深い深い水溜りの底で(2)
*
少女の目を覚ましたのは、高く透き通った音。鈴、琴、鐘を全て合わせたような、しゃらあん、という美しい音色。
開いた瞳に映る、天蓋。布のひやりとした色、質感は水面を思わせ。柔らかな寝台に身を横たえながらそれを見ていると、まるで海の底にふわふわ漂いながら水面を眺めているような心地がする。
(あれ、ここはどこだろう……)
水に揺られる感覚の心地良さにしばしの間浸っていた少女だったが、そこが普段寝起きしている部屋ではないことに気がつき、眉をひそめる。ぼうっとした頭がある程度覚醒し、自分が昨日水溜りの底へ引きずりこまれてしまったことを思い出すのには少々時間がかかった。
家ではない、場所で眠り、起きる。その行為が与える形容しがたい不思議な感覚。修学旅行、宿で目を覚ました時にも似たような感覚を覚えたっけとまだ完全にはっきりしていない意識の隅でぼうっとそんなことを思う。
ゆっくりと身を起こし、辺りを見る。アゴメとガゴメの姿は無い。体の調子はすっかり元通りになっており、だるさは殆ど残っていなかった。
(とうとうこの訳の分からない世界で一夜を明かしてしまった……。父さんと母さん、今頃心配しているかしら。心配していないわけ、ないわよね……)
娘の安否を知らない両親に対する思いが、少女の意識を完全にはっきりとしたものにしていく。昨日飲んだ薬と睡眠のお陰で体は軽くなったが、心はどんどん重くなっていった。
今すぐ帰りたい、とは思う。だが元の場所へ戻る術を少女は持っていない。
そもそもここはどこなのか……それさえ定かではないのだ。泣きたくなって、自分の体にかかっている布を握りしめる。手のひらに汗が滲むほど握っても、不安は拭いきれない。
「ここではないどこかへ飛ばされたいなんてこと考えたから、こんなことになってしまったのかしら」
扉が開かれ、食べ物と飲み物ののったお膳を持ったアゴメが入ってきた。
「あら。お目覚めになりましたのね」
笑みを浮かべる彼女の背後にはガゴメがおり、こちらは青色の座布団に似たものを手にしている。
二人の姿を見ると、嫌でもここが非現実的な世界であることを思い知らされる。
「……さっき、鈴の様な鐘の様な……不思議な音を聞いたのだけれど、あれは、何?」
無言でてきぱきと朝食の支度をしているアゴメに、思い切って話しかけてみる。会話の無い気まずさに耐え切れなくなったからだ。アゴメは小首を傾げ、それから彼女が何を聞いているのか理解したらしく、優しく微笑む。
「ああ、あれは水琴鐘と呼ばれる鐘の音です。朝と昼、夕に鳴らすのですよ」
「そう……」
「ささ、朝餉の支度が出来ましたよ。こちらへどうぞ。本来ですと大広間に集まり、全員で食事を摂るのですが……」
それだけは勘弁してくれと首を振りながら寝台から降りる。部屋の中央に置かれたお膳、その前に座布団。ご飯、魚の身が入った汁、昆布巻き。元いた世界でも普通に見かけるような食事だった。
しかし食事は一人分……自分のものしか無い。
「あの……貴方達は食べないの?」
その言葉にアゴメはにこり微笑み。
「我々はもう食べました。お食事の後はお体と髪を洗いましょう。……海水から作った真水を温めたものを用意いたしますので、それで」
確かに海水で濡れた髪と体はすっかりべたべたになっていた。そのことに今頃気がつく。気がついた途端、気持ち悪くなった。一刻も早く体を洗いたくなったが、空腹がその気持ちに勝り、目の前にあるご飯を口にする。味付けは人間が食べているものとそう変わらず。気持ち塩辛い気がしたが、食材本来の味がしっかりしているお陰か、そんなに気にはならなかった。
(美味しい……)
素直にそう思った。だがそんな食事さえ彼女の心を軽くはしない。ご飯と一緒に腹の中へたまっていくのは焦りと不安。
アゴメとガゴメも少女の気持ちをよく察しているらしい。二人は下手に声をかけるより、見守っていた方が良いと思ったらしく特に何も言わなかった。
食事の後、部屋を移動する。彼女達には風呂に入る習慣が無い(離れにある海水で満ちた部屋の中で裸になったり本来の姿に戻ったりして泳ぐことはあるそうだが。また彼女達の髪や体は海水を浴びてもべたつかないらしい。ガゴメが少女にそのことを教えてくれた)為、お湯入りの容器等を用意した、少し歩いた先にある空き部屋で体を洗うことに。
ごく普通の部屋の中で裸になることは少し恥ずかしかったが、体を洗う為仕方なく衣装を脱ごうとする。だが一体どうすれば脱げるのか分からず、結局アゴメに手伝ってもらうことになった。着替える時も彼女達の助けが必要だと心の中で思う少女。
(この後、多分大浪と小浪という人に会うのだろう。……私がどうしてここへ連れられてきたのか……やっと分かる。私が実はここの世界の住人だった……ということは絶対有り得ない……。何か悪いことをしたから、という風でもないわよね。何かしらの怒りをかっていたなら、これ程丁重に扱われることも無いだろうし……逆に、ここにいる人達に対して何か良いことをして、そのお礼をしようと……それも無いような気がする。心当たりも無いし)
容器を満たす生温い湯に浸かり、体を洗う。石鹸やシャンプーは無かったが、代わりに塩に似たものをつけた。こんなものをつけたら余計べたつくのでは、と思ったが杞憂に終わった。使う前よりすべすべになった肌。髪はガゴメが丁寧に洗い、すいた。
体のべたつきはすっかり無くなり、随分とすっきりした。だが矢張り心は晴れず。ここでは簡素な衣装を着、部屋に戻った後先程まで着ていたような素晴らしい衣装に着替える。
(まさかこんな衣装を身につける日が来るなんて……成人式や大学とかの卒業式でもこんなの着ないわよね……)
美しくファンタジックな衣装は昔から好きではあった。また洋風のものより、和風や中華風のものの方が好きだった。場合が場合でなければ、手放しで喜んだものを、と少し残念に思う。
「もう少しで大浪様と小浪様がいらっしゃるそうです。こちらでお待ち下さい」
少女用の座布団の前に並べられた二つの座布団。一方は黒、もう一方は紫。
「座布団、それぞれ色が違うのね」
「これは私共の間では布座と呼ばれているもので、身分によって色が違うのです。貴方の布座は青。こちらは客人に出すものなのです」
「黒と紫はどちらが高いの?」
「黒ですね。その次が紫です。まあ実際の力関係はあのお二人の場合、完全に逆転していますが……こほん。黒より更に一段階上――最上位の者に使われるのは銀です。これを使う方は、この宮ではただお一人」
「……王様?」
アゴメがこくりと頷く。だがそれからどうしてか分からないが、苦い笑みを浮かべた。それから何か言いにくそうに口をもごもごさせ、それから。
「実はその王が関係しているのです……貴方がここへ連れてこられたことと」
「え?」
それ、どういうこと……尋ねようと口を開こうとしたその時、とんとんという扉を叩く音。同時にがあんというドラの様な音が二度、三度。跳ね上がる体、心臓、鼓動、轟音。それを聞いたアゴメはまだ布座に座っていなかった少女を慌てて座らせ、ガゴメは扉の前へ急いで駆け寄る。アゴメも少女を座らせてから、そちらへ向かう。
二人は神妙な面持ちで扉を開く。続いて二人の男女が室内へゆっくりと入ってきた。この男女が大浪、小浪だろうと思われた。その二人の後ろにぴったりとくっついているのは、ドラらしきものを手に持っているおかっぱの少年。
男女が座布団に座ったところで、アゴメとガゴメが扉を閉めた。
(この二人が、大浪と小浪……)
共に見た目は少女より十近く上といったところ。男より女の方が若干幼く見える。硬くなる体、心臓だけが激しく動き回り。そうさせているのは緊張だけではなかった。
(何て綺麗な人達。アゴメ……さんとガゴメさんも綺麗だけれど。この人達は段違いというか……)
向かって左側にいる男の髪は明るい銀色で、そこらにいる女性よりも長い。
衣装は古墳時代辺りで着られていたような――衣褌――に似たもの。色は髪に比べやや黄色がかった銀。
隣にいる女性はアゴメ達とほぼ同じものを着ている。だがその質は明らかに二人のものとは違う。濃いめの水色、翡翠色の衣、そして珊瑚を思わせる乳白色がかった桃色の裳。帯等にある模様の繊細さ、美麗さは最早芸術品。だがその美しさに負け、存在が霞んでいないところが前にいる女のすごいところだった。
座っている座布団の色を見るに、身分が上なのは男の方だ。
二人の容姿にしばし見惚れていたところで、男の方が口を開いた。
「初めまして……いえ、正確には昨日貴方にお会いしているのですが……一応。私の名前は大浪と申します」
「小浪と申します。こちらにいる大浪の妹です」
美しい、という点は共通しているがそれ以外は一切似ていない兄妹。そもそも髪の色から違う。女――小浪の髪は青く輝く黒だった。しかし彼女が兄妹と言っているのだから、真実兄妹なのだろう。
自分も名乗らなければ。ごくりと鳴らす喉。
「わ、私は綾崎千景といいます」
緊張諸々でかすれた声。寄せては返す波の如く滑らかな二人の声、喋り方とは大違いの、かくかくした滑らかさも何も無い名乗りに少女……千景は顔を赤くする。恥ずかしい、と。
(声まで綺麗。話し方や眼差しにも気品さが漂っているし。ああ、ますます緊張してきた)
そんな彼女を真っ直ぐ見つめていた大浪は、突然。
「昨日は大変な無礼をいたしまして……誠に申し訳御座いませんでした!」
驚く位大きな声でそう言ったかと思うと、思わずひいてしまう位見事な土下座をしだした。千景はぎょっとし、どう反応すれば良いのかと慌て。
突然の行動にフォローを入れたのは隣に座っていた小浪だった。
「あの……昨日貴方をここへお連れしたのが……この馬鹿……こほん……大浪なのです」
(ああ、そうか……そうだったわね。昨日アゴメさんがそんなこと、言っていたものね。こんな風に土下座なんてされたの初めてだったから、びっくりしちゃった)
千景は冷静にそんなことを考えていたのだが。小浪は彼女が黙っているのは、相当困惑しているからだと思ったらしい。彼女はまだ頭を下げたままである大浪の頭をぺしんと叩いた。躊躇う様子は一切無かった。
「いつまでそうしているつもりなの、兄様。千景様が困っているじゃありませんか。本当申し訳御座いませんでした、この馬鹿には私が再三人は弱い生き物だから、あまり乱暴なことはしないようにと言い聞かせていたのですが……本当、信じられませんわ。歩いている人の足をつかんで、人にとってはかなり冷たい水の中にいきなり引きずり込んで」
途中まではきちんと千景の顔を見ながら話していた小浪だったが、最後の方はもう彼女の方など全く見ていなかった。
「しかもあれだけ苦労して調合した薬を彼女が気を失う寸前になってようやく飲ませるなんて! あれはこの方をこちらへ連れていく前に飲ませてくださいと何回も言いましたのに! 後、飲ませる薬の量だって……とても強い薬だから飲ませる量には気をつけろ、とも言いましたのに……」
それからも彼女は千景のことなど忘れ、大浪に延々と説教。その内容から千景は幾つかの情報を得る。
自分が気を失う間際に飲まされた薬には、どうやら水中でも息が出来るようになるという効果、体を冷たくさせない効果、水圧に耐えることが出来るようになるという効果があったようだ。ただその薬はとても強いもので、多く摂取するとごっそり体力を奪い取ってしまい、逆に体の調子を悪くしてしまう……というものだったらしい。
(ああ、確かに昨日はとても体がだるかった。単純に体を冷やしてしまったからそうなった……というわけではなかったんだ)
その薬を作ったのは小浪であるらしく、彼女は注意事項を大浪に口を酸っぱくして言った。が、その甲斐なく大浪は必要以上の量を千景が気絶する寸前になって飲ませた……。二重、いや、千景をこちらへ連れていく際にやった、いきなり足をつかんで引っ張るという乱暴っぷりも入れれば三重のミスを彼は犯したようだ。
「……水中を泳いでいる間、どういう流れで彼女を連れていこうかと色々考えてはいたのだ。そして最終的に良い案を思いついた……が、いざ本番になったら……頭から思いついたこと全てが吹き飛んでしまったのだ」
「言い訳は結構です」
「言い訳では」
「言い訳でしょう、この馬鹿兄!」
小さくなる大浪。大きな声張り上げる小浪。
(そういえばアゴメさんさっき言っていたわね……実際の力関係は逆転しているって)
身分が上であるはずの大浪が、下の身分である小浪に完全に押されている。
目の前で行われているやりとりを見て、彼女の言葉に納得。女が強いというのはどこの世界においても不変の真理であるらしい。
千景は一刻も彼等の目的を聞きたかった。二人と会ったら色々なことを聞こうと思っていた。が、今の彼女ときたら無言で座っているだけのただのお人形状態。二人(ほぼ小浪)から放たれている何かが、口を開くことを許してくれないのだ。怒り、叫び、抗議することも出来ず、ただ呆然と目の前で行われている兄妹喧嘩を見ているしかない。
「小浪様、小浪様」
このままではいつになっても本題へいかないと考えたらしいガゴメの声を聞き、ようやく彼女は千景の存在を思い出したようだ。恥ずかしそうに頬を染め、口を手で覆うその仕草は大変可愛らしい。
「いけない、私としたことが。大変失礼いたしました。兄の馬鹿っぷりを思い出したら腹がたってしまって……」
「実は貴方にお願いしたいことが御座いまして。その願いを聞いてもらう為、こちらへとお連れしたのです」
小浪の猛攻によりすっかり丸まってしまっていた背筋を真っ直ぐ伸ばし、夜の海思わせる瞳で千景を見やる。
「願い?」
彼等が一体私に何を。戸惑いを隠せぬ千景。しかしその願いの内容を大浪が話そうと口を開こうとしたところで。
「いきなり本題に入ってどうするのです。……その前に、この世界についての説明をした方が良いでしょう。我々の願いについての話はそれからです」
確かにそれも気になることではあった。千景がよろしくお願いしますと言うと、小浪は微笑んでこの世界についてのことを色々話してくれた。時々大浪が口を挟み、補足をしたり話をややこしくさせたり。
千景はあまりに非現実的でメルヘンチックなお話に頭と心をぐちゃぐちゃにかき回されつつも、時々質問等を挟み、真剣に二人の話を聞いた。
二人は色々語ってくれた。『こちら』と『あちら』のこと、この世界は千景を始めとした人間達の住んでいる世界と重なり合うようにして存在していること、昔は双方の世界には深い繋がりがあったが、時代の流れと共にその繋がりが気迫になっていったことなど……。
今千景がいる城――瑠璃宮は海の底にあるらしい。大浪達は宮のある海と『向こう側』すなわち千景が本来住んでいた世界にあった水溜りを、ある儀式をすることで繋げたのだそうだ。千景が住んでいる街とぴたり重なり合う位置にこの海はあるらしい。
「昔はもっと簡単に世界を繋げることが出来たのですが。今は昔より長い時間、多くの手順と供物を用いた儀式をしなければいけなくなってしまい……いや、本当に大変でした。水は自分達の世界と異界を繋げる媒介としては最上級のものなのですがねえ……」
「兄様、あまり詳しく話しすぎてもこの方をただ悪戯に混乱させてしまうだけですわ。……あの、千景様。今まで私達が話したこと、信じてくださいますか?」
恐る恐るといった様子で尋ねる。千景は困惑し、混乱しかけながらもこくり頷いた。
「とても信じられない話ではあるけれど……一応、信じます。……彼が話していたことって、本当だったのね」
「あの人?」
千景の呟きに反応した小浪が不思議そうに小首を傾げ。
「知り合いのことです。妖怪とか、異界とか……そういうことに関する話をいつもしていた人で。私を含め、誰も彼の話なんて信じてはいなかったのですが。まあ彼自身も誰かに信じてもらおうとは微塵も思っていなかったようですが」
「そうでしたか。まあ未だこちらの世界、こちらの世界の住人と深く関わっている人間はいるらしいですからね。さて、少しずつ本題へと移っていきましょう」
次に小浪はこの宮についてのことを話し始める。
瑠璃宮に住む者達――長い時を経て精霊になった魚や貝、最初からそういう存在として産まれてきた者等――は、この海の平和を守る為日々働いているそうだ。全ての海の真の支配者と云われている神に祈ったり、占をしたり、放っておけば増えすぎて土地や住人に悪影響を及ぼす穢れを浄化したり……その内容は色々あるらしい。
「まあ恐らく人間ほどきびきびと、びっちりぎっちり働いているというわけではないのですが。海には多くの宮があります。この海にも瑠璃宮以外の宮があります」
大浪はすらすらと周辺にある宮の名をあげた。どれも美しい名だった。
千景は二人の話を、まるでおとぎ話でも聞いているかのような心地で聞いていた。一応信じはしたが、それでも矢張り一連の話を現実のものとして素直に聞き入れることは出来なかったのだ。
「宮には必ず一人、王がいます。女王の場合もありますね。地上にも色々宮があるようですが、そちらに住んでいるのは殆どが女性で……頂点に立つ者も基本的には女性らしいですが。海にある宮とはまた色々違うようですね」
王。小浪が発したその言葉に千景の心臓が反応した。
(私が連れてこられたことと関係があるのよね……。でもこの宮の王様と私にどんな関係が?)
間もなく彼等の願いが明かされる。緊張と不安に動かされる心臓。
それは大浪と小浪も同じらしい。体が明らかに強張り、頬が紅潮している。
「我々の願いというのは、その王に関するものなのです」
まず小浪が頭を下げ、その場にひれ伏す。
「お願いです、千景様」
続いて、大浪。銀の髪、銀の滝、さらりと落ち、月を受けて輝き。
透き通っていて、激しく、それでいて滑らかな声が願いを告げた。
「どうか……どうか……我等が王の……妻になってください」