始まり~巫女と狐~
女は、膝をつきその場に座り込んでしまいそうになるのを幾度となく堪え続けていた。ぜえ、ぜえ、という荒い息を吐き続ける口の中に髪が入る。体内で生の鼓動を打つ心臓が、痛い。いや、痛いのはそこだけではない。痛まない場所を探すのは、今や痛む場所を探すより遥かに難しいことであった。飲み込む唾は血の味がする。それが気のせいなのか、はたまた実際に血を飲み込んだのか判別がつかない。
汗と血で顔にへばりついた髪を乱暴に手で払う。烏の濡れ羽、或いは生きとし生ける者全ての命の源である清き水を思わせるそれも、今は泥や葉っぱ、血で汚れており、ぼろぼろである。髪は女の命だというのなら、それがぼろぼろになってしまっている彼女はもう、死んでいる。
実際、彼女はもう殆ど死んでいた。ぼろぼろになった衣、数日前までは真っ白だったのに。赤い、赤い、赤い、もう真っ赤で、黒くて、茶色くて、元の色がどんなものだったのか忘れてしまいそうになる位だ。
そんな彼女をこの世界に繋ぎとめているのは、全身を襲う痛みと――目の前にいる一匹の狐へ抱く強く激しい思い。
ざわつく木々に囲まれた山道。女を見下ろす赤い瞳、忌々しい白い体。女は緩やかな傾斜の上から自分を冷たい瞳で見るその狐をきっと睨んだ。
ふとその体が陽炎のように揺らぎ、ぼやける。目の前にいた白い狐は、人間の男に姿を変えた。
氷に包まれた白百合の顔。自分と同じ位長い髪は、咲き乱れる藤の花。瞳の色は柊。だがその瞳は鬼を退けるどころか、引き寄せてしまいそうな邪悪な輝きを孕んでいる。火のように赤く燃えているのに、氷のように冷たい――その瞳を彼は女に向けていた。
常人ならばその瞳で射られただけで足が竦み、向かうことも逃げることも出来なくなるだろう。だが、女は逃げない。何度も、何度だって彼に向かって光の矢を放ち続ける。
あの男を必ず殺さなければいけない。私が殺す。あの男は、あの男だけは。
もう何も奪わせない。奪わせはしない。
女は弓を構える。男は動かない。ただ女を冷たい瞳で見下ろすだけ。余程彼女の攻撃を避ける自信があるのだろう。だがそんな男も決して無傷ではなかった。
女がつけた傷から流れる血が彼の肌を、髪と似た色をした着物を赤く染めている。怪我の具合は彼女とそう変わらないはずだが、苦痛に顔を歪める様子も、ふらつく様子も無い。少しも堪えていないのか、それともただ女に疲弊していることを悟らせまいと平気な風を装っているのか、その冷たい瞳の奥底に隠しているものを読み取ることは女にも出来なかった。
弓を構える手がずきずきと痛む。男が幾度となく放った火が彼女の手を傷つけたのだ。酷い火傷にはなっていないが、ろくな処置もしていないせいで絶えず熱と痛みを放出し続けている。
火で傷つけられたのは女だけではない。二人が争いながら上ってきた道、それを囲む木々や茂みも所々燃えている。男は木々に向けても火を放った。そうすれば女はどうしてもその火の方に気をとられる。火が燃え広がれば恐ろしいことになる。麓に住む人々も、山に住む動物達も皆死んでしまう。それだけは避けねばいけないと女が自身の霊的な力を以て火を消している隙に、男は彼女に向けて攻撃を仕掛けたり、逃げたりするのだった。
男が、笑った。女を嘲る笑い。
「まだ死なないの? しぶといね……しぶといのは嫌いだよ。いや、でももしかしたら好きかもしれない。醜く足掻いて、足掻いて、足掻き続ける姿というのはなかなかにそそられるものがある。その瞳も、私はとても愛しいと思うよ。くり抜いて、宝にしたい位だよ全く。嗚呼、打ち砕いてやりたいなあ……私を殺す、絶対に殺してやるというその意思を。粉々に砕いたらどうなるかな、きっと素晴らしい表情を私に見せてくれるだろうね? 嗚呼、想像しただけでぞくぞくするよ」
感情がこもっているような、いないような声で男はそう言った。女は男を睨むのをやめない。
「貴様が私の心を砕くよりも先に、私が貴様の魂を粉々に砕いてやる。覚悟しろ」
弓を構え、女は矢を放つ。それは今にも消えそうな魂を燃やして作り上げた、光の矢だ。人ならざる者の肉体も魂も何もかも浄化して、無へと帰す美しく清浄な光。
その矢は迷うことなく男へと向かっていく。彼を殺める為に。全てを終らせる為に。真っ直ぐに、ただ、真っ直ぐに。