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桜町幻想奇譚  作者: 里芽
深い深い水溜りの底で
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第二十七夜:深い深い水溜りの底で(1)

 水は、こちらとあちら――彼岸或いは異界を繋ぐといわれている。

 水は本人が望む望まないに関わらず、触れた者を『あちら』へと引きずり込んでいくそうだ。それから無事『こちら』に戻ってこられた者も少なく無いが、姿を消したまま二度と帰ってこなかった者の方が圧倒的に多かったらしい。

 川に流された者、井戸に落とされた者が『あちら』の世界へ迷い込み、その後元の世界に戻ってきた、雨の日突然人が姿を消した、料理をしていた女がいなくなった、風呂に入っていたはずの男が消えた……などといった話が桜村(現桜町)にも多く残っている。


『深い深い水溜りの底で』


 雨が上がり、空は青さを取り戻している。とはいえ、まだその空に浮かんでいる雲の色はどす黒い。その空の下には、雲と同じ色になっているアスファルトと、水溜り。その道路を挟むようにして立ち並ぶ家の色もいつもより心なしか暗く。眩く輝いているのはその身に天からの恵を受けた木々、道路の隅から生えている雑草達位のものだ。


「はあ……」

 その道を、一人の少女が歩いている。年の頃は十六、七。憂鬱そうに揺れる髪、集めれば今空に浮かんでいる雲が出来そうな息を吐き、下を向いている瞳の中にあるのは悲しみと怒り、絶望。足取りは非常に重い。


「はあ……」

 今日何度目か分からぬため息が再び彼女の口から漏れた。鼻から入ってくる雨水か、もしくは濡れたアスファルト――の独特な匂いが彼女の心をより憂鬱にさせる。カバンを持っていない方の手で、少しだけ折ってあるスカートの端を強く握りしめる。朝からずっとそうしてきたせいか、もうその部分はぐしゃぐしゃ、洗濯後アイロンをかけるのは必至。


「何だってのよ、本当、何だってのよ」

 色々なものを押し殺しつつ、恨みの言葉を吐く。それから目を右へ向けた。

 目に映るのは、ブロック塀と見知らぬ人の家のみ。誰もいない。もう、誰もいない。


「もう最悪……最低」

 誰もいない空間に、パンチ。強く握った拳は空を切り、そのまま時計の振り子のような軌道を描いて(もも)の横へ。

 空しい。その空しさが彼女の胸に溢れているものをせき止めていた堤防を決壊させる。周りに人がいようと、知ったことではない……彼女は大声で「畜生!」と叫んだ。普段はあまり使わない乱暴な言葉が辺りに響き渡った。


「二股、告白、別れの言葉、開き直り、逆切れ! 私の初恋及び純情を返しやがれこん畜生!」

 一度壊れたら、もう元には戻らない。思いと共に言葉や涙が際限なくあふれ出す。時々咳き込んでは、思いを吐き出し、涙し、乱暴で汚い言葉で口を満たし。

 同じことを何度か繰り返した後、再びため息をつき、黙り込む。彼女の胸の中は今、空っぽだった。しかししばらくすればまたそこに新たなものがたまっていき、今日の夜、そして明日も同じことを繰り返すだろう。……しばらくの間は。


(いつまでもうじうじしていたって仕方がないのに。さっさと忘れちゃえばいいのに……相手のことなんて……あの人と同じように。ああ、でも、上手くいかない。せめてあの人が別のクラスだったら良かったのに)

 またスカートの端を握りしめ、もみ、更にぐしゃぐしゃにしていく。そうするとほんの少しだけ気が紛れた。


(ああ、いっそ恋愛ファンタジー漫画みたいに……ここではないどこかに飛ばされて……それでもって運命の人と出会って、その地で第二の人生をスタートさせたい)

 うじうじするあまり、とんだ現実逃避、メルヘン乙女思考になってしまう。

 何を考えているんだ私はと、恥ずかしさと空しさのあまり、再びため息をつく。


 少しでも心を落ち着けようと、空を見上げた。青い青い空。どす黒い雲が邪魔だったが、その美しい色に彼女は心奪われた。

 ゆえに彼女は自分の足元に全く注意を向けていなかった。この時もし空を見ておらず、地面をちゃんと見ていたなら、彼女はそこに広がっていたおかしな光景にもっと早く気がついていただろう。


 ぼうっとしながら空を見ていた少女は、地につけようとしていた右足を何かが包み込んだのを感じ、ぎょっとして視線を下へ移す。そして彼女は信じられないものをその目で見てしまった。

 視線の先にあるのは、大きな水溜り。それはいつも雨が降るとこの地点に出来るもの――なのだが、いつもと様子が違う。


 その水溜りは、青かった。空よりもずっとずっと、青かった。(サファ)(イア)と瑠璃を溶かして混ぜたらきっとこうなるだろうという風な、深く、非の打ち所の無い美しい色。どう見ても水溜りの色ではない……それは、海――しかも人によって汚されていない――の色だ。その底にあるはずのアスファルトは見当たらない。底が、見えない……或いは無いのかもしれなかった。

 その水溜りから、白い手が出ている。その手は、少女の右足首をつかんでいた。


 有り得ない、有り得るはずが無い光景。


「な……」

 何これ? と言う余地もその手は与えてくれなかった。白い――恐らく男性の手――が、ぐいと彼女の足を下へと引っ張った。足首、膝、腿が……あっという間に青い水溜りへと沈んでいく。同時に少女はバランスを崩し、前のめりになり……そのまま、水溜りへダイブ。

 体を包み込む冷たい水は塩辛く、見開いていた瞳をちくちくと刺す。口から吐き出される泡がぶくぶく音を立て、浮上し、水面を膨らませた。

 水を吸い込んで重くなった制服、スカートは蓮の花の様に開いて、ふわり、ふわり。


 足を引っ張っていた手が一度離れ、今度は彼女の腰の辺りを抱いた。このままではいけないと少女はがむしゃらに体を動かし抵抗するが、無駄であった。

 痛みを堪え、目を開く。人らしき姿が目前に見えたが、自分が吐きだした泡と霞む視界のせいではっきりと見えない。水が、恐怖が彼女の体を急速に冷やしていく。このままではいけない、連れていかれてしまう、いやその前に死んでしまうともう一度体を激しく動かそうとしたが、上手くいかなかった。呼吸の出来ない苦しさ、パニックを起こしている頭がそれを阻害したのだった。

 体が冷たい、しびれる、動かない……。


(ああ、もう駄目……)

 沈む体、沈む意識。自分の体を捕らえている者に口を開かれ、何かを中に放り込まれたが、それが果たして何であったのか分からないまま、少女は意識を失った。


「起きないですね」


大浪(おおなみ)様ったら、どれだけ乱暴に連れてきたのかしら。まだ顔も青いし……可哀想に」


「あれ程人間は弱い生き物だから連れてくる時は慎重に、くれぐれも乱暴なことをしないようにと小浪(こなみ)様がおっしゃっていたのに、困ったものだわ」

 三人の女の声が、少女の意識をこちら側へ引き戻す。くらくらする頭、未だ温もりの戻らぬ体。重い目蓋に全神経を集中させ、開ける。半分程開いたところでそれは再び閉じ、また開け、閉じ、ぱちくり。何度かそれを繰り返し、ようやくその瞳は完全に開かれた。


「あら、目を覚ましたようよ」


「まあ良かった。……(はまぐり)、大浪様と小浪様にこのことを報告して頂戴」


「かしこまりました」

 幼い少女の声。同時にぱたぱた、という足音とぱたんという扉を閉める音が聞こえる。

 目を覚ました少女の顔を、二人の女が覗き込んでいた。自分が無事目を覚ましたことに安堵している様子であった。二人共青と緑が中心の、浦島太郎に出てくる乙姫様の様な――奈良時代の女性が着ているような――衣装を身にまとっており、その顔には気品が溢れていた。

 ところでこの二人、ぱっと見は人間なのだがよく見ると人間とは違う部分があった。少女から見て左側にいる女の耳は魚のヒレ――空に似た色――であったし、右側にいる女の髪はどう見ても海草……昆布で。


 やっと覚醒しきった頭が命じる。悲鳴をあげよ、と。

 少女は頭から来た命令通り、きゃあ、と叫び起き上がった。二人の女性は驚き仰け反る。体にかけられていた青色の薄く滑らかなさわり心地の布の上部がふわりと舞い、寝台の下へぱさりと落ちる。そうして露になった自分の体……だが、彼女の目に先程まで着ていたはずの制服は映らなかった。代わりに見えたのは水色の長いスカートの様なもの、春を思わせる色をした帯。慌てて見た腕を包んでいたのは、深い青の袖。そこまで見てようやく彼女は悟る。自分が目の前にいる女達と全く同じ、いやむしろ彼女達よりもずっと煌びやかで高級そうな衣装に身を包んでいることを。

 

「どうして、何、何が一体どうなって……」

 まだ微かに濡れ、少し乱れている髪に触れながら天井を見る。そこには青と水色、若草色の布で作られた天蓋(てんがい)がある。布には宝石の様に輝く石、もしくは貝殻を砕いたものが散りばめられていた。

 次に彼女は自分が居る部屋をぐるりと見渡す。教室一個分、いやそれ以上ありそうな大きさの部屋は驚く程殺風景で、自分のいる寝台とその右隣にある杯やタオルに似た布等が置かれた木製の台以外の物は特別見当たらない。立派な扉はあるが、窓らしきものは無く。後はただ自分と、女二人がいるのみ。


 どう見ても夢としか思えぬ光景。だが体を襲う猛烈な寒気、服やベッドの感触、頭の痛み等はどう考えても本物……夢、幻想であるとは到底思えなかった。


「ここは一体どこなの、何なの……」

 あまりに非現実的な光景に少女の頭はただ混乱するばかり。

 女二人は困ったような表情を浮かべつつ、その場で膝をついた。


「突然のことで驚いたでしょう。驚くでしょうね……驚かない方がおかしいわ……。私の名前はアゴメ、そちらにいる者はガゴメと申します」

 ヒレの――恐らくトビウオの――耳を持つ女がそう言って、頭を下げる。昆布の髪を持つ女はガゴメというらしい。彼女もアゴメに続き頭を下げた。

 しかし今の少女にとって、彼女達の名前などどうでも良いものだった。


「ここは一体どこなの、私の足を引っ張って、あの変な水溜りの中へ引きずり込んだのは誰!? どうしてあんなことを」


「どうか落ち着いてください。後程貴方をここへ連れてきた者――大浪ともう一人……小浪がきちんと説明を致しますから」


「嫌、今すぐ説明して! 貴方達私をどうするつもりなのよ、とって食べようっての!? 化け物、今すぐ私を元の場所へ帰してよ!」

 怖い、恐ろしい、帰りたい……そんな思いが彼女の体を滅茶苦茶に動かした。

 泣き喚き、怒り狂い、目の前にいる二人の女に全ての感情をぶつける。二人はそんな彼女を止めようとするが、動きが遠慮がちであるから、全力で暴れている少女をなかなか上手く止められない。


 頭の中は真っ白、だが、ぐちゃぐちゃだった。


「どういうこと、どういうこと……」

 そこまで言って、彼女は暴れるのをやめまだ少し冷たい唇を噛み締めながら俯いた。今あった分の体力を使いきってしまったのだ。とてつもない疲労感に襲われ、何も考えることが出来なくなり、ただ重い息を吐いた。

 アゴメとガゴメは困ったような、申し訳無さそうな顔をしながらごめんなさいねえ、本当にごめんなさいねえと謝るばかり。


 どたどたどた。今の少女の気持ちを表すような、大きく忙しない足音が扉の向こうから聞こえた。それからどたん、という音がして何者かが部屋の中へ入ってくる。


「人間の娘が目を覚ましたそうだな!」


「ひいっ」

 中へ入ってきたのは、成人男性と同じ位の背丈はあろうかというタコであった。少女はその姿を見て悲鳴をあげる。そのタコの足についているのが吸盤ではなく、無数の人の顔だったからだ。思わず少女は傍にいたガゴメの体にしがみつく。ガゴメはよしよしと彼女の体を優しく抱き、その頭を撫でてくれた。

 アゴメが眉を吊り上げ立ち上がり、そのタコへ迫る。


(たこ)ノ(の)(じょう)! 誰がお前に来いと言った! ようやく少しだけ落ち着いてくれたというのに……お前の姿を見て、すっかり怯えてしまったじゃないか。当分彼女の面倒は我々人に近い姿をしたものがみる、他の者は極力ここへ近づいてはならぬと小浪様がおっしゃったではないか」

 確かにアゴメとガゴメの姿は人に近い。おどろおどろしい感じもしない。

 だが目の前にいる蛸ノ丞とやらときたら、異形の固まり。おぞましいその姿を目にした少女は吐き気を覚えた。

 アゴメに責められた蛸ノ丞は怯み、それから申し訳無さそうにうなだれる。


「申し訳ない。だが、蛤から人間の娘が目覚めたことを聞いたらいてもたってもいられなくなったのだ。……わしが喰らった人間達も久々に生きている人間の姿を見ることが出来て大層喜んで」


「銀ノ丞! それ以上言ったら、問答無用でその体を釜茹でにしてくれる!」


「そ、それだけは、それだけは」

 呻く蛸ノ丞。同時に彼の足についている人の顔が、ううおう、ああおう、と聞くも恐ろしい呻き声をあげる。彼等は皆、蛸ノ丞に食われてしまった人達であるらしい。少女はますます恐ろしくなり、ぶるぶると体を震わせる。

 結局蛸ノ丞は逃げるようにその場を去っていった。そのことを確認するとアゴメはくるりと体の向きを変え、少女のところまで戻ってきた。


「本当に……申し訳ありませんわ」


「あ、あのタコは……人間を、食べてしまうの」


「あの馬鹿、余計なことばかり言ってからに……はあ……仕方がありません。正直に申し上げましょう。あの者はかつて、人間を食べていました。けれど今は違います。あの者以外にも、昔人を喰らって生きていた者がここには多くいます。ですがその者達もまた、今は人間を食糧にはしていません。……我々はもう、殆ど人の世と関わってはいないのです」


「昔は」


「昔はよく関わっていましたよ。時に人を苦しめ、傷つけ、時に助け、共に祭をし、笑い合い。……今はほぼ無関係ですが」


「そう……」

 ただそれだけ、呟いた。

 やがて大浪と小浪という者に報告をしに行っていた蛤が戻ってきた。こちらは小学校低学年位の娘で、豊かな髪を結っている二人とは違い、肩程までの髪を真っ直ぐ切りそろえている。


「ご苦労だった、蛤。して、大浪様と小浪様はなんと?」


「次の日の朝、こちらへいらっしゃるそうです。それまでの間、娘にはゆっくり体を休めてもらいたいとのことです」


「そうか。確かに今の状態では、とても話など聞いていられないでしょうね」


「私は構わないわ……今すぐにでもその大浪、小浪という人を連れてきて」

 明日の朝までここへ連れてこられた理由も分からないまま過ごすことに、到底耐えられそうに無かったのだ。もやもやと不安を抱えたまま眠る位なら、いっそ今すぐにでも話を聞いた方がずっと楽だと少女は思った。

 だが、そんな思いに体がついていけていない。自分は思った以上に弱っているようなのだった。冷たい水が体力をごっそり奪っていったらしい。


「矢張り、無理ですわ。今日はもうゆっくりお休みになって、明日に備えてくださいませ」


「今暖かい食事と、薬をお持ちいたします」

 今度はガゴメが部屋から出ていった。


 それから少女はガゴメが持ってきた食事を口に入れた。最初は拒否したのだが、美味しそうな匂いを嗅いでいる内お腹が白旗をあげてしまったのだ。

 海草と卵、数種類の薬草らしきものが入ったお粥は大変美味だった。冷たい体が温まり、心が落ち着くのを感じ、ほっと一息。結構な量があったが最終的には殆ど食べつくしてしまった。

 体の疲れをとり、ぐっすりと眠れる薬を貰い、飲み干す。少し苦かったが効果は覿面(てきめん)。両親は今頃どうしているだろうか、今頃大騒ぎしているのだろうか、ここは一体どこで、何の為に自分はここへ連れてこられたのか……そんなことを考える時間さえ与えられることなく、少女の意識は深い深い海の底へと沈んでいった。

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