第二十九夜:変態よ、温もりを抱け(1)
『変態よ、温もりを抱け』
「おいお前等、変態が出たぞ」
放課後、SHR。クラス担任姫野晶は開口一番そんなことを言い出した。突然そんなことを言われ、一瞬ぽかんとしていた生徒達だったが少したりとも黙っていることが出来ない彼等はすぐ騒ぎ出す。
「ええ、嫌だ怖い」
「何、露出狂かなんか?」
「それとも卑猥な言葉を吐いて逃げるタイプの奴?」
「またか、何かちょくちょく出てくるよな」
彼等の声に、変質者に対する恐怖心というものは微塵も無い。むしろそういう人物に興味津々の様子で、怖いとか嫌だとか言う声もどこか楽しそうだ。自分が実際被害にあえばそう暢気なことも言っていられないのだろうが。対岸の火事は暢気に見ていられる、自分の家が火事になれば大慌て。
晶が、ここ二日の間に舞花市や桜町に出没したという変質者のことが書かれたプリントを配り始める。さくらは前の人からそれを受け取り、一枚取ると後ろの人へさっと渡す。
それから晶がプリントに書いてあることをざっと読み始める……のだが、さくらはプリントにも目を通さず、晶の話も全く聞かず、あることをひたすら考えていた。
そのあること、というのは今日発売される新刊の小説のこと。さくらのお気に入りのシリーズの最新刊である。一年ぶりの新刊に彼女は胸躍らせていた。
ここ数日はそのことしか考えていなかったし、前日は馬鹿みたいにどきどきしてろくに眠れず。授業にも身が入らず、ただ愛してやまない物語の続きがどんなものであるのかずうっと考えている。一度こうなると、もう誰の話も耳に入ってこない。
(ああ、前回はとても気になるところで終わったのよね。あのまま主人公が殺されてしまう、ということは無いのでしょうけれど……誰かが助けに入るのかしら。一体誰が? あの人かしら、それともあの人? ずっと行方不明だった主人公のお母さんが現れて、とても気になる単語を口にして……今日の新刊で、より詳しいことが語られるのかしら。今までの話を整理しようと一巻から読み返して……そしたらますます楽しみになってしまって。ああ、私今とても幸せ)
同じ本を購入している美吉佳花から新刊が出るという話を聞いてから、ずっとこんな調子だ。
本のことを考え、無上の幸福に浸っていた彼女を現実の世界へ引き戻したのは、頭のてっぺんを襲う痛み。誰かに軽くはたかれたらしい。はっとしたさくらは周囲の風景が先程までと少し変わっていることに気がついた。
少しだけ暗くなった視界。生徒達の頭が見えない。代わりに見えるのは胴体、背中……。まるで大きな森の真ん中で一人座っているかのような。
自分以外の生徒が起立していることに気がついたのは、少し経ってからのこと。そのことに気がついたさくらは小さな悲鳴をあげる。
ああ『また』やってしまった――と。
そんなさくらのことをじとっとした瞳で呆れ気味に見ているのは、隣の席の一夜。頭をはたいたのはどうやら彼であるらしかった。あちこちから聞こえる笑い声、またやっているよという声。最早恒例行事って感じだよねと呟いたのは一体誰だろうか。
「臼井、またぼさっとしていたな」
慌てて立ち上がったさくらと、教卓の後ろで腕を組み怒っているような、呆れているような顔をしている晶の目が合う。さくらは今更頬を俄かに赤く染め、ごめんなさいと小声で謝罪。
「今日出る本のことを考えていました……」
「本が好きなのはいいけれど、ぼうっとしすぎだぞ全く。あんまりぼさっとしていると、変質者共の格好の餌食になっちまうぞ?」
「え、私みたいなのを襲う人なんているんですか?」
驚いた顔をして素でそんなことを言い、それが生徒達の笑いを誘う。微妙にずれた返答に晶は頭を抱えてため息。
「まさか真面目にすっとぼけた言葉を返してくるとは思っていなかった……まあいいや。兎に角気をつけろよ。選り好みする変態もいれば、しない変態もいるんだからな。今回の奴は後者みたいだし……自分は大丈夫という油断は禁物だ」
はい、それじゃあ解散とここで話をしめる。委員長の号令に合わせて全員礼をすると、それぞればらばらに動き始めた。
「全くお前、これで何十回目だよ先生に注意されんの。居眠りでもしていない限り、皆が一斉に立ち上がったら普通気がつくだろう。お前、俺が頭はたくまで気がついていなかっただろう?」
終わるなり、バッグを肩に担いだ一夜に絡まれさくらはうっと唸る。一夜の呆れた風な表情がぐさりと突き刺さった。
「普通は気がつくわ、普通は。けれどあの時の私は本のことを考えていて……そ、その……普通の状態では」
「本のことを考えている状態の方がお前にとっては普通の状態なんじゃねえの?」
その通りである。さくらの場合本のこと、物語のこと、異界のことを一切考えていない時の方が少ない。即答されたさくらはぐうの音も出ない。ため息をついてから一夜が再び口を開く。
「ようするにお前は異常な状態になっていない限り、周囲の変化に気がつけないんだ。普通は気がつくんじゃなくて、普通は気がつかない。全く困ったもんだな。ったく、周りのことが見えない位本のこと考えているってどんだけだよ」
「だって仕方が無いじゃない。ずっと楽しみにしていた本が今日やっと発売するんですもの。カミキリという和風のファンタジーで――」
「それ以上喋るな。もう耳が腐るほどその本の話は聞いたから。ことあるごとにその話をしてきやがって。これ以上聞いたら俺の耳が完全に腐ってしまう」
平均よりやや背の高い自分より十センチ少々高い一夜に迫り、顔を近づけて(他意はない)熱弁しようとするも、彼の手によって阻まれてしまった。がしっと頭をつかまれ、後ろへぐいっと押され、よろけるさくら。ようやく手を離された頃には、男の一夜のそれより手入れの悪い、あちこちぴょんぴょん跳ねている髪の毛がますますぐしゃぐしゃになっていた。
「本のことばかり考えていないで、いい加減現実にも色々目を向けろよな」
「み、御影君みたいなこと言わないでよ!」
「は? 御影? 御影って、生徒会会長の?」
突然さくらの口から出てきた名前に一夜は面食らい、眉をひそめる。
そ、そうよとさくらは頷くがそれ以上は何も言えなかった。彼の姿を頭に浮かべただけで体が萎縮し、言葉が詰まり。彼に抱いている苦手意識は相当なものであった。
「また何であいつの名前が」
「しょ、しょっちゅう私につっかかってきて……色々嫌味とか言われるの」
「ああ、あいつ典型的な真面目堅物人間って感じだもんな。脳内お花畑ちゃんなお前のことが気に食わないんだろう。しかし、御影か……そういえば俺もあいつに時々絡まれるな。主にお前のことで」
えっとさくらはその発言に驚き、目を丸くする。御影君一夜になんて言っているのと恐る恐る聞いてみると、一夜はすらすらと話してみせた。
「何てって……君も大変だな、臼井のお守りをしなくちゃいけないなんて――とか、どうにかならないものなのか彼女は、とか……えらく冷たい目で見ながら同情してきたり、何故か怒り気味に文句言ってきたり」
「何で一夜にそんなこと」
「俺のことをお前の保護者かなんかだと思っているんだろう。どうも俺そう思われているらしいんだよな、御影に限らず、色んな奴等から。小学校や中学校の時もそうだった……何度先生に『臼井さんのことちゃんと見てあげてくださいね』とか『臼井さんのことは井上君に任せる』とか言われたことか。確かに俺は小さい頃から何かと危なっかしいお前の面倒を色々見ていたけれど。家同士のお付き合いが色々あって、その関係で自然と面倒を見る機会が多かったけれど……だが! 俺にお前の面倒を見る義務なんてこれっぽっちも無い! 無いはずなのに! 何故かいつの間にかぼけっとしているお前の保護者にされるし、毎回同じクラスにされるし、お前が何かやると皆俺に言ってくるし……」
以下、愚痴、愚痴、愚痴。さて、相手が要だと何も言えないさくらだったが、一夜が相手なら何だって言える。容赦なく反論できるしつっかかることも出来る。
「そ、その話は何度も聞いたけれど……別に私だって一夜に面倒見てもらいたいなんて少しも思っていないし、面倒見てくれなんて一言も言っていないし。私だって迷惑しているのよ『一夜君が同じ学校で本当に助かるわ、彼にちゃんと面倒見てもらいなさいね』とか『一夜君にあんまり迷惑かけちゃ駄目よ』とか色々言われて。私一夜に面倒見てもらった覚えなんてそもそも一度も無いし、幼馴染に面倒見られなければ生きていけない程ぼうっとしているわけじゃないし!」
「面倒見られた覚えが無い? はん、よく言うよ!」
「無いわよ、一度も無い無い! あるものですか!」
「あるし! 忘れたとは言わせねえぞ、まず、そうだ、幼稚園の時――」
「楽しい楽しい痴話喧嘩中大変申し訳ないけれど」
興奮し、ここが教室であることも忘れ喧嘩という名のじゃれあいをしていた二人を止めた第三者の声。
互いの顔を見ていた目を動かし、声のした方を向けば。そこにはさくらの友人、ほのりが立っていた。両手を腰にやり、じとっとした目で二人のことを見ている。
教室にいたのは勿論二人やほのりだけではなく。まだ教室でくっちゃべっていた生徒達の視線が一斉に一夜とさくらに集まっていた。彼等は一様ににやついていた。二人だけの世界から帰還し、顔を真っ赤にしてお互い後退。
「人がいるのも忘れていちゃつく奴等って本当にいるのね。……ああ、安心して。あたし井上がサクの保護者だなんて微塵も思っていないから。井上はサクの旦那だと思っているから」
「なお悪い!」
「変な冗談やめてよ櫛田さん!」
あっはっはとほのりは豪快に笑うと、さくらの手を引っ張る。
「ほら、さっさと部活行くよ。冬は部活の時間が短いんだから……それじゃあ奥さんはあたしが貰っていくわね」
「だから」
「さあ行くわよ」
さくらは一夜の反論を無視するほのりに引っ張られる形で教室を出、部室へと向かう。
*
「全くあんたも学習能力の無い娘っ子ねえ、本当。好きな本の続きを読めることの喜びっていうのはあたしもよく知っているし、本のことを色々考えることだってまあそれなりにあるけれど……でも周りの声とか様子とか一切分からなくなる位まで考えるってことはないわ、流石に」
「えへへ」
「褒めていないっての」
今度はほのりによって頭をはたかれる。先程の一夜より幾分優しい。
「あんたのことだから本屋に行くまでの間、ううん、家に帰るまでの間ずっとその新刊のこと考えているんでしょうね。本屋まではあたしもついていくけれど、それ以上はついていかないから。本のことばかり考えて交通事故にあったり、電信柱にぶつかったりしないように気をつけなさい。後変質者にも注意。舞花市と桜町に出没しているらしいし、老若男女問わず襲ってくるみたいだし」
「そうなの?」
「あんた本当に少しも姫ちゃんの話聞いていなかったのね」
ため息。プリントにも一切目を通していないと言ったらますます呆れられた。
「何か小柄のおじいさんで、突然抱きついてくるそうよ。ああ嫌だ嫌だ、あたしも気をつけないと」
プリントの文面を思い出したのか、ほのりが肩を抱いてぶるっと震えてみせる。それは確かに怖いわねとさくらは返すが相変わらず新刊のことで頭がいっぱいの為、心の入っていないふわんとした感じの返事に。ほのりは本当しっかりしなさいよね、と文句を言いかけるも今のさくらには何を言っても無駄だと悟ったのか、結局最後まで言わず話を止める。
部室へ行く途中、ぼうっとしていたさくらは幾度も他の生徒とぶつかりそうになっては、ほのりに引っ張られたり小突かれたり。いつも以上に時間をかけ、ようやく部室に辿り着いた頃には、ほのりはすっかりへとへとになっていた。
部室にはもうすでに二人以外の部員が揃っており、ノートや原稿用紙を広げて色々書いていた。古臭く、けれどどこか落ち着く、そんな独特な香りに包まれた部屋。
入り口正面にある小さな窓。その前にある椅子に座っていた佳花が顔をあげ、にこりと微笑んだ。
「こんにちは、臼井さん、櫛田さん」
「こんにちは」
まず先にほのり、それからやや遅れてさくらが頭を軽く下げて挨拶。
三年生である佳花は一ヶ月前にあった文化祭の後部活を引退している。だがすでに進路が決まっている為、今でも毎日のように遊びに来ているのだった。
「臼井さん、今日は例の本の発売日ね」
「はい!」
「読んだらまた感想を言い合いましょうね」
「はい、勿論です! ああ、同じ本を好きな人がすぐ傍にいるのって……素敵!」
そして再び自分だけの世界に。ノートから顔をあげ、その様子を見ていた環は呆れ顔。それから右手をゆっくり挙げて。
「櫛田部長、また臼井先輩が自分だけの世界に行ってしまっています、何とかしてください」
「言われなくても分かっているっての。ほらぼさっとしていないでさっさと座る!」
サクには何だか怖くて任せられないと、自らの意思で部長となったほのりはさくらの頭を今度は割と強めに叩いた後、彼女を椅子に無理矢理座らせた。どん、がん、という痛々しい音が響いたが、無視。
それから皆、それぞれの作業にあたる。といっても具体的にこれをしなければいけない、あれをしなければいけないというのは無い。殆ど彼等は自由であった。好き勝手に、気ままに、その時やりたいと思ったことをする。そうしながら他愛も無い話に花を咲かせるのだ。
変質者の話になったのは、部活動を終え、帰りの仕度をしていた時だった。