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寂しがり屋と思考する転生聖女のお話。  作者: 池中 由紀
諦念する少年と森に住む者たち
14/56

◇ 14 左手


 水場といっても、なんということもない。それはわたしがこちらに転生してきて初めて見つけたあの水場だった。


 雨で増水するということもないらしく、前見たときと変わらないちょっとした広さのため池がある。曇り空を反射しているのでどことなく霞んでいて濁っているような印象を持ってしまうけど、近づいてみれば透き通っていて飲み水にできそうなことはすぐに理解できる。


 一応、気分の問題で、流入口までさかのぼって細い水流の部分に、持ってきた水晶をつける。

 いったいどういう原理なのかはわからないけど、この水晶は水を吸い込むらしい。両手で抱えるくらいの大きさの水晶は、見た目を全く変えず重さだけ変えて水をため込む。明らかに体積以上の水を吸い込んでるような気もするけど、それも魔法のおかげなんだろう。やっぱり魔法って言っておけば何でも許されてる気がする。万能じゃないとか言いながら大抵のことはできちゃうからね。


 水を吸収する速度はそこまで早くなくて、十分くらいはかかる。それまでは手持無沙汰なので何かをして暇をつぶす必要があった。

 周囲を見渡しても、特に何の変哲もない森が広がっているだけだし、やっぱり魔法のことかな。


 いろいろ教えてもらったけど、魔法の弾を打つのは結構楽しかった。思った通りに魔法弾はまっすぐ飛ぶし、力をこめればそれだけ早く強く飛ぶ。ただそれだけなんだけど、思いのままであるというのがうれしいらしい。


 思いのままがうれしいというのは、肉体強化系もそうだ。自由に身体が動くだけじゃなくて、思った通りに身体を動かせるのは正直とても楽しい。人類最速の男を周回遅れにできる速度で、しかも疲れることなく走ることができるなんて楽しくないわけがない。垂直飛びも人類記録の十倍とかは飛べるだろうし、ああそう思うと空を飛びたいなぁ。魔力の足場みたいなものを作るよりも、自由に飛べたら楽しいに決まってる。


 まぁ今できないことはできないものとして、できることで楽しむのも必要だけど。


 そんなことを考えながら、戯れに人差し指で周囲にある偽サクランボ……クパの実を狙い、小さな魔法弾で撃ち落とす。別に狙いが正確なわけでもないと思うんだけど、それでもわたしの想像通りにクパの実にまっすぐと魔法弾は飛んでいき、直撃して実を爆ぜさせた。


 続けざまに複数に当ててみたり、実をはじけさせないように調節して金色に染めてみたりして遊ぶ、徐々に遠くの実を狙うとたまに外してしまうようになるけれど、それでも信じられないほどの命中率でクパの実に直撃するのはやっぱり楽しかった。


 そのまま五分くらいは経過しただろうという頃。

 わたしは停止する。


 停止してしまう。


「―――っ」


 小さな水場の向こう側。

 今狙っていたクパの実の真下あたり。


 そこに、オオカミがいた。


 それも、馬を優に超す大きさで、卵のような眼玉がわたしをにらんでいる。


 すでに捕捉されている。


 そう認識した瞬間、わたしは浮遊感に似た恐怖感を覚えた。

 慌てて遺跡に逃げ―――れない。遺跡はオオカミのいる方向だ。


 いや、落ち着こう、教えてもらった魔法があるじゃないか。

 わたしは気を取り直して、光弾を打つために人差し指でオオカミを指さした―――


「ひっ―――」


 ―――瞬間に、猛然とこちらに向かって襲い掛かってきた。


 慌てて指から魔法弾を打つ。ばしゃばしゃと浅い水場を突っ切て来ているオオカミに命中はするもののひるむ様子がない。その間にもすごい速さで迫ってくるオオカミに対しての恐怖心が抑えられず、わたしは思わず手持ちの魔力容量を一気に使って光球を作り出し、肉体強化で全力で投げつけた。


 直撃するとともに爆風と煙。ちょっと慌てて作ったせいで右手が痛いけど、ワイバーンをも倒せるらしいしオオカミくらい倒せるはず―――


「え―――」


 なのに無傷。

 無傷だった。


 わたしはそれを見て、すぐに身体強化をかけて全力で上に飛ぶ。基本的にあの攻撃がわたしの最大火力なのだから、それが通用しないとなったら勝ち目はない。逃げてしまうしかないのだ。


 十階建てのマンションくらいの高さまでは飛べて少し安心する。地面を見つめるとオオカミが唸っているが、空を走ったりする様子はない。一応、振り切った方がいいと思うのでこれから逃げるのだけれど、遺跡を見失うと戻ってこれなくなっちゃうから遺跡の方向を確認する。


 うす曇りの空のもと、同じような色合いの遺跡は少し紛らわしかったけれどすぐに見つかった。

 と、


「え?」


 下から現れた影が一瞬視界を遮る。


 見上げるとそこには、巨体のオオカミがいた。


 そのままわたしの身体にのしかかってくる。爪が皮膚に刺さって痛い。

 足場からバランスを崩して落下してしまう。オオカミのくせに組ついてきていてうまく振り払えない。


「ぅぐ、このっ! っ………―――かはっ」


 必死で振りほどこうとしていたら地面に激突して一瞬息が止まる。高層マンションから落ちても死なない程度には強化されているけど、受け身なしだとつらい。地球というハンマーでぶん殴られて一瞬視界が白く染まる。


 右肩やわき腹に深々と爪を突き立てられていて鋭い痛みが脳に刺さる。

 わたしの幼い身体とは比べ物にならないほどの巨体に抑え込まれて、身動きが取れない。


 オオカミと目が合う。


 ぎらついた瞳に見竦められ、がばりと口が、


(死―――)


 わたしの上半身を一飲みにできそうなほど大きな口。

 無抵抗では食い殺されることを悟り、咄嗟に暴挙に出る。

 死を具現化したような喉、その穴に、唯一動かせる左腕を突き刺して全力で魔力をたたきつけた。


 ―――こっちに来るな!


 がちんっ。


 硬質な音を残してオオカミが後方に飛んで行った。

 わたしは体の奥から響いてくるような肉を引き裂くぶちぶちという嫌な音を意識的に無視して、オオカミの生死を確認することなく全力で上空に飛んだ。


「―――がふ、げほごほ………」


 魔力が減ってきて吐血。

 でも足を止めるわけにはいかない。

 前に襲われた時よりは死にたくない。


 イェルと話すのは楽しいし。


 わき腹や両腕から肉体をぐちゃぐちゃにされた痛みと血液がだらだらと流れる感覚がする。

 怪我の様子を確認する暇もなく、わたしは空中を無我夢中で全力疾走する。

 契約したイェルから魔力を可能な限りもらいながら、方向を定めずただ走る。


 背後から遠吠え。


 あんなに大きな図体なのに普通のオオカミみたいに鳴くんだな、なんて思いつつ、痛む身体を無視して走る。


 緑の絨毯が眼下を飛ぶように過ぎていく。

 走りながら怪我の確認。

 爪の刺さっていたわき腹は思ったより怪我してない。

 走っていると骨盤と肋骨に挟まれて痛む感じがするけど、見た目も血が噴き出てるわけじゃない。

 右肩も思ったよりはひどくない。痛いけど普通に右手は動くし、大丈夫。

 左、手は―――

 

 なかった。


「う………」


 不意打ちのような喪失感に泣きそうになる。

 せっかく転生前と違って動くからだだったのに。

 二の腕あたりから先がなくなっていて、血が冗談みたいに滴り落ちている。


 走りながらも止血を試みて痛む右手でわきの下あたりを抑えようとして、

 むにゅ、と嫌な感覚がした。

 ついでのように走る激痛。

 脇の下を触るだけでも痛いし、残っている腕に触ると視界が瞬く。

 それでも嫌な予感がしたので触ると、また、ふにょ、と人体ではありえない感触がした。

 まさか、と思って腕を動かして確認しようとしたが、残った左腕はうごかない。


 ……骨がない。


 二の腕は肉の部分だけ残っていて、骨が残っていなかった。

 二の腕の感覚は殆ど痛みに占領されているけれど、それでもまだ皮膚感覚はある。

 それなのに全く動かず、骨が抜き去られていた。


 ……人体って骨だけ抜き取ったりできるんだ。初めて知ったよ。


 間抜けな考えを浮かべつつ、わたしはもう無心で走り続けた。


 逃げることに意味があるのか。

 血液で追ってくるんじゃないか。

 そもそも失血死で死ぬんじゃないか。

 生き延びたところで左腕はもとには戻らないんじゃないか。

 大体こんな風に逃げたところでオオカミを振り切れないんじゃないか。


 そんな疑念を全部無視する。

 今のわたしにできることは、魔力が尽きるまで逃げることだ。

 眼下に広がる樹冠は延々と続き、代り映えしないままに流れていく。

 全力疾走をしているのでどんどん魔力が減り、その分をイェルからもらう。


 走るたびに激痛。


 あぁでもわたし、痛みに鈍感なのかな。結構考え事できてるし。

 走って走って、走り続けて。

 風を切る音が遠くなって、視界が白くなる頻度が増えてきて。

 そして、森が唐突に草原に接触したのが見えた瞬間、


「―――っ! ごほっ!」


 イェルからの供給が途切れて、一瞬で魔力が尽きて。

 あまりに唐突で、どうしようもないままわたしは地上へと自由落下していく。


 ……わたし、こんなところでこんな風に死ぬのかな。


 いやだな。もうちょっと生きたいよ。


 せめて、即死はしないように体に残った魔力を絞って身体強化へと回す。


 地面が迫る。


 もう一度目が覚ませますように。

 できれば、植物状態以外でね。


 わたしは最後にそんなことを考えて、地面と接触し、意識を失った。

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