉にさくらは小さく頷いた。彼女もまた巨大都市が消えていくのを見て少しだけ切ない気持ちになったのだ。
しかしそんな気持ちも、窓の外にある静かにゆったり流れる風景を眺めている内にすっかり消え。
一面に広がる、薄。たらんと垂れている金とも銀ともつかない色をした頭が風に吹かれ、揺れる、揺れる、揺れる。
ふわあ、さわさわ、ざあ、さや、さあ。汽車走る音に混ざる柔らかな音の心地良いこと。
「あら、薄の茎の方に何かがいる……」
深い闇に混ざってうごめく、緑色の細い茎。それがびっちり集まっている所に、何かがいるのをさくらは認めた。白っぽい銀の、透き通った何か。
頭の方は大きくまん丸ぷっくり、下へいくにつれ段々細くなっていく。勾玉の様な形だ。首やくびれ、足は無いが小さな手らしきものはある。ただし指の様なものは無い。青く丸い瞳、口から出しっぱなしの薄紅色の舌。恐らく実体のない、触れればひんやりとしていそうな体。
そう、それはまさしく。
「幽霊、お化け……」
漫画や子供向け絵本で見るような、おどろおどろしさのあまりないお化け。
ふわふわ浮きながら薄畑の中を気ままに移動するその動きは実にユーモラス。
「彼等が何者なのかは私も存じません。この世界に住んでいる人も知らないそうです。分かっているのは宵日にしか現れないらしいということ、薄の沢山生えている場所にのみ現われるということ」
動き回る彼等と、金銀薄……お化けと薄。その二つが出てくる言葉がさくらの脳裏にふと浮かぶ。
(幽霊の正体見たり枯れ尾花……あはは)
苦笑い。やがて薄畑は無くなり、同時に彼等の姿も見えなくなった。
それから幾つかの村や街などに天満月は停まった。
まずは『芋山街』という街。その街の外れには大きな山があった。中をくり抜いた巨大プリンの様な山。くり抜かれた所を満たしているのはマグマ――ではなく、芋やこんにゃく、人参、大根等(実際はそれらに限りなく見た目や成分が似ている謎の物質らしいが)が混じった汁であった。早い話が豚汁風芋煮。
自然発生したらしい汁は勿論飲めるもので、山に通したパイプはある建物中にあるタンクに繋がっている。タンクに入った汁は不純物を取り除いた後、市場に出回るのだ。ちなみにこの山が噴火したことはなく、また、頂上には巨大な蓋がされているらしく、中を見ることは出来ないし、鳥の糞などの変なものが入ることも無い。
さくらもその汁を飲ませてもらったが、温かくほっとする味で大変美味しかった。一体どういう仕組みでそのようなものが生成されるのか分からなかったが、まあ美味しければそれで良い、細かいことは気にしなくていいやとさくらは思った。
更に、美しい反物や着物を作っている小さな村も訪れた。そこで作られる反物の絵柄は各地の景色を『写した』もの。白い反物の表地を写したい景色へ向け色々やると、その景色を思わせる模様、絵柄、色が布に現われるのだそうだ。
世写し、と呼ばれるそれが体験出来るということではりきってさくらと老紳士はチャレンジ。しかし反物に綺麗に模様を写すことは見た目よりずっと難しく、二人が持ったものに浮かび上がってきたのは良く分からない、えらくぐちゃぐちゃした絵柄。がっくりと肩を落としつつ、二人はプロが世写しをした作品を見てまわった後、汽車へ。
着物等、いかにも和といった感じのものが好きであるさくらの興奮は天満月に戻ってからも冷めることはなく、いつになく高いテンションで一人ぺらぺらと喋りまくる。同じことを何度も、何度も口にした。こうなった彼女を黙らせるには肉体言語で語ってやるのが一番手っ取り早いのだが、聞き手である心優しい老人にそんなことが出来るはずも無く。
「紅葉流れる川、桜の花びらで染まる道、菜の花畑を飛び回る蝶、うぐいすとまる梅の枝、燃えるように赤い空……どれもとても綺麗でした。あの布で作った着物を着たら、きっとそれに描かれている景色の中に立っているような心地がするのでしょうね」
「確かに。どれもとても綺麗なものでしたね。しかしそれに比べて私達が世写しをしたものは……」
「ああ、それは言わないで下さい」
がっくりとうな垂れ、へなへなした情けない声に。老紳士のその一言により、さくらはようやっと黙ったのだった。
次に訪れたのは、迷宮の街『迷い宮』という所。あちこちに迷宮――ゲーム等でいうダンジョンがあり、最奥部まで辿り着くとご褒美が貰えるというものだった。街でより豊かな暮らしを送る為、住人達は毎日のように幾つもの迷宮へ入っていくらしい。二本のお城の様な迷宮、大名屋敷の様な迷宮、巨大ひょうたん型迷宮など色々あり、潜る迷宮によって貰えるご褒美の種類も変わるらしい。
また難易度も違うらしく、罠や敵が殆ど出ない所もあれば命を落とす危険があるようなかなり難しい所もあるとか。勿論難しい迷宮の方がご褒美のグレードは高い。迷宮内は定期的に部屋数、部屋の配置、階段の位置等が変わるとか。
さくらと老紳士は初心者向けの迷宮に挑戦。罠も敵も限り無くゼロに近かったので非常に簡単だった。そこで二人は調子に乗ってしまい、そこよりも何段階か上のレベルの迷宮に挑戦。直後二人は後悔することとなった。
途中ギブアップし、棄権者用通路から脱出した二人はへろへろ。近くにあった団子屋で一服しつつ、額からとめどなく流れる汗を拭い続ける。
「調子に、乗りすぎましたね。巨大舌べろや頭から林檎の木を生やしている猪、形容しがたい容姿の化け物に追いかけられて……やたら重量感がありそうな巨大紙風船に追い回されて、くすぐり器に全身くすぐられて……」
「怪我しなかったことが奇跡な位です。元の世界にいる私では、あれらから逃げることは出来なかったでしょう。出来たとしても、残り少ない魂全て削りきって死んでしまったでしょうね。あれでもまだそう難しくない部類の迷宮とか……最高難度の迷宮はさぞかし恐ろしい所なのでしょうね」
と語る老紳士の息はまだ整っていない様子。さくらの心臓もまだばくばくといっていた。
ところで初めに挑戦した迷宮のご褒美はたわしと石鹸であった。
(私、朝起きたら両手にたわしと石鹸を握っているのかしら……)
目覚めた自分がぽかんとしながらそれを眺めている様子を思い浮かべるとおかしいやら、なんやら。
「あれら迷宮はある日突然『生えて』きたのだそうです。大量に生えてきた迷宮の周りに人々は家や店を作り上げ、そして一つの大きな街が出来た……とか」
「迷宮が生えてくるなんて……本当、この世界って不思議だらけですね」
美味しいお茶と団子で体力等を回復させた二人は街を去った。……たわしと石鹸と共に。
*
天満月は走る。旅の終わりへと向かって。誰に言われたわけでもなかったが、さくらには分かっていた。他の乗客達もそのことを予期しているらしい。汽車内に物悲しい空気が流れ始める。誰もがこの旅の終わりを惜しんでいた。
一個二個とさくらの横を通り過ぎていく雪洞。一個過ぎる度、旅の終わりのカウントが一つ減る。それを止めることは誰にも出来ない。窓から顔を出し、後方を見た。後方に並ぶ雪洞の数が増えていくさまは、さくらを切なくさせる。
「旅も、後少しで終わりですね」
後少しで終る――自分で吐いた言葉が、自分の胸に突き刺さった。
たまらず息を吐き、俯き。
「もっとここにいたいです。ずっといたい位です……この世界のこと、忘れたくありません」
「ずっと?」
「ずっとです」
その言葉を紡ぎだしたのは、駄々をこねる子供のような声。
ずっとこの世界にいたい。半ば本気でそんなことを思ってしまう位、さくらはこの世界との別れを惜しんでいた。目を開ければ記憶の彼方へ消え去ってしまう、幻想と不可思議に満ち溢れた夢の世界。
(忘れたくない、この世界と別れを告げたくない。ずっとこの世界にいたい……この世界はとても楽しいし、居心地がいいもの)
旅の終わりを憂う気持ちが、さくらを我侭に、駄々っ子に、小さな子供にする。
俯くさくらに優しく声をかける老紳士。
「……ずっといれば、きっとこの世界はどんどん輝きを失っていくでしょう。桜の花も、紅葉もほんの少しの間だけ見られるものだから美しいと思うし、それを見て感動もする。ですが、もし彼等が毎日当たり前のように見られるものになったら、きっと……。それと同じです。毎日ここにいたら、目に映るもの全てが『あって当たり前』のものになってしまいます。感動も喜びも、しぼんで消えていくでしょう。貴方は、この世界を私と旅する最中抱いた思いを、全て失いたいのですか?」
さくらは無言で頭を振る。老紳士は話を続けた。
「確かに目を覚ませばこの世界のこと全てを私達は忘れてしまいます。けれど一瞬で忘れてしまうよりも、少しずつ忘れていく方が、あったものが徐々にしぼみ、消えていくのを感じる方がずっと苦しいことだとは思いませんか? 忘れることと、失うことは違います。貴方はどちらの方が辛いものだと思いますか?」
「失ってしまう方が……ずっと、辛いです」
さくらだって分かっていた。ずっといたら、こちらの方こそが『当たり前』の世界になってしまう。当たり前、という言葉は人の感覚を鈍らせる。また、目に映るもの全てはさくらの愛する『幻想』という名の属性を失うのだ。
それでも矢張り旅が終わるのは悲しくて、辛くて、寂しくて仕方が無かった。
「分かっているんです。でももう少し、後少しだけ駄々っ子でいさせてください。そうしたら、こことお別れする決心がつきますから」
老紳士は静かに頷いただけで、その後は何もうるさいことは言わず。たださくらの心が落ち着くのを静かに待っていた。
やがて心が落ち着いてくると、さくらの顔に笑みが戻る。今日の旅の感想を笑いながら話せるようになった。優しく温かく美しい思い出を感傷という冷たい海に沈めるのはやめようと思ったのだ。頭から取り出した思い出を優しく抱きしめるようにさくらは語った。老紳士もまた、語った。他の乗客達も同じように。
喋りながら、後少しで別れる世界の姿を焼きつけておこうと窓の外に目をやった。
(面の郷であったあの狐面にも、もっと色々な世界を見せてあげたかったな。彼の分まで私、楽しめたよね。うん、楽しめた……)
狐面のことを思い出し、さくらは笑みを零す。
「次は終点、終の駅。終点、終の駅――」
とうとう最後のアナウンスが流れた。終点という言葉にさくらはどきりとし、俯き、それから笑み浮かべ、顔上げ、一息。
「終わり、ですね」
「終わりですね。招き音に導かれこの世界に来た者は、終の駅到着後目を覚まします。旅の途中で目を覚ますこともありますがね」
まだ外は暗い。だが元の世界はもう明るくなっているだろう。この世界は夜が長いようだ。
汽車が、終の駅へ到着した。ホームはさくらがこの世界に来た時にいた駅のそれと近いもの。
老紳士が、立ち上がった。
「お別れ、ですね。これから着替えなければいけませんから、お互いまだすぐには元の世界に帰らないと思いますが……しかしここでお別れすれば、もう会うことも無いでしょうね」
「私、楽しかったです。おじいさんと一緒に旅をして、とても楽しかったです。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
優しく笑み、老紳士は頭を下げる。さくらもお辞儀を返した。
長かったような、短かったような時間を共に過ごした人との別れはとてもさっぱりしたものになった。老紳士はそれ以上何か話すことはなく、彼女に手を振りながらさっさといなくなった。
(ずるずる色々と引きずりながら別れるより、こうやってすっきりさっぱりお別れした方が後腐れ無くていいわね。何だか心がすっきり爽やかになった気がする)
その後、さくらが老紳士と会うことはなく。
老紳士と別れたさくらは後方の車両を目指す。預けた服を引き取る為に。
「この服もすっかり体に馴染んで……普段と違う格好をしていることを旅している間すっかり忘れていた」
同じように衣森で衣装を借りていた人達が保管室の前で群れを成している。
どれ位の時間が経ったか、ようやくさくらは預けた服を引き取ることが出来た。今着ているものとは全く違う、自分が普段着ているものを目にした途端目頭が熱くなった。慌ててさくらは首を振る。
「泣いちゃ駄目、泣いちゃ駄目」
泣いて終わるより、笑って終わりたい。そう思ったさくらは涙を必死になってこらえつつ、更衣室を目指す。
こちらも順番待ちの行列が出来ていたが、思ったよりは早く順番が回ってきた。
小さな、本当に小さな個室。その中でさくらは着替えようとする。
しかし今着ている服を脱ごうとしたまさにその時。
「あれ?」
さくらは頭が急にぼうっとするのを感じた。同時に、体が引っ張られる感じがし。一体何が起きたのだ、どうしてしまったのか私はと考える間もなく。
彼女の意識は途切れるのだった。
*
じりりりりり。
目覚まし時計が、鳴っている。けたたましい音を鳴らすそれにさくらは手をかけ、ボタンをぽちりと押した。それからしばらくして、重いまぶたをすうっと開ける。
目に映るのは木の天井、白い光を発する照明。部屋に差し込む、鳥のさえずり混じりの陽光。
(あれここはどこ……あ、そうか。今おじいちゃんの家に泊まっているのだっけ)
まだぼんやりしている頭、今にも再び閉じてしまいそうなまぶたをこすり、それから小さくあくび。
何か素敵な夢を見ていた気がするが、それがどんな夢だったのかさくらは思い出せなかった。しかし夢というものは往々にしてそんなものである。余程のものでない限り、目が覚めた瞬間彼方へと行ってしまう。
いつものこと。だからさくらはどんな夢を見たのか思い出そうとはしなかった。
(すぐに忘れてしまう位のものだったのでしょう。……それより私、昨日の夜)
昨晩起きたこと。突然聞こえてきた汽笛、突如襲った眠気。
ぼうっとしていたさくらの頭がそのことを思い出した途端見事覚醒した。さくらはがばっと起き上がる。布団の温もりを失い、急激に冷えていった体をぶるっと震わせた後、彼女は自分の手を見た。
「あ……あった!」
さくらの右手に、昨日環が見せてくれたものと同じような紋様が描かれていたのだ。興奮により眠気は完全に覚めた。さくらは右手の甲にある紋様を嘗め回すように眺める。ただ、もう、夢中になって。
しばらくは右手に気をとられ、自分の格好に気がつかなかったさくら。しかしとりあえずこのことを階下にいるだろう秋太郎に報告しようと立ち上がった時。
「え、ええ!?」
口から出た、驚きの声。確かに寝る前はスウェット姿だったはずなのに、今は何故かアオザイに似た服に身を包んでいた。最初まだ私は寝ぼけているのだろうかと目をこすり、もう一度自分の体を見直す。何度も同じことを繰り返したが、結果は同じ。さくらは確かに寝る前とは違う服を着ていた。
「どうして……おじいちゃんか弥助さんの悪戯? ううん、まさかそんな、けれど、なんで」
右手の甲に判子の様なものが押されていることと何か関係があるのだろうか。
「どうして……?」
幾ら考えても、答えは出ない。
しかし右手の甲、自分の格好を見ている内、さくらは胸がかあっと熱くなるのを感じた。熱と共に感じたのは切ない痛み。
何故か、頬を温かいものが伝う。少しだけしょっぱいそれが手の甲に落ちるのをさくらは混乱しながらも静かに見ていた。
そしてやがて布団の上に座り込むと右手を胸へやり、左手でそうっと抱き。
しばらくの間、ずっと、泣きながら笑い、そして右手の紋様を愛しい我が子のように抱きしめ続けるのだった。