鬼灯夜行(7)
山を下りると、そこにはなるほど、屋台はなかった。人もいなかった。目の前にあるのは、一本の細い道。その道を挟んでいるのは、ただの草むらだった。何か、青白い火の玉のようなものがぷかぷか浮かんでいるような気がする。いや、実際浮かんでいるのだろう。うええ、気味が悪い。
その道の先にあるのは、森だった。多分、そこが出雲のいう「お祭り」がある森なのだろう。
「あそこが目的地だよ。魔珠羅の森。この世界にとって最も大切な森だ」
さあ、おいで。出雲が手招きする。あたしは、仕方なくついていく。
虫の声が聞こえる。その虫もまた、妖怪なのだろうか。あ、蛍だ。いや、あれは本当に蛍なのだろうか。ううん、分からん。
きっとさくら姉なら、手を叩いて喜ぶだろう。あれはなに、これはなにとしつこく聞くに違いない。けれど、あたしは流石にそんな気分になれなかった。得体の知れない世界に行ってしまったら、誰だってそうなると思う。
「あんな森が、大切なのか。何、自然遺産みたいなやつ?」
「自然遺産? なんだい、それは」
出雲が首をかしげる。ああ、この世界にはそんな概念は存在しないのか。
「なんでもないよ」
「ふうん。……でも、あの森が大切なのは確かだよ。あの森は、この世界の始まりの地であるから」
「始まりの地?」
「そこら辺の話も、後でするよ」
「そうか。……なあ、本当にあたし、喰われたり襲われたりしないだろうな?」
こんなところに連れてこられた挙句、殺されてしまったらたまったもんじゃない。
「大丈夫だよ。この祭りの日、しかもあの森で何かを殺めたり、襲ったりするようなことをする愚か者はいないよ。君が危険に晒されるようなところに、連れて行きはしないよ。君のようなおもちゃを私は失いたくない。それに、さっきも言ったけれど、君にもしものことがあったら菊野に殺されてしまう」
あたしはおもちゃかよ。いつお前のおもちゃになったんだよ、畜生、やっぱり腹が立つ。
「随分婆ちゃんのことを大事にしているんだな。あんた、婆ちゃんのことが好きなの」
あはは、と出雲が笑う。
「そうだねえ、菊野は面白い人だからね、好きだよ。それに彼女の作るいなり寿司は美味しい。君を危ない目に合わせようものなら、私は一生あれを口にすることができなくなってしまう」
「あたしの命はいなり寿司と同レベルなのかよ」
面白くなかった。確かに婆ちゃんのいなり寿司は美味しいけどさ。いなり寿司が食えなくなるから、ってどんな理由だよ。しかもおもちゃだと。ああ、むかつく。
その気持ちが、顔にでていたらしい。あいつがにやりと笑う。
「何だい、拗ねているのかい? ふふ、紗久羅も結構可愛い性格をしているね」
「可愛いいうな! それと、別に拗ねてなんかいないっての!」
「はいはい。素直じゃないところも君の可愛いところではあるね」
「この化け狐!」
「はいはい。ほらほら、そうこうしている間に着いたよ」
本当だ。気づけば、森は目の前にあった。深い緑の森は、月の光を浴びて、エメラルドのようにきらきらと煌いていた。けれど、森の中まで月の光は届いていないのか、真っ暗だった。
出雲が、森の中へと入っていく。慌てて、それを追いかける。
森の中は、本当に暗い。目の前にいるあいつの姿さえ、少しでも目を離したら見失ってしまいそうだった。
空気はひんやりとしている。けれど、気味が悪い感じは不思議としなかった。むしろほっとする。澄んだ空気は、吸い込むだけで体の中を綺麗にしてくれるようだった。この先には、人間じゃないものが沢山いる。けれど、さっきまで抱いていた恐怖感が綺麗さっぱり消えていた。この森の雰囲気が、そうさせてくれるのかもしれなかった。恐怖すら、浄化する森。あたしは、こんなに静かで、綺麗で澄んでいる森を他に知らなかった。まあ、そもそも森と呼べるところに足を踏み入れたことがないんだけどな。全ての森が、こうなのかもしれない。違うかもしれない。けれど、きっと人間界にある森とは何かが違うのだと思う。
しゃらしゃら、という鈴を一気に沢山鳴らしたような音が聞こえる。何かの生き物の鳴き声かもしれない。無機質なものの出す音とはどこか違うような気がした。笑っているように聞こえた。
目の前にいるあいつの体は、半ば闇の中に溶け込んでいた。本当にそこにいるのか、自信がない。手を少し前へ突き出してみる。触れられるだろうか。もしかしたら、そこには何もいないのかもしれない。
いや、やめておこう。何だよ、そんないるかどうか分からなくて、不安になって手を出すって、乙女かよあたしは。勘弁してくれ、いや、そりゃ一応女だけどさ。
あたしは、あいつの姿を見失わないように必死になりながら前へと進んだ。
しゃらしゃら、という音は前へ進むごとに段々大きくなっていった。鈴の音色のような、川の流れのような音は、不快ではなかった。むしろ心地いい。
段々、目の前が明るくなっていった。それは大した明るさではなかったかもしれない。けれど、暗闇ばかり見ていた目には、少々きつい。目の前を照らしている光は、あの熟れた柿色に染まった空と同じような色をしていた。
「大分明るくなってきたね。そろそろ、彼らと会えるかな」
「彼ら?」
問うてる間に、光溢れる場所へ辿り着いた。
そこは、小さな円形の広場だった。正面には、周りのよりも一回り大きな木がそびえていた。エメラルド色のその木には、普通のものより何倍、いや何十倍も大きな鬼灯のようなものが生っていた。本当にでかい。あれ、鬼灯か。違うのか?いや、でもどっからどうみても鬼灯だよな。……大きさを除けば。
その木の前に、人間に近い姿の者が五人位立っていた。
白い体に、淡いクリーム色の髪の毛。服は何も着ていない。女なのか男なのかは分からない。胸のふくらみはないけれど……その、あの、なんかこう……ついてもいなかった。何って、あれだよあれ。具体的なことを言わせるな。髪以外の毛は一切生えていないようで、体中つるつるしていた。目は黒い。白目はない。まるで、目のある部分に空洞があるようで、やや気味が悪い。髪の毛のある宇宙人みたいな姿、といえばいいのだろうか。背丈や体型、髪の長さは皆違う。
それらは、淡い光を放っていた。どうやら、この辺りを照らしている光の正体は、これだったらしい。彼らから発する光は、触れたらとても暖かそうだった。
彼らは、体を小刻みに震わせたり、やめたり、また震わせたりを続けていた。体が震えるたび、しゃらしゃらという、あの音が聞こえた。あの音は、鳴き声でも笑い声でもなく、彼らが体を震わせるときに出る音だったのだ。そういえば、これに近いものをアニメ映画で見たような……うーん、まあ全然違うといえば違うけど。
出雲が、前へ進んで、彼らの前に立った。
「やあ、こんばんは。今年も宜しく頼むよ」
そう言って、出雲は目の前に立っている、五人の中で一番背の高いのと握手をした。すると、その両隣にいた奴らが後ろにある木に生っている、巨大鬼灯を摘んで、出雲に渡した。出雲はそれを受け取った。
「紗久羅、君も貰うんだよ。彼らのうちの一人と握手をしておくれ。そして、一言何か喋って。君が無害だと判断すれば、彼らがこれをくれるから」
あたしは、驚いた。目の前にいる、宇宙人もどきと、握手をする?あたしは、何だか急に怖くなった。どっからどうみても危害を加えるような奴らではない。けれど、得体の知れないものと触れ合うということは、何だかとても恐ろしいもののような気がした。
初対面の人間と握手をするのも、緊張する。触ったことのない動物に触れるのも、少しだけ緊張する。まして、目の前にいるのは人でも、あたしが知っているどの生き物でもないものだ。
あたしがためらっていると、出雲とさっき握手した奴が、しゃらしゃらと音を立てながら、手招きした。見たところ、イライラしている様子はない。優しく「おいで」と言っている気がした。
ええい、ままよとあたしは、前へ進んだ。そして、手招きしていた奴の前に、ゆっくりと右手を差し伸べた。彼は、あたしのその手を優しく握り締めてくれた。とても、暖かい。人間よりも、少し体温は高い。
「紗久羅っていうんだ、宜しく」
情けない位かすれた声が出る。その声を聞くと、奴は手を離した。両端にいた奴らが、巨大鬼灯を摘んで、あたしに渡してくれた。あたしは、それを受け取った。
何も、怖くはなかった。注射だってそうだ。注射されるまでは怖くて仕方ない。けれど、注射されればあっという間で、実際は何てことはないのだ。
一番左にいた奴がふっと息を吐いた。すると、そいつの手のひらに、自分が発する光とよく似た色の炎が現れる。
そして、まずそれを出雲が持っている、巨大鬼灯に近づけた。すると、その炎はそいつの手のひらを離れて、巨大鬼灯の中へすっと入っていった。巨大鬼灯が、暖かな光を放つ。
今度は、一番右に居た奴が同じように息を吐き、炎を出した。そして、それをあたしの持っている巨大鬼灯にかざす。炎は手のひらを離れ、巨大鬼灯の中へ入っていった。とても明るい。これなら、暗い森の中を歩いてもへっちゃらに違いない。
「ありがとう。それじゃあ、行ってくるよ。さあ、行くよ紗久羅」
巨大鬼灯が生っている木の右横に、先へと進む道が伸びている。出雲は、さっさと進んでいってしまった。あたしは、しゃらしゃら音を立てながら震えている奴らに、会釈をしてから、その後をついていった。
さっきは暗くて、目の前すらほとんど見えない状態だったけれど、巨大鬼灯の灯りのおかげで、今は周りがはっきり見える。憎たらしいあいつの姿も、残念ながらはっきりと見えた。
「一緒に歩こうよ、紗久羅」
そういって、あいつは止まった。
「それって、肩を並べて歩くってことかよ」
「うん。その方が楽しいじゃないか」
「そうだな、お前とじゃなければ楽しかっただろうよ」
いやだね、本当に君は、といってあいつは笑った。鬼灯の灯りが照らすその顔は、いつもと違ってとても暖かいものに見えた。あたしは、仕方ないからあいつの横に並んだ。それを確かめると、あいつは歩き出す。あたしも一緒に歩き出す。
「何だかんだいって、私と歩くのが嬉しいんだろう?」
「馬鹿いえ」
さすが馬鹿狐、馬鹿なことしか言わない。
「なあ、さっきの奴らは一体何者だったんだ」
「森の守り人。この森を守る、精霊だよ。私達妖より、力がある。邪気はなく、穢れ無き純粋な魂を持っているんだ。彼らは、相手の手を握り、声を聞くと、その人が邪な心を持ち、この森を荒らそうとしているかどうか知ることができる。害意を感じたら、彼らはその相手を森から追い出すんだ」
「ふうん。はん、あいつらの目は節穴だな。お前みたいな、邪気の塊を通すなんてさ」
「いやだねぇ。私はそんなに邪じゃないよ。自分に素直な、美しい心を持っている。それに、言っただろう。彼らはあくまでこの森に危害を加える気があるかどうかということしか判断しない。その人の性格が悪かったとしても、この森に危害を加える気さえなければ、彼らはその人を迎え入れる」
よく自分で美しい心とか言えるよな。全く、本当に感心するよな。絶対見習いたくないけれど。
しばらく、無言の時間が続いた。
空を見上げる。空気が澄んでいるからなのか、星がそれは綺麗に瞬いていた。星ってあんなに綺麗なものなんだ、と思うくらいだった。天文マニアの人がこの星空を見たら、感動して涙を流しそうだ。
そんな風に空を見上げ続けていたら、足元を見ることをすっかり忘れていた。しばらく歩いていたら、ぐにゃりという音と共に何かを踏みつけてしまった。
ぎょっとして足元を見てみる。
そこにあったのは、一輪の花だった。しゃがんで、その花を見てみた。桜の花に似たものが、あたしが踏み潰したせいでぐにゃりと潰れていた。緑の細い茎も、ぺちゃんこになって汁を出している。
あたしが座り込んでしまったことに気づいた出雲が立ち止まって、あたしの方を見た。
「何をしているんだい?」
「いや、あたしが踏み潰した花が、桜の花に似ていたから。何か珍しい花だなって思ってさ」
「桜の花……か」
出雲がぽつりと呟いた。あたしの横に立って、あいつはあたしが踏み潰してしまった花をじっと見つめていた。しばらくの間、あいつはその花を見つめ続けていた。なんだか、酷くぼうっとしているようだった。
「そういえば、あんたが殺した巫女の姉ちゃんの名前も桜って言ったっけ」
出雲が、はっとする。どうやら、あたしが話しかけるまであたしの存在を忘れていたようだった。
「そうだね。本当、あの町は桜だらけだね。ああ、彼女が居た時はまだ村だったか」
出雲が、花にそっと触れた。自分が喰らった巫女のことでも思い出しているのだろうか。強い力を手に入れた瞬間辺りを。でも、すぐに手を離して立ち上がってしまった。
「まあ、こんな潰れた花を見ているより、美しい私の姿を見ている方がずっと楽しいだろう。さあ、先へ進むよ」
あんたの姿なんて見ても少しも嬉しくないけど。口には出さなかった。……顔に思いっきり出したけどな。
あたしと出雲は、また先へと進んでいく。
「なあ、巫女の桜って言い伝えどおりの奴だったの」
出雲があたしの顔を見る。そして、微笑む。
「そうだねえ。それはそれは凄い力の持ち主だったね。ついでに、言い伝え通り、ものすごく気の強い女性だったよ。紗久羅以上にすごかったかもしれないねえ。私と戦った時も、少しも臆する様子を見せなかったよ」
「で、美人だったの」
「そうだね、まあ私の方が美しいけれど。人間の中では、美人の部類に入ると思うよ。まあ、性格のせいで全て台無しだったけどね。私に刃向かってきた時の彼女の剣幕といったら……いやはや、本当に恐ろしかったねぇ」
性格のせいで全て台無し。ああ、あんたもそうだな。
「その巫女の性格も容姿も力も、言い伝え通り。あんたが巫女の肝を喰ったというのも、言い伝え通り。……でも、全部が全部言い伝え通りじゃないんだな。だって、あんたは死んでいない。言い伝えじゃ、巫女に魂を焼かれて死んだのに」
「言い伝えなんて、そんなものさ。全てが事実とは限らない。全てが作り話であることも珍しくは無い。脚色ばかりで、事実はほとんどないものだってある」
「何で、言い伝えではあんたは死んだことになっているんだろう」
「ふふ、私はあの村に散々悪さをしてきたからねぇ。巫女を襲った時も村を滅茶苦茶にしたし。私という存在は、あの村の人々にとって恐ろしいものでしかなかった。……そんな私を言い伝えの中だけでも殺すことで、少しでも心を落ち着かせようとしたのかもしれないね。まあ、ようは二度と来て欲しくない、巫女に殺されて死んでいればいいってことさ」
出雲は、愉快そうに笑った。まあ、よくもそんなことを笑いながら言えるもんだ。やっぱり、妖の感覚ってあたしたちのそれとは違うのだろうか。
「本当に喰ったんだな、人を、人の肝を」
気のせいか、少し悲しげな表情をあいつは浮かべていた。
「ああ、食べたよ。人の肝を喰らって力を得ること。それは、私にとっては当たり前のことだった。まあ、今は人間の食べ物ばかり食べているけどね。だって、そっちの方が美味しいもの。人間の肝なんかより、菊野の作るいなり寿司の方がずっと美味しいからね」
「人の内臓と婆ちゃんのいなり寿司を比べるよな」
ああ、もう本当にどういう神経しているんだよ。信じられない。そんな神経をしているからこそ、平気で村に悪さをしたり、怖がる人を殺して肝を喰ったりすることができるんだな。
「言い伝え通りくたばっていればよかったのに」
「酷いことをいうなあ、紗久羅は。そんなこと言うと、元の世界に帰してやらないよ」
う、それは困る。あたしがあからさまに困ったような表情を浮かべると、出雲はにやりと笑った。ちくしょう、この世界ではあたしは無力だ。まあ、あっちに戻っても勝てないけど。
「あんたって、どうしてそんなに歪んでいるんだ」
出雲は、ただ楽しそうに笑った。
「さあ、何故だろう。……自分が歪んでいるなんて思ったこと無いから、よく分からない」
嫌味を嫌味にとらないところが、いやらしい。
どれくらい歩いただろうか。そんなに疲れていないから、きっとそこまで長い時間歩き続けているわけではないと思う。
そういえば、なんだか人がわいわい騒いでいる声が聞こえる。それは、段々大きくなってきている。
「そろそろ皆が集まるところに着くかな」
「集まって、何をするんだ」
あたしが聞くと、あいつはにやりと笑った。
「鬼灯夜行、だよ」