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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
出雲の一日
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出雲の一日(7)

 五十年食べ続けてなお飽きず、常に美味しく味わえるいなり寿司を胃の中に収めてからそう時間の経たない内に、夕飯を食べた――しっかり一人前。

 以前さくらに一日に食べたものの名前全てをすらすら挙げていったら、間抜けな叫び声をあげられたことがあった。更に大食い選手権に出たら絶対優勝しますよ――などと言われたが、いまいち意味が分からなかった出雲はただあははと笑って済ませた。

 夕飯を食べた後は外に浮かぶ月をぼうっと眺めながら、橘香京で買った笹餅を食べる。ふんわりと香る笹の匂い。じんわり舌に染み渡る餡の甘味と、餅についた塩味。


「そういえばまだ宝饅頭が一つ残っていたっけ。それも食べるとしよう。抹茶小豆カステラも少し残っていたかな」

 いなり寿司、夕飯、笹餅を食べたばかりの人間が言う言葉ではない。一人ぼそりと呟いた通り、出雲は台所にある菓子を保管している棚に入っていたものを取り出し、もぐもぐ食べた。


 それから部屋の本棚から適当な本を一冊取り出し、ぺらぺらとページを捲り始める。捲るだけでまともに読んではいない。

 退屈そうに頬杖をつき、時々あくびをしながら、何の感情もこもっていない瞳を紙の上に向ける。


「サクは読書が好きらしいけれど……読書のどこが楽しいのだろう? 紙切れに書かれている文字の羅列を目で追うことに私は少しの喜びも感じない。本当に少しも面白くない、全く、面白くない。馬鹿みたいに小さな字をひたすら読むことに喜びを覚えるとか……被虐趣味でもあるんじゃないか、あの娘は」

 確かにそういう趣味のありそうな顔だ、などと好き勝手なことを呟き、再びあくび一つ。

 結局すぐ本を閉じ、椅子から立ち上がる。


 それからしばらくの間、机に突っ伏しながら近くに置いてあるものを意味無く弄ったり、うだうだうにゃうにゃ何か言っていたりしていたが。やがて腰をゆっくりあげ、伸び。


「今日は何もすることが無いねえ。大人しく風呂にでも入ってしまおう。そうだ、今日は鈴と一緒に入ろう」

 そう決め、出雲は鈴の部屋へ足を向けた。彼女はうつ伏せになり、足をぱたぱたさせながらお気に入りの赤い手毬と戯れていた。一緒に風呂に入ろうかと出雲が言ったら、ぱあっと顔を輝かせ、まるで跳ねるようにして起き上がった。

 一緒に入るの久しぶり、と微笑みながら言う彼女に出雲は微笑を返し、ああそういえば久しぶりだねえと優しい声で言う。


 館の一階にある風呂場は広く、木製の浴槽は人二人位なら余裕で入れる位の大きさがある。中を満たす湯を温め続けているのは風呂釜だ。燃料は濃い緑色の石で、一度火をつければ丁度良い火加減を保ったまま燃え続ける代物。勿論(たきぎ)も使えるが、前者の方が圧倒的に楽である。

 鈴と仲良く湯に浸かり、ふう、とかはあ、とかいう声をあげ、暖かな湯の与える癒し、心地良さを堪能。湯船からすうっと出た腕は夜露に濡れた白百合の様。隣にいる鈴のそれはシロツメクサ。

 両手で湯をすくっては、さあ、と元に戻し、そしてまたすくい。そうしながら出雲は何故か複雑な表情を浮かべている。


「風呂通達は、あの石を使って炊くよりも(たきぎ)を使う方が、湯が滑らかになってより肌触りが良くなると言う。彼等はうん倍手間がかかっても、薪で湯を沸かす。あの石は意地でも使わないそうだ……はて、一体何の違いがあるのだろう。そもそもお湯に柔らかいとか固いとか、肌触りが良い悪いというのは存在しているのだろうか。私にはどうにも分からない。……気のせいだと思うんだよねえ。手間ひまをかけるものの方が手間をかけないものより優れているに決まっているっていう感じで」

 本当に、少しも違いが分からないらしい。鈴も出雲と同じようにお湯とすくっては戻し、すくっては戻しを繰り返しながら小さな首をちょこんと愛らしく傾げるのだった。


「分からない……触っても、全然。でも、お米を炊いたり……お味噌汁を作ったりする時は……石より、薪を使った方が美味しく出来ている気がする。お米はふっくら、お味噌汁は滑らかで味に深みが……出る」

 お風呂には何のこだわりも無い鈴であったが(強いていうなら、熱いお湯は嫌いというもの位)、料理には色々なこだわりをもっている。


「鈴は料理を作る時は必ず薪を使うものね。火吹き竹を使って、その小さくて可愛らしい頬をぷうぷう膨らませながら吹いて。私には無理だよ、あんな疲れる上に面倒そうな作業は。……しかし私には矢張り分からない。石と薪、それぞれの材料を利用して作ったご飯を食べ比べても違いが分からないだろう。けれど、鈴が言うなら……きっと薪を使って作ったご飯やお味噌汁の方が美味しいのだろうね。風呂通の妖共の言葉は信じないが、鈴の言葉は信じるよ」

 微笑みながら頭を撫でてやる。鈴の嬉しそうな、くすぐったそうな声が小さく聞こえた。濡れて銀色にぎらぎら輝く黒髪を見て、出雲はそういえば鈴の本来の姿を久しく見ていないなとふと思った。彼女は自分の本来の姿をあまり好んではいない。猫の姿に戻ると、昔のことを思い出すのか彼女は出雲と二人きりの時でさえ、あまり元の姿へは戻らない。


「……そういえば最近、銭湯、行っていないね」

 こちら側の世界にも、銭湯はある。銭湯といっても、殆どの場所は銭――金をとらないが。


「ああそういえば確かに。まあ、元々あまり行かないけれどね私は。好きじゃないんだよねえ、大人数と一緒に一つの湯船に浸かるのって。裸と裸の付き合いとか……気持ち悪い。辺りを見回せば見ず知らずの、むさ苦しくて美しさのかけらも無い野郎共のすっ裸、室内を満たすのは湯気、熱気、体臭、うるさい声……ああ、嫌だ嫌だ。時々気まぐれで足を運ぶことがあるけれど、結局行かなければ良かったと思うんだよね。……混浴銭湯なんていうのも所によってはあるけれど、あれもねえ。結局の所、一緒に入るのが男でも女でも、大差は無い」

 風呂は基本一人でのんびり入るのが一番、それが出雲の考え。

 幾度か銭湯へ足を運んだ時のことを思い出し、うげえと苦い顔をしている出雲を見ながら、小さく鈴が頷く。彼女も同意見であるらしかった。


「……私も、沢山の人と入るの、嫌い。一人が好き。けれど、出雲と一緒にお風呂入るのは、好きだよ。……ねえ出雲、そういえばまだ体」


「ああ、そういえば洗っていなかったっけ。すっかり忘れていた、いけないいけない。それじゃあ久しぶりに、背中を流しっこしようか」

 柔らかな笑み、優しく温かな声。彼は今、子供思いの父親となっている。彼女にしては元気な声で、鈴は「うん」と一言、こくりと頷き。出雲がこれ程までに優しい表情を浮かべ、温もりのある声を出すことが出来るのを知っているのは、鈴位のものだ。


 浴槽から出て、背中を流し合う。まずは出雲が鈴の背中を。それが終わったら、交代。


「出雲……紗久羅達と紅都京、行くんでしょう」


「ああ、そのつもりだよ」


「……私も一緒に行っていい?」

 不安そうな鈴の声。出雲は後ろを振り向き、心から嬉しそうに笑った。


「勿論さ! 私が鈴を置いていくわけないだろう? 大丈夫、紗久羅達は馬鹿みたいに優しいから、鈴をいじめたりなんかしないさ。もしいじめるようなことがあったら、例え彼女達でも許さない。二度とそんなことが出来ないようにしてやるよ」

 本心でそう言っていることは、瞳がいつもより多く氷を含んでいることから容易に察することが出来る。鈴は安心したように胸を撫で下ろす。


「人間は嫌い……ただ一人だけ、除いて。人間と一緒に行動するのは、嫌。けれど出雲がいるなら、いい……」


「鈴は本当、人間が嫌いだね。無理もないけれど」


「……けれど、きっと、きっと私より」

 出雲の言葉からやや間を置いて、手を止め鈴が口を開く。しかし出雲にどうしたんだい、という少しの冷たさも邪気も無い声で言われ、穏やかな笑みを浮かべられた彼女は続きを言わず、静かにかぶりをふった。


「ううん、なんでも、無い。……ねえ出雲、宿に泊まる時は……出雲と一緒の部屋がいい」


「分かったよ。私も鈴と一緒がいいな」

 そう言った後、一人何故か笑い出す。


「出来れば紗久羅達も一緒の方がいいなあ。紗久羅達と一緒に寝たい。後、紗久羅の寝顔が見たい。彼女がうんと小さい時とか、鬼灯夜行の時とかに見たことはあるけれど。普段は男の子っぽい子だけれど、寝顔はとても可愛らしいんだ。あ、普段も勿論可愛いけれどね。より女の子っぽい感じになるというか、なんというか。寝ている紗久羅の鼻をつまんでやりたいなあ、後、サクのも。色々悪戯したい、ばれないように悪戯したい」

 月光を浴びる、雨に濡れた藤の花の髪、夜空を映す白百合の肌、細い筆でさらさらと描いたような線を持つ体、柊の実の瞳、赤く濡れた唇。

 妖しく美しい、その姿。だが中身は残念、むくれる鈴には目もくれず、その触れれば心も命も奪われてしまいそうな唇から変態発言を次から次へと発するのだった。時間が経つごとに上昇していく変態度、もとい、エロ度。

 心がこもっているのか、全くこもっていないんだか分からない声。意識的につくったものなのか、自然にでたものなのか分からない表情。


「……出雲の、馬鹿……」

 すっかり存在を忘れ去られてしまった鈴は、腹立たしそうに呟いた。


「馬鹿、馬鹿、もう知らない……」

 などと言いつつ、きっちり最後まで彼の背中を丁寧に洗い、そして流してやる。そしてそれからすぐ機嫌を戻し、出雲と楽しく談笑するのだった。

 その会話はほのぼのとした、まるで親子がするようなもの。……時々物騒な単語が混じりはしたが。


 二人にしては長い時間風呂にいた。そろそろ出ようと言った鈴の頬は桜色。

 そうだね、もう十分入ったものねと出雲は微笑み、湯気でいっぱいの浴室から二人仲良く出た。ふう、と息を吐きながら着替え始める。


「火……後で消すね」


「ああ、ありがとう。ふう……気持ちよかった。矢張り寒い時は温かいお湯に浸かるに限るね。しかも今日はいつもより長く入っていたからね。より体が温まったよ。確か冷えた紅玉(こうぎょく)(すい)が台所にあったっけ。あれを飲んだらきっとさっぱりするだろう。……その後、私は桜町をふらふらしてくるよ」

 風呂に入った後、こちらの世界や向こうの世界をふらふら散歩することがよくある。あまり長い時間歩くのは疲れるから嫌いだが、少しの間気ままに歩くことは決して嫌いではなかったのだ。

 鈴も誘ったが、私は良いとあっさり断られてしまった。彼女は歩くこと自体は好きなようなのだが。


 台所にある、冷蔵庫に近い機能を持つ木の箱から、赤い液体の入った瓶を二人取り出す。冷気で冷やされたその瓶の冷たさが、火照っている体にじいんと染み渡った。紅玉――ルビーを溶かして作られたかのようなそれは、ある果実を絞ったもの。絞った時の色はオレンジ色なのだが、別の果実の汁と混ぜ合わせると紅色になるのだ。美味しい、美味しい、果実ジュース。


「うん、よく冷えているね。さてさて風呂上りの一杯。まずは腰に手を当てて」


「顔を天井に向けて」


「瓶の口と、私達の口を合わせて」


「一気に」


「飲む!」

 響き渡る、ごくごくごくという心地良い音。あれよあれよという間に消えていく瓶の中の液体。しつこさの無い甘味、爽やかな酸味。味は林檎と蜜柑を合わせたような感じだ。口の中さっぱり、ふわっと飛ぶ熱、すっきりする頭。

 紅玉水を飲み干した後、出雲には珍しくかはあっというお世辞にも品が良いとは言えない声をあげた。


「風呂上り、冷たいものを一気に飲み干すのって最高だよね。腰に手をつけて飲むとより一層美味しくいただけるような気がする」


「私も、そう思う」


 瓶を洗うのは鈴に任せ、出雲は通しの鬼灯片手に満月館を出る。冷たい風を受け、軽く身震い。


「大分寒くなったなあ。おお、寒い寒い」

 そう言いつつ、満月館に戻ることはせずそのまま通しの鬼灯を握ることで見えるようになった『道』を通り、向こう側の世界へと出る。

 藍色の空に混じって赤黒くなった鳥居、十二月になっても変わらず咲いている桜、青白い灯篭の灯りに包まれ、薄紫。人からしてみれば不安になる位美しく恐ろしい風景、しかし妖である出雲からしてみればなんてことは無い。何も感じなどしない。


 虫の声一つ聞こえない冬の夜。闇夜の中横たわる桜山を遠ざかっていく。人工的な灯りはこの辺りには殆ど無い。前も後ろも右も左も、闇色だ。それでも出雲は迷うことなく足を前へ進める。

 少しずつ眠りにつこうかという町中。外を歩く人はもうあまり多くは無い。


「風が冷たい。……けれど運動しているお陰かな、体はまだぽかぽかしたままだ」

 面倒だと髪と瞳の色はそのままにしてある。気配もこれといって消していない。どうせ人など殆ど通らないし、仮に姿を見られたとしてもなんら問題は無い。大抵の人間は出雲のことをすぐに忘れる。彼の存在は人の記憶に残りにくい。あまりに異質すぎて、脳が彼の存在を認識することを拒絶するらしい……が結局の所どうしてそうなるのかは出雲自身にも分からない。


「……髪だけが、まるで氷みたいだ。ちゃんと乾かしてから出なかったから」

 思った以上に冷たくなっていた髪に触れ、やや顔をしかめつつ、何となく行きたいと思った方へどんどん進んでいった。

 家から漏れるのは温かな灯りと、談笑。暗く冷たい外の世界と違い、家の中はどこも暖かく、また明るいらしい。


「ああいう光……この手で消してやりたくなる。脆いものを壊すのも好きだけれど、ああいうものを滅茶苦茶にするのも好きだ。あちらの光も、あちらにある光も、皆、皆、消してやりたい」

 濡れた髪よりなお冷たい声。暖かな光に満ちた家を白い指で一つ一つ指していった。指した家々を満たす光が一瞬揺らいだ気がして、出雲は愉快そうに笑う。


 小さな声でくつくつ笑っていた出雲は、ふと目を向けた電信柱の辺りの空間がぐにゃりと揺らぐのを見た。


(境界が揺らいだ……)

 こちらと向こうの世界を分ける境界。時の流れと共にはっきりとしていったもの。その一部分が、一瞬だけ曖昧になった。

 その境界が曖昧になった場所から、誰かが出てきた。月の光と、家から漏れている光がその人物を照らす。


(丁度境界が曖昧になっていた所に足を踏み入れたのか)

 ぱっと見、電信柱の中から出てきたその者は、明らかに人の姿をしていない。

 二メートル超はある巨体、ぎらぎらと嫌な輝きを見せる明らかにぬめり気のある肌は黄土色。つるつるの頭から伸びる、所々が欠けている二本の角。人の顔らしきものがついた両肩、筋骨隆々の身、上は何も着ておらず、下に黒っぽい腰蓑(みの)をはいているのみ。どこからどう見ても、男である。


「ここは、どこだ」

 逆さにしたかまぼこの様な形をした瞳は、白目は大きいが黒目は小さい。その気味の悪い目をぎょろぎょろ動かし、男は辺りを見回す。まだ自分が世界を飛び越えたことに気がついていないようだ。右手に握っている黒い金棒らしきものを、振り子のようにぶらぶら揺らし、首を傾げる。


 双方の世界を行き来する方法。一番確実なのは『道』を通ること。道は特別な方法を使わない限り目に見えないだけで、一定の場所に常に存在している(閉ざされてしまわない限りは)。


 もう一つは、双方の世界の間にある境界を飛び越える、というもの。

 普段ははっきりしている境界の一部が、時々曖昧になることがある。そうなると二つの世界の区別がつかなくなる。その場所に足をうっかり踏み入れてしまうと、そのまま世界を飛び越えてしまう場合があるのだ。桜町及び周辺地域は特に境界が曖昧になりやすい。境界は突然曖昧になるし、力の弱い者の場合境界が揺らぎ、曖昧になったことに気がつけない。だから大抵の者は急に変わった辺りの風景を見て、一体何が起きたのかと混乱するのだった。


 この境界が曖昧になる、という現象を利用すれば特別なことをしなくてももう一方の世界に行ける……のだが、桜町周辺は例外として――境界が曖昧になる、ということは滅多に無い。ある程度曖昧になりやすくすることは出来るが、そうしたからといって確実に境界が曖昧になる訳では無いし、なったとしても大抵一瞬だし、ほんの一部分だけだし、どこが曖昧になるのか事前予測することはほぼ不可能だし――という感じで。双方の世界を行き来する方法としては不確実にも程があるものだった。


(行きはよいよい、帰れはしない)

 未だ困惑中らしい男の姿を静かに見つめながら、そんなことを思う。

 そう。『道』を使えば一方の世界へ行くことも、自分の世界に戻ることも簡単で、しかも確実に行ける。だが『道』を見る術を持たない者が曖昧になった境界を飛び越えてもう一方の世界へ行ってしまった場合は……。再びどこかの境界が曖昧になるのを待つより他無い。

 境界を飛び越え、向こうの世界に迷いこんでしまった人間も数多くいる。突然に、忽然と姿を消す――すなわち、神隠し。


「俺、もしかして、人間の世界に来た?」

 ようやく男は自分の置かれた状況を飲み込んだらしい。震える男の体、震える声。そして。

 男は高笑いをあげた。人の世に足を踏み入れたことが、余程嬉しいと見える。

 品性の欠片も無い、醜くただうるさいだけの声。


「そうか、人間の世界に。……人間の肉が久しぶりに喰える! 奴等を血祭りにあげることも出来る! 人間の泣き叫ぶ声を、また、聞くことが出来る! やった、やったぞ!」

 喜びのあまり、男は金棒をぶんぶん振り回した。


「人間、殺す、殺す、人間、喰う、裂く、殴る、殺す、殺す! まずはここに住んでいる人間達からだ!」

 笑い、叫び、それから吠えた。近くに住んでいる者達は酔っ払いが騒いでいるなあとしか思っていないらしく、外に出て様子を見るということはしなかった。男の滑舌がかなり悪かったから、彼がいかに物騒な単語を口にしているのか……ということも理解していないのだろう。


 出雲は何日も放置した生ゴミでも見るかのような目で、男を見ている。

 最初出雲の存在に全く気がついていなかった男だったが、自分の体に突き刺さり続けている冷たい視線にやがて気がつき、その視線を放っている出雲の方を見た。


「何だ、お前? ん……お前、俺らの仲間か?」


「仲間? はん、お前の様な汚らしい者と私が? 冗談は休み休み言っておくれよ」

 男の恐ろしい形相に少しも怯むことなく、出雲は淡々とそんなことを言い放ってみせた。それを聞いた男の肌の色が俄かに赤くなる。


「俺様のことを馬鹿にするのか!?」


「汚い者に汚いと言って何が悪い。ああ、折角風呂に入って身も心もすっきりさせたのに……お前のその、吐しゃぶつ固めて出来たような体を見たら……目と心と、体の中が汚くなってしまった。ああ、気持ちが悪い。全く、どうしてくれるんだい」

 火に大量の油を注ぐのが、出雲は大の得意であった。案の定男は吠え、滅茶苦茶に叫んだ。元々酷い滑舌が更に酷くなり、もう何を叫んでいるのか分からない状態だ。


「殺す、殺す、人間より先にお前を殺す! 血だらけにして、ぐちゃぐちゃにして、喰ってやる!」

 金棒を振り上げながら、男が出雲めがけて突進。見た目によらず足は速い。

 あっという間に出雲の目前までやってくると、男は太く大きな金棒を一気に振り下ろす。しゅん、という風を切る音がした。


 しかし、その金棒が出雲をとらえることも、コンクリートの地面に直撃することも、決してなかった。

 大きな口を開け、鋭い刃を見せていた男――の胸に、子供一人通れそうな位の大きさの穴が、ぽっかりあいていた。

 男は何が起きたのか分からず、固まる。それから恐る恐る視線を自分の胸に移し、それから、小さな呻き声をあげる。大きな声は出ない。もう、永遠に出ない。


 いかにも頑丈そうな金棒にぴしぴし、というひびが入り……そして一気に砕け、地面へぼろぼろ落ちていく。それが、今まで多くの命を奪い、そしてそれらを浴びただろう金棒の末路。

 男の体から飛び散った赤い液体をまともに浴びた出雲は表情一つ変えず、その場に立っている。


 出雲の放った光に一瞬で命を奪われた男が、どさりと倒れる。そして、その体は一瞬で粉々に砕けて灰になり――そしてその灰もこの世界からあっという間に消えてなくなった。出雲のもつ魔を滅する力が、男の全てを無に帰した。

 先程まで男のいた所を、出雲は冷ややかな瞳で見つめている。


「ふん……私を殺そうなんて、一億年は早いよ、雑魚め。それにねえ、この町に住んでいる者達をどうこうしていいのは、私だけなんだ。ここに住んでいる人達は皆、皆、私のものなんだ。私がそう言ったら、そうなんだよ。お前なんかにやるものか。……ああ、いけないいけない。もうあいつ消えちゃったんだよねえ……言ってももう聞こえるわけが無いか、あっはっは」

 最後だけ、妙にすっとぼけた声で。それから男の血で汚れた体を見やり、うげえと顔をしかめる。


「ああ、折角風呂に入ったというのに……全く、忌々しい。はあ、帰るとしようか。それでまた風呂に入らなくては」


 散歩はすぐに終わった。出雲はすぐ満月館へ戻り、何で人間の世界へ散歩に行って血だらけになっているのかと不思議そうな顔をしている鈴に何でもないよと笑いかけてから風呂に入りなおした。

 汚い者から出た汚い血を、すっかり取り除いてしまおうと、念入りに体を洗う。


 時間をかけて体を綺麗にし、湯船にゆったり浸かって。身も心もすっきりしたところで風呂から出た。


 そして、あの男の妖のこと、彼を一瞬で殺したことも綺麗さっぱり忘れたのだった。

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