変態よ、温もりを抱け(2)
きっかけは佳花の「最近変な人がうろついているようだから、気をつけて帰ってね」という言葉。
「さくらやひいちゃんみたいにぼうっとしている人は特に気をつけなくちゃね。……環も気をつけなさいね、変質者に」
「襲われないように気をつけますよ。気をつけたところでどうにかなるものなのか分かりませんが」
「いや、変質者にならないようにって言おうとしたんだけれど」
「何訳の分からないことを言っているんですか!?」
予想外の言葉に動揺した環は声を荒げながら、わざと真面目な顔を作ってみせているほのりを睨みつける。ほのりは矢張り表情を変えないまま彼の言葉に答えた。
「ほら環も一応男だし。それに普段真面目で大人しい子の方がかえって弾けるととんでもないことをしちゃうじゃん?」
「しちゃうじゃんって同意を求められましても。確かに大人しくて心優しい子が豹変して人を傷つけたり、殺したりしてしまうって事件は珍しくありませんが……でも僕は絶対そんな真似はしません! 変質者にもなりませんからご心配なく!」
「そりゃあ良かった、うんうん。環が変質者になったらお姉さん泣いちゃうわ、ええんええん」
何泣いている真似しているんですか気持ち悪いと悪態をつく環。ほのりはそれを聞くと舌をべろっとだし、泣く振りをやめる。
「それにしてもまあ……ちょこちょこと出てくるわよね、変質者。舌で顔を舐めてくる奴とか、突然尻向けて屁を間近でこいて笑いながら逃げる奴とか、もの珍しそうな顔で全身舐めまわすように見て、挙句ぺたぺた触ってくる奴とか、妙に臭い液体のついた指を鼻に突っ込んでくる奴とか、奇声あげながらかんちょうしてくる奴とか。高一の時より出現率が格段に上がった上に変態度とヘンテコ度も高くなった気がする。しかも殆どの奴の服装が何故か着物らしいしさあ」
逆に全裸Inコートっていう定番の格好の変質者が出てきたって話はあまり聞かないよねというほのりの言葉、それを聞いて環と佳花が苦笑い。
「夏休み明けた頃から頻繁に変質者さんの話を聞くようになった気がします。小学校や中学校時代はそこまで聞かなかったような気ますが」
相変わらずのほほんとした口調で、マシュマロの様な笑みを浮かべながら陽菜が話す。変質者の出現率が高くなったことを重くみているか、少しも気にしていないのか表情や声だけでは一切読み取れない。
「ヘンテコな事件はよく起きるわ、一般的なものとは何か違う変態がほいほい出てくるわ……ここら辺の地域って平和だ平和だとよく言われるけれど、実際の所そうでもないわよね」
「ヘンテコな事件が急激に増え始めたのも今年の夏位からですよね」
と言って舞花市や桜町、三つ葉市で起こったヘンテコ事件のことを覚えている限りあげ始め。その勢いは止まらず、出るわ、出るわ。あまりにありすぎたものだから、とうとう何だか怖い気持ち悪いと言いだし、ストップ。
「改めてあげてみると、ものすごい数ね。本当どうなっているのよ」
一度持ちかけたカバンを下ろし、佳花とさくらを除いた三人は変態談義及びこの辺りで起きているヘンテコ事件話に花を咲かせ始めた。佳花はただ困ったように笑っているだけ。一応の所脳内世界から現実世界に戻ってきているさくらはといえば。
(ああ、ごめんなさい皆。そういう事件が多くなっちゃった原因は多分私や紗久羅ちゃんにあるのよ……)
彼女達から視線を逸らし、気まずいとか罪悪感とかそういう感情をべったり貼り付けた顔を、あまり綺麗とは呼べない壁に向ける。
着物姿の変態というのは十中八九『向こう側』の住人達。そして、ヘンテコな事件というのは彼らが起こしたもの。元々こちら側の世界に住み着いている者が起こしたものも多いだろうが、大半は曖昧になった境界を越えてこちら側の世界に迷い込んでしまった者達が起こしているのだろうと以前弥助が話したのをさくらはぼうっと思い出していた。
この辺りは元々世界と世界の間にある境界が酷く曖昧になりやすい。それが夏休み頃を境にますます曖昧になりやすくなってしまった。
それはほぼ間違いなくさくらと紗久羅、一夜、奈都貴等が出雲を通じて向こう側の世界、そしてその世界に住む住人達と深く関わってしまったことに原因がある。向こう側の世界に足を踏み入れ、その空気や匂い、気を身にまとった上に、妖達との間に縁が生まれ……。
(双方の世界に強く関わった私達は異形を引き寄せる。そして私達の存在が元々曖昧になりやすい境界をますます……)
出雲はそうなることが分かっていてわざと紗久羅を鬼灯夜行という祭に連れて行き、一夜を助けて欲しいと懇願したさくらに通しの鬼灯を渡した。そしてことあるごとにさくら達を向こう側の世界に招いたし、さくら達も自らの意思で向こう側の世界を訪れることがあった。
たとえさくら達が向こうの世界へと行くことや、出雲達と深く関わりあうことをやめたとしても、もう手遅れ。身に染みついた向こうの世界の空気、彼等との間にある深い縁が消えることは無い。
その身を清めでもしない限り、永遠にさくら達は異形を引き寄せる装置となるのだ。
(申し訳ないと思っていない訳では無いのよ。元々色々ぐちゃぐちゃな土地を更にぐちゃぐちゃにして、色々な人に間接的に迷惑をかけて……それでも)
向こう側の世界、その世界の住人達と関わることをやめたいとは思わない。
元々ここでは無いどこか、幻想世界、ファンタジー世界というものに憧れていたから――というのもあるが、一番大きな理由は向こう側の世界やその世界の住人の放つ妖しく、恐ろしく、そしてとてつもなく強い魅力にあった。一度その魅力にとり憑かれたものは、逃げることが出来ない。それの無い世界へ戻れなくなる。魅惑的な、麻薬。
(あれから逃れられる人間なんて、そうはいないわ。だから私だけでなく、紗久羅ちゃん達も何だかんだ言いつつ、異界へと幾度も足を運んでいる……)
「サク、何壁と睨めっこしながら頭下げたりため息ついたりしているの?」
組んだ手を口の辺りにやり、心の中で懺悔と言い訳を順繰りにしていたさくらははっとし、声のした方を見る。そこにはほのりがおり、訝しげな表情でさくらの顔をじっと見つめていた。
「え、別に……意味は無いの、意味は」
「でしょうね。ほらサク、そろそろ帰るわよ。ヘンテコな話をずっとしていたら頭がどうかしちゃうからさ」
「そ、そうね。帰りましょう。早く新刊買って――ああ、後おじいちゃんに頼まれていた本も買わないと」
「それじゃあ本屋行きましょう。それじゃあ皆ばいばい」
ほのりが手を振ると、環や陽菜がさようならと挨拶を返す。
今度こそ文芸部員達は部室を出た。さくらはほのりと一緒に歩きながら、また色々考え始める。
(顔を舌で舐める、お尻をこちらに向けて間近でおならをする、臭い液体つきの指を鼻の穴に突っ込む……そういう悪戯をする妖達のことが桜村奇譚集には載っている。きっと言い伝え通り実在していたのね)
さくらはプリントで彼等の情報を見る度、桜村奇譚集のことを思い出し、そして毎回ほのり達文芸部員にその話をした。勿論まともに取り合ってもらったことなど一度も無い。とうとう変質者の変態行為さえ妖怪達の仕業にするようになったのかあんたはと呆れられたり、はいはい分かった分かったと適当に流されたり。だから今回は黙っておいた。
さくらとほのりは最寄の本屋へ行き、ほのりは漫画を買い、さくらは念願の新刊と祖父・秋太郎から頼まれていた本を購入。それから本の中をぐるぐるし、満足気分で外を出た時にはもうすでに外は真っ暗になっていた。砕いた氷を混ぜたような風が、心も体もぽかぽかになっていた二人を容赦なく襲う。
「ああ、寒い。まだ十二月だからこんなものだけれど、この先もっと寒くなるんだろうなあ、ああ、嫌だ嫌だ。コンビニ寄って肉まんでも買おうっと。サクはどうする?」
「私は帰るわ。おじいちゃんの店へ寄って、この本を渡さないと。それに一刻も早く帰って本を読みたいって気持ちもあるし」
「そっか。それじゃあお別れ。ばいばいまた明日」
ほのりに手を振り、さくらは本屋を背にし、風を真正面から受けつつ歩いていく。
普段は歩いて喫茶店『桜~SAKURA~』まで行くが(ここから桜町の外れにある喫茶店までは相当あるものの、歩くことは好きなさくらは平気で歩いていく)今回はバスを使うことにした。バスも店近くには止まらないが、それでも歩くのに比べればずっと早い。
バスに揺られながら、早速本を開く。バスには終点まで乗る予定だから、うっかり乗り過ごしちゃった、なんてことにはならない。
最初からものすごい展開の内容にさくらははらはらどきどき。どきどきしている時にバスが激しく揺れると、ますます激しく心臓が揺れ動き、痛く苦しく、幸せ。
バスのアナウンスが全く耳に入らなくなる位夢中になって読み、結局バスの運転手にぽんぽんと叩かれ『終点ですよ』と言われるまでずっと物語の世界へ入り込んでいた。
外はますます暗くなり、周りにあまり住宅が無い喫茶店までの道は果たし無く暗く。やや頼りない光を放っている街頭と、月の光を辿りながらゆっくり歩いた。本当は歩きながらでも本の続きを読みたかったが、とてもじゃないが小さな文字を拾い集めていく作業など出来ない。家に帰って、夕飯を食べてからじっくり読むのだと心に決め、祖父の営んでいる喫茶店のドアを開ける。
ぴゅう、かららん。優しい灯りと温もりに出迎えられ、ほっと一息、もう一つおまけに、くしゃみ。
「お、さくらじゃないか。いらっしゃい」
客の去ったテーブルを拭いていた弥助がさくらに気がつき、声をかけてきた。
店の中には数名客がおり、談笑しながら飲み食いしている。美味しいコーヒーと料理、温かく優しい空間が自慢のこの店、小さな町の外れにある小さな店であるにも関わらず、連日それなりの数のお客さんが来ているのであった。勿論大きな店、有名な店には遠く及ばない数ではあるが。
「弥助さん、おじいちゃんは」
「ああ秋太郎か? 今ちょっと席を外しているよ。何だ秋太郎になんかようっすか?」
何度見てもその似合わなさに思わず吹きそうになる弥助のウェイター姿。相変わらずこういう格好の合わない人だなあと思いながらさくらはカバンから一冊の本を取り出した。
「おじいちゃんに頼まれた本を今日買ってきたの」
ああ、と弥助は納得した様子。どうやら事前に秋太郎からそのことを聞かされていたらしい。彼は一度その場を去り、すぐ戻ってきた。
「汚れている手で人様の本受け取るわけにはいかないっすから」
洗い、ちゃんとタオルで拭いたらしい手をさくらの持つ本に差し伸べ、優しくそれを受け取った。
「しかしわざわざこんな外が暗くなっている時に来なくても良かったのに。秋太郎、今度の休みに持ってきてくれれば良いと言っていただろう?」
「ええ。けれど一日でも早く届けてあげたくて。この小説が出るのをおじいちゃんとても楽しみにしていたから」
成程なあと弥助が笑う。
「秋太郎も言っていたよ。何となくさくらは今日の内に本を持ってくるような気がするってな。本好き同士、考えることがよく分かっているんだな。それじゃあこれは後であっしから秋太郎へ渡しておくよ。で、今日は何か飲んでいくのか?」
さくらは首を振り、早く帰って買った本を読みたいと言った。それからそのシリーズの内容などについて色々話そうとしたが、弥助に全力で止められた。
今は仕事中だから、長い話に付き合っているわけにはいかない。仕事が休みの時でもお前の長ったらしい本語りは聞きたくない、とそりゃあもう馬鹿正直に言われ、さくらは軽く頬を膨らませ、それから笑う。
「それじゃあ私は帰りますね」
「おう、気をつけて帰れよ」
弥助に見送られ、さくらは結局何も口にすることなく喫茶店を後にする。
出た途端、またあの冷たい風に出迎えられ、思わず寒い! と叫んだ。
用も済み、後は家へ帰るだけとなったさくらの意識は脳内世界へふわふわ飛んでいく。まだ冒頭しか読んでいない新刊のことを、ただひたすら考える。
新しい文章を読める喜び、浮き足立ち、幸福、果て無し。
(やっぱり私、この作家さんの文章好きだわ。物語も私好みなのだけれど……何といっても文章、文章が素敵なのよ! 一文辺りが長くて、修飾語や比喩もとても多くて、でもくどいなあ、リズムが悪いなあって感じが全然しない)
心の中でその作家の文章をベタ褒めしまくった後、帰りのSHRの時同様、帰宅後続きを読む予定の本の内容について色々考える。
ひゅおお。
そんな時、一際激しく冷たい風がさくらを襲った。あまりの冷たさにさくらは我にかえり、肩を震わせながら苦しげな表情を浮かべる。
「ああ、もう本当寒いわ。寒い、寒い!」
寒いと口にすると、余計寒くなる。それは分かっていたが、それでも言わずにはいられない。これからますます寒くなっていくことを考えたら、ますます寒くなり、背筋が凍った。
「寒い、早く家に帰ってぬくぬくしたいなあ」
「……寒いか?」
それは年老いた男の声。さくらの独り言に対する言葉であるらしい。それを背後で聞いたさくらは、まさか自分の嘆きに対して返答する人間がいるとは思っていなかったから大層驚き、その胸をふるわせた。しかし敵意とか悪意とかそういった邪悪なものが一切混じっていない声であったから、すぐ心は落ち着き。
「ええ、とても寒いです。最近急に寒くなってきましたから」
と返してやった。すると背後を歩いているらしい男がにしししという奇妙で不気味な笑い声をたてる。その声がさくらを酷く不安にさせた。
「――やろうか?」
「は、はい?」
何と男が言ったのかさくらは分からず、思わず聞き返す。今度はうししししという、満足気な笑い声をあげた。男の声が痛い位冷たくなった耳を撫で、痛みと気持ち悪さと恐怖でさくらの体はぶるぶる震える。
「温めてやろう、温めてやろう」
背後にいる人物の顔を確かめようとさくらが振り返ろうとしたのと、男がそう言ったのはほぼ同時のこと。
何かが迫ってくる。そう思った頃にはもう手遅れだった。
振り返り損ねたさくらは大きくて重い何かが自分の背に乗っかったのを感じ、小さな悲鳴をあげる。何かが自分に密着している。大きくて、重くて、温かい――何か。
制服越しに伝わる温もりは、無機物のそれではなく、確実に有機物……生物――のものであった。何が起きたのか分からずパニックになったさくらは呻き声に近い悲鳴をあげながら、自分の胸近くに触れている何かをつかんだ。それは細くてしわくちゃの手であった。すっかり冷えている自分の手とは違い、随分温かな手であった。何で人の手がこんな所にとさくらの頭の中はますます白くなる。
「温めてやろう、温めてやろう」
さっきまでやや遠かった男の声が今はとても近い。離して、と言おうとするも呂律が回らず上手く言えない。ずれる眼鏡、乱れる心。
「温かいかの、温かいかの」
先程までと変わらない邪悪さのかけらもない声が耳元で聞こえる。彼が話す度、熱いとさえ思う位温い吐息が耳の穴を通じてさくらの体内に侵入してきた。
その息が入れば入る程、さくらの体内が冷たくなっていく。吐息のかけらが冷気で赤く染まったさくらの頬に当たり、生温かいものがじんわりと広がった。
「もっと温かくしてやろう、もっと温かくしてやろう。ほれ、ほれ」
男は摩擦によって生じる熱によってさくらの体をより温めようとしているらしい。もぞもぞと動く男の体。じいっと動かずただ乗っかられている、それだけでもきついのに。
「やめて、やめて! 離して!」
怖い、嫌だ、気持ち悪い。さくらは懸命に自分にしがみついている男を引き剥がそうとしたが、男の力は恐ろしい程強く、少しも動かすことが出来なかった。声、しわくちゃの手、年老いた者のもつ独特な匂い――どう考えてもおぶさっているのは老爺のはずなのに。その力だけはどう考えても老爺のそれではなかった。
滅茶苦茶に暴れても、手をつねっても(申し訳程度だったが)、もてる限りの力を使っても、その体引き剥がすことは叶わず。
「温かいかの、温かいかの……」
「離して、変態!」
大声で言ったつもりだったが、実際に出たのはえらく掠れた、小さな声。
「まだ温かくならんのか。それならもっと――」
その先男が何と言ったのか、さくらには分からなかった、聞こえなかった。
耳と頬にかかる吐息、男の笑い声、木に巻きつく蔦のような手足、背中にじんじんと伝わる温もり。
その全てに心乱され、狂わされ。体内を駆け巡る色々なものをすっかり出してしまおうと、目から熱い雫をこぼす――こぼそうとしたその時。
「何やっているっすか!」
聞き覚えのある声と共に、さくらは体がふっと軽くなったのを感じた。気持ち悪い温もりが消え失せ、みるみる内に冷たくなっていく。しかし今はその冷たさがとても心地良く、愛おしいものとなっていた。
おそるおそる振り返ってみると、そこには何か大きなものを右手で乱暴につかんでいる弥助が。
「弥助さん、どうして」
「いや、秋太郎が出かける前『もしさくらが本を持ってきたら、この封筒を渡してくれ、中に本代が入っているから』って言っていたのを思い出してな。別に今度来た時に渡せば良いかと最初は思ったんだが――まだ遠くには行っていないだろうし、お金関係のことはさっさと終わらせるに限ると思って。あんたを追いかけてここまで来た……そしたら」
男に襲われているさくらがいた……というわけだ。
さくらは弥助がお金を渡すことを忘れていたことに感謝しつつ、弥助がつかんでいるものに視線を向ける。
そこには予想通り、老爺がおり、先程までのさくら同様手足をじたばたさせていた。
妙な形に歪んでいる大きな頭、弥助以上に垂れ下がっている瞳、青紫色の唇、だらんと垂れている頬、大きな前歯。頭と胴体の大きさの割りに手足は細く小さく、背もあまり高くない。弥助はじたばたし続けている男を持ち上げ、彼の目と自分の目を合わせた。
「おいこの変態じじい、何しやがっているんだ」
「変態とは何だ、わしは変態などではない!」
「変態っていうのは大体そう言うんだよ、このド変態! 嫌がる娘におぶさってはあはあしている奴が変態じゃなかったら何だってんだ、全く!」
弥助は相当怒っているらしく、今まで見たことも無いような恐ろしい形相で男のことを睨んでいた。男はひいと情け無い声をあげ、明らかに大人しくなったものの、自分が変態であることは依然認めようとしない。
(ああこの人が、今日姫野先生の話していた――)
信頼できる者が現れたことで、ようやく落ち着きを取り戻したさくらは合点がいった。先生の話自体は全くといっていい程聞いていなかったが、ほのりから少し話は聞いていた。彼女は、変質者は小柄のおじいさんで突然抱きついてくるらしい――と確かに言っていた。
地面に視線を向けながらぼそぼそと何か言い続けている男を弥助はしばらくの間ずっと睨みつけていたが、突然目をぱちくりさせたかと思うと。
「ん? 何だお前……妖っすか?」
「え!?」
さくらは弥助のその発言に驚き、声をあげる。男ははっとしたように頭を上げ、弥助を見、それからこくりと頷いた。
(ああ、確かに……)
改めて自分を襲った男を見てみると、彼は現代の日本人はまず着ないような衣装に身を包んでいる。
「わしは『ぬくい』じゃ。寒さに凍える人々に温もりを与える者じゃ」
ぬくい。その名前にはさくらも聞き覚えがあった。
「桜村奇譚集に載っていた……ああ、ああ!」
さくらは『ぬくい』についての記憶を引っ張り出し。
その妖は冬、寒い寒いと嘆く人の前に現れ「温めてやろうか」と聞いてくる。
その問いに対し何かしら言葉を返すとぬくいはその人に抱きついてくるのだそうだ。ぬくいの力は強く、人の力では簡単に引き剥がすことは出来ないらしい。
ぬくいは抱きついた相手が「温かい、温かい、もう大丈夫だありがとう」ともう体は温まったこととお礼を述べるまで決して離れないのだとか。
「ああ、確かにぬくいだわ……見た目の特徴も記述通り」
「わしはそこの娘が寒いと言ったから、温めてやったのだ」
「無理矢理な」
「無理矢理じゃない! わしが温めてやろうかと聞いたら、そこの娘ははいと言ったぞ! 彼女はわしに温められることを望んでいたはずだ!」
ぬくいと弥助が一斉にさくらを見る。さくらは慌てて首を振った。
「あれはぬくいさんが何て言っているのか分からなくて……はい? と聞き返しただけです!」
弥助の視線は再びぬくいの方へ。そんなあ、と落胆するぬくいの声は弱弱しい。
「あの……ぬくいさん、私以外の人間達にも……同じこと、しましたか、最近」
「ああ、したぞ。わしはここ数百年、こことは違う世界で暮らしておった。――だが数日前、どうやら境界を飛び越えてしまったらしく、数百年ぶりにこちらの世界へやってきてしまった。行きはよいよい帰れはしない。これからどうしようかと彷徨い歩いていると、寒い、寒いと呟く人間達に度々出くわした。その都度わしは人間を温めてやろうと……だが、誰にも喜ばれず、悲鳴をあげられ、抵抗され」
何でじゃ、何でじゃと嘆くぬくい。私以外の人達はどうやって貴方から解放されたのですかとさくらが問うと、弱弱しい声で「大勢の人が集まってきたことに驚いてわしが自分から離れたり、犬に襲われて慌てて人間から離れて逃げたりした」と答え。自力で逃げることが出来た人間は一人もいないようだ。
「何で皆してわしのことを変態だの何だの言って拒むのじゃ」
「当たり前だろう。普通の人間は拒むっすよ。見知らぬ奴に急におぶさられたら。そんなことされて喜ぶ人間なんてまずいない」
「昔は喜んでくれる者も」
「少数だっただろう、どうせ。殆どの場合悲鳴をあげられるか、さっさとあんたから開放される為に礼の言葉を言ったんじゃないか?」
ぬくいは黙ってしまった。どうやら図星であるらしい。
しかし、本当に喜んでくれた者も、わしのことを歓迎してくれた人間も沢山いたんだとぬくいは語る。ぬくいの温もりは、昔の人間達にとってはありがたいものであったのだろう。
しかし、今は。
「今と昔は違うんだ。今の人間達は向こう側の世界のことを知らない、聞いたって信じやしない。時間の流れと共に、世界は変わったんだ。数百年前ここに住んでいた人間達はあんたのことを知っていただろうが、今ここに住んでいる人間達はあんたのことを知らない。何も知らない人間にやれば、そりゃあ悲鳴をあげられるし、変態扱いもされる。当然のことっすよ。あんたにとっての善行は、人間達にとってはただの変態行為なんすよ」
「うう、そうなのか……」
終いにぬくいはしくしくと泣き出した。明らかに悪戯で、舌で顔を舐めたり、間近でわざと屁をこいたりする妖達とは違い、良かれと思って行動しているぬくい。しかし誰にも喜ばれず、悲鳴をあげられ、拒絶され。それをさくらは少し哀れに思った――が、事情が分かった今でもぬくいにされたことを思い出すと気持ち悪くなった。どれだけ寒くても、温まりたいと思っても、絶対にあんな方法で温められるのだけは嫌だと流石のさくらも思う。
「それで弥助さん、ぬくいさん……どうしましょう?」
「この世界にずっといてもしょうがないし、向こうの世界に帰してやるしかないな。仕方無い、どうせ仕事も後少しで終るから……その後にでも」
すっかり大人しくなったぬくいを下ろしてから、弥助はぽりぽりと頭をかく。
「あっしがこっちとあっちを行き来する時に使っている道具なら――こいつ位は一緒に連れて行ってやれるっすよ。通しの鬼灯とかの場合だと所持している奴しか恩恵を受けることが出来ないが」
その代わり、弥助が所持している道具は小さく、力のあまりに弱い『道』を見ることは出来ないらしい。通しの鬼灯の場合、大抵の『道』は見えるそうだが。
ぬくいは弥助を見、ぽろぽろと涙を流す。
「お願いじゃ、わしをあの世界へと帰してくれ。ここはわしが生きるにはあまりに辛い場所のようじゃ……」
「……そうっすね。ま、仕方無いさ。今やこの世界は人間の世界になっちまっている。あっしらには適さない場所になっているんだ。それじゃあ、行くっすよ。さくら、本当は家まで送っていってやりたいんだが……まだ仕事が残っているから、無理だ。今度こそ気をつけて帰れよ」
弥助はぐすぐす泣いているぬくいの手を幾分優しく引っ張りながら、元来た道を戻っていった。さくらはぬくいの背中を包んでいる黒い闇を見、少し切なくなった。けれどそれでも。
(怖かった、気持ちが悪かった……)
その場に座り込みたくなる気持ちをどうにか抑え、それから家へと帰る。
え、私みたいなのを襲う人なんているんですか? などと暢気なことを言っていた数時間前の自分を心の中で罵りまくりながら。
*
家に帰り、夕飯を食べ。部屋に戻ってまず最初に広げたのはあの新刊――ではなく、晶が配ったプリント。それを読んださくらはため息。
「これをちゃんと読んで、姫野先生の話も聞いていたら。犯人の見当もその時点でついていたのに。そうすれば仮に襲われたとしても、すぐにもう温かくなりました、ありがとうございますと言ったでしょうに。……その時点で見ていなくても。なんであの時――櫛田さん達が部室で変質者さん達の話をしていた時――今回の事件の犯人も妖であるかもしれないと考えなかったのかしら。考えていたら、バスの中でプリントを見ていたかもしれないのに」
ただ……とさくらは思う。
(突然おぶさられた時――果たして冷静にああこれはきっとぬくいさんの仕業だ、お礼などを言えばすぐ解放されるということを考えることが出来たかしら。前もって犯人に見当をつけていたとしても、結局パニック起こして弥助さんが来るまで何も出来ていなかったかも。まあ、なんにしても……ぬくいさんは帰ったから、私と同じような被害に合う人はもう出ないわね)
うんうんと一人頷き、何にせよ良かった良かった、これにて一件落着と暢気なことを言い。
だが、しかし数日後――。
「サク、私昨日変質者に襲われた!」
教室に入ってきたさくらの両肩をむんずとつかみ、泣きそうな顔をしてそう叫んだのはほのりであった。さくらは突然の報告にびっくり仰天。一体何があったのだと聞けば。
「ほら、何日か前プリント配られたでしょう? あれに書いてあった、突然抱きついてくるとかっていう変質者! そいつにいきなりおぶさられて!」
「ええ!?」
今度は普段は出さないような大きな声をあげ、驚く。
ほのりの話を聞く限り、彼女を襲った犯人はぬくいでほぼ間違いなく。彼女は暴れる最中「もう充分温かいです、もう大丈夫です、どうもご親切にありがとうございました!」と叫んだらしい。意図せず彼女はぬくいから解放される為に必要な言葉を言ったようだ。そのおかげで、まあ割と早くぬくいはほのりから離れたようだ。
「もう本当気持ち悪かった! 何が温めてやろうか、よ! ああもうあんな目には二度とあいたくない! くう、サク達に気をつけなさいよとえらそうに言っていたあたしが、あたしだけがよりもよって……恥ずかしい、恥ずかしい、穴があったら入りたいわよこんちくしょう!」
さくらの体を激しく揺らしながら自分の思いを吐露するほのり。その思いを適度にキャッチしつつ、さくらは考えを巡らせる。
ぬくいは帰ったはずなのに、何故その後ほのりがぬくいの被害にあったのか。
再び境界を飛び越えてしまわぬ限り、ぬくいは二度とこちらの世界へ来ないだろうし、万が一再び来てしまったとしてももう人を温めてあげようとは思わないはずだ。ならば、何故。
散々考えた末、一つの結論に辿り着きさくらは「あああ」と情けない声をあげる。
(そっか……そうだ。『ぬくい』さんは一人では無いんだ)
ぬくい、というのはあくまで種族名。『化け狐』が出雲だけでないように『ぬくい』もまた数日前さくらが出会った者だけではないのだ。
恐らくさくらが会った者とはまた別のぬくいが、こちらの世界に迷い込んでいるのだろう。こちらの世界へ来たのが彼の者とほぼ同時期か、彼が弥助と一緒に帰った後かは分からないが。
「全然一件落着じゃなかった……」
「は? 何が一件落着よ?」
「ううん、何でも無い」
うっかり口から零れてしまった言葉をしっかり耳に入れたほのりに尋ねられ、慌ててさくらは首を振る。
それから一人、肩を落とすのだった。