深い深い水溜りの底で(4)
*
青白く光る床、壁、天井。ひんやりとした空気、水に包まれているような感覚。その青さ、冷たさが瑠璃宮の王・青海にこれから会おうとしている千景の発熱しながら暴走していた頭と心を冷やしていく。
負の感情と興奮が千景にもたらしていた痺れが、とれていく。それと同時にじわじわと襲ってくるのは後悔の念。淡い黄緑色の布に包まれた足が重い。やっぱり帰りたいという言葉が喉元まで出てくるも、それ以上上へはいかない。
青海と会う……そう言った後、小浪がガゴメに命じて持ってきてもらった数々の装飾品。青い玉のついた金銀のかんざし、勾玉を連ねた首飾り、衣につける豪奢な飾り。歩く度、しゃらしゃらと音を鳴らす。 首からかけているのは勾玉の首飾りだけではない。細かな彫刻が施された丸い銀色の飾りつきの首飾りもある。
(私はなんて馬鹿なことを言ってしまったのだろう。……ああ、昨日この二人と会っていればよかった。昨日だったら、今すぐ帰してと言えたはずなのに。ここの空気に若干慣れてしまったせいで、変に落ち着いちゃって……落ち着いちゃったから、彼のことを思い出してしまって。ああ、もう、何もかも彼のせいだ……)
銀の首飾りの中央についている玉は、今の千景の気持ちを表しているかのような色。……深い、青。
とりあえずは「一度青海に会ってみたい。結婚するかどうかはまだ分からない」とは二人に言ってある。二人共「急いで決めろとは申しません。貴方にとっても王にとっても大切なことですから」と言ってくれた。
青海と会った上で今回の件を断ることは出来る。何が何でもそうしなければいけない、と千景は思っている。しかし、ちゃんと断れる自信が無い。
(こういうのは後になればなるほど、断るのが難しくなる。ずるずると引きずって、結局青海という王様と結婚することになってしまうかもしれない。……嗚呼、それにしても…一体なんなのだろう、この少女漫画や恋愛ファンタジー系の小説の様な展開は。ああ、冷静になって今自分が置かれている状況を整理してみると、何だか、恥ずかしい。こういう展開に憧れている人達に私は言いたい……こういうことは実際に経験してみると恥ずかしかったり訳が分からなかったりで……良いことは一つも無いと)
千景を王の下まで連れて行く為、少し先を進んでいる大浪、小浪の背中。それを見て、手でさりげなく覆った口からため息をもらす。
「いや、しかし、良かった。……正直、すぐに断られるものだと思っていたのですよ、我々は。まさか王と会ってくださるとは」
「兄様ったら何度同じ話を繰り返せば気が済みますの? 千景様の耳にたこが出来てしまったらどうするのですか」
「すまない。あまりに嬉しかったものだから。……しかし本当驚きましたよ、千景様から王と会わせて欲しいという言葉を聞いた時には。最初は聞き間違いかと思ったのですよ」
「また同じ話を。全く、もっと他に話すことはないのですか。ああ、私の耳にたこが出来たような気がします」
そう言って小浪は自分の耳を押さえる。二人が千景の「青海に会わせて欲しい」という言葉を聞いてものすごく喜んでいることは、彼等の声の弾み具合から容易に察することが出来た。千景自身はそう言ってしまったことをものすごく後悔しているのだが。
(やっぱり王には会わない、今すぐ帰る……なんて、とても言えない。少なくとも今は、無理。とりあえず言ってしまったからには仕方が無いわ。……王には会おう。小浪さん曰くまともに目と目を交わしながら会話をすることはまず無理だろうということだけれど。それで充分だわ。……断らなくちゃ、絶対に。そして元の世界へ帰るんだ)
そう決意する。しかし時々脳裏にちらつく元彼の顔、当分頭から離れそうにない辛い思い出がその決意を鈍らせる。
帰りたい、帰りたくない、帰りたい、帰りたくない。その思いが交互に現れ、消え、現れ、消え。
広い通路を歩く間、千景は宮に住む者達と殆どすれ違うことはなかった。本来はこの辺りを歩き回っている者は少なくないそうだが、異形の姿に免疫の無い千景のことを思って、大浪がアゴメに命じて人払いさせたのだった。だから千景の耳に今入っているのは前を歩く二人の話す声と、足音のみ。
(それにしても……ここまで結構歩いたけれど、まだ王様の部屋には辿り着かないのね。かなり広い建物みたい……)
高い天井、広い通路、大きな扉、果てなく続く道。大浪に「とても広いんですね」と試しに言ってみたら「これでも宮の中では狭い方です」という言葉が返ってきた。
歩いている途中に見た壁にかかっていた鏡。そこには憂鬱そうな顔をしている少女の姿が映っていた。数多くの飾りに彩られたさらりとした髪と若干大きめの目以外特に誇れるところの無い顔。特別可愛いわけでは無い顔。色鮮やかで美麗な衣装に完全に負けている少女。大浪や小浪が持っている魅力的なオーラが、そこに映っている少女……千景には無かった。
――お前の良い所なんて、大人しくて従順、それでもって俺より頭が良いってところ位だ。最初はそういう所がかなり新鮮に映ったけれど……もう、飽きた。やっぱり俺には合わない。お前みたいな地味でぱっとしない女は――
鏡に映った自分の姿を見て、千景は顔を赤くした。何だかとても恥ずかしくなったのだ。それは相当ファンタジックで非日常的な格好をしていることを改めて実感したから、という理由だけではない。
(私には……地味でぱっとしない人間にこの格好は合わない。こうして鏡で見てみると嫌でもそれを思い知らされる。ああ、恥ずかしい、出来ることなら今すぐにでも脱いでしまいたい)
火照る頬を両手で押さえ、恥ずかしい、恥ずかしいと悶々とする一方、嫌なことを思い出して痛む胸に顔をしかめる。
今の自分を見たら、きっと彼は腹を抱えて爆笑するに違いない。その姿を想像した千景は小声で「こん畜生」と呟くのだった。
*
様々な感情が千景の中で殴り合いをしている最中、殆ど千景に話しかけることなく歩いていた二人が突然足を止め、千景と顔を合わせる。何だろうと思いつつ、彼女も足を止めた。
「千景様。正面に一際大きな扉が見えるでしょう? あちらに王・青海の部屋があります」
T字の通路、縦線と横線がぶつかる地点の向かい側。そこには小浪の言う通り、他のものとは比べ物にならない位大きく立派な扉があった。扉の前には一足先に行っていたアゴメが立っており、三人に向けて頭を下げている。
とうとう、自分がここへ連れてこられた原因である男と会う時が訪れた。
その瞬間及び王と会った後のことを考えた途端再び暴れだす心臓。固まり、重くなった足が痛む。うるさいだけの合唱が始まった頭ががんがんし、胃は締めつけられ、息は苦しくなり。もう散々である。
一度止めていた足を再び動かし、アゴメの前へ。彼女はその手に、先程まで大浪達についていた少年が持っていたものと全く同じ、ドラらしきものを持っていた。
「アゴメ、王はちゃんと部屋の中にいるか?」
千景に話をしていた時より低い声で大浪が尋ねると、アゴメは「大丈夫です、逃げてはいません」と一言。
「ただ、その、いつも以上に……すごいです」
声のボリュームを落とし、やや言いにくそうに一言。千景にその言葉の意味はよく分からなかったが、二人はちゃんと分かっているらしい。
まず大浪がため息をついた。
「全く、あの馬鹿……こほん。全く困ったものですね」
(今、馬鹿って言った?)
そういえば、と千景は自分が王と会うと言った直後のことを思い出した。王に今すぐお会いになりますかという小浪の問いに千景ははいと返した。それから大浪がアゴメに「このことを王に伝えるように」と言ったのだが、その際。
――良いか、どうせ王のことだからそのように伝えれば逃げ出そうとするに決まっている。だが決して逃がしてはならぬ。いざとなったら岩礁を呼び、王を紐と布で昆布巻きにしてもらえ。何が何でも千景様には会ってもらう――
とか何とか言っていたのだ。あの時の千景の状態は今より酷かったから、それを聞いても特に何も思わなかったのだが……。
(改めて考えてみると……主である王様が逃げ出そうとしたら昆布巻き――というかす巻き……にしてしまえとか、そんなことを素で言えるのってすごいわよね……小浪さんとアゴメさんもその言葉に対してツッコミを入れるってこともなかったし。何だかすごい主従関係だわ。この扉の向こうにいる王様、今どういう状態になっているのかしら。まさか本当にす巻きに)
ありえないとは言い切れなかった。
す巻きにされた王様との対面シーンを思わず想像してしまった千景は危うく噴出しそうになる。
(駄目、駄目! 立派な部屋の主がす巻きになって床に転がっている姿なんて想像しちゃ駄目! 「余が王です」って言葉の入った、ふにゃふにゃの線のふきだしが口からむにゅっと出ている姿なんて想像しちゃ駄目!)
笑いを我慢し、体を小刻みに震わせる。しかし一度広がってしまった想像の翼は容易に畳めず。
す巻きになったへのへのもへじの顔した王。その王と何があったのか分からないが結婚してしまった千景。その二人の間に子供が産まれる。子供はすくすくと成長し、母である千景にある日「お父さんとお母さんの出会いってどんなものだったの」と尋ねるのだ。
千景は目を細め、微笑みながら思い出す……す巻きにされている今の旦那の姿を。そして「私が出会った時、貴方のお父さんは部下にす巻きにされてね、床に転がっていたわ……」とか何とかそんなことを語りだすのだ。
(私はなんて馬鹿なことを考えているのだろう! 緊張のせいでおかしくなっている!)
だがそんな馬鹿みたいな想像をしたお陰で体の力が抜け、かちこちになっていた筋肉が解れ、少し楽になったようだった。下らない想像も時には役に立つようだ。
「千景様? どうかなさったのですか?」
心配そうに小浪が千景の顔を覗き込む。千景は必死に首を振り。
「いいえ、何でも!」
「千景様、早速中へ入りましょう。アゴメ」
はい、と頷いたアゴメが手にしていたものを鳴らす。その音は扉の向こう側に届き、やがてゆっくりとその扉は開かれていった。
扉が開かれたのと共に、中から微かに聞こえてきた悲鳴。男――恐らく病的なまでに恥ずかしがり屋らしい王のものだろう。しかしその声は何故か妙にくぐもっている。
(す巻きにされた上、口を布か何かでぐるぐる巻きにされたのかしら?)
いや、まさかと首を振りつつ大浪と小浪に続いて部屋の中へ入り、最後にアゴメが入ったところで扉は閉められた。中から扉を開け閉めしていたのは二人の女。片方は手に水かきがあり、もう片方の女は頭から珊瑚に似た角を二本生やしていた。どちらもアゴメ達同様、従者とは思えぬ輝きと美貌をもっている。
「青海様。大浪と小浪、只今参りました。貴方の妻候補である千景様もおいでです」
千景が寝起きした所よりなお広い部屋の中に、朗々と響き渡る大浪の声。
大きな声であるのに、うるさい、耳障りという印象を全く受けない。むしろ部屋に反射し、拡散し、やがて部屋中を満たしたその声に包まれると、広大で包容力溢れる海の中で漂っているかのような心地になり、心安らいだ。
そんな彼の言葉に答えるように、男の叫び声が聞こえた。恐らく「嫌だ」と言ったのだと思われるが、何せ大浪に比べ彼の声は小さかったからはっきりとは分からない。
しかし嫌だと言われようが、決して大浪は怯まないし、千景と王を会わせることをやめようとはしなかった。
「私が嫌だと言われて素直に退くような者だとお思いですか。全く……今日は一段とご立派な『おうざん』をお作りになりましたね」
「おうざん?」
聞きなれない言葉に首を傾げていると、それにきがついた小浪が困ったような笑みを浮かべながら振り返る。
「王の山、と書いて王山です。その……あれを我々は王山と呼んでいるのです」
そう言って小浪が体を横にずらしてくれたお陰で、ようやく千景は王がいるであろう最奥の様子をうかがい知ることが出来た。そして、大浪達が『王山』と呼んだものがなんであるのかすぐ理解し、思わず自分でも情けなく思うような、気の抜けた声を出してしまい。
目を閉じ、恥ずかしそうに頭を伏せる小浪。
「恥ずかしながらあれが、といいますか……あそこにいらっしゃるのが、我等が王、青海です」
「成程」
としか言いようが無かった。同時に元々部屋に入る前から大分抜けていた力が完全に抜けてしまった。
(彼の声がくぐもっていた理由もよく分かったわ。しかしまあすごい姿。す巻きよりか幾分ましのような気はするけれど)
王自らが作り上げたらしい王山を見て苦笑。青みがかった四本の柱の伸びる、星を抱く夜空の如き石で作られた巨大な土台、柱の上部を覆う青、水色、若草色の布……その布にとりつけられているのは、瑠璃と翡翠の大きな玉と金色の小さな玉を連ねた飾り。
そんな豪奢な玉座だったが、王山のせいでどうもしまらないものになっている。美しいが、間抜け、豪華だが、どこか滑稽。ちぐはぐ。
大浪と小浪は顔を見合わせ、頷くとその玉座へ目指しすたすたと歩いていく。
王山を崩すつもりなのだろう。
「失礼いたします、青海様」
「観念して下さい、青海様」
青海は「嫌だ!」と叫んだが、小浪も大浪もそれを無視。玉座へ至る階段を上るや否や、王山に襲い掛かった。
千景も後に続き、玉座の間近までやってきた。広い部屋、遠くからだと分からなかったが、思った以上に台は高く、首をくいっと傾けなければその全容が見えず。
(本当……見事な『山』だわ)
玉座の中央に出来た山。それは青、紫、水色、黄緑色、黄色諸々の色とりどりの布(中には衣らしきものも混ざっている)が積み重なって出来たものだった。色合いだけでいうなら山というより、梅雨の季節、日本を彩る紫陽花であった。青、紫、沢山の紫陽花。さて、どうやら王はこの下いるらしい。大浪と小浪が上がって来たことを王は察知したようで、山がぐらりと俄かに揺れだす。
人と顔を合わせたくないから、布を被る。その気持ちは千景にも全く分からないわけではなかった。だがその規模が……。
(この宮の中は比較的涼しいけれど、それにしたってあれだけの数の布を被ったら……暑くて参っちゃうような。それ以前に息、ちゃんと出来ているのだろうか)
感心、呆れ、ちょっと心配。王山を崩した先に青海がいる。普通なら胸がどきどきするはずなのだが、王山を目の当たりにすると、高鳴るものも高鳴らない。
「全く一体これだけの量をどうやって調達したというのですか、貴方は! 貴方が王山を作った後の片付け、誰がやると思っているのです! まあ私はしませんがね!」
華麗な手つきで大浪は次々と山になった布をつかんでは投げ、つかんでは投げ。蝶の様に、花びらの様に、ひらひら舞って、あちこちにふわり、ふわり。
小浪も負けてはいない。時に布を何枚かまとめて持ち、豪快に床へと放り投げた。
「私達は貴方のことを思って、一生懸命頑張っているのです! お願いですから千景様と会ってください!」
もう必死の形相である。しかしそれ以上に必死だったのが、青海だった。
「嫌だ! 余は結婚など望んではおらぬ! もう余のことは放っておいてくれ!」
段々はっきりとしてくる青海の声。
「放っておけるわけがないでしょう、この馬鹿が!」
(やっぱり馬鹿って言っている!?)
「いい加減になさい、この馬鹿王! 男ならもっとしっかりしてくださいな!」
(小浪さんまで!)
しかし青海は自分を馬鹿呼ばわりした二人に激昂する様子もなく、ただ嫌だ嫌だと言うばかり。
そんなことをしている内、あれよあれよという間に崩れる山。残るは後一枚、彼の頭から腰にかけての部分を覆っているもののみとなった。だがここからが大変なようだった。この王、力は非常に強いらしく、二人がかりで引っ張っても、びくともしない。
「青海様!」
二人が声を揃えて叫ぶ。
「嫌だ、誰かと顔を合わせるなどという恐ろしくて恥ずかしいこと、絶対にしたくない! 妻などいらぬ、人間の娘に興味等ない、勿論妖や精霊にもだ! さっさとその千景とやらには帰ってもらえ! いらない、妻など、顔を見たくもない、恥ずかしい、嫌だ、絶対に嫌だ! 恥ずかしい、帰れ、離せ、放っておいてくれ! 大浪も小浪もさっさと自分の部屋へ戻ってくれ、ああ、やめろ、やめてくれ、これを外すのだけはやめてくれ!」
心からの叫びであるようだった。耳を思わず塞ぎたくなるような大声に千景は顔をしかめる。
(成程、本当、ものすごい勢いで拒絶するのね。必死にお願いされて仕方なく遠路はるばるやってきた、多分それまで蝶よ花よと育てられていたお姫様がこんな態度で、こんな風に色々言われたら、腹をたてるのは当然よね)
そして千景もまた、目の前にいるまだ顔も見ていない男に腹をたてていた。
会って話をした上で「自分には合わないから断る」と言われるのならまだしも、瞳すら交わしていない状態でここまで色々言われたら。結婚する気がなくても、腹が立つ。自分の存在を否定されたような気がして、激しく気分が悪くなった。
そしてまた、馬鹿とか何とか言いつつも青海の世話をかいがいしく焼き、彼のことを大切に思っているであろう二人に我侭なことばかり言い、振り回し続けている事実にも腹が立った。
このまま帰ってたまるか。強く彼女はそう思った。
気がつけば千景は階段を使い、上へと上がっていた。そして(恐らく)彼の頭辺りを覆っている部分の布をぐいっと引っ張る。
「勝手なことばかり言わないで頂戴! 顔を合わせる位良いでしょう!? このまま貴方の顔をまともに見ないまま帰れるものですか! 何が何でもその顔、拝んでやりますから!」
青海の叫び声よりなお大きな声で千景は怒鳴った。それ程までに大きな声を出したのは人生初のこと。大浪と小浪はぽかんと口を開け、目をぱちくり。
第三者の登場。これには青海も驚いたらしい。油断した彼は叫ぶのをやめそして一瞬、布を持つ手の力を緩め、そして。
ふわりと舞いあがった布の下から、一人の男が姿を現す。思わず顔を上げてしまったらしい青海、彼を睨みつけていた千景。二人の瞳が今初めて、合った。
着ている服――青い、道服に似たもの――が割とゆったりしているものだから、はっきりとは分からないが、顔や手を見る限り青海は細身であるようだ。
大浪が言った通り、彼は決して美形とは呼べない顔立ちをしていた。だが、良い顔をしていた。眉、瞳、唇……それらの形、バランスは親しみを覚えやすい、見ているだけでほっとするもので。ものすごく好かれる顔では無いが、嫌われることも殆ど無い――誰かの一番にはなりにくいが、最下位にもならず、目立ちもしないが忘れられもしない。そんな顔立ち。
その顔が、千景の目に飛び込む。口を開け、呆然としている青海。
そんな彼の顔を見た瞬間、千景は後悔した。激しく後悔した。
(ああ、駄目だ。……私は、きっと)
揺れる、揺れる、桃色の布。ばさりと音を立てて床に落ちる。それからしばらくの間、誰も何も言わなかった。静寂。
千景の目には青海しか映っておらず、恐らく青海の目にも千景しか映っていなかった。
しかしそんな美しい時間もそう長くは持たず。自分の顔、体が晒されてしまったことに気がついた青海が悲鳴をあげたのだ。あっという間に顔を真っ赤にし、額から玉の様な汗を流したかと思うと、近くにあった布をひっつかみ、再び被ってしまう。
「あ、こら! 青海様!」
「うわああ、あああ、のわあ、ひいい、うわああ」
彼は恥ずかしさのあまり悶えているようだった。しかしその間抜けで情けない声を聞いても、もう千景は腹を立てなかった。彼女はその場にへたり込み、自分が放り投げた布の色に染まった頬に両手を当てる。高くなった体温と体温がぶつかり合い、更なる熱を発した。
(私の馬鹿、馬鹿! 本当に、どうしようもない、馬鹿!)
自分を自分で責めても冷えぬ体。それどころかどんどん熱くなっていく。
結局その後は青海と少しも目を合わせることが出来なかったし、会話をすることも出来なかった。大浪と小浪も諦めてしまい、この馬鹿王めという捨て台詞と共に、千景を連れて部屋を出て行った。それから例の部屋へ戻るまで、誰一人口を開く者はおらず。
しかし部屋へ戻った途端、大浪と小浪はこれでもかと言う位喋り出した。その九割が、千景への謝罪の言葉。残り一割は王を擁護する言葉。千景が口を挟む隙も与えず彼等は謝った、謝り続けた。千景は彼等の謝罪の言葉の海に溺れ、息苦しくなっていく。そんな状態になりながらも彼女は今後のことを考えていた。そしてゆっくりとその瞳を閉じる。瞳を覆った目蓋が映し出す、沢山の人の顔、思い出、そしてついさっき起きた出来事。
(私は、きっと。きっと言うことが出来ないだろう……)
「誠に申し訳ございませんでした。さぞかし不快な思いをされたでしょう。……貴方が望むなら、すぐにでもこちらとあちらを繋ぐ儀式を始めます」
「千景様。……矢張り、駄目……ですわよね」
二人はもうすっかり諦めているようだった。明らかに落胆した声が底へ、底へとどんより沈んでいく。
だがしかし二人はこの直後、驚きのあまりとんでもない声をあげることになる。その美しすぎるほど美しい顔をこれでもかという位崩して。
何故なら千景が二人に「私は帰りません。ここに残ります。……是非、残らせて下さい」とお願いしたからだ。