深い深い水溜りの底で(9)
*
「私は……そんな優しい人なんかじゃありません。誰かの幸せの為に……ましてや、その日知り合ったばかりの人の為に……自分にとって大切なもの、決して捨ててはいけないものを……捨てることなんて、出来ません。大浪様や小浪様、青海様を助けたいという気持ちが少しも無かったとはいいませんが。私がこの世界に残ることを決めたのは、他でもない、自分の為なんです」
「自分の、為?」
今の青海にはただそうして聞き返すことしか出来ないようだった。彼は明らかに困惑していた。顔を見なくても、声を聞けばよく分かる。無理もないと千景は思う。普通に考えれば、本来自分がいるべきではない世界に居続けることに利点など無い。
千景は相手に見えていないことが分かっていながら静かに頷き、続きを話す。
「大浪様と小浪様にお願いされた時、私は迷いました。一体どうすれば良いかって……一度会ってお話だけでもするべきか、すぐにでも帰るべきか、と。どうしようかと考えている時、両親や友達のことを思い出しました。ああ、きっと今頃皆心配しているだろうな、皆ともう会えないなんて嫌だなって思ったら、胸が苦しくなって……やっぱり帰ろう、そう思いました」
帰ろう。その言葉に青海が身じろぐのを感じる。かなり戸惑っているのだろう。
「不思議に思っていらっしゃるでしょう。帰ることを決めた私が何故、今なおここにいるのかということを。私は確かに、帰ろうと思いました……そのことを二人に伝えるために口を開こうとした……まさにその時、私の頭にある人のことが浮かんだんです……浮かんで、しまったんです」
もしもあの時『彼』のことを思い出していなければ、千景は今頃ここにはいないだろうと思った。青海に会うことも、なかったのだ。
「その人の顔が私に嫌なことを思い出させました。ああ、そうだ、元の世界に戻ったら……また顔を合わせなくてはいけなくなる、きっとまた嫌な思いをする……それを思ったら、たまらなくなりました。心も体も痛くなって、大切な人達への思いもかき消されていって……それで、私は」
その人とまた顔を合わせたくないばかりに、青海様と一度お会いしたいと言ったんです……そこで一度、沈黙。
(そう、始めはあの世界から、ほんの一時的な痛みから逃げる為に私は言ったんだ。青海様と会わせてくださいって……)
青海は一人、そうなのかとかええ、とかああ、とか言いながら唸っている。
それから少しして息を吸い。
「そ……それ程までに辛い目にあったのか?」
哀れむような声が微かに聞こえ、千景は小さく頷き、それから首をゆっくり横へ振る。
「ある人との出来事、それに関することで、辛い思い、嫌な思いをしたことは確かです。けれど、けれど……きっと、近い未来には消えてなくなる……そんなものでした。数年後には多分『そういえばそんなこともあったなあ』って言える位の、ものでした。ちゃんと立ち向かい続けていれば、いつか大切な思い出の一つになる、そんなものでした。それなのに、私は……この先もずっと続いていくもの、遠い未来まで残るものの方を選ばないで、一時的なもの、いつかは消えていくものから逃げることの方を選んでしまったんです」
青海は何と答えれば分からないらしく、悲しそうな、辛そうな声でむぐうと唸るだけ。千景としてはその方が助かった。ぐいぐい色々聞かれるよりは、自分のペースで話す方がずっと楽だったから。
「けれど、言ってすぐ、後悔しました。自分が言ってしまった言葉が頭の中で『馬鹿』って言葉に変わりました。ああ私はなんて馬鹿なことを言ってしまったのだろうと強く後悔しました。けれど一度言ってしまった以上、やっぱり帰りますとも言えず。とりあえず青海様とお会いしようと思いました。その後、すぐ、言おうと思いました。元の世界へ帰してくださいって。……大浪様と小浪様には申し訳ないと思いましたが、けれど、それでも、帰ろうと」
「だが、そ、そなたは帰らなかった……」
「ええ、帰りませんでした。青海様と会うまでは、元の世界に帰りますと二人に言うことだけを考えていました。けれど、貴方が頭に被っていた布を取っ払って貴方の顔を見た時……私はあることに気がついて、それと同時に私の中にある感情が芽生えて……ああ、駄目だと思いました。私はきっと言うことが出来ないだろうって」
「い、言うというのは……な、何を」
「家に帰りたい、と言うことが出来ないだろうということです……そしてその通り、私の口から出た言葉は『元の世界に帰りたい』ではなくて。『この世界に残りたい』というものでした。わ、私は大浪様達の願いを聞き入れることにしたんです」
頬を赤く染める熱は高くなっていくばかり。その勢い、とどまることをしらず。一方の青海は千景がどうして自分と会うことで考えを変え、この世界に残ることを決めたのか理解出来ないらしく、明らかに混乱しているような声をあげている。察しの良い者なら気がついただろうが、生憎青海は察しの悪い……鈍い男であった。そもそも彼がもう少し他人の気持ちに敏感であったなら、今までの千景の態度や彼女から貰った贈り物などから彼女が自分にどのような想いを抱いているかとっくに理解していただろう。
どうして、というたった四文字の言葉を言うのに彼は恐ろしい程の時間を使った。どどどどっ、どどどうどう、どどどうどうししして……とやっとのことで千景に話の続きを促す。
青海の動揺が、千景にも移り彼女の頭を沸騰させていく。彼のどどどどっ、どどどうどう……という言葉に合わせて心臓が膨らみ、縮み、膨らみ、縮み。
しかしここで話すことを止めるわけにはいかない。ここで止めてしまったら折角のチャンスを無駄にしてしまうことになる。
「その理由を話す前に、あの、その……私が先程話した……ある人物とのことについて、話さなくてはいけません。その人物というのは、かか、か、かつて……その、あの……私のこ、こい……恋人だった人なんです」
恋人。青海相手にその単語を口にすることは気恥ずかしく、小さな声でやっとこさっとこ言った後、しばらく顔を両手で覆い一人悶える。
その単語を聞いた青海も千景と同じような状態になっているらしい。
「私達の世界には学校というものがあります。……こちらの世界には殆ど無いものだそうですね。他愛も無いことを教える、ごく小規模のものが少しある位だと聞きました」
千景は青海に、学校というものがどんな所であるか簡単に説明する。数百人、多ければ千人以上の子供達が一つの建物に集まること、その子供達を産まれた年ごとに二つから六つの集団に分けること、更にそれを五つ前後の集団に分けることなど。
青海はそんな多くの人達と一つの空間で過ごすことを想像しただけでぞっとしたらしい。彼から放たれていた熱がすうっと消え。彼は「そんな恐ろしい場所がそなた達の世界にはあるのか」と震えた声で呟いた。千景はそれを聞いて思わずくすりと笑い、しかしすぐ真剣な表情に戻り話を続ける。
「彼とは二年生の時同じクラ……グルー……ええと、学級……集団になりました。彼は明るくて、友達も多くて、皆の人気者で、運動も出来て、おまけに顔が良い……そんな人でした。私はそんな彼に、自分が持っていないものを沢山持っている彼に惹かれていきました。憧れ、好意……それがいつしか恋愛感情に変わっていって、ああこの人とこ、恋人になれたらどれだけ良いだろうと私は毎日のように思っていました。そして私はある日、勇気を振り絞って、その人に告白したんです。彼と話らしい話もしたことが無かったのに……幾つかの段階を一気に飛ばして」
その時のことを思い出すと、甘いものと苦いものが同時に胸にこみ上げてくる。
「どうせ駄目だろうと思っていました。青海様には言っても信じてもらえないかもしれないですけれど、私って向こうの世界では無口で、どちらかといえば引っ込み思案な性格の人間だったんです」
え、と予想通り青海が驚きの声をあげた。青海の前では千景は常にお喋りな人間であったから、まあ無理も無いだろう。
「これといった取り柄の無い、地味で目立たない人間でした。そんな私なんかの、今まで殆ど関わりの無かった人間なんかの告白なんて受け入れられるはずが無い、そう思っていました……どうせ一蹴されて終わるだろうって、そう」
けれどそうはならなかったんです――呟くように言う。
友人の助けもあり、どうにか告白にこぎつけることが出来た千景。告白を受けた男は、告白を終えて真っ赤にした顔を俯かせ、両手を腹の前でもぞもぞさせていた彼女に「良いよ、付き合ってあげる」と言ったのだ。
――大人しい女の子も悪くないし。うん、気に入った。今日からあんたは俺の彼女だ。宜しくな――
あっさり、さっぱりした返事。それを聞いた時千景は天地がひっくり返ったとしてもそうはならないという位驚いた。その表情を見て、彼は笑った。
――綾崎って可愛いね――
「それから、私と彼は付き合い始めました。周りの人達には有り得ないと驚かれ、彼のことが好きだった女子達には散々嫌味を言われました……素直に私の想いが彼に通じたことを喜んでくれたのは、友達位のものでした。それでも、良かったんです。幸せでした……毎日が初めての連続で、ああ、あの時勇気を振り絞って告白して良かったと心の底から思いました」
幸福だった日々。そのことを思い出すと、今でも胸が甘いもので満たされる。
デート、キス、手を繋いで歩く、二人でお喋り、夏祭り、海……。
千景はずっと憧れていた。誰かを愛し、誰かから愛されることに。恋愛だとか、恋人だとか、そういったものに。しかし地味で目立たぬ彼女に目を向ける男は一人もおらず、彼女自身も高校二年の時まで誰のことも好きにならなかった。そんな彼女にとって、彼と過ごした甘い日々はこの上なく幸せなものだった。
「けれど、そんな日々もそう長くは続きませんでした。ある日……私がこの世界へ連れてこられる前の日――彼は私にあることを告げたんです」
胸を満たしていた甘いものが一瞬で苦いものへと変わっていった。俯き、ため息に近い息をもらし、ゆっくり顔をあげる。
「彼は、わ、私以外の人とも付き合っていたんです。彼はそのことを何の悪びれもなく、話しました。それから……もう私とは別れるって」
千景はそのことを聞いた時、まず呆然とした。何を言われたのか分からず、告白を受け入れられた時同様棒立ちになり。それから少しずつ悲しみと怒りの感情がこみあげ。
「私は彼を責めました。二股かけた上、一方的に別れを切り出されたことに腹が立って仕方なくて、顔を真っ赤にして、今まであげたことが無い位大きな声で怒鳴って、泣いて……」
一度爆発した感情は容易には収まらず、千景は思いつく限りの言葉を次から次へと吐き出した――そのことは、まだ昨日のことのように覚えていた。この世界に来てからも、精神が不安定な時はその時のことを夢で見ては苦しみ。
「最初彼は少し落ち着けとか、悪かったとかごめんとかそんなことを言っていましたけれど、終いにはブチ切れて……私以上に大きな声をあげて、色々なことを言ってきました。最初から俺は本気なんかじゃなかった、ただ大人しい子と付き合うのも面白いかなと思って付き合っただけ、本気でお前なんか好きになる男なんているもんか、何勝手に勘違いしているんだとか……」
二股をかけ、一方的に別れを切り出し、その挙句逆切れ。
――お前の良い所なんて、大人しくて従順、それでもって俺より頭が良いってところ位だ。最初はそういう所がかなり新鮮に映ったけれど……もう、飽きた。やっぱり俺には合わない。お前みたいな地味でぱっとしない女は――
「最初から愛されていたなんて、そんなことは思っていませんでした。私が告白するまで、殆ど関わり合いなんてなかったんですから。けれど、付き合う内、少しずつ好きになってもらえたと、思っていました。あの時の私は本気でそう思っていて、きっとこの日々は永遠に続くものだと信じて、疑っていませんでした。けれど……違いました。結局彼にとっては最初から最後まで、遊びでしかなかったんです。大人しくて地味な女の子と付き合うのも面白そうだし、話のネタにもなるだろうし……そんな気持ちでずっと私の隣にいたんです。でも結局そんな『遊び』にも飽きて。最後に彼は私に『明日からはもう俺と一切関わるな、俺のことは無視しろ、俺もお前のことは無視するから』と言って、泣いている私を置いてさっさと帰ってしまいました。そして次の日、彼は宣言通り、私なんてまるでいないかのように、私と付き合っていた事実なんて最初からなかったかのように振舞って」
廊下に出た元彼が携帯で誰か――恐らくもう一人の彼女――と楽しそうに話している声を千景は聞き、ますます悲しく、そして腹立たしくなった。しかしその思いをぶつける相手はもう目の前にはおらず。
「そもそも本当に二股だったのか、疑問ですけれど。もしかしたら三股、四股くらい平気でかけていたんじゃないかって、思います」
千景は笑ってみせた。そうして笑っていないと、泣き出してしまいそうだったからだ。まだ遠い思い出として片付けることは出来なかった。無理矢理笑顔を作ったせいで、頬が痛む。
青海は一体何と声をかければ良いのか分からない、かといって無言でいるのは不味いと思っているのか、唸ったり、「あの」とか「その」とか繰り返したりしている。千景にとってはその方がありがたかった。同情の言葉をかけられたらかえって辛くなるから。
「次の日にはもう話は学年中に広まっていて、私は同情されたり、面白半分に話を聞かれたり、私と彼が付き合っていたことに良い感情をもっていなかった人に嫌味を言われたり……。大浪様達からお願いをされた時、私はそのことや彼のことを思い出したんです。ああ元の世界に戻ったら、また彼と顔を合わせる羽目になる、顔を合わせれば否応なく楽しかった時のことや別れる時のことを思い出すに違いない、当分は色んな人達から色々なことを言われるって思って、そしたら、元の世界に帰ることが嫌になって」
青海と会いたいと言ってしまったのだ。
「そ、そうか。……そしてその後そなたはすぐ後悔し、余と会った後、向こうの世界へ帰ることを決めた。だが、そなたは……。そなたは余と初めて会った時何に気がついたのだ、何を思ったのだ。余はそれが気になる。……こんな風に、他人のことが気になったのは、初めてだ」
最後、呟くようにぼそりと青海が言った言葉。それが千景をどきりとさせる。
何いちいちどきどきしているのだ私はと、両頬をぺちぺち叩き。
「私は彼のことを恨みました。ふざけるなと思いました。最初から最後まで、暇つぶし感覚で私と接していたこと、そのことを少しも悪いとは思っていなかった彼のことを。真剣に私と向き合ってくれなかったことを、悔しいと思いました。……けれど……青海様。私は、青海様を見た時、自分の本当の気持ちに気がついたんです。……私も、同じだったんです。私も彼と同じだったんです」
「おな、じ?」
動揺と困惑。掠れた声。千景の顔に自虐的な笑みが浮かぶ。
「私も彼のことを、本当に好きになっていたわけじゃなかったんです。本気で恋していたわけじゃなかったんです。そのことに私は気がつきました。私は自分には無いものを沢山もっている彼への憧れを……恋愛感情へとすり変えてしまったんです。『恋』というものがしたかった私は、自分の思いを都合の良いものに変えてしまったんです。本当は恋なんてしていなかったのに。最初から最後まで、恋心なんて殆どなかった……ただ、彼に憧れていた――何か良いなあって思いしかなかったんです。それに私、あの人のこと確かに格好良いとは思っていましたけれど」
決して好みの顔では無かったみたいです――と千景は苦笑い。冷静になって考えてみたら、そんな結論が出たのだった。顔立ちが整っていて、格好良いとは確かに思った。思ったが決して好みのタイプでは無かったのだった。
「私を暇つぶしの為の道具にしていた彼。けれど今になって思えば……私も同じように、彼を利用していたのかもしれません。皆の人気者で何かと目立っている彼と付き合えば、皆から注目される……地味で、世界の隅っこでぽつんとしている自分とさよなら出来るって思っていたのかもしれません。私にとって、彼は少し派手な装飾品だったのかも。そんな自分を正当化させる為、私は彼に本気で恋をしていると思い込もうとしたのかもしれませんね。本当のところは分かりませんが」
自分も彼と変わらない人間だった、利用しているのはお互い様だった。最初から愛も恋も存在していなかった。彼に自ら告白した自分自身にさえ――もしこの世界に来ていなければ、青海と会っていなければ当分の間自分の思いには気がついていなかっただろうと千景は思う。
(けれど、今でもあの日々のことを思い出すと甘いもので胸がいっぱいになる。幸せだと無理矢理思い込んでいたわけではなく、実際、それなりに楽しくて、幸せだったのかもしれない。恋愛ごっこではあったけれど)
そうして話している内にも色々なことに気がつき、ああそうだったのかもなあ、こうだったのかもなあと思っている千景に対し、何も理解していない、何かに気がついたということもないらしい青海は唸り声をあげ。
「何故だ。何故そなたは余の顔を見てそのことに気がついたのだ……?」
「それは」
言おうとして、言葉に詰まる。いよいよ心臓が爆発しそうになってきた。
千景はある想いの欠片を注いだ贈り物を贈り続け、手料理を食べさせ続けてきた。今から彼女はそれらに込め続けていた想いを自分の口で伝えなければならない。
口にしたら、全てが終ってしまうかもしれない。結局向こうの世界へ帰ることになってしまうかもしれない。そんな思いが、千景の心に迷いを生む。
(言わなくちゃ、言わなくちゃ、言わなくちゃ。ここまで話したのに、一番大切なことを伝えないでどうするの。今の関係を今日で終わらせるんだ。今ここで話せばきっと、終わる。どんな形で終わるのかは分からないけれど)
千景はゆっくりと天井を見つめた。瞳に映るのは海――高い天井を覆う青や水色の布と泡沫――その布についている大小様々な玉。火照る体を優しく撫でる冷気、水。
(ああ、まるで海に抱かれているみたい。広い、広い、果ての無い海に)
そう思ったら、不思議と心安らいだ。果ての見えない天井に、今はまだ見えない未来を重ね。千景はゆっくりと息を吸った。
「何故貴方の顔を初めて見た時、そのことに気がついたのか。それは……それは、本当の恋を……誰かを本気で好きになる気持ちというものを、貴方を見た瞬間に知ったからです。『本物』を知ることが出来たからこそ私は……自分がかつてあの人に抱いていた『恋愛感情』が『偽物』であったことに気がつくことが出来たのです。青海様。私は……私は、一目見て貴方のことを好きになったのです」
「え……?」
一瞬の沈黙。それから、うおうあえい!? という驚きと混乱が混ざった声が聞こえる。
「貴方を見た瞬間、今まで感じたことのないものが体中を駆け巡りました。そ、その時私は理解したんです。ああこれが本当の『恋』なんだって。この想いは、この想いだけは偽物なんかじゃないって、私、胸を張って言えます」
出来ることなら、目と目を合わせて言いたかった言葉。
「そ、そんな、余、余なんかを」
「お願いです、最後まで……最後まで言わせてください。聞いてください、私の言葉を。私が貴方にずっと伝えたかったことを。私は貴方に恋をしました。初めての、本当の、恋を。同時に私は思いました――ああ、駄目だって。私はきっと大浪様達に言うことが出来ないだろうと。元の、元の世界に帰してくださいと。実際その通りでした。私の口から出たのはこの世界に残りますという言葉でした。たった一瞬目と目を合わせただけで、私は、私は決めたんです」
次から次へと自分の想いが口から言葉となって出てきた。それを止めることはもう世界中の誰にも出来ないだろう。
「私は、自分の想いを成就させる為、向こうの世界を捨てることを決意しました。両親や友人達が辛い思いをすることになっても、沢山の人に迷惑をかけることになっても、それでも私は自分が幸福になることを選んだのです。結局の所、私がここに残ることを決めたのは他ならぬ自分自身の為、誰かの為じゃありません。私は他人の幸せの為に自分を犠牲にすることが出来る人間じゃ有りません。わ、私は……自分の幸せの為にその他一切のものを犠牲にするような人間です」
溢れる想いと、どんどん露になっていく自分の汚い部分。千景は涙を流すのを必死にこらえ、言葉を時々詰まらせながらも口を開き続ける。
「まだ、向こうの世界への思い、人間であり続けることへの執着心などを完全に捨て切ることは出来ていません。きっと何もかも全て、綺麗さっぱり捨てることは、この先一生出来ないでしょう。それでも、私は、決めました。青海様との距離がなかなか縮まらなくて、苦しくて、もうやめてしまおうと思ったことだって何度もありました。捨てたものをかき集めて、また自分のものにしてしまおうと思ったことだって、一度や二度のことじゃありません。けれど、結局、出来ませんでした。どれ程の時間が経っても、私の貴方へ対する想いは消えませんでした」
どうしてそこまで、どうしようもない位青海のことを愛してしまったのか――しかもただ一瞬瞳を交わしただけで――それは正直なところ千景にもよく分からなかった。理由などは無かった、ただ、愛したのだ。
その想いは今日まで消えることなく、千景の胸の中でずっと燃え盛り続けていた。
「多分私は最悪の選択肢を選んだのだと思います。人間として、最も選んではいけないものを、選んでしまいました。けれど、私はこの選択肢を選んだのは間違いだったとは思いません。最悪だけれど、最良の選択だったって思います。……勿論、この先、後悔することはあると思います。私は何故こちらの道を選んでしまったのだろうって。けれど……けれど、最期死ぬ時には『やっぱり私は選ぶ道を間違えてはいなかった』と思いたい、そう思えるような人生を、送ってみせる……そう、決めました」
青海様。千景は話している内に曲がってしまった姿勢をただし、顔をあげ、凛とした表情で。
「青海様。貴方のお気持ちを聞かせてください。……どうしても私とは一緒になれない、なりたくないとおっしゃるのでしたら……私は諦めて……向こうの世界に帰ります」
「えっ……」
青海の体が大きく揺れるのを、千景は背中越しに感じる。
「人間として暮らして欲しいから、私の想いを受け取らないということは、やめて下さい。……その逆に、私のことを哀れに思って、少しも好きではないのに私の想いを受け入れるというのも、無しです。私は真剣な想いを貴方に聞かせました。ですから、ですから青海様。どうか貴方も、私の想いを真剣に受け止めてください。そうした上で、答えを、答えを……聞かせてください」
自分勝手なことを言っているのは十分分かっている。突然好きだと告げた上に、貴方の想いを今聞かせてくださいと言うなんて。しかし千景はどうしても今、聞きたかったのだ。
青海が無言になる。千景は何も言わず、ただ彼が口を開くのをひたすら待っていた。
(少しの望みも無ければ、帰る。……自分勝手な考えで捨てたくせに、都合が悪くなったら捨てたものを回収して、捨てたことなんて一度も無かったように振舞う。帰ることはもう無いだろうと言っておいて、ちゃっかり逃げ道として向こうの世界を用意している。本当私って自分勝手だ……結局私には、あの人のことをとやかく言える資格なんて無かったんだ)
静寂はまだ続く。時々何か言いかけるのだが、結局やめてしまい無言となり、それからしばらくしてまた何か言いかける。それを何度も彼は繰り返している。
千景は辛抱強く待ち続けた。緊張で痛む胸や腹を押さえながら、体を襲う震えを懸命に止めながら。
そんな時間の終焉を告げたのは、青海の声。
「……そなたと初めて会った時。余はどうしようもない位体が熱くなるのを感じた。両目が焼け、顔が燃え、心の臓が潰された。……その時余を支配したのは、得体の知れぬ思いだった。顔を見られたことが恥ずかしい、目があって恥ずかしい――そんな普段抱くものとは明らかに違うものだった。その強く激しい思いの正体が何であるのか、余には分からなかった。……分からない、しかし、熱くて苦しくて……余はとても怖かった」
静かに語る青海の声が、千景の心を激しくつき動かす。
「そなたが余の部屋へやって来て、余に色々な話を聞かせている時も。そなたの声が耳に入る度、同じものに襲われた。い、いつもそうだった。余は怖くて仕方が無かった。そなたの名を耳にしたり、そなたの顔が頭の中によぎったりした時も同じように……体中が熱くなり、胸が苦しくなり、何も、考えられなくなる。だから余は……そなたと会うことが、そなたのことを考えることが、怖かった……」
しかし、と少し沈黙した後青海は再び語り始める。
「そなたのことを考えれば、怖い思いをすることが分かっているはずなのに、何故か余はそなたのことばかり考えた。たった一瞬見ただけの顔はいつになっても余の頭から消えることはなかった。……そなたから貰った贈り物を見、触れる時も、同じものに襲われた。触れた手から全身へと熱いものが流れていき、痛みを伴う痺れがそれと共に駆け巡り、胸は苦しくなり、声をあげずにはいられなかった。にも関わらず、余は何度も触れるのだ。恐ろしい、怖い思いをすることが分かっていてなお、余は……」
日に日に青海が千景のことを考える時間は増えていったという。贈り物に触れる回数も。
「贈り物を貰うようになった辺りから、余はそなたがどうして人の世と別れを告げてまでこの世界に残ったのか気になっていった。そなたが贈り物や手料理にどんな思いを込めているのかも。他人が余に対してどんな感情を抱いているのか、これ程までに気になったのは初めてだった……どうして余はそんなにもそなたのこと、そなたが考えていることが気になっているのだろう、そのことをずっと余は考えていた。だが答えは出なかった……そなたの話を、そなたの想いを聞くまでは」
今の千景に、青海がこれから言おうとしていることを予想する余裕は無い。
ただちゃんと座っているのがやっと。
「そなたの想いを聴いた瞬間、今まで何度考えても分からなかったことが……不思議と分かった。余も、余も同じだったのだ。初めて顔をあわせたあの日あの時、あの瞬間、余はそなたに……惚れたのだ。ち、ちか、千景……余もまた、ずっとそなたのことを想っていた。余は千景のことが好きだ」
信じられない言葉を耳にした千景は思わず立ち上がり、そしてくるりとその体を反転させる。そして目を見開き、大きく開いた口を両手で押さえた。
青海もまた、体の向きを変えていた。真剣な眼差しを、立ち上がった千景に真っ直ぐ、向けて。
時が、止まる。初めて会った時と同じように。
「嘘ではない……そなたに気を遣って、思ってもいないことを口にしたわけでもない。余、余にはそんなことは出来ない。他人の幸せの為に、己の心を偽ることが出来る程、器用ではないのだ。そなたが真剣に余に想いをぶつけたように、余もまたそなたに真剣に想いを伝える」
頻繁に情けない声をあげている人物とは思えぬ位凛とした顔。彼はゆっくりと立ち上がると千景の眼前までやって来て、そして口を押さえていた千景の両手を静かにとった。触れられた手が、熱い。
「千景。……実はといえば、余は今も怖い。千景への想いに今にも押し潰れてしまいそうで、苦しくて、痛くて、熱くて、たまらない。強く誰かを想うことはこれ程までの力を持っているのだな。……余はきっとしばらくの間は、こうして千景の顔をまともに見られないかもしれない。きちんと話をすることも、出来ないかもしれない。生来の性格もあるから。それはすぐに直すことが出来ぬものだから……だが、少しずつでも、直していこうと思う。千景だけでなく、他の者達ともきちんと付き合える自分に、なろうと思う」
こんな素晴らしい日が本当に来るとは正直思っていなかった千景は堪えていた涙をたまらず流してしまった。青海はその涙に若干戸惑いつつも、話を続ける。
「……千景、そなたは、良いのだな。人としての生を捨てても」
「はい、はい……ここで私は生きます、貴方と生きます」
「その言葉、今は素直に嬉しいと感じられる。千景、余は決めた。そなたと共に生きることを。ありがとう、こんな余のことを好きになってくれてありがとう」
千景は頷き、はい、はいと何度も繰り返した。それ以上の言葉が出てこなかった。
(私は最悪の選択肢を選んだ。けれど、この道を選んだことは決して間違ってはいなかった。その思いをもっと強く確実なものに出来るよう、生きていこう。この深い深い水溜りの底で……)
その日、瑠璃宮中は大騒ぎとなった。今日の昼まではろくに千景と会話することも出来なかったはずの青海が、千景を妻として迎え入れることを宣言したからだ。大浪と小浪は涙を流しつつ、互いの頬をつねりあいそれが夢では決してないことを確認し。
それから約一年後、二人は式をあげ、晴れて夫婦となったのである。
*
「とまあ……こんな感じ。ごめんなさいね、長々と話しちゃって」
千景は自分の身に起きたことを全て話し終えると、手に持ったカップに入った紅茶を一口。
白いテーブル、白いレースのカーテン、豪奢な照明。テーブルに乗っているのはフルーツタルト、ティラミス、抹茶やチョコとバニラのクッキー、レモンパイ、可愛らしい砂糖菓子、カステラ等など色も種類も様々なお菓子。私を食べて、いえ私を、と主張し輝く、甘い宝石達。
絵本の世界から飛び出してきたような、部屋。
千景が今いる場所。そこは瑠璃宮ではない。……妖達が住む世でも無い。
ここは人の世。千景はこの世界で生を終えるはずだった。十数年前まで、そのことを信じて疑っていなかった。いや、そもそも世界というものが決して一つでは無いことを、十数年前、大浪に連れて行かれたあの日まで知らなかった。
「いや、全然。ものすごく面白かったですよ。なあ、柚季」
千景の前に座っている、いかにも快活そうな顔をした少女。ポニーテールを揺らしながら自分の隣に座っている少女に話しかける。柚季と呼ばれた少女はどちらかといえば可憐でおしとやかな雰囲気。赤いカチューシャをつけたセミロングの髪はさらさらしている。彼女は問いかけに対し、ええ、と頷く。
次にポニーテールの少女――名を紗久羅というらしい――は無言で市松模様のクッキーをもぐもぐ食べていた少年の方を見た。どちらかといえば中性的な顔立ちの、割と真面目そうな彼は紗久羅の視線に気がつき、そちらに顔を向けた。何故か嫌そうな表情を浮かべつつ。
「なっちゃんも、青海って王様が千景さんの手を握った時、うわすげえ、やべえって桃色な声あげて超興奮していたもんな!」
「してない! それは幻聴及び幻覚だ!」
顔を真っ赤にして即否定。叫んだ瞬間口の中に若干残っていたクッキーのかけらが変なところに入ったらしく、げほごほとむせる。そのかけらを流し込もうと慌ててカップに入った紅茶を飲んだが。……ついさっきおかわりしたその紅茶は注ぎたてほやほや、いい感じの温度で。悶える彼を紗久羅は声をあげてけたけた笑った。彼は先程から彼女に弄られっぱなし。
奈都貴、というらしい少年は紗久羅から「なっちゃん」とまるで女の子のような呼ばれ方をしている。しかしその呼び名が妙にしっくりくる人物のように千景は思えた。
「井上、お前後で覚えていろよ……」
「その台詞、今まで何回も聞いたけれど。なっちゃんがあたしに仕返し出来たことなんて一度も無いじゃん。なあ、柚季」
「私の知る限りでは、なかったかな」
「井上さんは深沢君をいじめるのが好きですねえ」
紗久羅の奈都貴弄りを止めるわけでもなく、暢気に笑いながらコーヒーをすする、千景の隣にいる男。パーマのかかった髪、青海同様ややぱっとしないが親しみをもちやすい顔。千景が今いるのはその男の家である。
三度の飯には劣るが好きだ、と紗久羅は男の言葉を受けて笑う。三度の飯より好きとか言われたら俺本格的に泣くぞと奈都貴が言えば、なっちゃんがまじ泣きする顔みたいから、三度の飯より好きってことにしちゃおうかなとにやり。
そんな微笑ましい(?)やり取りを眺めながら、また紅茶を一口。
「それにしても驚いたわ。あの世界とこちらの世界を行き来している人間が私以外にもいたなんて。しかもこの辺りでは妖達が色々な事件を起こしているっていうし」
目の前にいる紗久羅と奈都貴がある妖から貰ったアイテムを用い、向こうの世界へ遊びに行くことがあるという話を英彦から聞かされた時千景はそんな人いるの!? と大声をあげて驚いたものだ。柚季という娘は妖に憑かれ、危うくそいつに全てを乗っ取られそうになったことがあったそうだ。ちなみに彼女はある事情から妖を始めとした存在を苦手としている為、向こうの世界には行ったことがないらしい。
「この辺りは向こうの世界との境界が曖昧な上に、異質な力を孕んでいますからね……こちらと向こうを行ったり来たりしている人間はまあ、この子達と井上さんのお兄さんと幼馴染の方位だとは思いますが。普通の人間には道を見る術が有りませんからね。そもそも向こうの世界の人はこちらの世界の存在を知っていますが、こちらの世界の人達は向こうの世界の存在を知らない。行く行かない、行ける行けない以前の問題ですね」
「私だって大浪に連れて行かれるまではあの世界の存在なんて知らなかったし、高校時代九段坂君が色々な人に妖怪は実在するとか、化け物使いがどうとかこうとか話しているのを聞いたけれど……正直何言っているんだこの人はと思ったわ。九段坂君の話していることなんて、少しも信じなかった」
普通はそうですよと、そんなことをクラスの人達にぺらぺら話していたらしい張本人が笑う。呆れた風に「このおっさん、高校時代から変人だったんだ……」と呟く紗久羅。
「まあ、九段坂君も誰かに信じてもらおうと必死に話していたって感じでは無かったけれどね。……私、本当に驚いたわ。九段坂君が話していたことが嘘でも冗談でも無かったことを知った時には。けれど、正直そんな彼が高校二年の時の同級生で良かったと思っているわ」
「千景さんは今みたいに何度かこっちの世界に帰ってくることがあるんですか?」
紗久羅の言葉に、千景が頷く。
「数年に一回ペースだけれどね。こちらの世界のことは忘れよう、捨てようとは思っているのだけれど……やっぱりそう簡単にはいかなくてね。後は瑠璃宮の人達の為、かな。この世界に興味津々な彼等の為、何度かこっちに帰ってきては、話のネタになりそうなものを集めたり、お土産を買ったりするのよ」
お土産を買うお金は、向こうの世界(ただし海中ではなく地上)にある交換屋なる店で調達している。何でも紗久羅はその店に行ったことがあるらしい。
こちらの世界へは、かつての故郷にある池を使って来ている。その池と瑠璃宮のある海、こちらとあちらを分ける境界を一時的に曖昧なものにすることで、行き来を可能にする。その池の辺りにはまず人がやってこないので、誰かに見つかる心配も殆ど無かった。しかし、池と海の境界を淡くさせるのには相当な手間と時間がかかるし、あまり頻繁にこちらへ来ると「やっぱりこの世界で生きたい」と思ってしまうから、滅多にこちらへは戻ってこない。
故郷から離れた場所にあるここ、英彦の家まではこちらの世界へやって来た後電車を使ってやって来た。英彦がここへ引っ越したことは、公衆電話で彼と連絡をとったことで知った。
「初めてこちらの世界に里帰りした時、私は九段坂君の家を訪ねたわ。彼とこれといった関わりはなかったけれど、彼の家自体は街でもかなり有名だったから……それ程迷うことなく辿り着いたわね。両親や友人達のところへ行くつもりは無かった。絶対に行かない、会わないと決めていた……それが一番だと思ったから。けれど、向こうの世界のことを知っているだろう九段坂君には会っておこうと思ったの。心の拠り所――自分の理解者が欲しかったから」
「いやあ、あの時は驚きましたよ、本当に。大学二年の時でしたっけ。門の前に立って、じっと家を見ている人がいて。……それが綾崎さんでした。私に気がついた綾崎さんの顔を見た時は、たまげましたよ。といってもすぐには気がつかなかったのですが。綾崎さん大分雰囲気変わっていましたからね」
「髪もかなり伸びし、高校時代はしていなかった化粧もしていたし……水中でも、あの世界でも快適に過ごせるよう、人間であることを捨てる儀式を受けた影響もあったみたいだし。比べて、九段坂君は全然変わっていなかったけれどね」
真っ直ぐ切りそろえた長い髪を撫でつけながら、苦笑い。儀式を終えた後千景は自分の姿を見て大層驚いた。誰これ、私? と本気で思ったものだ……そんな出来事も今では懐かしい思い出の一つ。
「顔のパーツ自体は変わっていないのですが、雰囲気が変わったんですよねえ」
「柚季もあの鏡女に意識乗っ取られている時は、別人みたいになっていたもんな」
「思い出しただけでもげろげろって感じよ」
うんざりしたような表情を浮かべ、はあ、と柚季はため息。
「行方知れずになっていた綾崎さんが目の前に現れたことに驚き、彼女が向こうの世界へ連れて行かれ、挙句結婚して子供を産んだということを聞いて更に驚いたものです」
懐かしいわね、と千景はそれを聞いて微笑む。英彦は彼女の話を聞いて相当困惑していたが、結局彼女の話を信じ、また誰にもこのことは言わないと約束してくれたのだった。そして今もその約束を守ってくれている。……今ここでお茶をしている紗久羅達は別として。
「私と再会した時の九段坂君の顔、今思い出しても笑えちゃうわ。鳩が豆鉄砲食ったような顔って感じで。あの時も、緊張でかちこちになっていた頬の筋肉が緩んで、その後大分リラックスして話が出来たっけ」
「驚かない方がおかしいですよ。事件に巻き込まれて死んでしまったのだろうか……なんて思っていた人物が目の前に現れたことにも驚きましたし、同級生だったということ以外の接点なんてほぼ無かった人が真っ先に私の家を訪ねてきたってことにも」
あはは、それもそうだとわざとらしく笑う千景。昔こそ唯の同級生であったが、今では大切な友人、こちらの世界における理解者である。彼以外の人――両親や友人、知人とは会っていない。言葉も一度も交わしていない。友人らしき人とすれ違うことはあったが、気がつかれることは無かった。それで良いと千景は思っている。
「それで、青海っていう王様は今大分性格改善されたんですか?」
バウムクーヘンを飲み込み、紅茶を美味そうにごくりと飲み干した紗久羅がにこにこ笑いながら千景に尋ねる。柚季もその辺りは気になるのか、きらきらした目を向けている。そうねえ、と千景はその質問を受けて微笑む。
「まあ、相変わらず人と目を合わせることとかお喋りすることとか苦手ではあるようだけれど、誰かと会う時布を被ることはなくなったし、大分大きな声ではっきりと話せるようになってきたわね。今は皆と一緒にご飯も食べられるようになったしね」
本来瑠璃宮では食事は途方も無く大きな部屋に全員が集まってする。しかし青海は恥ずかしい、大勢の人と一緒に食事とか怖くて無理だと言い、ずっと一人で食べていた。しかし千景と晴れて結ばれ、彼女との交流を通じて少しずつ異様なまでにはずかしがり屋な性格は改善されていった。
それじゃあ占いは当たっていたわけですねと柚季。
「そうみたいね。今じゃヤキモチ妬くこともあるし、私が帰ってくると寂しかったと飛びついてくるし、冗談とか言って人を笑わせることも時々あるし。それに今では三児の父親だしね……私と目を合わせるだけで顔を真っ赤にしていたような人が、本当、私が言うのもなんだけれど、驚きだわ。本当、昔の青海が今の青海と会ったら、びっくり仰天するでしょうね。それ位変わったわ」
「綾崎さんも変わりましたよね。外見の雰囲気だけではなくて、性格なんかも以前より明るくなって……もう貴方のことを大人しくて地味な人間とは誰も言わないでしょう」
「あら、ありがとう。まあ褒めても何も出ないけれどね」
青海と出会ったこと、そして自分が今まで住んでいた世界から離れたことで、大人しくて地味だった自分、そんなレッテルを貼られていた自分から離れられたことが自分自身を変えることになったのだと千景は思う。
(やっぱり私は思う。私は、間違った道を選んではいないって。選ぶべき道では無かったかもしれない。けれど、私は今とても幸せだ。人間では無くなったけれど……人間より長い時間を……数百年の時間を生きることになるけれど、こうしていつかは九段坂君と話すこともなくなって、自分の居場所がこの世界から完全に消えて無くなる日がいずれ来るけれど……もう、両親にも友人にも会えないけれど、それでも私はこの道を進み続ける。向こうの世界で、生きていく)
千景はいずれ完全に手放すことになるだろうこの世界で過ごす時間を、楽しむ。
そして彼女は英彦と別れ、自分と生きてくれることを誓ってくれた人のいる海の底へと帰っていった。