出雲の一日(6)
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向こう側の世界へ行くには、通しの鬼灯を使い、丁度満月館の前にある『道』を通るのが一番手っ取り早い方法だった。
『道』というのは、双方の世界を繋ぐ道のこと。こちらにも向こうにも属さない空間に存在しているもので、この道を通るには、まずそれを目で認識する必要がある。見えない、認識出来ない道を通ることは出来ないのだ。
古くはこの道を見ることもそう難しいことではなく、ある程度の素質があればごく普通の人間にだって見ることが出来ていた。しかし時の流れと共に二つの世界の関係が希薄になっていったことで、道は段々見えにくくなり、そしてあまり大きくない道は次々と閉ざされていき。今は通しの鬼灯等の道具を用いるか、儀式を行うかなどしない限り道を見、認識することは出来なくなっていった――基本的には。世の中何事も例外というものがある。特に何をしたわけでもないのに、道が見えてしまうことも……ある。
「今日は紗久羅、店番をしているかな。しているといいなあ」
通しの鬼灯を握りしめたまま、出雲は道――桜と灯篭、鳥居に囲まれた石段――を下りていく。道の途中で鬼灯を離すことは許されない。道の始点、或いは終点の目印となる鳥居を抜ける前に通しの鬼灯から手を離してしまうと、道が消えてしまう。かといって元の世界に戻るわけでもなく――どの世界にも属さない場所に放り出されることになるのだ。そうなると、余程運が良く無い限りは永遠にその世界に閉じ込められることになってしまう。
ほんのり暖かい通しの鬼灯を握っている右手の平がじんわりと汗ばむ。暖かくて、温い、汗。まるで血みたいだと出雲はぼうっとそんなことを考えていた。
石段の終わり。その奥にある、鳥居。その鳥居をくぐり抜けると、出雲は手に持っていた通しの鬼灯を財布等の入っている巾着にしまう。
ここはもう向こう側の世界。私達人間にとっては『こちら側』の世界。
そこから出雲は桜町の中心近くにある桜町商店街を目指した。こちらとあちらを繋ぐ道のある桜山近くはとても殺風景だが、中心に近づくにつれ住宅や人が少しずつ増えていく。
桜山から商店街まではやや距離がある。といっても充分歩いて行ける範囲内だし、往復することは殆ど日課になっているのでさほど苦にならない。特定の人間以外と絡むのは面倒だから、基本的には気配を消しつつ移動している。透明人間になるわけではないから、彼の姿を目で見ることは出来る。しかしその目で見た情報が頭までいかない。だから結局『見ていない、見えていない』のと同じ状態になるのだ。ただ、何となくそこに誰かが『いる』というのは分かるようで、皆出雲にぶつからないよう無意識に体を動かす。
今日はどんな風に紗久羅と遊ぼうか、温泉旅行のことも話さないとな――とか色々考えている内に、桜町商店街へと辿り着いた。
「全く、どこもかしこもぼろぼろだ。たかだか数十年しか経っていないはずなのに……本当弱いなあ、人間も、人間の作るものも。すぐ老いて、古くなって、死んで、壊れて。全く、何をどうすればそんな軟弱な存在になれるのか不思議で仕方が無い」
誰の耳にも届かない、独り言。最早高齢の人しか利用しないだろう洋服店、野菜と蓄積された時間の匂いでいっぱいの八百屋、今にも音を立てて崩れ落ちそうなお菓子屋……。それらと、その店の主の顔を見て、ため息。
「たった数十年で、皆随分老いたものだ。……ここを初めて訪れた時、菊野も他の人達も若かったな……菊野はこの町一番の美人といっても差し支えない位綺麗だったなあ……今じゃ見る影もないけれどね。他の人達は……どんな顔だったかな、覚えていないや。今よりずっと若かったことは確かだけれど。それに、この商店街は随分と寂しくなった。昔はもっと活気があったのに……『しゃったあ』とやらが下がりっぱなしのところも多いし、行き来している人間の数もかなり減ったし。ここもいつか消えるんだろうねえ……あの弁当屋も、きっと」
全くこの世界は脆くて弱いね……と呟いた頃、目的地の前まで辿り着いた。
弁当屋『やました』だ。やました、という名前はこの店の主・菊野の名字からとられている。手作りにこだわった弁当と惣菜を扱っている店で、割合人気である。
『時間』がべったり染みついている、ややくもっているショーケース。その奥に座っているのは一人の少女。その姿を見た途端、出雲のテンションが俄然あがる。出雲は気配を消すのをやめ、そして少女の名前を弾んだ声で呼んでやる。
「げえ……出雲」
雑誌のページに落としていた視線をあげた少女。への字になった眉、じとっとした瞳、たらこ型に開けた口。トレードマークであるポニーテールが元気なさそうに揺れ。菊野の孫、紗久羅だ。
その素晴らし過ぎる反応に出雲はときめき、ああもういいね最高だよその嫌そうな顔と心の中でガッツポーズ。好きな子程いじめたい彼にとって、彼女の顔はご馳走であった。
「やあ、紗久羅。会いたかったよ」
「あたしは会いたくなかったよ」
割と心の底からそう思っている感じの声。出雲は肩を揺らし、変化したことで黒くなった髪を揺らし、嫌らしい笑い声をたてる。
「またまた照れちゃって。ああもうそういうところ、好きだなあ。可愛い、本当、可愛い。舐めまわしたくなるほど可愛い」
「黙れこの変態くそ狐!」
顔を真っ赤にして立ち上がった紗久羅は手に持っていた雑誌を勢いよく投げる。その雑誌は変態くそ狐の顔面を直撃。ぱさりと地面に落ちる雑誌。しかし出雲は軽く顔をさするだけ。元気すぎるほど元気な紗久羅が出雲は大好きだったのだ。ちなみにやた吉、やた郎が彼に同じことをすると……もれなく出雲に命を奪われる。
「こら、紗久羅! あんた客相手に何やっているんだい!」
店の奥にある調理場で老婆とはとても思えない位てきぱきと動いていた菊野が紗久羅を怒鳴りつける。紗久羅の勝気で短気な性格は祖母譲り。
紗久羅は出雲を指差し「だって!」と叫ぶ。しかしそんな彼女以上に大きな声がすぐ奥から返ってきた。
「だっても何もないよ! いちいち変態の変態発言に反応するんじゃないよ、全く馬鹿だねえ!」
「菊野まで、酷いなあ。私のどこが変態だというんだ。男の子が女の子にいやらしいことをしたいと思うのは至極当然のことじゃないか。今度かず坊に聞いてみなよ、サク辺りの体をぺろぺろ舐めまわしたいと思ったことが一度や二度はあるだろうってさ。きっとあると答えるに違いない」
「阿呆言うな! あの馬鹿兄貴だってそりゃあ自分の部屋に一冊二冊はエロ本を隠しているかもしれないが、てめえみたいな変態じゃねえよ! 何だよ、全く、舐めまわすって……このど変態!」
出雲の言葉を全力否定。冗談も本気にとらえてきいきい怒る紗久羅の真っ赤な顔を見ると出雲はそれはもう幸せな気持ちになる。奈都貴相手だと常に弄り側に回る紗久羅だったが、出雲相手だと完全に弄られっ娘に。仮に奈都貴に同じようなことを言われたとしても上手いことかわせるのだろうが……。
紗久羅に変態と言われても少しも動じず、むしろそうやって罵られることでぞくぞくしてしまっている変態狐は、腕を組み、目を瞑り、にやにや笑いながら口を開く。
「紗久羅はまるで男というものが分かっていないなあ。まあ、今は分からなくてもいずれ分かるようになるだろうさ。私が変態で無いこともいずれ分かるだろう。むしろ私が今からこの身をもってそのことを君に教えて」
「いっぺん地獄に落ちやがれこの脳内ど腐れ野郎!」
「いい加減にしろよこの馬鹿孫が!」
ショーケースから身を乗り出し、今にも出雲に殴りかかりそうな紗久羅の後頭部をぱこーんと叩いたのは、木製のしゃもじ。菊野の紗久羅以上に短い導火線についた火が、その先にある爆弾についたのだった。
良い音だねえ、あっはっはと頭を抱える紗久羅を指差し笑っていた出雲……の顔にも直後、そのしゃもじが直撃することになる。
「全く毎回毎回うるさい奴等だよ。大きな声でぴいぎゃあぴいぎゃあ喚きやがって」
「菊野の怒鳴り声に比べたらずっと小さな声だと思うけれど……」
「ほら、さっさといつものやつを買って、さっさと消えな、しっし」
店番をしていた紗久羅に代わり、出雲の大好物であるいつものやつ――いなり寿司を取り出し、ショーケースの上にばん! と乱暴に置く。
紗久羅と違い、どこか逆らいがたい、弄りがたいオーラを放っている菊野を見て苦笑しながら、出雲は巾着袋に手をやった。その時、紗久羅に本来話したかったことを思い出し。
「あ、そうだ……ねえ紗久羅、今度私と一緒に温泉旅行へ行かないかい?」
むすっとしながら出雲が代金を取り出すのを待っていた紗久羅は、突然のお誘いに目をぱちくり。
「勿論サクやかず坊、奈都貴とかを誘っても良い。二人きりというのもなかなか魅力的だけれど、こういうのは大人数で楽しみたいからね。以前あちらの世界には様々な京があるということを話したよね? その時紅都京という京の名前をあげたと思うのだけれど」
ああ、そういえば聞いた覚えがあるような……と曖昧な言葉を返す紗久羅。
出雲はこくりと頷き、話を先へと進める。
「紅都京はね、温泉と娯楽の京なんだ。連日多くの人達が遊びにやって来てね……とても賑やかな所なんだよ」
それから更に詳しいことを紗久羅に話してやった。紗久羅は向こうの世界にある温泉街に興味をもったらしく、先程までぷんぷん怒っていたことも忘れ、じっと出雲の顔を見、彼の話に聞き入っていた。
「君達、もう少ししたら学校が休みになるんだろう?」
「ああ、そうだけれど……」
「少しずつ厳しくなってきた寒さで冷たくなった体を、気持ち良い温泉で暖めようじゃないか。お湯に浸かるだけではなく、色々遊ぶことも出来るし、美味しい食べ物も沢山あるし、良いこと尽くめだよ」
紗久羅はどうしようかな、と思案顔。それから菊野の顔をちらりと見やる。
菊野はいつも通り、勝手にしろという風な反応。
「まあ、興味はあるけれど。温泉旅行とかあんまり行ったことが無いし」
「それじゃあ行こうよ、皆と一緒にさ」
「でもさあ……あっちの世界の温泉って人間が入っても大丈夫なのか? 入ったら体が緑色に――とか、死ぬ程温度が高いとか、動物に姿が変わっちゃった……とかそういうことにはならないよな?」
不安そうに出雲を見つめる紗久羅の瞳。それを聞いた出雲は一瞬首を傾げたが。
「大丈夫じゃない? 琴子が普通に入れる位だし」
「コトコ? 誰、それ」
「紅都京に住んでいる子でね……ふふ、続きは紗久羅が紅都京へ旅行に行った時にお話しよう」
「何だよそれ」
「それで、どうする? 行くのかい、行かないのかい?」
紗久羅はしばらく無言。それから小さく口を開いた。
「……考えておく」
「そうか、行ってくれるのか。ふふ、楽しみだなあ。日にちは後々決めるということで」
考えておく――という返事を自分にとって都合の良い言葉に勝手に変換し、ぽんと手を叩いて満足気に頷く。
紗久羅は違う! と怒鳴り、ショーケースをばしん、と叩いた。直後響き渡る、店の奥へ戻った菊野の怒号。
「行く、とは言っていないだろうまだ! 考えておくって言っただけ!」
「行くからには紅都京で一番立派な宿に泊まりたいねえ。浴衣姿の紗久羅を見るの、楽しみだなあ。あ、もしよければ柚季って子も連れてくるといい。きゃあと悲鳴をあげ、泣き叫ぶさまを眺めて楽しみたいから。失神とかしてくれるとなお面白い」
「だから行くなんて一言も言っていないっての! 後柚季は連れて行かない、絶対、連れて行かない! 友達をお前の玩具にするわけにはいかん!」
「ええ、つまらないなあ。……ま、いいか。その分紗久羅でいっぱい遊べば良いのだから」
それもお断りだくそ狐、と叫びながらいなり寿司入りのパックを出雲へ押し付ける紗久羅。出雲はそれを受け取り、お金を彼女に手渡す。
パックから漏れる、甘酸っぱい香り。その香りが出雲は大好きだった。腹の中を満たしていた肉やら菓子やらがあっという間に溶けて消えていく。酸っぱくなる口の中。ああ、もう本当最高だねえと愛しい娘でも抱くかのようにいなり寿司入りのパックを抱きしめるのだった。
「お前そんなことやっていると着物汚すぞ。さて、これで用は終わったんだよな。他の客の迷惑だ、さっさと帰れ帰れ」
嬉しそうな声をあげながら、しっしと左手を振る。
「他の客なんていもしないのに。まあ、言われなくても帰るけれどね。それじゃあ紗久羅、また明日。かず坊や奈都貴には君から声をかけてやってくれ。サクは……いずれ満月館に来るだろうから、その時にでも話をしよう」
とまで言った後、出雲は自分が満月館をリニューアルすることを思い出し、肩を揺らして笑い始める。すっかり様相の変わった満月館を前にした紗久羅やさくらの反応を想像したら、笑わずにはいられなかったのだ。
突然笑い出した出雲を紗久羅は若干、いや、かなり引きながら見ている。何の脈絡も無く急に笑い出されたら誰だってそうなるだろう。
「うわ、何だこいつ気持ち悪い……」
何かろくでもないことでも考えているのか、まあろくでもないことを考えているのはいつものことだろうけれど……と呟く紗久羅に別れを告げ、出雲は腹を抱えたまま気配を消した。
もう、紗久羅の目にも出雲の姿は映らない。
いなり寿司を買った今、桜町商店街にもう用は無い。基本的に『やました』以外の店に立ち寄ることは無かった。『やました』で売っているいなり寿司以外で出雲が魅力を感じるものはこの商店街には売っていないから。
「ああ、楽しかった。やっぱり紗久羅と遊ぶのは楽しいねえ。いじめてもいじめてもいじめ足りない。少しも飽きない。ふふん、女の子は気が強すぎる位の方が良い。大人しい子相手というのはつまらない、それはもうつまらない」
独り言。低くも、かといって高くも無い美しい声は誰にも届かず空気に溶けて消えていく。
「紗久羅と温泉に一緒に入る約束もしたし、ふふん、楽しみだなあ。紅都京でも紗久羅で遊ぶんだ。いじめて、いじめて、遊んで、きいきい怒る紗久羅をぎゅうっと抱きしめてやろう。そしたら彼女はますます怒るし、顔を真っ赤にするだろう。あはは、愉快だね。その場面を想像しただけで、わくわくするよ。いや、私は本当に素晴らしい玩具を手に入れた。お陰で毎日が楽しいよ」
自分の横を通り過ぎる人、人、人。彼等には出雲が見えていない。そして今の出雲にも、彼等の姿は見えていなかった。どうでも良いものは目にも映らないし、頭の中にも残らない。
「本当……毎日が楽しくて、楽しくて仕方が無いよ」
そう呟く彼の顔に笑みは無く。声に温もりも無い。ぞっとする位美しく冷たい瞳は、彼が最も忌み嫌う色――白――白い雲に向けられていた。
さて、出雲が満月館に帰ると。
「ああ、旦那!」
入り口ドアの前にやた吉とやた郎が立っていた。二人は出雲の姿を認めるなり叫び声をあげ、彼をびしっと指差した。
「おや、やた吉とやた郎じゃないか。一体どうしたんだい、随分怒っているようだけれど」
「どうしたんじゃないよ旦那! 旦那があの場から逃げる為の道具においら達を使って、おいら達を置き去りにして……大変だったんだからな、あの後!」
その言葉を聞くまで、出雲は紅都京での買い物に二人を連れて行ったこと、酔っ払った女の相手を押しつけたことを本当に、すっかり忘れていた。
ぷりぷり怒っている二人に対し、出雲は「ああ」と暢気な声あげ、ぽんと手を叩き。二人も出雲が自分達のことをすっかり忘れていたことを理解したらしく、涙目になりながら肩をがっくり落とす。しかしそんなことは日常茶飯事なのである。
「そういえばお前達を買い物のお供にしていたのだっけ。……で、彼女とはどうなったんだい? 無事結納をあげることが出来たいのかい」
ああ、でも私への報告が無いのだから、まだあげてはいないのかな、などとわざとらしく。
「あげるわけないじゃないか。……危ないところまで行ったけれど。なあ、やた吉」
「そうそう。あの人、ものすごく力が強くて……なかなか逃げられなくて……」
相当抵抗したのだろう。二人共ぐったり。色々な術を使うことが出来る二人、強硬手段をとれば逃げられなくもなかったのだろうが。出雲と違って、二人は心優しい。女相手に乱暴な真似は出来なかったのだろう。
「段階をいきなり飛び越して、今から婚礼の儀を執り行いましょう、私お二人と結婚しますとか訳の分からないことを言いだして……あわや結納か、といったところで」
とここまでをやた郎が言い、続きをやた吉に促す。やた吉はため息をついた後、話の続きを元気の無い声で語った。
「近くを通った人の姿が彼女の目にとまって。またその人が彼女の好みの顔をしていたらしくてさ、おいら達からあっさり離れてその人に『恋をしましょう!』って叫びながら突撃していったんだ」
「ちょっと心苦しかったけれど、その場を全力疾走で離れたんだ。そして今に至るというわけで」
「なんだい、それで結局二人共彼女と夫婦になることなく帰って来たのかい。ああ、全く折角の好機を無駄にして。君達にはお似合いな女だったのにねえ。一体お前達、いつになったら所帯を持つんだい。このままじゃ一生独り身だよお前達」
わざとらしい口調で、オーバーなアクションをつけつつ出雲が言ってやると、やた吉がむきーとやたら甲高い声で叫びだし。
「出雲の旦那だって人のこと言えないじゃないか! それに旦那、おいらには以前そりゃあ可愛い彼女がいたんだよ! でも、でも、旦那が邪魔したんじゃないか、女に化けてさ……楽しく遊んでいたおいらとあの子の間に割って入ってきて! それで、その時のことが原因でおいらと彼女はお別れする羽目になったんだ! 夫婦になるって約束までしたのに!」
「そうだっけ……ああ、そういえばそうだったけねえ。でもさ、たかがあれだけのことで別れちゃう様な女なんかと一緒になったってきっと長続きしなかっただろうよ」
「あれだけのこと? ものすごく鋭い刃を手にして、鬼の様な形相で『彼は私のもの。私から彼を奪うというのなら、この刃でめった刺しにしてやる』と言って脅した挙句、本当に襲い掛かったっていう……あれが?」
涙目になっているやた吉。そんな彼の肩をぽんと叩き、慰めるのはやた郎。
しかし出雲は少しもその時のことを悪いとは思っていないらしく、涼しげな顔でぴいぷうわざとらしく口笛を吹く。
「大したこと無いじゃないか。全く軟弱にも程がある……あれ位の脅しであっさり身を引いてしまうなんて。愛が足りないし、心も弱い。あれが巫女の桜だったらね、少しも臆することなく『やれるものならやってみろ、この小娘が』とか言ってさ、堂々と立ち向かっただろうよ。そして相手が『貴方には敵いません、私が悪うございました、大人しく身を引きます。襲い掛かってごめんなさい』と言って逃げ出すまでぼこぼこにしたに違いない」
「あの巫女と一緒にしないでよ! あの巫女並に強い女なんて、そうはいないよ! あんな化け物みたいに強い人間……」
「あ、今私の体内にある桜の魂がお前の言葉を聞いて荒ぶっている。この私を化け物扱いするとは何事か、ええい出雲さっさとそこにいる馬鹿烏を殺してしまえと言っている」
無表情で淡々と語る出雲、その言葉を聞いてぎゃああというそりゃもう滑稽な悲鳴をあげるやた吉。それを聞いて出雲は心の中で大爆笑しつつ、冗談だよとこれまた淡々とした口調で返すのだった。
「彼女の魂は私のそれともう完全に同化している。それ以前に喰らった魂達もまたしかり。桜の意思なんてものは存在しない。彼女はもうすでに私自身となっているんだ。もし体内に取り込んだ魂それぞれが個の存在を保ち続けていたら、やっていられないよ。……まあたまに、私の中に溶け込んだ桜の魂が私の胸を蹴飛ばすことがあるけれど」
ごめんなさいごめんなさい、殺さないで下さいとしゃがみ込みつつ震えるやた吉の耳に、彼の言葉が果たして届いたかどうか。
「やた吉、しっかり……傷は……深いな」
「さて、夕飯、夕飯」
もうすでにやた吉とやた郎への興味を無くした出雲は入り口を塞いでいるやた吉を乱暴に蹴飛ばしてどかすと、鼻歌歌いつつ家の中へ入るのだった。