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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
出雲の一日
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出雲の一日(4)

 続いて一行がやって来たのは橘香京。食べ物を取り扱っている店が約九割を占めている、世界的にも有名な食の京である。この京に不味い料理を出す店は存在しない(闇鍋屋など、わざとキワモノを提供している店もあるが極一部である)。食べ物屋以外は殆どないので、ここに定住している者は少ない。ほぼ飲食店と、その店で働く者達の住む家でこの京は構成されている。


 また、取り扱っている料理の種類も豊富である。世界各地の料理を取り揃えており、向こうの世界でいうフランス料理やイタリア料理、レトルトカレーやインスタントラーメンに相当するものも扱っているし、そこらの店ではまず口に出来ないような珍料理を提供している店もある。ここに来ればこちらの世界、向こうの世界両方の食べ物全てを食べることが出来るとさえ言われている程、豊富なバリエーション。

 タダで食べることが出来る店もあるが、どちらかというとそれなりの対価を支払わないといけない店が多い。


「さて、愛しの鈴の為に美味しい魚を買うとするか。……ついでに、今日のお茶のお供も買おう」

 京を覆うのは、黒い紐にくくりつけられた無数の提灯。建物という魚を捕らえる網の様。網に捕らわれた建物は動かず、じっとしている。別の魚――この京を訪れる者達はすいすいと自由気ままに網の中を泳いでいた。


 出雲は京の中にある、魚料理を取り扱う店が多くある通りを歩く。まず先に、鈴へのお土産を買うつもりなのだ。やた吉とやた郎はその後ろにつき、その背中に生えている翼を時々美味しい料理を求めこの京へやってきた客にぶつけながら、歩く。

 網の中に充満する、様々な食べ物の良い香り。その匂いを嗅ぎながら歩いていると、たとえお腹が空いていなくてもぐうと腹が鳴る。いわんや腹ぺこの者は。


「ああ、良い匂い……ここへ来るといつも腹の虫が暴れだすよ。深紅様の店でお菓子結構食べたのになあ」

 飢えをため息と共に体外へ出そうとするやた吉。しかしそんなことが出来るはずもなく、へなへなした情けない息をすっかり吐きおえた彼の腹から、ぐっきゅるるるるうという食を求めて鳴く腹の虫の声が聞こえた。

 屋根と四本の柱のみの店、その下にあるのは網。その網に今乗っているのは、帆立(ほたて)やさざえ、巨大蛤等。その身から、旨みエキスたっぷりの水分が熱によって泡を吐くじゅわじゅわあという音と磯の、少しの甘味を含む塩辛い香りを出している。程よいところで店の者らしい上半身が鮫、下半身が人の妖がそれらに酒と醤油をさっとかけた。香ばしい香り、酒の体蕩(とろ)かすもわあんとした香りが磯の香りに加わり、ますますやた吉の腹の虫を刺激する。

 その向かい側にあるのは、(さかな)(つぼ)という料理を扱っている店。これはタコの足、イカ、貝、この世界にのみ生息している魚の身等と、甘辛いたれがたっぷり詰まった壷を販売している店。すっかりたれが染みこんだ具を焼いて食べると、非常に美味しい。焼かずに生で食べるのもまた美味しい。たれには具の日持ちをよくする為の汁が混ざっている為、それなりにもつ。一応この世界独自の食べ物――ということになっている。

 他にも色々な種類の魚の目玉がたっぷり入ったスープ、寿司、ほんの少しの塩で味付けしただけの、魚の身をほぐしたものがたっぷり入ったおにぎり、海鮮かきあげ、いか焼き等の店、生きた魚を特に調理することなくそのまま食べられる店等など。


「俺もお腹が空いた。……腹の虫が早く食べ物寄越せとものすごい勢いで抗議しているよ」

 やた吉同様、腹をさすりため息をつくやた郎。全くぐうぎゅるると……情けない上にはしたない奴等だねえと呆れた風に述べた出雲の腹からもぐうぎゅるる、という良い音が。

 一瞬立ち止まる三人。


「……旦那の腹の虫、今、鳴いたよね? おいら達のに負けず劣らず情けない音が、旦那の腹から聞こえた」


「それはお前の気のせいだろう」


「そんなことないよ、絶対出雲の旦那の腹から聞こえた! おいら達のことは馬鹿にしておいて、旦那だって情けない上にはしたない」


「この私が違うと言ったら、違うんだよ。……私がお前は化け烏ではなく化けイソギンチャクだと言ったら、その瞬間からお前は化け烏ではなく化けイソギンチャクになるのだ。私こそが正しい。私が否と言えば、否だ……分かった?」

 やた吉を見下ろすその瞳の冷たさと言ったら無い。その身から滲み出ているのはまさか反論なんてしないよなオーラ、殺気、などなど。

 そんな絶対君主出雲様を前に、ぐうの()も出ないやた吉だった。ぐうぎゅるるという音と、冷や汗は出たが。やた吉が何も言わずこくりと頷いたことを確認するとふん、と鼻で笑いながら再び歩き始める。


「お前は本当に馬鹿だな。言う必要の無い言葉をどうして口にしてしまうんだ、毎回毎回」


「昔から、思ったことを口に出さずにはいられない性分だったじゃないかおいらは。……自重しようとは思っているんだけれど、なかなか上手くいかないんだ」


「やた吉、お前いつか旦那に殺されるぞこのままだと。旦那は気まぐれなんだから……」


「分かっているよ、分かっているんだけれど……ああ、腹減った。あら汁、魚の粕漬け、白身魚の野菜あんかけ……葱が沢山入った醤油と酒と一緒に蒸した魚……ああ、どれも美味そう!」

 あちらこちらから聞こえるぐうぎゅるという音。腹の虫による合唱。伴奏は海の幸を焼いたり、蒸したり、炒めたりしている音だ。騒々しく、また、人々の腹を刺激する音楽がこの京から絶えることは決して無い。

 結局空腹に負け、サーモンやマグロの身をご飯で巻いたものや、辛味をもつこの世界にしかいない魚を甘めのたれでじっくり煮込んだものを道中食べつつ、辿り着いたのは乾物・干物・練り物等魚を様々な形に加工したものを専門的に取り扱う店。


 普段この京で干物などを買う時は別の店を利用しているのだが、今回は今まで(恐らく)買ったことの無い店で買おうと思ったのだ。


「にゃふん、ふにゃん、にゃふん。いらっしゃいませにゃんにゃん」

 店へ入った出雲達を迎えたのは、白い猫耳に大きな瞳をもつ猫娘。右耳には本物の昆布(腐らないよう、特別な処理が施されているようだ)と貝殻で作った飾りをつけており、丈のえらく短い着物には流れる水、泡沫、魚が描かれている。それは、常に動いており、水を表している模様は左上から右下、泡沫は下から上へ上りてっぺんに行くと消え、魚は着物の中で自由に泳いでいる。常に動く絵や模様のある着物というのはこの世界では別段珍しいものではない。

 猫娘は組み合わせた両手を右頬近くにやり、尻から生えている尻尾をぷりぷり動かす。背伸びし、出雲に顔を近づけながらにこにこ笑っている。

 店の中には大勢の客がおり、随分盛況の様子。


「お客様、初めて見る顔ですにゃん」


「初めて来たからね。……店に来た客の顔は全部覚えているのかい?」

 と出雲が聞いてみると猫は貧しい胸をそらし、両手を腰にやってえっへんといばる。


「勿論ですにゃ。この店に来てくれたお客様の顔は、三日間は忘れませんにゃ!」


「三日経ったら忘れるんだ……」

 というやた吉とやた郎の小声のツッコミが果たして彼女に届いたかどうか。

 

「他の大事なことは三歩歩いたら忘れてしまうのに、お客様の顔は忘れにゃい。少なくとも三日は忘れにゃい、すごいことですにゃ」


「三歩歩いたらって……君は鳥か」


「私のおじいちゃんは鶏の妖だったと聞いていますにゃん。私が幼い時分に他の妖に食われて死んじゃったそうですがね」


(ああ、だからか……しかし鶏と猫の恋愛ってどんなだ……?)

 冷めた目で彼女のことを見つつ、鶏と猫がにゃんにゃんする姿を想像しようとする……が上手くいかない。結局まあどうでもいいかという結論に達し、想像することをやめた。

 脳みそ鶏猫娘はにゃあんと甘い声をだし。


「まあ、私のことはどうでもいいですにゃ。ゆっくりしていってくださいませにゃん」

 うにゃっふっふという上機嫌な声をあげると、猫娘はくるりと三人に背を向け店の奥へと消えていった。

 鈴が喜びそうなものを買うべく、出雲は店内をゆっくり回る。


「アジの干物は買うとして……後は何にしようかな。今まで食べたことの無いものを試しに買ってみるっていうのもありかな」


「旦那、ここ他の店では売っていないような物も色々売っているよ。初めて見るものがいっぱいある」

 やた吉が指差す商品は、どれも贔屓(ひいき)にしている店には置かれていない物。

 明らかに強烈な味であろう物から、見た目と名前だけでは味の見当が一切つかないような物まで様々。出雲は口元に手をやり、思案顔。


「……ふむ。ここはどちらかというと変り種に力を入れているんだね。幾つか買いたいけれど、果たして私や鈴の口に合うものかどうか」

 本当、この世界は面白いよ。こちらで暮らし始めて何百年経った今もこうして『初めて』に出会えるのだからねえ……と少しも表情を変えることなく、ぼそり。

 そんな出雲に、近くにいた客が声をかけてきた。岩で出来た肌に無数のフジツボをくっつけた、ぎょろっとした目を持つ見た目四五十程の男。

 彼はこの店の常連であるらしく(一週間に一回ペースで来ているらしい)、頼まれてもいないのにそりゃもう丁寧に、それぞれの商品の味などを説明してくれた。出雲はそれを黙って聞く。


「――この干物は、一度にそう沢山は食えねえ。何せ他のやつの数倍は塩辛いからな。これ一つで数十杯もの飯が食える。おまけに臭みも強い。強烈な塩気と臭み、その中にある旨み……はまる奴はとことんはまる味だが、まあ初心者にはあまりオススメ出来ないな。そっちにあるのは雷昆布といってな、遠い土地でほんの短い期間だけとれるという珍しい昆布――を乾燥させたものだ。こいつはもどして食うんじゃなく、この状態のまま食べるもの。噛むと口の中をびりびりっとしたものが駆け抜ける。口の中に雷が次々と落ちるんだ。まあかなり刺激的な食い物だが、味は最高。俺はこれが大好物だ。駄目な奴は味気も刺激も殆ど無いが、ここの店のは半端無く痺れる……だが、美味い。……ああ、これも上級者向けだな。あ、これなんかはどうだ。これまたここらではまず口に出来ない魚のすり身で作ったはんぺんだ。甘味が強くて、弾力がある。噛むとみょうんと餅のように伸びるという変わったはんぺんで……皆からは餅ぺんと呼ばれている。これはオススメだ、クセの無い味だからな」

 とその男に勧められたのは、一見丸餅な白はんぺん。魚の甘い香りがふんわりする。


「成程、これは確かに美味しそうだね」


「ああ、かなり美味いぞ。そのまま食ってもいいし、軽く醤油をつけて焼いても良い……海苔を巻くのも良いな。後、この干物とこの干物もオススメだな」

 男は次々とオススメの品を出雲の手の上へ乗せていった。それをやや離れた所から見ていたやた吉とやた郎は内心どきどきはらはら。自分が一方的に何かすることは大好きだが、誰かから一方的に何かされることは死ぬ程嫌いな出雲がぶち切れて、目の前にいる妖を殺してしまわないか心配だったのだ。

 しかし幸い出雲は彼に手を上げることなく、礼を言うと買いたいと思った物数点を自分の手中に残し、残りを売り場へ戻すと会計へ。それを見た男は満足そうに頷いている。


「ふふ、俺ってばとても良いことをしたなあ。これでまた一人、この店を利用する客が増える。そうすればこの店はどんどん繁盛する。繁盛すれば、おたまちゃんがとても喜ぶ。そしていつか俺は言うんだ『俺はこの店を利用する客を増やす為、色々やって来た。とても頑張った。何故だか分かるかい。……全ておたまちゃんの為だよ。俺はおたまちゃんのことが好きなんだ、結婚しよう』と。おたまちゃんはそれを聞いて、きっと嬉し涙を流すだろう。『ああ、ありがとうございますにゃ磯吉さん。このお店が繁盛しているのは、全て貴方のお陰だったのですね。ええ、勿論結婚しますにゃ、私とこのお店の為色々してくれた貴方の申し出を断ることなどするはずがありませんにゃ』と言うに違いない! おお、おお、おう!」

 

「おたまって、さっきの人のことかな」


「多分……」

 一人自分の世界に入った男、もとい磯吉を可哀想なものでも見るかのような目で見つめるやた吉とやた郎。


「ん、誰か私の名前を呼びましたかにゃん?」

 大声でおたまちゃん、おたまちゃん、ああ可愛いよおたまちゃんと彼女の名前を連呼していた磯吉。店の奥で作業をしていたおたまがとてとてとやや間の抜けた足音を立ててこちらへやって来る。

 磯吉は自分の想い人を前に熱した石のように真っ赤になった。


「お、お、おたまちゃん!」


「ん? ああいらっしゃいませにゃん。初めましてにゃん」

 良い笑顔で言い放った残酷な言葉。その言葉で全身を刺された磯吉ががっくりとうなだれつつ、口から泡を吐き、目から涙を流し。

 本気で常連さんである彼の顔を覚えていないらしい。


「流石約三日しか店に来た客の顔を覚えられない女……」


「一週間に一度の割合で来ている常連さんの顔さえ覚えられないとは」


「いいんだ、いつものことだから、いいんだ……ああ、でもやっぱり辛いな、いつになっても慣れないな……畜生……うう、今度からは三日に一度、いや毎日この店に顔を出すことにしよう、そうしよう……」

 初対面の妖二人に同情の目を向けられつつ、決心を声に出す磯吉であった。

 やがて会計を終えた出雲が戻ってきた。


「なんだい、どうしたんだい」


「……努力が全く報われない人って世の中沢山いるね、旦那」


「はあ?」

 なんのこっちゃと眉をひそめ、首を傾げた出雲だったがこの場で起きたことに対する興味をすぐ失ったらしく、ほうらさっさと行くよと店を出る。やた吉とやた郎は「え、この店の常連さん? そりゃあ失礼しましたにゃん。けれどこうして話すのは初めてですにゃよね?」と満面の笑みを浮かべるおたまと「いや、今まで両手じゃとても数え切れない位言葉を交わしましたよ……」と今にも死にそうな顔をした磯吉に背を向け、出雲の後をついていった。


「次はおやつを買うんだよね」


「ああ」

 まあ、多分お菓子以外の物も買うことになるだろうがね――という出雲の言葉通り、彼等は途中肉を扱う店の多い通りに寄り、色々と買い、食べた。

 甘いタレや辛いタレにじっくり漬け込んだ生肉(焼かず、そのまま食べる)を売っている店で、醤油や砂糖、唐辛子等を混ぜて作られたタレのついた生肉をスライスしたものを食い、刻んだにんにくや葱を焼いた肉で巻いた物を食い、納豆の様な独特の風味がする肉を乾燥させた物を買い、焼肉セットを買い……。


「さっきまでいた通りの磯の香りも食欲を刺激するけれど、肉とかにんにくとかタレが焼ける匂いもやばい! 口の中がよだれでいっぱいだよ本当」

 焼肉の匂いを嗅ぎながら白飯を食べる(焼肉を実際に口にすることは出来ない)というヘンテコな店を見やりながらやた吉がうーうー唸る。店からぷうんと香る、甘く香ばしい肉やその肉についているタレなどの香り。


「にんにくとかにらとか葱とか味噌とか醤油とか……ああいうものの匂いって色々反則だよね」

 葱、味噌、醤油を混ぜたご飯を焼いて作ったバンズに立派な葱と大きくカットされた肉を挟んだバーガーを頬張っていうのはやた郎。ちなみについ十分程前に味つき生肉と生卵ののった丼を食べたばかりである。


「この京に来るとたった一日で一週間、あるいはそれ以上の量の食べ物を口にしてしまう。ああ、いやだいやだ、おでぶさんにはなりたくないよ私は」

 と嘆きつつ、中をくり抜いた葱一本に醤油や生姜で味付けしたやや臭みのある肉を詰め、焼いた料理にかぶりつく出雲。葱や生姜のおかげで嫌な臭みが緩和された肉から溢れ出る汁。少しクセのある好き嫌いの分かれる味だが、美味い。その汁などが美しい着物や髪を汚さない様に気をつけながらそれを食べる出雲の姿は美しい。葱の肉詰めを食べる姿さえ絵になる……それをやた吉ややた郎は素直にすごいなあ、羨ましいなあと思う。


 肉料理を堪能してからようやく菓子屋の密集している通りへ。和菓子、洋菓子、こちらの世界でしかお目にかかれないような代物など、多数取り揃っている。

 餡子や砂糖、蜂蜜等の甘い匂いに混ざっているのは――酒の匂い。それはほんのり淡い香りでは決してなく。

 そんな強烈な酒の匂いを発しているのは二階建ての『蜜月(みつき)屋』という店。店の中から聞こえるのは客達の騒々しい声。


「相変わらず騒々しいね、蜜月屋は」


「お酒をたんまり飲んでいるだろうからね、客達が。……菓子をつまみにして」

 蜜月屋から出てきた、すっかりできあがってしまっている女にしつこく絡まれ、しかめ面をしながら出雲がやた吉の呟きに言葉を返す。

 

「おつまみがお菓子だけの居酒屋ってやっぱり向こうの世界の人からしてみれば珍しいものなのかな。こっちの世界じゃ別に何にも珍しくないけれど」


「珍しいんじゃないかい? 向こうの世界の居酒屋事情には詳しくないからなんともいえないがね。しかしこの女、随分としつこいなあ」

 出雲の隣にぴったりくっついている女の体は酒と見目麗しい姿の出雲によって、とろとろのどろどろに溶けてしまっている。真っ赤な顔はとろんとしている。


「素敵な男。ねえ、お兄さん。私と熱い恋、してみない?」

 その後きゃっという声をあげ、それから一人でべちゃくちゃと色々喋りだす。

 当然出雲は彼女の話などまともに聞いていない。意識はここにあらず。一人だけの世界に入り、ぼうっと考えることは。


(こい……ああ、そういえばこの間鈴、美味しい鯉料理が食べたいなって呟いていたなあ。良い店を探して、今度連れて行ってあげよう)


「私は恋がしたい、恋がしたい!」


「ああ、鯉の死体美味しいよね」


「恋! 私は素晴らしい恋に巡り合うまでに、一体どれだけの数の告白をしなくちゃいけないのかしら。私ってとても惚れっぽいの。今まで何千回一目惚れして、告白したことか」


「鯉……こく……鯉といえば鯉こくだよね。鈴はどれが一番好きなんだろう……刺身かな?」


「もう、いい加減こんな辛い日々には終止符をうちたいの! ねえ、お願い、私と恋人になりましょう、永久(とわ)に!」


「とわ煮なんてあったっけ……まあいいや。後で鈴にどの鯉料理が一番好きなのか聞かないとね」


「お兄さん、私の話聞いています?」

 頭が酒でぽわんぽわんとしていても、流石に自分が全く相手にされていないという事実に気がつくことが出来たらしい。女は出雲の着物をつかみ、ちょいちょい軽く引っ張る。しかし出雲は無反応。

 それでも諦めず、しつこく着物を引っ張り続けながら大声で話し続けているとようやく出雲の意識が元の場所へ戻ったようで。


「しつこいね! そんなに恋がしたいなら、そっちにいる化け烏のどちらかとすれば良いじゃないか!」

 いらついた表情を浮かべながら出雲が指差したのは、二人のちぐはぐなやり取りを笑いながら見ていたやた吉とやた郎。二人は突然指差されぎょっとした。

 女は二人の存在に初めて気がついたらしい。出雲から離れ、彼の背にいた二人をじっと見つめる。それからしばらくして赤い顔をますます赤くし。


「……可愛らしい。綺麗な男も好きだけれど、可愛い男も好き。恋をしましょ、私と一緒に恋をしましょう!」

 叫び、突然の展開に驚き固まっていた二人に女が飛びつき……。

 

「それじゃあ二人共、後は頼んだ。祝言をあげる時は必ずこの私に連絡をしておくれ。必ず祝いの場に駆けつけて、腹を抱えて笑ってあげるから!」

 いつの間にかやた吉とやた郎に持たせていた荷物(深緋屋で買った道具、橘香京で買った食べ物)を手中に収めていた出雲。困惑している二人に良い笑顔を向け、しゅばっと右手をあげると走り出し、その場から退散した。早い話が……逃げた。面倒事を他人に押しつけた上に逃げる……少しの迷いなくそんな汚いことをする出雲だが、軽やかで上品なフットワーク、風にたなびく髪は腹が立つほど美しく。汚い、だが、美しい。


 その場から逃げた出雲はそれまで自分の買い物に付き合ってくれていた二人のことをすっかり忘れ、買い物の続きを思う存分楽しむ。

 今日のおやつ及び当面のおやつを確保した後、出雲は満月館へと帰って行った。……やた吉とやた郎を橘香京に置いたまま。


 帰ってきた出雲を迎えた鈴は首を傾げ。


「あれ……やた吉とやた郎は? 一緒に買い物、行ったんだよね……?」


「え? あれ、そうだったっけ? まあいいじゃないか、あいつらのことなんてどうでも」


「……それもそうだね」


 今頃向こうの世界に腐るほどある時計の長針は12、短針は3をさしているだろう。

 楽しい楽しいおやつタイムの始まりを告げているだろう。


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