表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桜町幻想奇譚  作者: 里芽
深い深い水溜りの底で
116/360

深い深い水溜りの底で(8)

 予想だにしなかった事態に、二人共言葉も出ず体を動かすこともままならず。

 結果として二人、今までに無い位長い時間お互いの顔を見ることとなった。

 初めて見たその時から、少しも褪せることなく千景の頭に残り続けていた顔が、今目の前にある。そうして彼の顔をまともに見たのは実に数ヶ月ぶりのこと。


(どうしよう……)

 自分はどういう行動をとるべきか。そのことを冷静に考えられるほど、今の千景にはおよそ余裕というものが存在しなかった。体は真っ赤、頭の中は真っ白である。

 迷子になったことを話し、どう歩けば自分の部屋へ戻れるか聞く、失礼しましたと言って急いで退出する、彼とよりお近づきになる為今の曲青海様が演奏なさっていたのですねという言葉を皮切りにどんどん攻める――いずれの選択肢も、今の彼女の頭の中には無い。


 床へ真珠を落とした音さえ大きくはっきり聞こえるのではないかと思える位の静寂を喰らったのは、青海の悲鳴だった。嵐の海を渡る船のごとく揺れる情けない声。

 その声が千景の頭を再び動かす。一方悲鳴をあげた青海は楽器を手放し、いつも通り千景に背を向けようとした。


「待って!」

 それを見た瞬間、ついさっきまで間抜けにぽかんと開けていた口を大きく、そしてはっきり開けて千景はそう叫んでいた。同時に半開き状態だった扉をばん! と勢いよく開け、部屋の中へ飛び込む。彼女の叫び声と行動に驚いた青海はびくりと体を震わせ、やや浮かしていた尻を床にぺたん! 固まった手からこぼれる弦。悲鳴をあげていた口は間抜けな形を保ったまま動かなくなる。


 しかしそんな彼以上に驚いたのは、他でもない千景であった。

 咄嗟に出た言葉、手足。こうしようと思ってとったわけではない行動に自分自身ぎょっとし、困惑した。一体どうして彼を止め、部屋の中へ飛び込んだのか――道を尋ねようと必死だったからということは決してないはずだ――ということを考え始めたのは、そうした後。早押しクイズで反射的にボタンを押したものの、答えは頭になく、解答権をもらった後になってから考え出すのと同じような。


 答えは案外すぐに出た。喉をごくりと鳴らしてから口を開く。


「あ、あの……演奏、止めないで下さい。まだ曲……途中ですよね。私、ここで聞いています。演奏中は喋りません、私に背を向けて演奏しても構いません。……演奏が終わったら、帰ります。ですから、お願いです。あの美しいい音色を私に聴かせてください」

 最初千景は、青海と話をしたい、その思いを伝えたいと思ったから「待って」と叫んだのだろうと思った。だが、違った。勿論彼と話をしたいのは山々だった……しかし少なくとも今に限っては、彼の演奏していた物悲しくも美しい曲をもっと聴きたいという思いの方が圧倒的に勝っていたのだ。

 青海はその答えを想像もしていなかったらしい。「え?」と明らかに困惑している様子の表情、激しく上下するまぶた。確かに予想外の答えだっただろうと千景はどきどきしつつ思う。自分でもまさかそんな思いを動力にあんな行動をとったとは始め思っていなかったし、また、今でもそれが信じられなかったからだ。


 彼は無言で俯く。どうやら先程放り投げかけた楽器を見つめているらしい。

 きっと駄目だろうと千景は思っていた。誰かが自分の演奏を聞いている、その姿を想像しただけで恥ずかしいと思い、顔を真っ赤にさせてしまいそうな彼だったから。

 やがて青海は自分がとり落とした弦を手に取ると、ゆっくり体を動かし、千景に背を向けた。それを見た時千景はまさか、とぽっと生まれでた期待に胸を膨らませる。


 そして彼女の耳にあの女の声の様な、哀愁漂う美しい音色が優しく入り込んだ。その音に千景の心はあっという間に奪われた。そして静かに彼女は床へと腰を下ろす。床に敷き詰められた石は非常に冷たいものであったが、今の千景はそんなことを全く気にしなかった。


 心にじんわりと染み渡る音色が生み出す世界。その音色と世界でいっぱいになっている千景の心や頭に、青海のことや今後のこと、自分の部屋へ戻る為の道のこと、そんな『余分』な考えが入り込む隙間はなく、

 扉を介さず耳に入る音はより深く心に染み渡り、そしてより鮮明な映像を生み出す。零れ落ちる涙を時折袖で拭い、しかし青海に自分の存在をなるべく意識させぬよう、胸を襲う切なさに思わずあげたくなる声をこらえた。


 どれ程の時間をそうして過ごしただろうか。ものすごく短かったような気もしたし、とてつもなく長い時間だった気もしたが、結局正確なところは分からかった。だが時間がどれだけ経ったかなど、今の千景にはどうでも良いことだった。切ない痛みを残しつつ、ゆっくりと小さくなり、消えていった最後の音。

 演奏が終わり、再び静寂に包まれる部屋。しばらく千景は立ち上がることが出来なかった。まだ帰りたくない、この余韻に浸っていたいと思ったのだ。

しかしいつまでもそうしているわけにはいかない。約束は果たさなくてはいけない。千景は「ありがとうございました」と一言言い、それからゆっくり立ち上がり部屋を後にしようとする。自分が迷子になっていることはすっかり忘れていた。


「そ、そなたは」

 

「え?」

 部屋を出ようと扉と向き合っていた千景の背に、首を絞められた鳥のような声が届く。まさか声をかけられるとは思っていなかった千景は驚き振り向いた。

 彼はどうにか言葉の続きを口にしようと、ええ、とかその、とかあのとか妙な強弱のついた声を発し、それから。


「何故この部屋へ来たのだ。こ、この辺りにそなたが足を運ぶような部屋はなかったはずだが」

 その問いを聞いて千景はようやく自分が迷子であることを思い出す。まさか話しかけられるとは思っていなかったから随分あせってしまい、何にも複雑ではないここへ来るまでの経緯を話すのに非常に時間がかかってしまった。

 説明を聞いた青海は首をぎこちなく上下にふり。

 

「そ、そうか。そういうことだったのか」


「え、ええ。……あの、青海様。ここから私の部屋に戻るにはどうすれば宜しいのでしょう。そ、その……教えてくださると大変ありがたいのですが」


「おっ、教えることはさして難しいことでは、な、ないが。その……」

 壊れかけ、ところどころ声が途切れたり変な音になったりする声の出る人形のようなことになっている二人。どきまぎしながら千景は言葉の続きを待った。

 青海はうんうん唸りながら、考え事をしているらしい。恐らく自分が今から言う予定のことについて考えているのだろう。彼はしばらく考え込んだ後、ようやく口を開いた。


「は、は、は……話をしよう。そ、そなたに聞きたいことなどもあったし……」

 それだけ言うのに彼は何分もの時間をかけた。おまけに声は小さく、千景が彼の声を聞くのに全意識を集中させていなければ、確実に聞こえない位だった。

 そうして彼の言葉を聞き終えた千景の驚きようといったらない。声を出すことも、目を見開くことも出来ない位、彼女は驚いた。千景に言葉のボールを投げることは出来るが、千景から返ってきたボールを受け止め、更にそれを投げ返すといった芸当は出来ないような男が自ら「話をしよう」と言ったことに。                                                 今の千景は頭が真っ白になっている為気がついていないが、先程の「迷子になった」という言葉に対して彼が「そうか」と返した――というやりとりが実は二人の間で初めて出来た言葉のキャッチボールであった。

  

 千景は混乱した。混乱しつつも、自分がどうしたいのか考えていた。


(断る理由なんて無い。ずっと待ち焦がれていた日がやっと来たんだ……私は話がしたい、青海様と、話がしたくて仕方が無い。青海様が私に聞きたいことというのも気になるし)

 あまりに強烈な驚きと興奮のせいではっきりと感じないものの、千景は相当喜んでいる。胸の高鳴りは止まない。

 千景が頷き「私も貴方と話がしたいです」と答えると青海はほっと息を吐く。


「もっと近くに来て欲しい。……余の声は小さいから、そこにいたら、ちゃんと、聞こえないだろう。あ、だが、その……出来ればそなたも余に背を向けて欲しい。み、見られていると思うと、う、上手く喋れないから。ぬ、布座がその辺りにあると思うから、そ、それを使うと良い。そのまま座れば冷たかろう」

 様々な感情のせいで熱と痛みを伴う痺れをもつ手足を動かし、ぎこちなく千景は青海へと近づく。それ程までに彼の近くに来たのは、初対面の時以来。青海も相当緊張しているのだろう、彼の体から放たれている熱は半端なく。

 手を伸ばせば触れられる位近くまで行くと、青海の指差した場所から持ってきた布座を床に敷き、彼に背を向けて腰を下ろす。


 それからしばらくの間続く静寂の時間。緊張のあまり飛び出さなくても良いもの――心臓は今にも口から飛び出しそうになった……が、出さなくてはいけないもの――声は一向に口から飛び出す気配がなく。沈黙が続けば続くほど、否応無く千景は(恐らく青海も)背中合わせになっている人物のことを意識してしまう。相手の熱にあてられて汗がだらだら流れ、胸や頭はがんがん痛くなり。


(これ、私が話し出さないといけない感じかしら。ああ、気まずい……こんな時間がいつまでも続いたら……私、どうにかなってしまいそう。よし、こちらから話を切り出してみよう。まずはどうしよう。私に聞きたいことって何ですかとストレートに聞いちゃう? それとも青海様に伝えたいことを何の前置きもなく話しちゃう? 駄目駄目、そんないきなり本題に入るなんて……無理、絶対無理。心の準備が出来ていないもの……今の状態で話をしたり、話を聞いたりしたら、きっとおかしなことになる。ここはまず、本題とは全く関係の無い話をして……心を少しずつ落ち着けて、それから本題に)

 さて、まず始めに何の話をしようか。考えた末、千景は先程聞いた演奏について話すことにした。


「あ、あの……先程の演奏、とても素敵でした。綺麗だけれどどこか憂いを帯びている切ない音色が私の心にじんと染み渡って……胸が痛くなって、熱くもなって……あ、でもそれは決して不快なものではなくて。涙も出ました、泣かずにはいられない位胸が切なさでいっぱいになったんです。あ、後まぶたを閉じたら海が見えました。綺麗な海を沢山の魚が泳いでいて、その魚の群れに一際大きな魚が包まれていて、悲しい声をあげながら泳いでいました……ごめんなさい、変なことを話してしまって。でも、本当に素晴らしい演奏だったと思います。青海様は楽器の演奏がお得意だったのですね」

 喉から出てくる上擦った声、かっくかくに角ばった滑らかさのかけらもない喋り方、まとまりの無い話の内容。自分の喋りに自分が恥ずかしくなり、喋れば喋るほど頭は白くなり、顔が熱くなる。

 それを聞いた青海も似たような状態らしい。彼の体から放たれている熱を受け止める背中が燃えるように熱い。耳に入るのはちゃんとした言葉に変わりそうで変わらない、声。


 二人して、言葉を紡ぐことが出来ず、ただ息を整え暴走する脳を落ち着かせる作業をするばかり。

 しばらくして青海の、小さくふにゃふにゃした声が未だどきどきしている千景の耳に届いた。


「あ、ありがとう……」


「せ、青海様は楽器の演奏がお好きなのですか」


「うう、う、うう、うむ。ああして楽器……(すい)()と呼ばれるこの世界では有名な楽器なのだが……そ、それを演奏していると心安らぐのだ。だが人前で演奏したことは殆ど無い。は、恥ずかしいから……ここはまず誰も来ないから、安心してあれを奏でることが出来る」


「そ、そうなんですか。それでは私はラッキー……幸運に恵まれていたのですね。間近であの演奏を聴くことが出来たのですから。え、ええと! あの演奏って誰かに教えてもらって覚えたものなのですか?」

 

「水胡は小浪に教えてもらった……彼女の演奏は余のそれよりずっと素晴らしい。余は彼女の演奏が好きだ、一つ一つの音の響きが余のものとは全く違う。そんな彼女は自分にこれを教えてくれた先王の方がもっと上手かったと言っていた」

 先王。つまりそれは。


「先王って、青海様の前世にあたる方……ですよね」

 それを聞いた青海は「うえっ」と千景の言葉に驚いたような声をあげ、それから「うん」とえらく子供っぽい返事をする。


「その通りだ。そなたは本当にこの世界のことや、海にある宮のことなどについて色々学んだのだな。……先王は大浪と小浪同様とても綺麗な顔立ちをしていたらしい。水胡を始めとした楽器の演奏がとても上手で、自分で曲を作ることもよくしていたそうだ。余に彼の記憶は無いが。彼が作ったという曲を聴いても、懐かしいと思わなかったし、前世の記憶を思い出すことも無かった。だが、それで良いとは思う。余と彼は同じ魂を持つが、別人だ。余は余の人生を大切にすれば良いのだ」

 まるで独り言のように、ぼそりと呟く。最も彼の喋りは今回に限らず、いつも独り言と区別がつかないようなものだったが。


「皆それを分かってくれているのか、必要以上に先王の話をすることは無い。余と先王を比べることもあまり無い。……大浪や小浪は怒ると時々先王は貴方と違ってこうだった、ああだったと言うことがあるが」

 あの、主のことを平気で馬鹿呼ばわりする二人ならそういうことも言うだろうなあと千景は苦笑。青海と大浪小浪は主と家臣というより、駄目な弟としっかり者の兄といった感じ。だから他の者達がタブーにしていることも堂々と言えるのかもしれなかった。


「大浪様と小浪様は、先王のお世話もしていたのですか?」


「い、いや、二人は彼の世話はしていないはずだ。少なくとも彼の下について色々するということはなかっただろう。あの、その……大浪と小浪は先王の子なのだ」

 語尾にいくにつれ、小さくなる声。大浪と小浪が先王の子であるという衝撃的な事実を述べる時に至っては最初から最後まで、蚊の鳴く声にもかき消されてしまうのではないかという位の声だった。

 

「えええっ!?」

 思わず出た驚きの声。大きい上に妙に間の抜けた声をあげ、思わず後ろを振り返る。青海は千景の声に驚いたらしく、ひょええという情けない悲鳴をあげ。

 

「じ、実はそうなのだ。だからあの二人は本来、余の下につき、余の為宮の為日々東奔西走するような立場の者ではないのだ。これといった仕事もせず、多くの者を侍らせ、悠々自適な日々を過ごしても、誰も文句等言わない。お、王を継ぐことは無いにしても、おお、王の血を引く尊い者であることに変わりはないのだから。だがあの二人は敢えて余の側近になることを選んだ……」

 それ以外にも、瑠璃宮で起きた出来事、瑠璃宮が統べる土地で起きた出来事などを記録したり、見回りをしたり、瑠璃宮で執り行われる行事の計画や準備をしたりしているのだとか。


「それって、やっぱり、あの、青海様が自分達のお父さんの生まれ変わりであるということと関係が?」


「うう、うむ……た、多分だが。先王は自由なようで、そうではない暮らしに辟易し、二人の子供と妻を残して転生したそうだ。王は基本的に宮から出てはいけない……正確にいうと、その、長時間宮を離れたり、宮から極端に離れたりすることを禁じられているのだ。王はこの宮、そしてこの土地の要石。離れればこの宮も、辺り一帯の土地も駄目になってしまう……ら、らしい。それゆえ王は殆ど宮にこもりっきりになる。他の者達に比べると圧倒的に動ける範囲が狭い。その為か転生する理由の殆どは、自由になりたいというものか、同じ場所で代わり映えのない日々が嫌になった、というものだ」


「そういえば大浪様や小浪様がそんなことをおっしゃっていたっけ……」


「あまり詳しいことは知らないが、あまり気持ちの良い別れにならなかったそうだ。ちなみに二人の母はここにはもういない。……転生する際王の体と魂は無数の泡沫となる。その泡沫は余や、他の生物に姿を変える。彼等の母はその内の一匹だか一人だかと一緒にどこかへ行ったそうだ」

 そういえば、と千景は大浪と小浪が青海の今話したようなことを話した時のことを思い返してみる。彼女の記憶に残っている二人の顔。それはどこか寂しい顔。


(そうか、あの二人は私に王は転生を繰り返すという話をしている時、自分の父親のことを思い浮かべていたのね)

 あの表情から察するに青海が言った通り気持ち良く、すっきりとした気持ちで父を送ってやることは出来なかったのだろう。


「二人がどうして余に仕え、余の手となり足となることを選んだのか……それは余にもはっきりとは分からぬ。父への未練ゆえか、その未練を断ち切る為か、自分達を残していった父に対する嫌がらせか、それとも父のことは全く関係ないのか。そ、それを直接本人達に聞くつもりは無い。知らなくても良いと思う。理由など、どうでも良いのだ。よよよ、余は二人が傍にいてくれることをとても感謝している……余のことを思って色々してくれることをとても嬉しく思っているし。口うるさいし、時々頭をはたかれることもあるし、余のことをしょっちゅう馬鹿呼ばわりするが……それでも、二人はとてもたた、たたった、たったたた……たいせ、せっせっせ……大切な存在なのだ……」

 大切、という言葉を口に出すのに悪戦苦闘。千景は何となくスタッカートという単語を思い浮かべた。しかしそんなぎこちない言葉に込められた思いはちゃんと受け止め、微笑む。


(青海様は大浪様、小浪様のことを本当に大切に想っているんだ。きっとそれは大浪様、小浪様も同じ。何だか羨ましいなあ)

 羨ましくて、悔しくて。千景は「青海様は二人のことが大好きなんですね」と確実に彼が恥ずかしがり、慌てふためくようなことをわざと言ってやった。

 反応は予想通りで、思わず笑ってしまう位心地良く軽快なリズムで『好き』という単語を青海は繰り返す。きっと彼の頭からは大量の汗が流れているだろうと思い、その姿を想像しながら千景はくすくす笑った。声は出さなかったが。


 しばらく『好き』とか『それは』とか『あのだな』とか一人言い続けていた青海は、急に口を動かすのをやめ。いきなり静かになったものだから、千景はぎょっとした。やりすぎたか、どうしよう一応謝った方がいいのかしらと考えあぐねていると。


「大浪と小浪が何故、余に仕えることを決めたのか。その理由を特別知りたいとは思わないし、わざわざ聞こうとも思わない。……だが、知りたいこと、聞きたいことも、ある」

 思いつめたような声に千景の心臓が音をたて、揺れ動く。先程までより少し、低くなった声。


「大浪様と小浪様に何か聞きたいことがあるのですか」


「違う。……違うのだ。余は」

 言葉が途切れる。先程までとはまた別の緊張が部屋を冷たくしていく。氷張りの部屋。しかし頬の熱はとれず、依然として千景の頬を赤く染めていた。

 静寂。時が止まる。止まらないのは、千景と青海の心臓だけ。


 どれ程時間が経ったのか。数分位のものだったのか、それとも何十分もそのままだったのか。

 青海の声が、聞こえてきた。


「余は、余は……そなたに聞きたいことがあるのだ。何としてでも、聞かなくてはならないと……思っている。どうしても、知りたいことが、ある」

 

「え……」

 そこで千景は、青海が自分に聞きたいことがあるといったのを思い出した。


(も、もう本題に入ってしまうの? あ、ああ心の準備が)

 別の話題から少しずつ本題へとシフトしていくつもりだった千景は、想像以上に早い段階で話が本題へ移ったことに動揺する。

 しかし、だからといって青海が質問をすることを拒否するわけにはいかない。

 千景は青海が続きを話すのを辛抱強く待った。そして先程より長い沈黙の後、青海がゆっくりと話し出した。


「そなたは、何故元の世界へ戻らず、この世界へ残ることを決めたのだ? 何故、余なんかの……つ、妻になることを決めたのだ? 余の所為で嫌な思いも沢山しただろう……それなのに何故、そなたは帰ろうとはしなかったのだ? 向こうの世界には家族や友人がいるのだろう? そんな大切な者達を捨ててまでこの世界に残ることに何の意味がある? それに、余とけ……結婚する場合、そなたは儀式を受け、人間ではなくなってしまう……」

 心臓が、今までに無い位大きな音をたてる。千景は彼の問いにすぐ答えることは出来なかった。

 この世界に残ることを決めた理由を話すこと。それはすなわち、贈り物や手料理に込めた青海への想いを話すということ。

 千景は自分の想いが青海に伝わる日が来ることをずっと待ち望んでいた。


 これは、チャンスだ。しかし話す決心がなかなかつかない。


「……大浪は、そなたはとても優しい娘だから……きっとこんな性格の余と、余の為に奔走する大浪と小浪に同情したから、自分達の申し出を受け入れたのではないかと言っていた。そうなのか? 大浪が言った通り」


 そういう気持ちは一切無かった、といえば嘘になる。しかし一番の理由は決してそれではない。大浪が、自分がこの世界に残った理由を全く理解していなかったことに驚き、若干呆れつつ、青海からは見えないことは分かっていながら首を横に振った。

 本当の想いを、自分の口から伝えなければいけない。千景は息をゆっくり吸い、そして吐く。


「違うのか? 他に理由が、あるのか。……それは余に話したくない理由なのか」


「いいえ、いいえ……!」

 今度は声に出し、否定をする。そして再び息を吸って、吐いて。胸にやった手が鼓動を感じる。それはどんどん早くなっていく。

 

(話さなくちゃ。自分の想いを。……受け入れられないかもしれないけれど、もしかしたらここにいられなくなってしまうかもしれないけれど。話そう、ここに……激しく揺れ動いているここにためた想いを。前へ、進もう)


 強く決心し、千景は口を開いた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ