深い深い水溜りの底で(3)
*
「……は?」
とうとう明かされた願い。それを聞いての第一声がこれである。「ええ!?」と叫ぶことも「それはどういう意味!?」と問うことも出来なかった。
無言、頭を下げ続ける二人、気まずい空気。私はどうすれば良いのだとすがるようにして見たのは、アゴメとガゴメ。だが二人は目を瞑ったまま微動だにしない。アイコンタクトをとれない以上どうすることも出来ず。
誰も口を開かないし、目を合わせようともしない。千景が何かしらの言葉を発するまでそうしているつもりのようだった。
「つ、ま? 妻って、妻って……」
ほぼ真っ白な頭の中に唯一あった言葉。それが妻だった。だから、それだけしか言うことが出来なかった。彼女が口を開いた後、ようやく大浪と小浪が顔をあげる。二人共まるで川に流され、溺れ、どうにか助かろうと目の前にある藁にすがろうとしている人間のような顔をしていた。その顔を見て千景は混乱しつつも胸を痛める。突然の、訳の分からない願い。それは二人にとってとても大切で、何としてでも叶えたいものであるようだ。
「失礼いたしました。突然そのようなことを言われても訳が分かりませんよね。もし私が貴方の立場にいたら……きっと同じように困惑することでしょう」
「きちんと順序だてて説明をし、それから申し上げようようと思っておりましたのに……王のことを口に出した途端、一刻も早く我等の願いを貴方に申し上げたいと思ってしまい……大浪のことを責められる立場ではなかったですわね、私も。千景様、改めてご説明をいたします。ここ瑠璃宮を統べるのは一人の王、青海という者です。年の頃は二十といったところ。かなり若い王です」
「その王様と結婚しろというわけなの? それで……その……立派な世継ぎを産んでくださいとか」
「あ、いえ……子供はそう重要なものではないのです。子供は産んでも産まなくても、どちらでも一向に構いません」
「え?」
大浪が発した意外な言葉に、千景は目を丸くした。王と結婚となれば、当然次の王となる者を産まなければならないと思っていたからだ。矢張り人の世と仕組みなどが色々違うのだろうか、それともここで言う『王』というのは日本でいう総理大臣のようなもので、世襲制ではないのだろうかと千景は首を右へ左へと傾げ。
彼女が自分の言葉に面食らっていることに気がついたのだろう。大浪が「ああ」と納得したような声をあげ。
「そこを統べていた者が亡くなった後どうするかは、その宮によって違います。ただ、亡くなった王の子供を次の王にする……というのはあまり聞きませんね」
「そもそも宮の頂にたつ者というのは精霊、或いは神と呼ばれる存在が殆どで。人間よりもずっとずっと長く生きます。ですからその宮が出来てから、一度も王が変わったことが無いという所が殆どなのです。ただこの辺り……海にある宮の王はそれなりにかわりますが。瑠璃宮もまた、例外ではありません」
「それは一体どういうことなの?」
小浪が大浪に「続きはお前が言え」と目で命ずる。矢張りこの二人、力関係が逆転している。
大浪は仕方が無いなという風に小さな息を漏らし、それから口を開いた。
「海にある宮を統べる王の殆どは、数百年から数千年生きたところで……転生をするのです。転生する時機は自分で決めることが出来ます。中には数十年でさっさと新しい自分に生まれ変わる者もいます。……我々海に住まう者なら誰でも知っている、とある言い伝えがあります。それは海を統べる者達がどういう風に生まれたか、というものです」
それから大浪は、幼い頃聞かされた物語を口にし始める。遠い昔を懐かしむように、どこか幼い笑みを微かに浮かべながら、静かに、穏やかで優しい声で。
「昔々のお話です。この世界に『海』が生まれた時のこと。ある海で、眩い光を放つそれはそれは大きな泡沫が生まれました。それはまるで遥か彼方に存在している太陽の様であったそうです。その泡沫は他のものと結ばれることも、水面へ浮き上がることも、消えることもなく……暗い、暗い、海の底を何十、何百年もの間漂い続けておりました。さて、そんなある日のことです。泡沫――我々海に住む者は海陽と呼んでおります――が、突如世界を震わす位大きな泣き声をあげ、それから、爆ぜました。そうするのと共に、海陽の中から無数の、色とりどりの泡沫が溢れだし……それら一つ一つが魚となり、海草となり、貝となり、妖や精霊となりました。この世界の海に、生物が誕生した瞬間でした」
千景は昔読んだギリシャ神話や古事記等のことを思い出す。物事の始まり、どうしてこれはこうなったのか……それらを後世の人々へ伝える美しい物語――神話。そういったものが存在するのは何も人の世だけではなかったようだ。
人間にとって、神話や伝承というのは幻想物語。史実が元になった物語もあるだろうが、その殆どが空想、絵空事、幻想から生み出されたもので。書かれていること全てが実話であると本気で思っている者などそうはいない。
(けれど、この世界の場合……巨大な泡沫が現れて、それが破裂して、中から出てきた無数の泡沫が生き物になった……という出来事も本当にあったのかもしれない。それにしても、それが王様と、その人達が自らの意思で生まれ変わることが出来るという話とどう繋がるのかしら)
その答えは、もう少し話が先に進まなければ分かりそうにない。千景は相槌を打ちつつ、余計なことは一切言わず手で大浪に続きを促した。
「ところで海陽から出てきた泡沫の中に、他のものより一際大きな、見た者の目を潰してしまいそうな位眩い光放つ、虹色の泡沫が混ざっておりました。その泡沫達はすぐに姿を変えず、四方八方へと飛んでいきました。彼等はそれぞれある場所で止まると、生き物――殆どの場合人間に限りなく近い姿……へと変化しました。彼等が息を吹くと、立派な御殿が現れました。手を叩くと、海陽から生まれた自分達の兄弟とも呼べる魚や妖、精霊達が沢山やって来ました。口上を述べると、その者達が頭を垂れました。そして彼等は、虹色の泡沫から生まれた者を『王』と呼びました。海の底に建つ宮と王が生まれた瞬間です」
「つまり、その虹色に輝く泡沫から姿を変えた人が……海にある宮をずっと統べているんですね」
「そういうことです。彼等は生まれ変わる時、海の中へ出ます。そしてその体を光り輝く無数の泡沫へと変えるのです。海に生まれた泡沫は数々の生き物に姿を変え、それぞれの人生を歩むべく、行きたいところへ行きます。……ところでその泡沫の中には、他のものとは色も輝きも違う、一際大きなものが必ず一つ、あります。その泡沫のことを我々は『王卵』と呼んでおります」
王卵は……それはそれは美しい輝きをもっているのです、と大浪は微笑みながら語る。
その美しさには空の海に浮かぶ太陽も、冷たい夜を漂う月も敵うまい……と王卵の美しさを讃える歌もあるのだと小浪。彼女はその歌を一部分だけ歌ってくれた。千景の心はその幻想的な歌詞と、小浪の穢れ無き青い海を思わせる声に踊った。
兄である大浪もその声に聞き惚れていたのか、しばしの間、無言。話が再開されたのは小浪が歌い終わってからしばらく経った後のこと。
「宮に仕える者達は、王卵を宮の中にある部屋まで丁重に運びます。部屋の中央には海水で作られた柱があり、王卵はその中へ入れられるのです。そしてその部屋に、宮に住む者全員が集まり、王卵が姿を変えるその日まで儀式を行うのです」
「そしてその儀式全てを終えた時、王卵は姿を変え……この世に生を受けるのです。転生の儀はそこで終わります」
王卵が姿を変えたもの。その者が次の王となるのだ。
「王の姿は生まれ変わるごとに変わります。性別や性格もばらばらです。……また、彼等は転生する前の記憶を全て失った状態で生まれます。本当の意味で、一から彼等は人生をやり直すのです。……時々昔のことを思い出す者もいるそうですが、それは滅多にないそうで」
それゆえか。王が転生を決める理由の大半は「宮での代わり映えの無い暮らしに飽きた」というものなのだとか。王は他の者達程自由に動けない。だから数百年も暮らしているともう飽きてしまうのだそうだ。生まれ変われば人生を一からやり直せるし、魂の一部は王以外の者へ生まれ変わり、今までいったこともないような場所へ行くことが出来る……自由に、なれる。だから彼等は何度でも生まれ変わるのだと小浪が少し寂しそうに微笑む。
今の生を終えなければ自由になることが出来ない。それはどれだけ辛く悲しいことだろうと千景は思った。だが自分は王達の気持ちの一割も分かっていない、一生分からないだろうとも思った。思いつつ、話を進めようと口を開く。
「だから子供は産もうと産むまいとどちらでも良いと言ったのね。王は海陽より生まれた泡沫が変化した者だけだから……」
「ええ、そういうことです。……勿論、子作りをする王もいますよ。可愛らしい子供が産まれることで、無くなりかけていた今生に対する執着心が再び……という例も少なくないようです。自分が生きた証、自分が誰かを愛した証にもなりますし」
今度は大浪が、ほんの少し寂しげな表情を浮かべる。どこか遠くを見ている、瞳。その瞳はどんな過去を映しているのだろうか。
見ているだけで胸が締めつけられるような気持ちになる瞳をしばし見つめていた千景だったが。熱くなりかけた目頭に手をやりかけたところで、はっとした。そう。子供を産む産まない、王が転生する仕組み等はどうでも良いことなのだった。
「え、ええと……子供を作る作らないは自由……というのは分かりました。あの……となりますと、どうして貴方達は王を結婚させたいと思っているのですか? 何か別の、深い理由があってのことですか? あと、何故私なのですか?」
再び、質問攻め。思い出の海に体を預けていた大浪、小浪は「ああそうだった」と申し訳無さそうに呟く。それから両者口をもごもごさせ、そして、小浪。
「その……妻になってくれとお願いする相手にこのようなことを申し上げるのは、誠に心苦しいことなのですが……我等が王、青海にはある大きな欠点といいますか、大変残念な部分といいますか……兎に角そういったものがございまして」
「欠点? 残念?」
それを聞いた千景の脳内を、それらの単語から連想される言葉が泳ぎ回る。
泳いでいる内の一つをひっつかみ、そのまま口から放り出す。
「欠点とか残念な部分というと……ええと、容姿、とか」
上目遣いで、恐る恐る。彼等はそれを聞いても気分を害する様子は無かった。
一方、それを肯定する様子も無く。苦笑しつつ大浪が首を振った。
「容姿ではありません。確かにお世辞にも眉目秀麗とは言いがたい顔つきではありますが、醜いとかぱっとしないとか、そういったことはございません。むしろなんといいますか、見ているとほっとするといいますか、安心するといいますか……親しみをもちやすい顔なのです。ある意味一番好かれる顔ではないでしょうか」
これはお世辞でもなんでもないらしい。大浪、その隣で頷いている小浪の表情を見れば一目瞭然である。中身の方がずっと大事! と思う一方でほっと胸を撫で下ろす千景だった。そんな反応をしてから目の前に王に仕える者がいたのだということを思い出し、慌てて咳き込み、ごまかす。幸い二人は彼女の反応に対して怒ってはいない様子。
「その……欠点、残念な部分というのは……性格、でございまして」
小浪の言葉。再び脳内を泳ぐ無数の言葉、人物(主に漫画や恋愛小説)の顔。
その内の幾らかを手でつかみ、吟味する。
(性格に欠点のある男性……ぱっと思い浮かぶのは、がさつで短気で乱暴でデリカシーというものがおよそ無いとか……表情を滅多に変えない、ものすごく冷たい性格とか……外面は良いけれど、実は超腹黒とか)
典型的なキャラクターが頭の中でぴちぴち跳ねる。そいつらを全部一気に口から吐き出そうと思った丁度その時、大浪が目を瞑り、視線をやや逸らし、その口を開いた。かなり言いにくそうにしながら。
「我等が王……青海は、酷い恥ずかしがり屋なのです」
恥ずかしがり屋。千景の脳内の片隅で、他の言葉達に紛れ、じっとしていたその言葉。
大浪が話を続ける。
「恥ずかしがり屋で引っ込み思案、幼い時分から世話をしていた者とすらまともに目を合わせようとせず、言葉を交わそうともせず。誰かと目を合わせたり、会話をしたりすれば死ぬと本気で思っているのではないかと疑ってしまう位の酷さでして。……王は生まれつき、そうでありました。王卵から姿を変えてすぐ目を開けた時、彼はその部屋に集まっていた己の腹心となる者達の姿を見るやいなや、きゃあと叫び……目を回して気を失ってしまいました。あの時はまさか死んでしまったのではと思い、ひやひやいたしました」
それは酷い、ものすごく酷い。千景の頬を冷たい汗たらり。千景自身もどちらかといえば大人しく、引っ込み思案な性格なのだが。
今度は小浪が口を開く。
「我々はどうにかその性格を直してもらおうと、八方手を尽くしましたが、どうにもならず……途方に暮れた私共は、ある海に住んでいる占を得意とする妖の下を訪ねました。そして、どうすれば我等が王・青海の性格が改善されるのか、占ってもらったのです」
一応瑠璃宮にも占が出来る者はいるらしいが、あまりはっきりとした結果が出なかったそうだ。小浪曰く、何かを行なう時や物事を決める時等に占をすることは決して珍しいことではないらしい。その辺りはどちらかといえば大昔の日本と似ているかもしれないと千景は思った。
「さて、その妖に占をしてもらったところ……ある結果が出ました。占をした妖は、我々にこう言いました。『王の性格を改善するには、結婚が一番だ。結婚相手は瑠璃宮には住んでいない者にせよ』と」
少しずつ話が見えてきた。しかし、瑠璃宮には住んでいない者と結婚しろと言われて、真っ先に千景――異界に住む人間を果たして選ぶだろうか、という疑問が残る。それでも一応そのことについて聞いてみると、二人は予想通りの反応を見せた。小浪が口を開く。
「いえ、何も私達とて最初から貴方を選んだわけではございません。まず私共は他の宮をあたりました。娘がいるという王の統べる宮です。結婚させるなら、矢張りやんごとなき血を引く者とさせたかったですし……他の宮、ひいてはその宮が守る海との繋がりをより強めることにもなります。そうすれば王の世界も広がりますから……」
だが。ああ、上手くいかなかったのだなと千景は合点する。二人の疲れたような、王に対して呆れている風な顔を見れば一目瞭然。実際、その通りだったようだ。
小浪が話を続けた。
「私共は頑張りました、それはもう、頑張りました。娘のいる宮という宮を駆け回り、あらゆる娘と王を引き合わせました……が。結局その全員に結婚を断られてしまったのです」
「まあ、無理もありません。父に言われ、仕方無しに遠路はるばる瑠璃宮を訪れ、王に会いにいったら……ものすごい勢いで拒絶され、帰れだの余は結婚する気などない、会いたくない、恥ずかしいなどと言われたら……誰だって怒りますし、悲しくなるでしょう。恥をかかされた彼女達に我々は何度頭を下げ、謝ったことか」
客人の前だということも忘れ、大浪は左手で頭を支えつつ、それはもう深いため息を吐き。余程苦労したらしい。しかし彼等は何と馬鹿正直な人達なのだろうと千景は思う。とりあえずは隠しておいた方が良いであろう情報もぺらぺらと話してくれる。
大浪に続く、小浪。結局自分達の手が届く範囲にある海の宮は全て行きつくし、そして、その全ての王(の娘)に断られてしまったそうだ。勿論、自分達が足を踏み入れていない、遥か遠い海にも宮はある。しかしこれっぽっちも、全く、少しも、塩一粒分も繋がりの無い所へ出向いたところで色好い返事が貰えるとは到底思えず、また、よしんば上手くいって娘を青海と引き合わせることが出来たとしても、結局今までと同じような結果しか待っていないだろう……ということで、海の宮の娘と結婚させることは諦めたそうだ。
「困った我々は、再度占をしてもらうことにしました。そして今度は、前回以上に具体的な結果が出たのです」
言った大浪と、小浪が千景に目を向ける。その眼差しはまるで、世界の終焉を防ぐ女神を見るようなもので。
ああ、そういうことなのかと千景は喉をごくり。
「占をした妖は言いました。人間の娘を妻に迎えよと。そしてその妖――女は、水晶玉に貴方の顔を映し出し……貴方がいつどこを通るか、海のどの辺りと『向こう側』を繋げれば良いかなど、色々教えてくれました。彼女は言いました……この娘は必ず王を良い方向へと導いてくれる、性格を直すきっかけになるだけではない、この娘と結婚すれば王は幸せな生涯を送ることが出来ると」
小浪はそう言ってから、頭を深く下げる。二人は占の結果通りに行動し、千景を連れてきたのだ。王の性格を直したい、王を幸せにしてやりたいと思う一心で。
千景は、何も言えなかった。代わりに口を開いたのは大浪。
「お願いいたします、千景様。どうか、どうか青海の妻となってくださいませんか。せめて一度だけでも、会ってくださいませんか。無理を承知でお願いいたします」
「千景様。……先に申し上げます。もし青海と結婚するということになった場合、貴方にはある儀式を受けていただきます。そうすると……貴方は人ではなくなります。ですが、ここで長い時を生きるにはそうするより他ありません」
何ですって? 千景の心が揺れ動く。人間ではなくなる……その残酷で恐ろしくて、しかしどこか甘美な響きがそうさせたのだ。
小浪が続ける。
「勿論、この願い……断ってくださっても構いません。私達も無理矢理貴方を青海の妻にするなどということはいたしません。貴方が嫌だとおっしゃるのでしたら、すぐにでも――といっても儀式に時間がかかりますので、今日中は無理かも分かりませんが……元の世界へお連れいたします。ですが、どうか……どうか、考えてはいただけませんか」
大浪、小浪が来てから一言も喋っていなかったアゴメとガゴメも「よろしくお願いいたします」と頭を下げ。大浪も三人同様、その頭を床につけ。
千景は参ってしまった。昨日、まだ興奮していた時に同じことを言われていたら、即刻「嫌です、海の住人になんて、化け物の仲間になんてなりたくなりません、早く元の世界へ帰して!」と叫んでいただろう。しかし。
(私はどうすれば良いのだろう……)
家には帰りたい。心の底から心配しているだろう両親のことを思うと、胸が苦しくなった。友達だってきっと心配しているに違いなかった。今まで自分は許可なしに夜遅くまで遊ぶことも、友達の家に泊まることも(これは許可あるなしに関わらず)無かった。優等生で真面目な人間だったと自分でも思っている。そんな人間が何も言わず、夜になっても、次の日になっても帰ってこないということになったら……。
やっぱり帰ろうか。口を開きかける。だが、それをある人物の顔が押し留めた。同時に胃が激しく痛んだ。
(けれど、帰れば彼とまた顔を合わせることになる。泣いた私に冷たい言葉をかけ、そして次の日なんでもない顔をして……私の目の前で他の彼女といちゃついていた、あの最低男と。友達には酷く同情されるし、私とあの人が付き合っていることを良く思っていなかった人には好き勝手なこと言われるし……)
両親や大切な友達への強い思いをかき消す、暗く重い気持ち。そういう気持ちは、より大切にしなければならない思いを、いとも簡単に呑み込んでいく。
頭も、心臓も胃も、何もかも痛い。向こうの世界であった嫌な出来事が千景の体を無情に刺していく。
それは近い未来には消えるはずのものだ。だが家族や友達との絆、人間としての生はずっと先まで続くもの。
今ここで青海と結婚し、向こうの世界へ戻らなければ。千景は自分を今襲っているものから逃れることが出来る。その代わり、ずっと先、遠い未来まで続くはずだったもの……今自分を苦しめているものよりずっと大切なもの――一切を失ってしまうことになる。
近い未来には消える、身近にある苦しみから逃れる為に、本当に大事なものを捨てる。それはきっと愚かな行為なのだろう。
だが。
千景の唇が開かれていく。小刻みに震えながらゆっくりと。
「あの」
今から自分は、言ってはいけないことを言おうとしている。頭の中にいるもう一人の千景が「それを言うな、絶対後悔する、やめておけ」と叫んでいる。
自分でも止められるものなら止めたかった。だが、止まらなかった。
頭を少し上げ、不安そうな目で千景を見つめる二人。
「その」
駄目だ、言っては駄目だ。
――次の日からは、俺ともう一切関わるなよ。俺のことは無視しろ、俺もお前の事無視するからさ。分かったな!――
口がまた開いた。
「青海という人と会わせてください。……こんな私でも、よろしければ」