深い深い水溜りの底で(5)
*
千景は憂いを帯びた息を吐きながら、閉まりゆく大きな扉の向こう側にいる布を頭から被ってうずくまっている男の姿を見つめた。
結局今日もまともな会話が出来なかったとぼやき、再びため息をつく。
千景がこの瑠璃宮に残ることを決めてから、もう六日が経とうとしていた。
「仕方が無いですわ、千景様。……青海様は大浪様、小浪様とすら未だに目をまともに合わせることが出来ないのですから。話もあまりなさいませんし。何かを拒絶する時、悲鳴をあげる時だけよく口が動くのですよ」
約二十年の付き合いがあるお二方ともまともに話せない方です、まだ数日しかお会いしていない千景様が相手ならなおさらですわと、優しく柔らかな声でアゴメは落ち込む千景を慰める。
「ありがとう、アゴメ。ごめんなさい……毎日このようなことに付き合わせてしまって」
「構いません。千景様につき、貴方の身の回りの世話をすることが私の役目ですから。それに私も千景様のこと、応援していますのよ」
「ありがとう、ありがとう、アゴメ!」
柄にもなく飛びついてしまう。出会った当初、千景は彼女のことを「さん」づけで呼んでいた。しかしアゴメに「私のことは呼び捨てにして下さい。です、ますと丁寧な言葉を使う必要もございません」と言われてしまったのだ。千景は呼び捨てなんて申し訳ないから出来ないとそれを最初拒否したのだが、アゴメに強くお願いされ、結局折れてしまったのだ。
「さあ千景様、部屋に戻りましょう。……あまり長くここにいると、また昨日のようなことになってしまいますわ」
顔をあげた千景を見つめながらアゴメはくすくす笑う。ああ、そうねと昨日(のみではないが)起きたことを思い出し、苦笑。人気者は辛いわと冗談めかして言ってみせると、アゴメは声をあげて笑いながら千景の頭を撫で「そうですわねえ」と茶目っ気溢れる声で返してくれた。
そんなやり取りをした後、部屋へと戻る。その際目の端に映った、もう完全に閉まってしまった扉。誰の姿も見えない。それを酷く寂しく思いながら、そこから離れる。
千景は今、青海の部屋近くにある空き部屋を使っている。前まで使っていた部屋があまりにここから遠かった為、小浪が気を利かせてくれたのだ。
部屋へ戻るなり千景は奥にある寝台の上へ飛び込む。ふわふわ柔らかく、ひんやりとした寝具の海へ沈み、ごろり。その海を泳ぐように、手や足をぱたぱた動かす。あまりお行儀が良いとはいえない行為であったがアゴメはそれをたしなめることもなく、鼻歌を歌い、にこにこ笑いながら自分の作業に没頭している。
黒塗りの机の上に置かれた箱。その中には玉、金や銀でつくられた飾り、がらす玉、紐や薄い布等が入っている。それらを組み合わせて髪飾り等のアクセサリーを千景の為に作ってくれているのだ。彼女は手が器用で、裁縫や刺繍が大の得意であるとか。
(アゴメは本当、楽しそうに私の世話をしてくれる。元々誰かの世話をしたり、誰かの為に何かをしたりするのが好きなのね、きっと。自分よりもずっと長く生きている人にお世話してもらうのはちょっと気がひけてしまうけれど……本人が喜んでやってくれているなら、いいかな)
寝台についた両肘、その先に開く睡蓮。その花で顔を覆いながら彼女の姿を見ていた千景だったが、ぱっとその花散らし、支えを無くした顔は柔らかな布の上へ、ぽおん。
それからごろりと転がり、天井を見つめ。重なる布、水面。
「ねえ、アゴメ。ここでは季節によって衣の色とか種類とか、変えることってあるの?」
特に意味の無い質問をアゴメへ投げかけてみる。そうすることで気を紛らわせなければ、思い出してしまいそうだったのだ。自分が本来いるべき世界のこと、その世界に存在している大切なもののことを。そしてまた、千景はもっと知りたかったのだ……この世界のことを。
「あまりございませんね。一年中同じものを着ておりますわ。衣の色を季節の移り変わりと共に変えるということもしませんし。地上で暮らす方々はそうでもないですがね。流行の色の着物を着たり、季節にあったものを着たりするそうですわ。……別に私共も季節の移り変わりや、色彩というものをないがしろにしているわけではございません。ただ、この辺りで作ることが出来る衣の色、種類には限りがございまして」
ですから地上からこの海へやって来た商人が売りに来る、こちらでは見たことも無いような色や模様の布はいつも大変な人気があるのです――アゴメは千景に質問されたのが嬉しくてしょうがないという風に話してくれた。
なんでも、水中でも地上でも自由に行動が出来る商人が時々、海にある宮や京(一定の大きさがある集落のことを、こちらの世界ではそう呼ぶのだと、これまたアゴメが教えてくれた)を訪れ、地上の売り物を持参してやってくるのだそうだ。その時の宮は大変賑やか、お祭り騒ぎとなるのだという。
「そういうのって特に女性が喜ぶんじゃない?」
「ええ、その通りです。これは私が買う、いいや私だ……とそれはそれはすごい争いが始まりますのよ。戦、というのはこういうもののことを言うのではないかと毎回思う位ですわ。商品の取り合いを目の当たりにした男衆の引きつった顔は誠に滑稽。それもまた商人が訪れた時の名物の一つであるんだとアゴメは笑う。
こちらの世界では一体どんな物が売られているのか、千景は少し気になる。
きっと人間には理解出来ないような代物も多いのだろうな、とあれこれ想像してみたりなどして。
ちなみにここへ住む者達の殆どは、地上でも活動が出来るのだそうだ。だから時々地上へ行って買い物をする者もいる。しかし長時間海から離れていると体がだるくなってしまう上に、地上のこともよく分からないからあまりしないそうだ。だからこそ、自分達の住む所へわざわざ足を運んでくれる商人は貴重なのだとか。
「アゴメも皆と取り合いをするの?」
「私はそんなみっとも無い真似はいたしません」
と言ってはいるが、いたずらっ子っぽい笑みと妙に弾んだ声を聞く限りそれは事実ではないようだった。そういうことにしておいてあげると千景が笑うと、アゴメもありがとうございますと笑う。
ここへ残ると決めた日から、千景はアゴメにこの世界に関することを沢山質問した。ここ数日間でした質問を集めて山にしたら、きっとあの日青海が作っていた王山の高さに匹敵するだろうという位。しかし質問しても、質問しても、まだ謎や疑問は尽きない。回答を貰っても、その内容の意味が分からず……なんてことも少なくなかった。
アゴメは千景に色々なことを聞かれても、嫌な顔一つせず答えてくれる。むしろそうやって色々千景が聞いてくれることを嬉しがっている節があり。だから千景も気持ちよく、そして気兼ねなく彼女に質問することが出来るのだ。
しかし千景がただ一方的に質問をしているということはなく。
二人のお喋りを遮った、とんこんぽろんという木琴に似た音。それは扉の前につけられている叩くと音を出す、人間界でいうチャイムのようなものの音であった。アゴメ曰く、基本的に誰かが来訪した際はこれを鳴らすのだそうだ。しかし大浪や小浪、王などある一定の身分の者が訪れる際は従者がドラ(呼鐘というそうだ)を叩くのだとか。
作業していた手を止め、立ち上がったアゴメがその扉を開く。
「あらあら。……千景様、また大質問会が始まるようですわよ」
「扉の向こうから漏れていた声を聞いて、覚悟はしていたわ」
二人して苦笑いするなか、開かれた扉から四人の女と二人の男が入ってきた。
一人はガゴメ。後は昨日出会った者や今日初めて見る顔で。各々海で獲れるらしい果実を盛った皿や魚の練り物、砕いた魚の骨を混ぜて作った煎餅に似たものなどを手にしている。お喋りのお供である。
千景は急いで寝台から降り、アゴメが即座に用意した布座に座って彼等を待った。……若干彼等から視線を逸らしつつ。
「また随分沢山来たものね。全く困った人達」
アゴメは呆れたようにため息をつくも、心から彼等の来訪を嫌がっている様子は無い。果物を盛った皿を布を敷いた床に置きつつ、ぺろりと舌を出すガゴメ。
「ごめんなさいね。……是非千景様に食べてもらおうと思ってこれを持ってこちらに来る途中、この人達と鉢合わせしてしまって。どうしても千景様とお話がしたいというものだから、仕方なく連れて来てしまったの」
初めて会った時は分からなかったが、ガゴメは思ったよりも若い、無邪気で茶目っ気がある人であるらしかった。千景は初めて彼女と長い話をした時、彼女の明るさに驚いてしまった。千景がちょっと驚いた表情を浮かべているのに気がついた彼女は「いやですわ千景様ったら、私を化け物でも見るかのような目で見て」と可憐ながら大きな声で笑い、そんな姿を目の当たりにした千景はますます驚くことになった……というのももう数日前の話である。
「本当、お前達は」
「悪いねえ。……まあ悪いだなんてあまり思っちゃいないけれどさあ。皆がこうして押しかけるのも無理はないだろう。何せ人間だよ、人間。……人間なんてもうここ数百年、会った覚えがなかったもの。皆今の人間がどんな暮らしをしているのか、気になって仕方ないのさ。あたし達全員、人間の娘が瑠璃宮に来たと聞いた時にはそりゃあ驚いたものさ。すぐにでも顔を見たい、話を聞きたいとも思った。……けれど最初の内はごく一部の者以外は決して千景様のいる部屋には近づくなと言われ、青海様とお会いする時も同じように命じられて。もうあたしは気になって、気になって夜も眠れなかったよ……元々殆ど睡眠なんてとらないけれど。その命令がようやっと無しになって、嫌がられない程度の接触は許されるようになったんだ、そうなりゃあ当然こういうことになるだろうよ」
アゴメのぼやきに対して、何十倍もの言葉が返ってくる。殆ど息継ぎもせず一気にそうまくしたてたのは、大きな、おかめの様な顔と手の甲に青緑色のいそぎんちゃくを生やした、見た目中年位の女。千景が知る中で、瑠璃宮一おしゃべりな女は彼女であった。
(クラスの女子以上によく喋る人よね……名前は確かお磯さんだったかな。うう、未だに手にいそぎんちゃくがついている姿に慣れない。頭の上にもものすごく大きなものがついているし。いい加減慣れないとなあ)
お磯の言葉を聞いてうんうん頷いているのは蛸ノ丞。相変わらず足に無数の人の顔がついているその容姿は強烈で。
(ああ、足についている顔が一斉にこっちを見ている。あの死んだような目が怖い……おまけに口は半開きだし、何か呻いているし、顔色悪いし……)
千景は極力それを視界に入れないようにする。しかしそれを視界から消しても、ぐさぐさ突き刺さる視線からは逃れられない。
「千景様は本当、お偉いですな。大浪様のあの命令を無しにしたのは他ならぬ千景様であったとか」
蛸ノ丞の言う通り、アゴメやガゴメ以外の者の接触を許したのは千景自身であった。ここで暮らすことを(一応は)決めた以上、ここに住む者達にも早く慣れていかなかればならないという思いの下、そうしたのだ。
そんな千景の意向が全員に知れ渡った途端、彼女と会い、話そうとする者が殺到。昨日も青海と会った帰り多くの者につかまり、延々と質問攻めされる羽目に。
(来た時から比べれば大分進歩したけれど、それでもまだ皆の姿を見て驚いたり、気味悪く思ったりしてしまうことが多いのよね。まあ皆良い人達で、私がびっくりして悲鳴をあげても笑って許してくれるけれど……ああ、でもいつまでもこんなんじゃ駄目よね。蛸ノ丞さんともちゃんと目を見て話せるようになっていかなくちゃ)
千景は改めてそう決意をするのだった。
まずは初対面の者と挨拶をし、それからは皆で果実や練り物をつまみつつお喋り――という名の大質問会――へ移行。
彼等の好奇心という名の水が満ちた井戸は枯れること知らず、釣瓶で汲んでも汲んでもどんどん溢れて。当然千景の口が動く数も多くなる。
質問内容は様々。向こうの世界に関する質問から、千景自身に関する質問まで、まあ、本当に、色々あった。
元来あまりお喋りな方では無い彼女にとって、ここまで際限なく喋ったのは生まれて初めてであった。途中からあまりに喋りすぎて、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた程、喋る、喋る、喋る。そんな自分と彼等の声が感覚を麻痺させたお陰か、夢中になって喋っている時は蛸ノ丞や他の者の姿を見ても恐怖心を抱くことも無かった。普段から怖がらずにすむようになれば最高なのだが、流石にそれはまだ無理で。
皿に盛られた食べ物もどんどん消えていく。千景の口に合わない強烈なものも中にはあったが、大抵のものは大変美味しくいただくことが出来た。
「人間の世界はすごいのですねえ。私達が見たら、驚いてそのまま死んでしまうかもしれませんわあ」
聞く者の心を和ませる、のほほんとした声。その声の主はころころ太った鮫である。しかし普通の鮫と違い、彼女の体からは日本の足が生えている。形状や人と似ているが、その指は六本で色もピンクっぽい。ちなみに座ることは出来ないらしく、さっきからずっと立ちっぱなしである。名を和仁という。
「本当ですなあ。昔はよく行ったものだが、今は全く足を運んでおらぬゆえ……いや、本当、話に聞いただけでは想像出来ませんな」
蛸ノ丞は己の足を器用に使ってとった練り物を口にする。……ちなみに今食べているのは、たこのすり身の中にぶつ切りにしたたこの足が入っているもの。
たこの口から、たこの足がはみ出ている光景は非常にシュール。
「人間達が着ているっていう――服だっけ? あたしも着てみたいねえ。面白そうじゃないか、種類も色も形も色々あるんだろう。ガゴメから、千景様が初めてこちらにいらっしゃった時着ていたものを見せてもらったけれどさ、体の露出も多くて、形も変わっていて、びっくりしたもんだ。けれどなかなか可愛らしい造形だったねえ。動きやすそうだったし」
「お磯が着ても全然似合いませんよお。見た人が吐いてしまう位」
「うるさいよ、和仁。ああ、さてはあんた四肢があるこのあたしに嫉妬しているね? あんたは衣を身につけることが出来ないからねえ。当然、あのセイフクとやらも着られない。ああ、ああ、可哀想にねえ」
「馬鹿にして。この口で噛みつかれたいのですかあ」
開かれた和仁の口には、噛んだもの全てを砕くだろう鋭く恐ろしい刃がびっちりつまっている。甘噛みレベルでも、人間がやられれば死に至るだろうと千景は内心びくびく。
「ところで千景様。……あれから青海様との間に進展はございまして?」
今日初めてあった、全身にふじつぼのついている男(話し方や仕草は女そのものだが。声も若干高めである)が林檎に似た味のする青い果実にかじりつきながら、彼等との会話で弾んでいた胸をぐさり突き刺すようなことを聞いてきた。現状を知っているアゴメは顔を青くしたが、後の連中は黄色い声やら「おお」という歓声などをあげ。
「藤壺ったらいきなりそんなこと聞いちゃ失礼じゃないか。……で、実際のところはどうなんだい?」
「まあ、お磯ったら。ああでも私もそこ、気になっちゃう!」
喉を痛めたかのような、しゃがれた声。全身を本物のヒトデで作った装飾品でコーディネートした、若いようなそうでもないような女だ。藤壺やお磯の質問に興奮し、頬を赤く染めながらくねくねし。
それから皆して勝手に盛り上がった。……がっくりうなだれ、どんよりじめじめしたオーラを放つ千景の姿と、般若の面さえ泣き出しそうな表情浮かべるアゴメの姿を見るまでは。そこから、アゴメの説教タイムが始まり。
「全くガゴメまで一緒になって……」
「ごめんなさいね、アゴメ。ただやっぱり、その、気になってしまって」
「そうだよう。お前さんだってあたし達と同じ立場だったら絶対『きゃあ』とか『気になる』とか言ったに違いないよ……いや、ま、悪いとは思っているけれどね。そうだよねえ、相手はあの青海様。そう簡単にはいかないねえ。何せ長時間誰かと目を合わせ続けていると、目を開けたまま気絶してしまうようなお方だ。……もういっそ既成事実でもつくって」
「お磯?」
「冗談、冗談だって」
言い訳し、アゴメの気迫に押されて謝り、また余計なことを言って。藤壺や和仁達に至っては何も言えず、その身を小さくしてしょんぼりするばかり。
「そ、それじゃああたし達はこれ位で失礼するとするかね。千景様、諦めちゃいけませんよ。あたし達は全員、千景様の味方ですからね」
「こら、まだ話は」
しかしお磯も、先程までしょんぼりしていた者達も皆、逃げ足がとても速かった。持参した食べ物はそのままに、さっさと部屋を出て行ってしまった。
逃げられた上に、片付けまでやることになってしまったアゴメはむきいとその場で地団駄。勝手に押しかけておいて、何という者達、覚えておれとぱたんと閉まった扉めがけて言い放ち、それから疲れたとため息。
「申し訳ございません千景様」
「いいえ、気にしないで。アゴメも、あの人達も何にも悪くないわ」
と言いつつ、心は沈んでいく。ふらふらと寝台に近寄り、ダイブ。
ひんやりとした布に体を預け、ゆらゆらたゆたう。
(この世界に関することを沢山知った……瑠璃宮に住む人達と会ったり話したりするようになって……どんどん彼等との距離は縮んできてもいる……アゴメやガゴメの性格も分かってきて、アゴメとは特に仲が良くなってきて……この宮の構造も分かってきて……あれから、色々なことが変わってきた。変わっていないのは青海様との間にある距離だけだ)
そこだけは全く、何にも変わっていなかった。それを思うと胸が痛んだ。
弱っていく心が自分の本来いるべき世界の記憶を呼び込む。両親、友人、学校、好きなTVや小説、行きつけの店……未だ鮮明に浮かぶ映像に、千景は思わず泣きたくなる。
(私は大切なものに背を向けてまで、こちらに残ることを選んでしまった。……理由は青海様と会う前とは違う。馬鹿だなあ、私。背を向けてはいけないものに向けてまで、選んだ道……なのに、一番変わって欲しい部分が少しも変わっていないなんて)
あせっても仕方が無いとアゴメや大浪、小浪からは言われていた。だがどうしてもあせりが出てしまうし、心もくじけてしまう。
(二十年近くの付き合いがある大浪様、小浪様とさえ、まともに目を合わせて長時間話すことが出来ないとアゴメは言っていた。……私と会話が少しでも出来るようになるまで、やっぱり同じようにそれだけの時間がかかるのだろうか。その頃には私、おばさんになっているわ。ああ、本当、これからもこんな感じなのかしら)
家に帰りたいと全く思わない千景ではなかった。特に青海と会った直後は「家に帰りたい!」とか「ああ、何をやっているんだろう馬鹿馬鹿しい」と強く思う。しかしそれでもそのことを口に出す気にはどうしてもならなかった。
自分のことを何度馬鹿だと思い、自分がやっていることを何度馬鹿馬鹿しいと思っても、彼女は毎日青海の部屋へ通った。
それは青海の為でも、大浪や小浪の為でもなかった。他ならぬ自分自身の為に、彼女はその『馬鹿馬鹿しい』日々を繰り返す。
それからまた数日が経った。相変わらず青海に変化は無い。近頃は千景が来る度『うわ、また出た!』とか『ぎゃあ、来た!』と言い、まるで幽霊でも見たかのような悲鳴をあげるようにさえなり。失礼きわまりない態度だったが、もう初対面の時のように腹が立つことはなかった。だからといってその反応を喜びもしなかったが。
千景が話している間、彼は何かぶつぶつ呟いていたり、ぶるぶる震えていたり、何かの拍子で目が合った途端「きゃあっ」とかよわい乙女の様な悲鳴をあげたり、帰ってください帰ってください帰ってくださいと延々と念じ続けていたり。
それを見ると千景は、まるで自分が青海をいじめているような気持ちになってくる。毎日しつこくやって来ては、ぺちゃくちゃ話し続ける。そのことを申し訳なく思う気持ちもあった。それでも彼女は彼の部屋に通うことをやめはしない。しつこいと思われても、恐ろしい女と思われても、良い。それでも彼女は青海に会いたかったのだ。
(まさか自分がここまで嫌な性格をしていたなんて)
ふいに襲った羞恥心に身を焼かれつつも、彼女はなかなか変わらない日々を過ごすのだった。