◇ 05 危機
スズメの鳴き声とともに目覚める朝。
起きた直後からすでに喉が乾いていて、体が重い。
慌てて水場で水を補給するものの、だるさは解消してくれない。いよいよ飢餓状態になってきたかもしれない。
でも偽サクランボを食べるのはちょっと嫌だな、と思って近くをちょっと歩いてどんぐりを拾ってみる。うろこっぽい帽子のついた、茶色というよりは黒に近いどんぐりのうち、帽子を外しても虫食いの穴が見えないものを選んで、手で……割れない。しょうがないのでガリっと噛んで殻を割る。
そうすると意外とプリッとした白い実が出てきた。どんぐりなんて割ったことなかったけどこれなら意外とおいしそうじゃない? ……でも偽サクランボの例もあるし最初はちょっとだけかじってみよう、ということで恐る恐るちょびっとだけかじる。しゃりっとした触感は偽サクランボにも似ていたけれど、偽サクランボとは違ってぷにょっとしたゼリーっぽい触感は全くない。味のほうは………
「うえぇえ苦い………」
偽サクランボほどではなかったけど苦くて渋い。舌がきゅーっと縮む感じ。……この森には苦くて渋くてえぐみのある食べ物しかないんですか?
でもこれならちょっと我慢すれば食べれそうだけど……また気持ち悪くなったりしないかな。苦みはまだしもえぐみとかって要は体が受け付けてないって意味な気もするんだよね……。
一応、確認のためにどんぐりを割って数個かじってみたけど、これもやっぱり全部同じような味だった。中には虫が中を全部食べちゃったやつとかもあって、ちょっとびっくりする。……白い虫はやわらかくて結構おいしそうだったけど、さすがに怖いのでやめておく。
さすがにそろそろ無理にでも食べないといけないことは分かっているので、えぐみが少ないかなっていうどんぐりをちょっと食べた。不味くて水っぽいピーナッツだと思えば、……うーんちょっと無理があるかな? でも偽サクランボよりはずっとましだ。
頑張ってちょっと食べた後、最後の食用木の実候補にとりかかる。
ただこれは量を確保するのが難しいことが目に見えていたので後回しにしていたものだ。その代わりにちょっとだけ味に期待が持てると思う。持ちたい。
まずはちょっと歩いて白いまだらっぽい模様が木の幹についているものを探す。そうしてその周囲をちょっと探すと、……あった。どんぐりと栗の中間みたいな、茶色い中途半端なイガイガが転がっているのが見える、茶色い百合の花みたいなラッパ状のとげとげを拾って中を見ると、これもまた栗とどんぐりの間みたいな、三角錐をいびつにした感じのとがった茶色い実が入っている。実だけ取り出すと結構栗っぽいので期待しているのだ。ただ落ちているのを拾わないと届かないくらい高い場所にしかこの木は葉っぱとこの実をつけていない。そしてよくわからないけど、周囲を見た感じ、同じ種類のように見える木の周りでも実を落としているものと落としていないものがあって量は集まらないのが悲しい。しかも小さいし。小指の先程度の大きさしかない。
まぁそれ以前にまずは味が悪いと話にならない。とはいえ、手持ちには調味料も火もないので、殻をむいて、薄皮も取って、そのままかじるだけだ。もうこの森の食べれそうなものが全部渋くて苦くても驚かないよ、というくらいに期待しないで食べた。
「…………? ……? ―――!」
最初はちょっと苦いかな? という程度の苦みで、ついにわたしの味覚がおかしくなったかと不安になったけど、渋みがない。えぐみももちろんない。そしてなんと、かすかに、ふうわりとした甘みがある。そう、甘みが……! 甘い! 甘いよ!
ひどいものばっかり味わった味蕾が、脳が、ものすごい喜んでる気がする。語彙を失うレベルでおいしい。ピーナッツに近い感じの味で、いやアーモンドっぽいかな? アーモンドの茶色い皮ってちょっと苦いし、あの感じに似てるかも。触感もシャリシャリというよりはサクッとしてる。カリッというほど乾燥はしていないけど。
これは普通においしい。あぁやっと久しぶりにおいしいと思えるものを口にしたと思うと、また、つーっと涙が伝った。……おいしいもの食べて泣くなんて経験をわたしがするなんて思ってもなかったけど、まぁそのくらいおいしく感じた。調味料を持ってないといったけど、空腹という調味料はあったからかも。
わたしはそれから冬眠前のリスのようにこのイガどんぐりを拾っては食べ続けた。いや冬眠前のリスは集めるだけで食べないか。まぁいいや、とにかく無心で食べ続けて、その木の周りのものを全部食べ終えると、次の木を探す。白斑の木はそこそこ見当たるのはいいけど、十本に一本程度しか実を落としてないのは新手のいじめかな? とか思う。水場の方向だけは分かるように地面に模様を描きつつ、必死に拾っては剥いて食べる。なんでもっと大きな実をつけてくれないのかなぁと思いつつ。
結構食べたな、そろそろひとまず十分かな? と感じ始めたころ。
がさがさっ、という音が遠くから聞こえて、びくりと身を震わす。
顔を上げて音のした方向を向くと、
「―――っ」
草間のオオカミと目が合った。
目が合ってしまった。
……えっと犬とか動物と目を合わせるとそれって挑発とか威嚇に意味になったりして目を外しちゃいけないんだっけというか目を合わせた後に近づいたら攻撃するとみなされてダメなんだっけそのままゆっくり下がろうとしたら餌だと思われてダメなんだっけいやまってどうすればいいの?
混乱して動きを止めたわたしを、茶色っぽいオオカミはいいカモだと思ったのか、走って突っ込んでくる。
「ひっ……」
思わず反転して走って逃げる……のをやめる。
だって犬の走る速さに勝てるわけないよ。だったら精一杯抵抗してやる。人間が野生の動物に安全に勝つには三倍の体重を持ってないといけない、みたいなお話があるけどそんなの知らない。
その辺に落ちてる小石を握りこんで、せめて一発出会いがしらにぶん殴ってやろうと恐怖を抑えて身構える。オオカミは早い。五十メートルくらいはあったような気がするけどもうすぐそこに、
「―――うわっ!」
とびかかってきたオオカミに驚いて思わず後ろに倒れこみながら、ほとんど反射的に右手でオオカミの顔面を横から殴り飛ばした。きゃうん、と凛々しい顔つきに似合わないかわいらしい声を上げながらオオカミが横に吹っ飛ぶと当時に、わたしは後ろに背中から倒れこんだ。子供の力で同じくらいの大きさのオオカミが吹っ飛ぶんだ……。でもわたし反応して殴ってやった! すごくない? というかオオカミっていきなりかみついてくるの!?
わたしは逃げるためにすぐに立ち上がろうとして、その途中の中途半端な状態の段階で左から衝撃を受ける。
「っ…………!」
左腕に激痛。
オオカミが二の腕あたりに飛びついて噛みついていた。
骨までえぐられるような耐え難い痛み。
それでもわたしは身をよじってオオカミを振り払って、……ぶち、とか嫌な音が聞こえた気がするけど無視して、地面に転がっているオオカミの横っ腹を思いっきり蹴り飛ばしてやった。
またオオカミがきゃん、とか鳴いてるけど、その口元が部分的に赤くなってて気持ち悪いだけだ。
わたしは無我夢中で蹴りを入れる。
人間の攻撃の中ではパンチよりもキックのほうが強いとか聞いたことがあるので。
反撃を受けないように素早く、でもなるべく全力を込めて必死で右足で蹴り続ける。火事場の馬鹿力だろうか。こんな小さな子供なのに結構いい感じの蹴りがぼこすか入っている気がする。
しばらく蹴り続け、疲れたころにオオカミが逃げて行った。ちょっと足を引きずってて、その様子だけ見るとかわいそうではあったけれど。
「いたいぃ………」
わたしは自分の左腕を見る。
馬の蹄鉄みたいな、欠けた円形の点線でできた噛傷がくっきりとあり、振り払ったときに横に広がったのか流れ星みたいに傷跡の尾がざっくりついていて血がだらだら流れている。その横には多分噛みつかれたときに引っかかれたのだろう、三本の深い線が腕に沿ってずっぱりと皮膚をえぐっていた。そこからはもっと大量の血液がだらだらと流れている。左手の掌がつたった血液で濡れていた。
止血しなきゃ、と思って右手で抑えようとするけど、ひっかき傷が長すぎて手では覆いきれそうにない。それに触ると痛いはずだし汚い手で傷口を触りたくない。
こういうときってどうすればいいんだろう、と混乱する頭を無理だけどできるだけ冷静にさせつつ、確か脇の下とかで止血できるはずだよね、と、右手で思い切りわきの下を抑えた。
ぱっと見で変わった感じはしないけど、ほかにできることもない。
と、そのあたりでさっきオオカミが逃げて行った方向から遠吠えが聞こえた。
……まずいと思う。
遠吠えは基本的に仲間と連絡するためのものだと思うし、ということはこの周囲にまだオオカミがいるということだからだ。
わたしは走り出す。
でもあまり速く走ろうとすると頭がふらっとして意識が飛んでしまいそうになるから、走って早歩きして、くらいでしか移動ができない。
……人間の踊り食いっておいしいのかなぁ。
子供はおいしいだろうけどさ。量が少ないんだから見逃してほしい。
くだらないことを考えて気を紛らわしつつ逃げる。
走ってる途中、けほごほとせき込むと咳に血が混じっていた。……別に左手をけがしたところで喀血するとは思えないから、これはまた別の理由だろう。この体も結構病弱そうだ。
わたしは呼吸を苦しく感じつつも足を止めないように頑張る。
遠吠えが聞こえた。さっきとは別の方向で、ちょっと遠い。
しばらくして、また聞こえる。……ずっと近い。
血液のにおいとかで追ってきそうだよね。どうしようもないけど。
無駄なあがきだと思いながら、わたしは必死で逃げる。
足がもつれそうになりながら走り、でも結局無駄ならまた無理だろうけど反撃してやろうかなぁとか気の迷いが生まれてきた頃。
(あれは……?)
走っている方向、少し遠くに、森の隙間から建物のようなものがちらりと見えた。
わたしは思わずそちらに方向を調整する。……助けてくれる人がいるかもしれない。鍵のかかる建物かもしれない。そう思ったからだ。
近づくと、それは石造りの遺跡のような建物だった。というか、入り口が白っぽい一塊の石を削ってできたような門になってて、それがそのまま地下に続いている。
わたしは迷わず中に入る。
外から見たときは真っ暗だった部屋に入ってすぐ、パッと明かりがついた。
見ると、壁とかに埋まってる丸い水晶が光っている。よかった。電気が通ってるってことは人が管理をある程度してそうだし、人がいるかもしれない。
ぼんやりと明るくなった石造りの廊下をそのまま進むと、
(うわぁ……すごい)
大きな広間のような空間に出た。だだっ広くて、特に何もないけれど、中心に無造作に置かれた大きな水晶がひときわ輝いていて幻想的だ。一瞬、左腕の痛みを忘れた。ぽた、ぽたと落ちる血痕が部屋を汚すのを見て少し心苦しく感じるけど、仕方のないことだと納得させる。
でも広いところだとオオカミから逃げれない。
奥に部屋とかないかな、とわたしはもっと奥を目指す。
広間を横断して、一番奥、しかも隅っこのほうに石の扉っぽい切れ目と模様を見つけた。
あれ、というかこの建物、基本的に中も全部石の継ぎ目がわからないくらい表面が滑らかだね。きれいなコンクリートとか使ってるのかな? それにしては見た目が大理石っぽい感じなんだけど。
ふとそんなことを考えたところで、視界がぶれた。……失血しすぎかもしれない。だとしたら思ったより早く限界が来た。
急いで扉っぽい切れ目を右の肩で押す。……びくともしない。必死に押す。押して押して、力を入れすぎて頭の血管が切れそうなくらいになって、それでもだめだったのでもうやけになって両手を使って思いっきり押した。
左腕が悲鳴を上げる。……絶対声では悲鳴は上げてやらないぞ、と心に決めて全力で押した。
動かせないかな、と思い始めたころに石の扉がずずず、と動き出して、次の瞬間、 ―――がぁん!
とハンマーで鉄の塊をたたいた時のような音を鳴らして石扉が落ちた。あ、これ飛び降り自殺の時の音に近いかも。
突然すぎてわたしはそのまま倒れこむ。……左腕をかばったけど、衝撃は伝わるしものすごく痛い。
床にある穴にぴったり落ちた石扉は、重さに反して十センチくらいしかなかった。どういうこと? この扉、実は金塊でできてたりするの?
もちろんそんなことは見た目ではわからない。しかも扉を閉められそうにないから、オオカミからも逃げきれてない。
わたしは続く通路をさらに先に進もうと足を進めて、ちょっと歩いたところで倒れた。
限界だった。
人間の身体が意外と頑丈だというのは正しいけれど、逆にちょっと血を失ったくらいなら大丈夫だよね、という直感とかには反してもろいものだ。
意識が一瞬飛んで、まずい、と無理やり覚醒したけれど転倒は避けられなかった。
立ち上がろうにも、手も足も震えてる。筋肉に血液が流れていかないような、そんな錯覚。左腕の主張する痛覚に神経がすべて働いていて、筋肉を動かす命令を拒絶しているような。視界も汗だか涙だか、単に失血のしすぎなのかぼやけてきている。
遠くの、入り口からだろうか。オオカミの遠吠えが聞こえた。
それでも必死で身体を動かそうとするが、いうことを聞かない。
…………植物状態の時を思い出して。
なんだか、ふっと力が抜けてしまう。
まぁ数日の楽しみだったけど、最後は犬畜生に踊り食いされるとかいう悲惨な結末かもしれないけど、それでもちょっとは人間らしく見て、食べた。
もともと死んでいたようなものだったのだ。
ちょっと気を抜いたら、もう身体は動かなかった。
ああ、この建物の持ち主さんごめんなさい。
そう思った直後に、わたしの意識は暗転した。