深い深い水溜りの底で(7)
*
そんな馬鹿兄こと大浪は、小浪が言った通り瑠璃宮の王・青海と会っていた。
「青海様、貴方今日も全身に布を被り、千景様に背……もとい尻を向けうずくまっていたそうですね。全くなんて失礼なことを……せめて、今のような状態で千景様とお会いして下さいよ」
大浪の前にいる青海は、一応体の正面を向けているし、床から少し上がった段に位置している、一際立派な布座に座っている。ただし頭から厚手の布を被っている為、顔は殆ど見えない。おまけに背も丸まっており、情けないことこの上ない。
「い、嫌だ、恥ずかしい……そんなこと、出来るわけが無い」
悩む素振りなど一切見せず、大浪の申し出を瞬時に却下。何かを否定したり拒絶したりする時だけは声が大きくなる。といっても、大浪が普段出している声とそう大差はない。常時出している声があまりに小さく、弱弱しく、情けないから、相対的にとても大きく聞こえるだけなのだ。
「何故出来ないのですか。顔を隠しているのですから、実質背を向けている時とそう変わりは無いでしょう。……本来はその布もとっぱらってもらいたいのですがね、まあ今はあまり多くのことは申しません。お願いですから、貴方ももう少し前へ進んでください」
「駄目だ、無理だ、そんな、あの娘と、ひいやあ」
「ひいやあとはなんですか、ひいやあとは。その情けない上に訳の分からない声を出すのはやめてください。聞いているこちらの力が抜けてしまいます」
「嫌だ、嫌だ。大体どちらもそう大差がないなら、別にどちらを選んでも良いではないか!」
正論、或いは屁理屈。大浪はもうただ呆れるしかなく、ずきずき痛む頭を押さえつつ「この馬鹿が」と呟く。銀糸の髪が、憂いと呆れ、苛立ちに揺れ。
「馬鹿……いえ、青海様。せめて千景様に一言だけでも……料理や贈り物をありがとうという言葉だけでも結構ですから、かけて差し上げてください」
「そ、そんなこと」
「それ位は出来るでしょう。……それとも礼すら言えぬ位、千景様のお作りしている料理が不味いとでもおっしゃるのですか? 贈り物の出来があんまりなのですか?」
舌がかなり我侭な青海が、千景の作った料理を毎回綺麗に平らげている以上そんなことは決してないと思いつつも一応聞いてみる。案の定青海は布で隠れた頭を激しく横へ振った。
「それは……無い……! そんなことは、全く」
「ならば、無理せず素直に礼を言うことは出来るでしょう。美味しいのでしょう、料理は」
とりあえず青海の口から感想を聞きだそうとする。ところが青海ときたら、言葉とは到底呼べないようなものを口の中で転がすだけ。
少しの間何も言わなかった大浪だったが、終いに痺れを切らして床をどん!
「感想一つまともに言えないのですか、この馬鹿王が!」
「馬鹿と言われようが、言えぬものは言えぬ。どうにも駄目なのだ、食べたもののことを考えようとすると、相手の存在が脳裏に浮かんで……ああ、恥ずかしい」
恐らく布の影になっている顔は今、真っ赤なのだろう。これで彼が可憐な乙女であれば、大層可愛らしい姿なのだが。大の男が顔真っ赤にしている姿など、可愛くもなんともない。むしろ見た者をよりいらつかせるだけ。
いっそ思いっきり、全力でどつけば思考回路が馬鹿になり、この性格を変えられるのではないだろうかと大浪は一瞬思うも、一応相手は王であるし暴力は嫌いであるから、やめておいた。……彼をどついたことが一度も無かったわけではなかったが。
大浪から何のツッコミも無い為か、未だ青海は一人でうだうだ何か言っている。矢張り、殴ってやろうかと大浪は右の拳をぎゅうと握りしめ。白い肌した手、浮き上がる線、骨。
恥ずかしがるのもたいがいにしなさいよ、この馬鹿王めがと大浪が立ち上がろうとしたまさにその時、青海の海中を漂う海草のごとき動きがぴたりと止まる。同時に大浪の動きも止まる。
青海は、何か考え事をしているようだった。あげかけた腰を再び下ろし、大浪はしばしその様子をうかがう。
「……あの娘は」
無限に続くかと思われた静寂が、その静寂を生み出した張本人たる青海の小さな呟きによって破られた。
彼が千景のことについて口を開いた。そのことに大浪は驚いたが、そのまま無言でいた。あまり変に口を出すと、彼はやっぱり恥ずかしいから言わないなどと言い出すことが多々あったのだ。
「どうして、余に……手料理をくれたり、贈り物をくれたりするのだろう。彼女はどんな思いを余に伝えたいのだろうか」
青海がそうして他人のこと、他人がする行動について考え、そして考えたことを口にしたことは今まで数える程しか無かった。他人のことを想ったり、その想いを口にしたりするだけで恥ずかしくなるらしいからだ。
先程以上に驚きつつ、大浪は自分の考えを正直に話す。
「何故かって、それは貴方がいつになっても自分と話しさえしてくれないからでしょう。千景様はこの世界に残り、貴方の妻となることをお決めになりました。……決めた以上、相手である貴方と親しくなりたいと考え、毎日のように青海様とお会いになり、話をされた。しかしいつになっても貴方は心を開いてはくださらない。ですから千景様は、自分の『もっと貴方と仲良くなりたいのです』という思いを物や料理に込め、贈っていらっしゃるのでしょう」
「彼女は何故そこまでするのだ? 何故諦めて帰らないのだ……自分の世界に帰ることが、彼女にとっては一番幸福なことのはずなのに。余と会っても良いことなど何一つないはずなのに」
酷くゆっくり、小さな声で呟く。独り言なのか、大浪に問いかけているのか判別が難しかったが恐らく後者だろうと大浪は思った。
一体、何故か。その問いに大浪は小さく首を傾げる。
「さあ、どうしてでしょう。私にもよく分かりません。小浪は理解しているようですがね。……きっと、千景様はとてもお優しい方……私と小浪の話、そして貴方の情けない姿に胸を痛めたのでしょう。そんな我々をどうにかして差し上げようと、この世界に残ることを決めてくださったのかと。少なくとも私はそう考えております」
「自分の居場所を捨ててまで? 自分の手にあったもの全てを捨ててまで……余や大浪、小浪の為に動いているというのか。優しい心がそうさせているというのか」
会って間もない者の為に、そこまで出来るものなのかと青海は小声ながらも強い語調で問いかける。大浪は出来る者も世の中にはいるでしょうと頷いた。自信はそこまでなかったが。
「ですがね、青海様。……結局の所、そういったことはご本人に直接お聞きしなければ分からないのです。気になるのでしたら、今度千景様とお会いした時、お聞きになればいい」
静かな雰囲気で話が進んだのはここまでだった。
大浪からその言葉を聞いた青海が再び妙な呻き声をあげ、悶え始めたのだ。
「そ、そんなこと……出来ぬ、出来るわけがない! おおうあああ」
「おおうあああってなんですか、情けない! 彼女と結婚するかどうか最終的にお決めになるのは貴方です、ですが、話も全くしない、顔も全く合わせない、千景様の人柄を知ろうともせず、自分に合うかどうか判断もしない状態で『結婚しない』と言うことは断じて許しません! 兎に角少しは話をしなさい、話を!」
たまらず立ちあがり、怒鳴りつける。しかし青海は彼の言葉を拒否するかのように体を横に振るばかり。
「駄目だ、そんなこと……余、余には出来ぬ。駄目なのだ、あの娘は……兎に角、いけないのだ」
「何がいけないのです? 千景様が人間だからですか?」
「ち、違う」
そういう声は今まで以上に小さい。耳が良い人でもちゃんと聞き取ることは難しかっただろう。
では何故ですか、と大浪は再び問う。青海の動きがまた止まる。
「あ、あの娘が余の被っていた布をとり……そして余とあの娘の目が、合った時……い、今までに無い位体が熱くなったのだ。彼女を見た瞳が焼けた、顔が燃えた、心の臓が潰された。あ、あんなことになったのは初めてだった。あの娘が毎日のように余の所へ来て、話をしている時も……彼女の声が耳に届く度、同じようなことが起きる。彼女のことを考えようとした時もだ。余は怖い、怖いのだ。あんな思い、そう何度も味わいたくはない。恥ずかしい、熱い、苦しい、恐ろしい、何もかも焼けてしまう……」
泣きだしそうな、死にそうな、へなへなした線で書いた文字を読みあげたような声。そんな声で彼は必死にそう訴えるのだ。
大浪はそれを聞き、頭が痛くなった。彼の言っている意味が全く……これっぽっちも分からなかった。何を訳の分からないことを、泣きたいのはこちらの方だと頭を抱えて呻く。
「青海様は、千景様のことがお嫌いなのですか?」
そういうことなのだろうか。考えを口にする。だが青海は首を激しく横に振った。そうではないらしい。
「余にも分からない、分からないのだ……だが、嫌い、ではないと思う」
元々小さな声は終わりに近づく毎に更に小さくなっていき、広い室内に溶けて消える。それでは一体何なのだ、と穢れなき白い額にしわ寄せて、本気で考え込む。小浪やアゴメなら確実に、そして瞬時に気がついたことを、とうとう大浪は察することが出来なかった。
「兎に角、千景様と話をして下さい。いきなり会話をすることが出来ないなら、せめて一言二言だけでもいいですから……彼女に声をかけて差し上げてください。贈り物と想いを受け取ったからには、貴方は何らかの形でそれにお返しをしなければならないのです」
それだけ言うと、口をもごもごさせて何か言っている青海に一礼し、大浪は部屋を去る。
その後小浪の部屋へ立ち寄り、彼女に今日青海と話したことを報告する。
だが、千景が自分に手作りのものを贈る理由について自分に問うてきたことは伝えたが、彼が千景を初めて見た時どう思ったか……というとても重要な部分については詳しく話さず。その点を重要だとは決して思っていなかったからだ。
*
大浪が去った後、青海は奥――正面からは布に隠れて見えない位置に置いてあった一つの箱の所まで行き、それの蓋を開ける。中に入っているのは千景からの贈り物。
羽の形に切られた銀のプレートに幾何学模様と宝石がつけられたもの、自分で織ったらしいハンカチサイズの布(これが一番手間のかかったものだそうだ)、桃や青紫、抹茶色等の丸い石が赤い紐によってくくりつけられている、紋様の掘られた木の枝を象った物……などなど。頻繁に贈られた品の数々は箱の中を着実に埋めてきている。
その内の一つをとろうと手を伸ばしたが、指の先が触れたところで「ああ」と情けない声をあげ、その手をあげる。
「何故だろう、あの娘から貰った物に触れようとすると胸が苦しくなる。体も熱くなる……一体余はどうしたというのだろう」
自分に贈り物をくれる少女――千景の顔がぱっと思い浮かぶ。ただ一瞬しか見なかったはずの顔だったが、何故か鮮明に脳裏に浮かんだ。途端、脳内が沸騰し、千景の顔は消え、口から熱い息と共にきゃあという悲鳴が吐き出された。
立っていられなくなり、周りの景色を見ることさえ恥ずかしくなり、傍らにあった、ひんやりとした寝台に顔を埋める。布が熱を吸う……それでもなお顔は、体は熱く、頭は沸騰したせいで熱く、そして痛い。
「他の娘達と会った時とは明らかに違う……恥ずかしいという気持ちだけではない、何か別の何かが……」
しばし呻いてから、顔をあげる。
「あの娘の考えていることも、分からない。本当に大浪が言った通りなのだろうか。……彼女が余に伝えたい思いはどんなものなのだろう……」
それが気になった。最近になってようやく、そのことを気にし始めた。
贈り物を貰う以前は考えもしなかったことを、考えるようになった。時々、誰もいない時彼女の名を呟いたこともあった。そうして彼女のことを考えたり、彼女の名を呟いたりする度、今まで感じたことのない恐ろしい感覚を味わった。
――兎に角、千景様と話をして下さい。いきなり会話をすることが出来ないなら、せめて一言二言だけでもいいですから……彼女に声をかけて差し上げてください。贈り物と想いを受け取ったからには、貴方は何らかの形でそれにお返しをしなければならないのです――
「余にそのようなことが出来るだろうか。そして、あの娘に……色々なことを問うことが出来る日は、来るのだろうか」
その時のことを想像し、また悶える。来るとしてもきっとそれはずっと後のことだろうと思った。
しかし『その日』は意外と早く訪れるのであった。
それから約一ヵ月後。彼はいつも通り話を終え、部屋から立ち去ろうとした千景に初めて声をかけた。
「きょ……今日の料理、大変美味であった。余の好きな味だった……ま、また作って欲しい」
と……。
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――きょ……今日の料理、大変美味であった。余の好きな味だった……ま、また作って欲しい――
その言葉は最初、千景から遠く離れた場所にあった。あの人は今日も私に声をかけないだろうと思っていた彼女は背後――青海のいる場所に意識を向けていなかったから。だからその言葉はすぐに彼女の耳へ、頭へ向かうことなく、遠い場所でふわふわ漂い、どうでも良い風景の一部と化していた。誰かが誰かに何か言っている、それ位の意識しかその時千景にはなく。
彼女がその言葉が青海から自分へ向けて発せられたものであること、言葉の内容のことを理解したのは、青海がその言葉を口にしてから五秒程経ってからのことだった。
後ろを振り返り、今日も自分に体の正面を向けることがなかった青海の方を見る。先程までと変わらぬ姿がそこにはあった。だが確実に彼は千景に話しかけた。限りなく独り言に近い、ぼそりと呟くような声だったが。
美味しいと言った。また作ってくれと、言った。
彼との距離が縮まることなどこれっぽちも期待しておらず、喋っている間ずっとうたた寝していた千景の心が、青海への想いが目を覚ます。大きく瞳を開き、呆然とし、それからかあっと熱くなる。それと共に千景自身の体も熱くなった。心が、想いが涙を流すと、それは全身を伝い、やがて千景自信の瞳を潤す。熱くなる目頭。熱で焼けた喉は息も言葉も何も吐くことが出来なかった。
たった一言。ただ彼が一言自分に言葉を向けた、それだけでそこまでなってしまう自分のことを恥ずかしく思った……だが一方で喜んだ、それはそれは……大層。
「は、はい! ま、また作ります、絶対に、作ります! あれは私が住んでいた世界で食べられていたもので……」
ようやく喋れるようになった千景だったが、感極まっているせいか噛んだり、言葉に詰まったりする。挙句、聞かれてもいない料理の説明をしだす始末。
そんな千景の言葉に対し、青海は返事をしようと思ったらしい。うう、とかああ、とかその、とか……そんな言葉のなりそこないが彼の口から漏れる。だが結局言葉らしい言葉は出てくることはなく。どうやら会話はまだ無理らしい。
それでも嬉しかった。千景は彼の背(というか尻)にお辞儀し、急いで去っていった。
そして部屋に戻った後、青海の部屋では我慢していた涙を零しアゴメの腕の中で声をあげて泣き始めた。何もかも捨ててまで選んだ道に、初めて価値を見出した瞬間。
青海が千景に自分から話しかけた。その小さいようでものすごく大きなニュースはあっという間に宮中を駆け抜けた。その速さ、まさに電光石火。
お喋り好き、人間の世界にものすごく興味がある、自称千景の仲良し達(実際仲は良かったが)であるお磯や和仁はその話を聞くと真っ先に彼女の下へやって来て、あの話は本当なのか、どんな風に言ったのかなど根掘り葉掘り聞いてきた。その後、良かったねえとかいつかそうなると思っていた……などということを延々と語りだし、だが途中から全く関係のない話になったり、桃色なお話になってきたりし、最終的にしびれを切らしたアゴメによって追い出されることとなる。
それからも青海は一言ずつ、必ず千景に声をかけてきた。大抵は料理や贈り物の感想で、時々「この宮の暮らしには慣れてきたか」とか「体を壊してはいないか」という内容になった。声はいつになっても大きくならず、独り言のような喋り方ではあったが。
また、千景がその言葉に返答した後、それに対して何か言うことはなく。会話というより、一問一答。青海が投げた言葉のボールを千景がキャッチし、投げ返すも青海はそれを受け取らず……といった風な流れ。しかしそれでも初めに比べれば相当進歩した状態といえる。何せ今までは千景が何百、何千球のボールを投げても、青海は全部それを避けていたのだから。
青海の心境にどんな変化があったのか、何故変わっていったのか、その理由は千景には分からなかった。アゴメや小浪は「贈り物が彼の心の殻を少しずつ破っているのだ」と言ってくれた。もしそうならば、今まで頑張った甲斐があるというもの。
(何も変わっていない、ということは無かったんだ。自分が変わっていったように、青海様も変わっていたのだ……)
千景は時々、夢を見ていた。両親や友人、クラスメイト、そして元彼達が出てくる夢だ。その夢は千景の胸を酷く痛ませ、そしてそれを見る度泣いていた。
帰りたい、ここにずっと残っていても何の意味も無い、同じ日々の繰り返しはもう嫌だ、人間である私はここにいてはいけない……そう思い、泣いた。
だが最近はぱたりとその夢を見なくなった。青海との間にあった距離が少し縮んだことで、向こうの世界への執着心が無くなってきたからかもしれなかった。
(ごめんなさい、お父さん、お母さん……そして皆。私は帰らない、きっと帰らない……帰ることがないような未来を私は作る。ごめんなさい、ごめんなさい……)
向こうの世界へ帰りたいという思いが消えていく一方で、この世界にずっといたいという思いはどんどん強くなってきている。初めてここへ来た日、ここから帰してと暴れた自分が今の自分を見たらきっと驚くだろうと千景は思った。
(青海様に私の想い全てが伝わる日が、いつかやって来るだろうか。やって来るといいな。やって来るようにしなくてはいけない。……けれど、ただ伝わるだけじゃ駄目。この想いに青海様が良い形で答えてくれなくては……)
それからもゆっくりと、ゆっくりと近づいていく二人の距離。
そしてとうとう『その日』はやって来た。千景が、そして青海が待ち望んでいた日が。
その日千景は、何となく宮の中をふらふら歩いていた。まるでゲーム等に出てくるダンジョンのような宮内。普段足を向けていないような場所を中心に探索する(絶対に入ってはいけない部屋、足を踏み入れてはいけないエリアは除外した)。蛸ノ丞をはじめとした人間とは明らかに違う者達の姿にももう大分慣れているから、もし恐ろしい姿をした人達とすれ違ったらどうしようと思い、びくびくしながら廊下を歩くこともなくなっていた。
衣裳部屋、宝物庫、瑠璃宮が統べる領域の様子が映せる鏡のある部屋、書庫、蛸壺でいっぱいの謎の部屋、刺繍の施された布が沢山ある部屋、装飾品に使う玉等を作る為の部屋、全く意味が分からない部屋などなど。
童心に返り、うきうきるんるんしながら探索をしていた千景。夢中になり、何の考えも無しに歩き続け……。
結果。
「ここ……どこ」
すっかり迷ってしまった。
迷路の様に入り組んだ通路、どこもかしこも似たような内装で目印らしいものはなく、ぐるりと辺りを見回す内自分がどの通路からやってきたのかさえ分からなくなっていった。
あまり足を運ぶ者のいない辺りまで来てしまったらしく、誰かの話し声一つ聞こえない。もしかしたら勝手に足を踏み入れてはいけない場所かもしれなかった。どうしようと歩けば歩くほど、自分の部屋へ至る通路がどれなのか、そもそも自分は今どの辺りにいるのか分からなくなっていく。
あせり、心臓に汗が滲み、胸に痛みと苦しみを与える。
「どうしよう……大声をあげたら誰か気づいてくれるかしら」
調子に乗って探検をしていたら迷ってしまった……なんてことがばれるのは非常に恥ずかしいことではあったが、このままどこなんだか分からない場所を歩き続けるよりかずっとましであると思った。
ええいままよと息を吸い込み、大声と共に吐き出そうとしたまさにその時。
「何、これ……」
やや遠くから、微かに楽器らしきものの音が聞こえ。千景は叫ぶのをやめた。
今自分が聞いているのが楽器の音なら、それを演奏している者がどこかにいるはずだ、そう千景は考えた。勿論この世界は人間の常識など一切通じない所であるから、楽器がひとりでに鳴っている可能性が無いとは言い切れない。そもそも本当に楽器の音であるのかも分からない。
しかし行ってみる価値はありそうだった。
千景はその音の聞こえる方へ、ゆっくり歩きだした。耳に入る音が段々大きくなり、またはっきりしていく。進む方向は間違っていないらしい。
耳を澄ませながら歩いていた彼女は、ある扉の前で立ち止まる。
(多分、ここから聞こえるんだ。それにしても、何て綺麗な音色なんだろう……)
音の出所をとりあえずつかんだことでほっとした千景は、迷子になっていること、中にいるかもしれない人に道を尋ねることをすっかり忘れ、しばし扉に体を預け、美しい音色を聴いていた。
深く、聴くと少し寂しく切ない気持ちになる――心にじんわりと響き、染み渡る音色。聞きようによっては女性がしっとりと、音に心を込め、強弱をつけて歌う声にも聞こえる。恐らく二胡や胡弓と呼ばれる類の楽器かと思われた。
目を瞑ると、閉じた目蓋に深い青色の海が映し出される。大きさも色も様々な、無数の魚達がゆっくりと、悠々と泳ぎ、その群れの間を縫うように美しい衣に身を包んだ女を思わせる、大きな魚がしなやかな動きで泳いでいた。
その映像は派手とか豪華とか、そういったものではなく。優雅でとても美しいのに、どこか悲しく寂しく。
(この音色が私にこの風景を見せているのだろうか。……音楽を聴いて、こんなはっきりと情景を思い浮かべることが出来たことなんて……今まで無かった)
じんじんと切ない、かといって不快ではない痛み帯びる胸。その痛みはやがて瞳を刺激し、透明の雫を一滴落とさせた。
頬を濡らす、暖かいような冷たいようなその雫が、千景の意識を此岸へ戻す。
そう、今は悠長に音楽を聞いている場合ではないのだ。
「そうだ。早くこの扉を開けなくちゃ」
一体どんな人が人を泣かせる位素晴らしい演奏をしているのか、扉を開ければ分かる。一気に開けると相手がきっと驚いてしまうと思ったので、千景はゆっくりと、静かにその扉を開ける。
小さく開けた扉。その向こう側の空間に一人座っている者。他には恐らく誰もいないだろうと思われた。畳をものすごく分厚くしたような場所にその人物は座っていた。
千景はその者の姿、顔を見て驚いた。
「青海……様」
そう、楽器を手に座っていたのは他でも無い……青海だったからだ。
思わずあげてしまった声は自分でも驚くほど大きな声。彼女ははっとして口を押さえたが、時すでに遅く。
演奏をやめ、びくりと体震わせながら顔をあげた彼と、千景の瞳が――かち合い、交わった。