雪洞鉄道(8)
*
面の郷、と呼ばれる場所は黒光りする木々の集まる丘の頂上にあった。
まるで意思を持っているかのように、丘を構成している木々の中を泳ぐのは金魚型の提灯。巨大な鈴が吊り下がっているこれまた大きな鳥居をくぐると、赤塗りの木で作られた灯篭が等間隔に並ぶ石段が天まで続いている。赤い雨は止んでいたが、それでも世界はまだ真っ赤だった。星輝く空の海を泳ぐ錦鯉を時々見、老紳士と色々喋りながらさくらは面の郷まで辿り着いた。
「ここが面の郷……」
白い石を敷き詰めて作られた道の両脇に並ぶのは、祭の屋台。お好み焼き、ヨーヨー釣り、金魚すくい、焼きそば、射的……。
屋台の主は皆黒っぽい青の人型ゼリーに青や黄色の目をつけたような生物で、口は無いのか一言も喋らず、ただ黙々と、そして淡々と売り物を作ったり、客にポイや玩具の銃を渡したりしている。中には何もせずぼうっとしている者、本や新聞らしきものを読んでいるもの、目を瞑り寝ている者もいた。
眩い灯りに照らされた屋台は輝いていて、見ている者の心を躍らせる。普段見ないもの、己の日常という言葉からかけ離れたものは人を興奮させたり、恐怖心や不安を抱かせたり、緊張させたりする。異常、異質、非日常というものは人の心に作用する。良い方、悪い方どちらになるかはものによって変わるが。
やや離れた所から聞こえる祭囃子に耳を傾けながら、さくらは周りを見渡した。
「今夜はお祭なのかしら」
「どうやら違うようです。これはこの郷の日常の姿……毎日郷は屋台と、それらを照らす灯りで溢れている」
「毎日、ずっと変わらず……」
「我々にとっては非日常的な光景ですが、この郷の住人にとってはこれが日常の光景なのです。ずらりと並ぶ屋台、祭囃子、眩い灯り、混ざり合う食べ物の匂い……毎日そこにあれば、それは『異常』『非日常』という性質を失います。それを見る人、それが存在する時間の長さなどによってそのものの持つ性質や力というものはあっさりと変わるのです」
自分や老紳士の目には光り輝くもの、非日常的なものとして映っているこの世界も、ここに住む人達からしてみれば非日常でも何でもない……不思議なものだとさくらは目の前に広がる景色を見ながら思う。
(ここに住む人達には、私達の住む世界が異様なものに見えるのかしら。眩く輝いて見えるのかしら……)
そんなことを思ったところで、さくらはふとこの場所が何故『面の郷』と呼ばれているのか気になった。初めはお面生産有数の地なのだろうかと思っていたが、お面を売っている様な店も見当たらず、またお面で有名だということを示すようなものも見当たらなかった。
このおじいさんなら知っているだろうかと、老紳士にさくらは尋ねてみた。
「ああ……面の郷というのは。ん、この辺りには郷の住人がいないようですね。もう少し進んでみましょう、そうすれば意味がきっと分かるでしょう」
屋台の前にはお客さんらしき人がそこそこいたし、リンゴ飴やいか焼き、わたがしや吹き戻しなどを手にしている人達と沢山すれ違った。しかし老紳士曰く、彼等は皆この郷の住人ではなく、さくら達同様外部からこの郷を訪ねてきた者であるという。どうしてそんなことがすぐに分かるのだろうとさくらは不思議に思ったが、その疑問は間もなく自己解決することになる。
赤、橙、黄。灯りと非日常の空気を浴び、世界中の宝石よりなお輝いている人々の間を通る何かの姿をさくらは認めた。宙に浮いているそれはあちらこちらで見られ、外部から来た人々とは明らかに違う空気をその身に纏っている。
それがお面――般若、おかめ、狐、老女、鬼、獅子、狸や兎、犬等――であることにやがて気がついた。漫画やアニメのキャラクターの面は見かけず、その殆どは紙や木で出来ているようだった。
月光と同じ銀の光を微かに発している彼等はゆっくりと静かに移動をしている。面の下に体は無く、かなり古くに作られたらしいものもあれば、汚れや傷一つ無い美しい肌を持つものもあった。彼等は自分の意思で動いているらしい。描かれたり、彫られたりしている目や口、眉は動かず。生まれ出た時からの顔を変えることは無い。笑っているものはただずっと笑っていて、泣いているものはずっと泣いていて、怒っているものは絶えず怒り続けている。……少しも変わらないその顔は、とても気味が悪くまた寂しいものに思えた。
この郷は、彼等――面が、面だけが住んでいるらしい。
「あの屋台の主人達は、この郷の生まれではないのでしょうか」
「それは私にも分かりません。手足が欲しいという面達の願いが具現化したもの、突然変異で生まれたもの、近くの土地からこちらに移り住んできたものなどと色々云われているようですがね」
老紳士の答えを聞いていたさくらは、よろよろしながら進んでいる老爺の面とすれ違った。細く柔和な目をこちらに向け、彼は笑った。いや、笑い続けている。優しい、しかし気味の悪いその笑みにさくらは背筋を凍らせながらもぎこちない笑みを返す。
人々の間を行き交う面達は屋台には目もくれず。むしろ彼等はこの郷を訪れた者達に興味を示しているようで、面が外部の者に話しかけたり、彼等とお喋りしたりしている場面をあちこちで見かけた。妖達は面の持つ異様さを少しも感じていないのか、まるで十年来の友達を相手にしているかのように接している。人間なら多少なりとも感じるものを彼等は感じない。普段生活している世界が違うからそうなるのか、妖等異形の者固有の性質が原因か。
途中、明らかに人間らしい少女が若い娘の面や般若の面等に囲まれ、ひっきりなしに質問を受けている場面に遭遇した。面達はどうやら好奇心旺盛らしく、外部から来た者の話を聞くのが相当好きなようだ。少女に危害を加えるつもりは毛頭無いらしく、むしろ仲良くなりたいという風だったが、彼等と対峙している少女の顔が今にも泣きそうであるから、集団でいじめをしているようにしか見えない。
そんな少女と、さくらの目が合う。彼女は明らかに「助けて」と目で訴えていた。さくらがどうやって助けてあげれば良いだろうと思案していると、一緒に歩いていた老紳士が彼等の輪の中に入った。彼は優しい口調で面達と話し始める。自分が代わりに話し相手になることで、少女を助けてやろうとしたらしい。
老紳士に目配せされた少女はさりげなく輪から出、それから近くにいたさくらの方へと駆け寄った。
「助かった……怖かった。私、なんて夢を見ているのかしら。妖怪とか、化け物とかも怖いけれど、あのお面達はそれ以上に怖い。……汽車に戻ろう。あのおじいさんに、後でお礼を言っておいてね」
そう言うと少女は足早に去っていった。きっと石段を下り、鳥居を抜け、天満月に乗るのだろう。
何を売っているのかよく分からない屋台の前で老紳士と面達は話しこんでいた。さくらは老紳士と別行動をとるのは寂しいし不安だからと、彼等の傍にいてお喋りが終わるのをじっと待つ。
灯りと共に届く祭囃子の何と賑やかなことか。賑やかだがうるさく耳障りではなく、耳から体内へすうっと入っていき、弾みながら落ちていく。視界を満たす赤や黄、橙の光が気分をより盛り上げてくれる。きっとここにある光が全て青や緑であったらそんな気分にはならないだろう、逆に心が落ち着くだろうとさくらは思った。
だがそんな世界でずっと生きているはずの面達から感じるのは憂いや寂しさ、悲しみ。この景色に心動かされることなく、彼等は生きている。そんな彼等からは生気というものが感じられない。生きているのに死んでいる、そんな風だった。すうっとふらふらと世界の中を漂いながら外部から訪れる者を、彼等が持つ『非日常』や『幻想』を求め続けている。
屋台巡りを楽しんでいる人々の群れの中、彼等とは違うものを身にまといながら動いているお面達の姿は目立っていた。その姿を目にする度、さくらはぞっとした。また、切ない気持ちになった。口は笑っているのに、細めている目は死んでいる――そんな面と目が合い、さくらはたまらず目をそらした。
「どうしてあんなにこの面の郷に住んでいるお面達は、寂しそうな顔をしているのだろう。何故その目には生気が無いのだろう……皆何故、死んだように生きているのだろう」
「そりゃ、そうもなるよ」
さくらがふと漏らした声を、誰かが聞いていたらしい。返事をもらうとは思っていなかったさくらはぎくっとして顔を上げる。
彼女の目の前に、狐面が浮いていた。白い和紙で出来た顔に赤や金の模様が描かれている。何かを諦めているような少年の声の主は彼のようだ。
「貴方は、この郷に住んでいるの」
「そうだよ。だからこそ返事をしたんだ。……あんた、随分気になっているようだね。おいらが教えてあげるよ、その代わり後であんたの住んでいる世界のことを色々話してくれよ。……ま、別にわざわざ説明するような理由じゃないけれどね。おいら達はさ、この郷から自分の意思で出ることが出来ないんだ」
さくらの返事を聞く前に、彼は答えを言う。そして宙に浮かびながらその場でくるくる回り、毎日見続けているだろう世界をぐるりと見渡し、それからため息。彼の声は耳から入っていくというより頭、或いは心に直接届く。テレパシーと呼ばれるものに近いようだ。
「おいら達はそう高く空を飛べないから上空から外の世界を見ることも出来ないし、あんた達が上ってきただろう石段の方へ近づくことさえままならない、郷の出入り口にあるっていう鳥居も当然くぐれない。朝日も宵日も関係なく開いている屋台と、日が昇っても暗い色をした背高のっぽの木、おいら達の心とは真逆の色をした照明、延々と流れ続ける祭囃子……それがこの郷の全てで、おいら達の世界の全て。それ以外の世界を自分の意思で見ることは出来ない、外の世界に自分の意思で飛び出すことも出来ない。射的や金魚すくいで遊ぶことだって、手足が無いから出来ないし、何かを食べることも出来ない」
「遊べないし、食べることも出来ない? それなのにどうしてここには毎日こんなに沢山の屋台があるの?」
「……一応ね、遊んだ気持ちになったり、食べた気持ちになったりすることは出来るんだ。目の前に並べられた食べ物を見て食べるふりをする……そうすると何となく感じるはずがない味を口の中に感じて、ありもしないお腹が満たされて。遊びも同じさ。水の中を泳ぐ金魚を眺めて、頭の中で自分がポイを持って金魚をすくっている場面を想像するんだ。それでああ捕まえた、ああ破れてしまったと声に出すんだよ」
この前外から来た人に「ままごとみたい」「ごっこ遊びみたい」って言われたことがあるよ、という言葉にさくらはああなる程と頷いた。本物を目にしながらそれを食べるフリをすることも、おままごとのように偽の食べ物を食べるフリをすることもあまり変わり無いように思われた。しかしお面には人間達と違って手足が無い。全身を動かして想像の世界に入り込むことが出来ない。やりたくても、出来ない。それは酷く寂しいことのように思えた。
さくらの表情を見、狐面はそうなんだよねえとため息。
「たまにやると……心が満たされたような気になる。でもね、目の前でごっこ遊びでも何でもなく、本当に売り物のわたあめやたこ焼きを食べているところや、手に持った鉄砲で景品を撃ち落すところを見ると……途端にむなしくなる。何やっているんだろうって。そして、手足どころか胸も胴も胃も心臓も無い、自由も無い自分達のことを呪うんだ」
だからここに並ぶ屋台を、郷の住人はあまり利用しないのだと狐面は言った。
「おいら達は自分の意思でこの郷から出ることは出来ない。だから外から来た人達の話を聞いて……想像するんだ。ここ以外の世界のことを。景色、食べ物、遊び、そこで起きる大小様々な事件、しきたり……皆が語る物語はね、おいら達には輝いて見える。あんた達にこの郷を照らす灯りが眩く見えるように。おいら達はあんた達から聞いた話を、この郷の外れにある『社』に住むソバビト――屋台をやっている彼等のことなんだけれど……彼等にその話を聞かせてやるんだ。すると彼等は筆を使って紙にその話を記録する。話を元に絵を描く奴もいるよ。そうして残された記録は社に保管され、皆で物語を共有するんだ。その記録を読みたい時は社に住むソバビトにお願いすれば、望んだものを取り出してくれたり、代わりに記録本をめくってくれたりしてくれる」
今老紳士とお喋りしている面達も、恐らくこの後『社』という場所へ行きソバビトに話を聞かせるのだろう。
彼はまだ話を続ける。殆ど間をあけずに。余程外部の者と話をするのが嬉しいのだろうと思われた。話の内容が何であれ。
「そりゃあさ、むなしくはなるよ。ただ想像することしか出来ないのだから。……話なんか聞かなきゃ良かった、何も知らないまま生きる方がずっといいやって思うこともある。けれど、でも、やっぱり聞きたいし、想像したい」
「そう……」
彼の話を聞くことで、彼等に抱いていた恐怖心などが薄れ、反対に彼等を哀れむ気持ちや愛しく思う気持ちが増してきたさくらは胸を痛ませながらただそれだけ言った。
すると狐面は少しだけ静かになり、それからまた。
「……一つだけ、おいら達にはこの郷を出る術がある。食べ物の味を知ったり、遊んだりすることの喜びを知ることも出来る」
突然の言葉。さくらの目が瞬く。
「出来るの?」
「出来る。……外から来た人に『つけ』ばいいんだ。その人と一体化すれば、郷を出ることも出来るし、色々なことを感じることも出来る」
つく――誰かが自分を被れば、その人と一体化し、その人自身になることが出来るという意味だろうかとさくらは思った。
しかしさくらが見た限り、お面を被って歩いている人はいない。被ってその人と一つになったら目には見えなくなるのだろうかと思いそのことについて聞いてみたが、そういうことは無いと狐面は答えた。
そんなことが出来るなら、皆郷を出れば良いのに……誰かと交渉して、自分を被ってもらって、飲み食いや遊びを楽しめばいいのにというさくらの思いを狐面は感じ取ったらしい。
「誰でも良いって訳じゃないんだ。自分とその人の波長というかなんというか……そういうのが合わないと、おいら達は『つく』ことが出来ない。波長が合う人とは滅多に会うことは出来ないし、会えてもこの人についてもなあ……というような相手で、結局『つく』ことを諦めてしまうこともある。おいら達は、この死ぬまで見続けなければいけない陳腐な世界を亡霊のように彷徨いながら、自分の渇いた心を少しでも潤してくれるものを持っていそうな人を探したり、自分をこの世界から出してくれる人を探したりしているんだ」
ところで、と狐面は急に前進しさくらにぐっと顔を近づける。ぎょっとし、さくらは思わず半歩退いた。
「おいらとあんたは、波長が合うようだ。ねえ、あんたの住む世界のことを沢山教えてよ……そして、おいらをつけておくれ。おいらをこの郷から出しておくれよ。……永遠にあんたにつくというわけじゃない。……郷を出るまででいい」
ずずいとどんどん近づく狐面。紙に描かれている瞳は心なしか燃えている。
言葉に滲み出ている『自由』や『手足』を渇望する思い。その思いに気圧され、思わずさくらは頷いてしまった。それを見た彼の喜びようといったら無い。
見えない涙が、彼の頬を伝っているような気さえした。それ位彼は狂喜乱舞していた。
「ああ、やっとおいらは自由になれる! おいらはこの郷を出ることが出来るんだ! 今まで想像するしかなかった食べ物の味だって分かる、遊ぶことがどれだけ楽しいのか分かるんだ!」
それだけ喜ばれたら、辞退することなど出来ない。永遠につくわけではないこと、自分がついたからといって何か悪いことが起きるということはないという狐面の言葉をさくらはただ信じるしかなかった。
(このお面に外の世界を教えてあげよう。たった一つの世界しか知らないなんて、そんなの悲しすぎるもの。私が彼を自由にしてあげよう……)
もう一度さくらが頷くと、狐面はさくらの顔に覆いかぶさった。ふわりと香る、和紙の良い匂い。顔に感じる温もり。狐面の目に空いていた穴は小さかったはずだが、彼が『ついた』後も視界は一切遮られず先程までと全く変わらない。
それからさくらと狐面は、話を終えた老紳士と共に郷中を回る。さくらは自分の顔についている狐面に桜町や舞花市のこと、自分の家族、友人のこと、読んだ本のことなど色々話してやった。そして彼女の話の何倍もの量の質問や感想が返ってくる。さくらは矢継ぎ早にくる言葉に若干混乱しつつも何かしらの言葉を返し、会話を成立させる。散々他の面と喋っていた老紳士も、狐面に色々な話を聞かせる。その声には疲れが無い。彼は存外お喋りが好きな人間であるようだった。
屋台を巡り、ものを食べたり(彼を顔からはがさずともものを食べることは出来、また、さくらが食べたものの味を彼は感じることが出来るらしい)、遊んだりする内狐面の声がどんどん弾んでいく。これ程までに満ち足りた気分になったのは初めてだと、本当に嬉しそうに言って、さくらと老紳士をほっこりとした気持ちにさせる。
「そうか、これが甘いってことなんだ。りんご飴……飴の部分はとても綺麗な赤色だ。おいら、初めてだ。赤って色はこの辺りには腐る程あって……おいら、この色を見る度とても嫌な気分になっていた……けれど今は違う。ああ、中は黄色くて、この辺りを照らしている灯りの色そっくりだ。味も飴の部分とは全然違うね……なんか口とか目が、きゅうってなるよ。これがすっぱいというものなんだね」
彼は今まで食べるフリをし、食べたつもりになっていた食べ物の本当の味を知る為、さくらに色々食べさせた。ここの物はどれもタダで食べられた。老紳士はお喋りの相手にはなれるが、彼の口になることは出来ない。それが出来るのは彼がついているさくらだけ。だから彼女は狐面のリクエストに答え、いつもなら絶対に食べない位の量を食べた。それでもお腹はそれ程いっぱいにはならなかった。
たこ焼き、焼きそば、チョコバナナ、わたあめ、お好み焼き、焼き鳥、カキ氷、フランクフルト、ラムネ……。それを食べる度、狐面は感想を述べる。
「ソースって、素晴らしいものだね。とてもいい香りがするし、味も最高だ。けれどこういうのはただそれだけを舐めてもこれ程までに満たされることは無いんだろうね。色々な具と一緒になって初めて、この味になるんだね。おいら、焼きそばが気に入った。紅しょうがは郷にある時期だけ咲くつつじと同じ色をしていた。りんご飴と同じ赤色で、これも甘いのかなと思ったけれど……甘くないね、いや、甘いには甘いけれど辛味もあって……ちょっとびっくりした。わたあめも好きだな! 口の中に入れたらあっという間に溶けちゃった! 空を覆うあの雲も、舐めたら溶けてしまうのだろうか? 白くてふわふわで、甘くて……」
何かを入れていない時以外、彼は延々と喋り続ける。
屋台にある色々なゲームで遊ぶ時も彼はずっと喋っていた。さくらについているものの、彼女の体を操ることは出来ない彼は、さくらにあれこれ指示をし、彼女を自分の手足とする。
金魚すくいも、ポイを握っているさくらに次々と指示をした。
「ねえ、あれ、あの金魚がいい。あれだよ、あれ、あそこにいるあれだ!」
「あ、あれと言われても……もっと具体的に」
「あそこだよ、右にいるあの、あれ……それじゃない、その近くにいる、それも違うよ! ああ、それそれ、それをポイで追い込んで……ああ、そうじゃないよ!」
彼はさくらを自分のやりたいように動かそうと色々言ってくるのだが、彼の指示内容にさくらの技術や運動神経がついていけないということが度々あり。
さくらは狐面の指示に振り回され、狐面は彼女の技術力の無さに振り回され。
それはこの金魚すくいの時に限らず……輪投げや射的、ヨーヨー釣り等の時にも。
しかしさくらが彼の指示通りに動けたからといって必ずしもことが上手くいったわけではなかった。
「実際にやってみると、なかなか上手くいかないものだね。ああしたら絶対あの景品が獲れると思ったのに。でもそこが面白いんだね! 上手くいった時、いかなかった時……そういうもの全部ひっくるめて楽しむものなんだ、こういう遊びは」
「毎回全てのことが上手くいったら少しも楽しくないでしょうね。失敗とか、そういうものがあるからこそ、成功という言葉は輝く」
狐面に色々振り回され、疲れながらも彼が心の底から喜んでいることをさくらは嬉しく思っていた。
屋台を巡り、満足したらしい狐面がはあと息を吐く。とても幸せそうに。
「とても気分が良い、晴れ晴れとしている。祭囃子の素晴らしさが今日、初めて分かった。あの音色を聞いて心が弾んだことなんて、今まで無かったのに。祭囃子を聞くと、気分がどんどん高鳴る、遊んでも遊んでもまだ遊び足りない、もっと騒ぎたい、もっと遊びたい……そんな気持ちになる。あれを聞いて、鬱屈した気分になっていた自分がかつていたことが不思議に思えてきたよ」
「もっと遊ぶ? 何かまた食べる?」
「……いいや。……おいら、外へ出たい。おいらはこの世界の本当の姿を見ることが出来た。もう充分だ。だからおいら今度はこの郷の外にある世界を見たい。この目に焼きつけたい」
「分かったわ。……おじいさん」
「そうですね。もうそろそろいい時間ですし……汽車へ戻りましょう」
頷いた老紳士、そして顔についている狐面と共にさくらは元来た道を戻っていく。途中すれ違ったお面達は変わらず死んでいるような顔をさくら――いや、さくらについている狐面へ向ける。
「さようなら」
「さようなら」
「さようなら」
「さようなら」
暗く重いものを含んだ声で、彼等はこれからこの郷を出る狐面に別れを告げ。狐面もやや涙声になりながら、彼等に挨拶を返した。その声には、この郷には二度と帰らないという彼の意思と、今までつまらないものだと思っていた世界への未練が混ざっていた。
石の道と石段との境界線がやがて三人の目に飛び込む。それを下り、鳥居を抜ければもうそこは面の郷ではなくなる。
郷との別れを前に、ごくりと狐面が唾を飲み込むような音を出した。
「この先に、おいらの知らない世界が、景色が広がっている。おいらはそこへ行くことが出来る。一生行けないって思っていたのに。もう殆ど諦めていたのに」
「そうね。……これから貴方は、色々な世界を見ることが出来る。そうすればきっとこの郷のことがもっと分かるようになるかも。今はまだ見えていないものが、見えてくるようになるかもしれない。比較するものが出来れば、この郷とは違う場所を沢山見れば……そしたら貴方はこの故郷のことが今よりずっと好きになれるかもしれない。それもまた、素晴らしいことだと思うわ」
「かえって嫌いになっちゃうかもよ?」
「それを言ったらお終いじゃない、もう」
苦笑い、それから声をあげて笑うさくら。それに続くように笑う狐面。
共に同じものを食べ、共に遊ぶ内近づいた二人の心。沢山笑った後、さくらは石段を静かに指差した。
「……行きましょう?」
狐面は深呼吸を二三回してから「うん」と一言。さくらは頷き、石段を下りていく。
眼下に広がる世界。果てなく広がる黒、緑、青。無機質で面白みの無い、ただ高さだけがある建物などは無い。世界を満たすのは、雄大な自然。その中に佇む線路、それを挟む雪洞の灯りの美しいこと。緑の中に点々と散らばる光は先程赤い雨をその身に吸収していた金魚鉢に似た生き物の内臓、その他の生き物達が放つ命の灯火。
赤、赤、赤、赤の世界。汽車の中から眺めていた時とは比べ物にならない位壮大で、美麗な風景にさくらは息を呑んだ。それは狐面も同じのようだった。
目の前の景色、そして石段を下りたということに感動している彼は言葉にならない言葉を漏らし、それから大声で叫んだ。心震わせる声にじんじんと胸が痺れた。
「ああ、何て素晴らしい! 世界は、世界はこんなにも広かったんだね。果てが見えない位、果てなんて無いと思える位だ。ああ、本当……あまりにすごくて、言葉にならない」
と言っていたが、石段を下りている間彼はずっと喋り続けていた。あれはなんだろう、これはなんだろう、あれはとても綺麗だ、外の世界にはこういうものがあると聞いたけれど本当だろうか……などと。
「聞いた話、読んだ話が本当かどうか……これから……自分の目で確かめることが出来るんだね」
「そうよ、色々確かめられるの」
「あの鳥居を抜ければ……おいらは自由だ。どこまでもおいら、きっと一人でも行ける……あんたとは途中でお別れして……食べ物とかは食べられなくなるし、遊ぶことも出来るけれど……いずれ旅を続けるうち、また波長が合う人が見つかるかもしれない。そうしたら、沢山楽しむんだ」
「そうね。ほら、後少しで鳥居を抜けるわ。外の世界への一歩を踏み出せるのよ」
狐面が嬉しげな声をあげる。本当に嬉しそうな、幸せそうな声だった。
そしてとうとう、石段の終わりの先にあった鳥居を三人で仲良くくぐった。
ちりん、という寂しげな音が聞こえる。郷の者がまた一人いなくなることを悲しんだのかもしれない。
「ああ、嬉しすぎて頭がぼうっとしてきたよ」
「ぼうっとしちゃったら、折角の景色が頭に入らないわよ。しっかりして」
「そうだね……あ、あれが汽車かい! わあ、すごいな、すごいなあ……黒くて、つやつやしていて、とても綺麗だ。どこかに住んでいるお姫様の髪もこんな色をしているのだろうか。ただ黒いだけじゃない、緑や赤、黄色い光が混ざっている。こういうの、烏の濡れ羽色って言うんだよね。ねえ、烏の羽って本当にこんな色をしているの? ああ、そういうことを今から確かめに行くんだよね。いやそれにしても大きいなあ。ああ、とてもひんやりしている。夜空の温度を吸い込んでこんなにも冷たくなったんだね」
天満月に乗り込み、汽車が出発するのを待つ。狐面は汽車の中でも喋り通し喋っている。さくらはアカリモドキのパイが残っていれば彼に食べさせてあげたのにと少し後悔。
狐面に外の景色を見せてやろうと窓の外にずっと顔を向ける。ずっと喋っていた彼だったが、流石に少し疲れたのか少しずつ口数が少なくなっていった。
「……綺麗だね、世界は本当に綺麗だね。綺麗で、広くて……それを知ることが出来た、おいら……幸せだよ」
「うん。声を聞けば分かる……本当に幸せなのね」
「おいら、どこまでも行こう。どこまでも、どこまでも」
「うん。私も貴方がどこまでも行けることを、祈っているわ」
「……ありがとう」
心からの感謝の言葉。それを聞いたさくらはふふ、と微笑みどういたしまして、と言った。
ぽとり。
何かがさくらの膝の上に落ちた。何だろうと思ってみてみれば、それは――狐面だった。
(何かの拍子に落ちてしまったのかしら)
さくらはその狐面をとり、顔につける。しかしお面は顔につかず……またぽとりと落ちた。何回やっても、落ちる。ぽとりと……ひらりと。咲き乱れ、あっという間に散っていく桜の花びらのように。
俄かにざわつくさくらの胸。
「ねえ、どうしたの? ねえ、ねえ……」
しかし先程まで沢山喋っていたはずの狐面は何も言わない。もう、何も言わなかった。
「疲れたの? 眠っているの……どうし」
最後まで、言うことが出来なかった。手に持った狐面が……粉々に砕けたのだ。塵さえ残らない位。もうさくらの手には何も無い。
さくらは目の前に座っている老紳士を見た。彼はとても悲しげな表情を浮かべていた。
「……どうして……何で、どうして」
「お嬢さん。面の郷の住人は……郷の外では生きて行けないのです」
「え?」
衝撃の事実にさくらはただ呆然とした。頭の中が白く、熱く、そして痛くなった。何も言えない彼女の顔を見ながら老紳士が話を続ける。
「郷を出、あの鳥居をくぐるということは自分の命を放棄する行為なのです。郷を出たお面は皆、個人差はありますが……いずれ消えてしまいます」
「そんな、それを、彼は」
「彼等は何となくですが、それを悟っているようです。誰に教えられたわけでもないが、郷を出れば生を失うことを彼等は知っている。けれどそれでも、彼等は望むのです。外の世界へ出ることを」
それを聞き、さくらは面達が狐面に「さようなら」と別れを告げていた時のことを思い出す。二度と郷に帰らないのではなく、二度と郷に帰れない彼との別れを悲しんでいたのだ、彼等は。
「私は、私はなんてことを……私が鳥居をくぐったから……彼は死んでしまった……私は」
「自分を責めないで下さい。彼は幸せだったのです。ほんの短い間だけでも、外の世界を見ることが出来た」
「でも……命と引き換えに外の世界に出ることが、本当に」
「幸せなことなのですか、と言いたいのでしょう。少なくとも彼はそう思っていたはずです。幸福か不幸か決めるのは他人ではありません、自分自身です。彼が幸せだったのなら、それで良かったのです」
汽車が汽笛を鳴らすのと共に、ゆっくりと動き出した。彼が消えてから、ようやく動き出した。
誰よりも外の世界を旅することを夢見ていた彼が、消えてから。
さくらは汽車の中、しばらく顔を両手で覆ったまま動かなかった。
「……彼の代わりに、この世界を見てあげてください」
老紳士にそう言われても、顔をあげることは出来なかった。
彼女の涙は、果たして外の世界に溶けて消えた彼に――届いただろうか?