雪洞鉄道(10)
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門をくぐったさくらをあっという間に閉じ込める、無数の背の高いビル、檻。
どことなく冷たさを感じる色をした灯り、氷の火を抱いたもの。赤、青、白――それらの光がさくらの目を焼き、瞬きを繰り返させる。しかしそれだけのものに照らされているにも関わらず、まだ飽き足らぬらしいビルは、自らも青白い光を発している。
都市を照らす灯りも、さくらを閉じ込めるようにして伸びるビルの発する光も無機質で、温もりも柔らかさも無い。美しくはあったが心には響かない。アカリモドキや音色を奏でるすずらん、雨を糧に生きる金魚鉢型の生き物などとは違う。
夜にも関わらず人通りは多い。決して狭くは無いはずの歩行者用通路は人でいっぱいで(汽車から降りた人も混ざっているのだろうが、恐らく殆どはこの街に住む人だろう)、道路にはさくらの住む世界にあるものよりスマートでより未来的なデザインの車が溢れている。夜に活動し、朝に寝る者が主だというこの世界、ここ『脳回し』の住人達も例外ではないようだ。
(息が詰まる……)
まだその中を歩いて五分も経たない内に、さくらはここへ来たことを後悔しだした。身も心も圧迫する無機質で面白みの欠片も無い、ただ高いだけの建物も、ただ目を焼くだけの痛々しい灯りも、空が隠されるさまも、車や人でぐちゃぐちゃになっている道も、街中を包む煩雑で汚さや醜ささえ感じる生活音や人々の話し声も彼女は苦手だった。ちょこっと都会な三つ葉市に生まれなくて良かったと心から思っている位に。
歩く人々を見下ろす建物の視線がさくらの体に突き刺さる。彼等の体に自分の体が押し潰されるのを感じる。
こういった建物や車などを初めて見たらしい者達は興奮した声をあげ、上気した顔をせわしなく動かしながら辺りの風景を見回している。彼等にとっては空を飛び回る金魚や光る果実などよりもこういったものの方がずっと珍しいものなのだろう。その様子を見ていると、自分と彼等の住む世界は違うこと、自分は只の人間であることなどを改めて思い知らされた。
歩いても歩いても、ビルばかり。店の群れが住むビル、どれだけの人が住んでいるのか想像も出来ない位大きなマンション(どうやらここに一軒家というものは存在しないらしい)、研究施設が沢山詰め込まれているらしいビル……。
自然というものは殆ど無く、綺麗に整えられた木や花壇がぽつん、ぽつんとある位。
「寒い……」
猛烈な寒さをさくらは感じた。苦しげに吐き出した息の白さが余計彼女の体を震わせる。他の場所を歩いていた時にはあまり感じなかった寒さを急に感じるようになったのは、ここにその寒さを忘れさせてくれるような優しい温もりや風景が無いからかもしれない、自分を囲む建物や光が冷たく無機質だからなのかもしれないとさくらは思った。
目は大分光に慣れてきた。しかし慣れたからといって何かが変わったわけでもなく。
(あれだけ綺麗に瞬いていた星が、ここではとても霞んで見える。ああ何だかとても悲しくなってきた)
もういっそ引き返し、汽車へ戻ってしまおうかと思った。
その時さくらは生暖かい何かにぶつかった。空を眺め、ぼうっとしながら歩いている内、反対方向から歩いてきた人とぶつかってしまったらしい。割と勢いよくぶつかった反動でよろけ、後、体勢を立て直し、さっと頭を下げる。
「ご、ごめんなさい! 前をよく見ていなかったもので……」
そうやってぶつかった人に謝ったのは今月で何度目だっただろうか。
「こちらこそすみませんでした。私も色々考え事をしながら歩いていたものですから全く気がつかず。私は一体一日何十回人とぶつかれば気が済むのでしょう……全く」
さくらとぶつかった相手は男性のようだった。そして彼もまた余所見をしていたらしい。顔を上げるとその人の姿が彼女の目に飛び込む。
ひょろりと細長い体、後ろで束ねている出雲程ではないが長い銀髪、眼鏡の下にあるのは陰気で生気をあまり感じない瞳、黒の上下、上にひっかけているのは白衣、右手で抱えているのは分厚い本。どうやらこの街に住んでいる研究者の一人らしい。滅多に外へ出ないからか、充分な栄養を摂取していないからか、肌は青白くいかにも不健康そうでやや気味が悪い。
そんな彼はさくらを物珍しそうに見、それから彼女の右手の甲にある印を見、嬉しそうな声をあげた。
「君、もしかして旅人かい。こことは違う世界から来たの?」
さくらが返事をする前に、彼はさくらの右手をとり、自分の顔に近づけた。
いきなりの行動と、彼の肌の冷たさにさくらはぎょっとし、思わず短い悲鳴をあげる。印を凝視していた男ははっとし、それから彼女の手を離す。
「いや、申し訳無い。……実は私はこの世界のこと、そしてこの世界とは別の層にあるという世界のことについて研究をしていてね。君達旅人を見かけるとちょっと、いやかなり興奮してしまうんだ」
それで何度も失敗したり、同僚に怒られたりして――と照れくさそうに男は笑う。
「この街には沢山の研究者が住んでいるんですよね」
男はさくらの問いにああそうともと大きく頷き、それから近くにあったビルを見上げる。
「この世界に存在する研究者の九割はここで暮らしているといわれている。何かの研究をしたいと思った者は大抵この街に来るんだ。……ちゃんとした研究が出来る環境の整っている場所というのはここ位だからね。あ、そうだ。君、私のいる研究所に来てみないかい?」
「え、いいんですか?」
研究所というのはあまり外部の人間を入れないもの――という認識があったから、男の申し出にさくらは驚いた。男は大歓迎だと両手を広げ(その手が通行人にぶつかり、またしても彼は謝罪の言葉を述べることとなった)勿論だと一言。
「一部の研究所を除けば、見学は自由。君同様別世界から来た人達がよく私のいる研究所にも来るよ。その人達の住んでいる世界の話が聞けるから、色々な人が研究所を訪れてくれることは私にとっても大変都合が良い」
さくらは彼の言った『この世界のこと、この世界とは別の層にある世界についての研究』というものに興味を示した。一度は行きます、と頷きかけた彼女だったが……本当に目の前にいる彼を信用していいものなのか、彼に素直についていっていいものなのか分からなくなり返事を渋る。それを見て男は苦笑い。
「まあ、こんな怪しい男に急にそんなこと言われても困ってしまうだろうね。世の中には人を騙して良からぬことをしようとする輩もいるから」
「ご、ごめんなさい……あの、研究自体には興味があるのですが」
「そんな気にしないで。君の判断は正しい」
と言って笑った男が突然「いてっ」という叫び声を上げ、前のめりになる。
彼とぶつかりそうになったさくらは思わず後ろへ下がった。男はぎりぎりのところで耐え、どうにか転ばず済んだ。
「先輩! 何私のことを置いていっているんですか、何女の子ナンパしているんですか!」
どうやら男は突き飛ばされるか蹴飛ばされるかしたらしい。その犯人は彼の背後に立っていた。どうやら女性らしい。
「ナンパなんてしていないよ後輩君。……ああ、置いていったことは悪いと思っているよ、少しはね。いや、ずっと欲しかった本を手に入れて舞い上がって……そうしたら君のことをすっかり忘れてしまって、痛い痛い、こらこらやめたまえ」
「本以下の存在ですか、私は」
「そうと……いやいや、そんなことは無いよ、ああ、ないとも」
男は冷や汗流しながら言いかけた言葉を訂正。
やがて背高のっぽの彼の後ろから一人の女性が現われる。彼女が彼の後輩ちゃんらしい。短い髪、男とは正反対で顔からちゃんと生気というものが出ており、大きな瞳も生き生きしている。白衣より、スポーツのユニフォームが似合いそうな女性であった。
「ごめんなさいね、こんな変人にいきなり声をかけられて怖かったでしょう?」
「あ、いいえそんなことは……」
「後輩君、この子研究所に招待しようよ研究所に。さっき彼女に言ったんだけれど、断られて。でも君が一緒なら問題ないだろう」
女性同伴なら大丈夫だろうと判断したのか、男は先程の提案を改めてする。……変人呼ばわりされたことに対しては何も言わない。普段から言われ慣れているのかもしれなかった。
「やっぱりナンパしていたんじゃないですか」
「だからナンパはしていないよ、研究所に招待をしただけだよ」
「どうだか。そもそもどういう経緯で彼女を研究所に招待したんです?」
「それは色々考え事をしていて……余所見をしていた時に彼女とぶつか、あ、しまった言ってしまった……わ、わわ、暴力反対!」
という男の懇願空しく、彼女渾身の一撃は男のすねを直撃。
「こういう人通りの多い所を歩いている時は考え事をしたり、ぼうっとしたり、余所見をしたりするなと何度言ったら分かるんですか! 貴方が怪我するだけならともかく、ぶつかられた人が怪我をしたらどうするんですか! 大体貴方はいつもいつも……」
さくらを始めとした多くの通行人など眼中に無い彼女は男に説教を始める。
その光景を見、さくらは自分がほのりや一夜に説教されている時のことを思い出した。他者の目には、その時の光景というのはこういう風に映るのかということを実感するさくらだった。
女は説教を終えた後、さくらへ視線を向ける。
「それでお嬢さん、どうします? 研究所に来ます、それともやめます? このままさよならします? それを決めるのは私や彼ではありません、貴方自身です。来るのなら私達は歓迎しますよ。……ただ長話に付き合わされる覚悟が必要ですよ。この人、絶対話を沢山聞いてこようとしたり、自分の研究内容について延々と語りだしたりしますから。まあ、いざとなったら私がこの人の頭殴って止めさせますが」
「え、殴るの?」
「殴るか蹴るかしなければ止まらないじゃないですか、先輩」
どちらが先輩で、どちらが後輩だか分からないと思いつつさくらは是非行きたいと頷いた。この世界についての話を沢山聞きたいし、自分の話が少しでも彼等の役に立てたら良いと思ったのだ。
(おじいさんは決まりや法則を知ることは、世界を狭めることになると言っていた。それでもやっぱり気になるものは気になるし……それにそれらを知ることが必ずしも世界を狭めることになるとは限らないと思う)
世界を広げることにも、狭めることにもなる行為なのだと思った。知る、ということは相反する二つの性質をもっている。
男がにんまりと笑った。さくらが研究所を見学することを喜んでいるようだったが、その奇妙に歪んだ笑みはとても不気味に見え、なんだかまるで黒い企みが成功しかかっていることを喜んでいるような顔になっていた。
気持ちが悪い、そう言って彼の背中を叩いたのはその笑みを受け取っていない後輩の方。
「それでは早速行くとしよう。我等が研究所はここからそう遠くない所にあるからね」
そう言うと男は歩き出す。さくらと後輩はその後ろへつく。歩きながらも男は頻繁にさくらに話しかけた。
「大きな都市だろう」
「ええ。……雰囲気も他の場所とは違いますね」
「これだけ高い建物が立ち並んでいて、機械や車といったものが沢山ある所なんてこの世界ではここ位のものさ。さっきも言った通り何かを研究する人間というのもここにしかいないね、殆ど。……この世界に住む人々には知的探究心というものがあまり無いというか何というか……。赤と青の絵の具を混ぜると紫になる――ということは経験や勉強を通して知っている。けれど、何故赤と青を混ぜると紫になるのか……ということについてはあまり考えようとはしない。なるからなるんだ、何故そうなるかなんてこと考えてどうするんだといった感じでねえ」
そのせいか、この世界にはあまり研究者というものが存在しないのだそうだ。
(あまり細かいことは気にしない主義なのね。そういうところは出雲さん達と似ているかも……)
「まあ勿論命に関わることなどになると、色々原因を究明しようとするのだが。調べなくても、知らなくても何の問題も無いことに関して――我々がしている研究、つまりこの世界のことや別世界の仕組みなどを解き明かすということなどにはまるで無関心。まあ分かったからって何がどうなるというわけでもないからね」
その言葉に頷くのは後輩。
「私も両親からしょっちゅう『そんなことを研究してどうするんだ』と言われています。どうすると言われても困るけれど……別に何かに役立てる為にやっているわけではありませんから。完全なる自己満足なんですよね」
今度は男が頷く。彼も知り合いからよく言われているらしい。
「私も親から『自ら自分を閉じ込める鉄の檻を作ってどうする』などと言われ。研究をしている内に世界が広がるどころか狭くなったように感じて嫌になり、その世界から遠ざかってしまったなどという人の話も聞いたね。君同様、その人も旅人だった。ま、私は結構気楽にやっていますからあまりそういったことは感じないけれど。……そもそもそんなこと感じる程物事が究明出来ているわけでもないし」
「出来ていないんですか」
「出来ていないね。正直に言うとね……世界研究というものがこの世に生まれて数百年経つけれど、その日から研究は全くといっていいほど進んでいない!」
「胸を張って言うことじゃないでしょうが!」
振り返り、胸を張り、ドヤ顔でそう言った男にすかさず入るツッコミ。
男はあはははははと笑うのみ。さくらは困ったように笑うしかない。
「まあそれでも、君に色々話を聞かせてやること位は出来るはずだ。ふふ、美味しいお菓子を沢山あげるから、お兄さんについておいで。大丈夫、変なことはしないから」
ポケットに入れてあったらしい飴(随分前から入れていたのか溶けてどろどろになっていた)を取り出し、さくらの前にちらつかせる。またしても変態チックな笑み、唇をぺろり嘗め回す舌。変なことはしない、という部分を妙に強調しているから余計危ない人に見えた。後輩はただため息をつくばかり。
「何やっているんですか、気持ち悪い。貴方みたいな人がやると妙にリアルになっちゃいます」
「君はいつも冷たいね私には。私が何か言う度辛らつな言葉を返してきてさあ。ぐさりと胸に刺さって、お兄さん傷ついちゃうよ」
「愛入り氷の刃ですよ、愛入りの」
「え、愛情入っているの? やったあ嬉しいなあ」
「嘘です。愛は一切含まれていません」
「入っていないの?」
「入っていませんし、入れる必要もありませんし、入れたくもありません」
そういう彼女の頬は気のせいかさくらには赤らんでいるように見えた。しかし彼女に背を向けている男は気がついていない。
などと色々喋っている内、二人が所属しているという研究所に辿り着いた。
周りに建っているものと何ら変わらぬ、特徴と呼べるものは何一つ無いビルだった。心打つものは矢張り何も無い。
「この建物には文化や言語、世界や地理等の分野を研究している者が集まっている。我々のいる研究所はここの三十四階にある」
男はその場所を指差したが、あまりに高い建物だったからどの辺りが三十四階であるのか全く見当がつかない。そもそもこの建物が何階まであるのかさえ分からなかった。
さくらは男の後に続き、研究所の集まる建物の中へと入っていった。