7.活字の真奥で潤うもの
さて、皆さまいかがお過ごしでしょうか。私は、今日のこのテーマを果たしてこちらのサイトさまに置いて良いものなのかとない頭を悩ませたわけですが、……しかし、これは私が自作の小説について自らの考えを述べる場。このテーマは外せないのです。……もしかしたら、創作する上で禁断のテーマとなりうるかもしれない今日のテーマ。意思疎通の話を主にテーマにした私の考えです。
――たとえば、そうですね、現実の場合に置き換えて頂きたいのですが、……現実、の中で、皆さまは、本当に全ての方ときちんと対話出来ていると言えますか?言えると即答される方ばかり、かもしれませんし、違うかもしれません。人は千差万別、様々な思考の癖をされる方がいらっしゃって、様々な反応があり、会話にも様々な化学反応が起こっているわけです。……つまり、お互い解っていると認識している場合でも微妙に思いが食い違っていることも人間世界にはありますよね?たとえば、例を挙げるならばストーカーされる側とストーカーする側の意見の食い違いや、たとえば、親の心子知らずという言葉からや、たとえば、様々な人格障害から発生する、モラハラなどの状態や。
今一例を挙げただけでも、結構な範囲で意見の齟齬が起きる場合があることを想定出来るわけです。けれど、人間は、万能ではないながらも長い歴史の中でお互いの違う認識すらも損得を上手に考えながらお互いに妥協するすり合わせを出来るような”あいまい”な状態をも受け入れてきました。そんな、解っているかは”本当には解らないけれども解りあっていると錯覚、もしくは思いながら”日々生活しているわけです。勿論、全ての考えが相手側に伝われば、それに対してNOやYESを言えば、共感や、反感をし、相手と自らの”考えの違い”を認識出来る場を作ることが出来るかもしれません。……けれど、幸か不幸か、大抵の方は、自らの気持ちをはっきりと認識していなかったりもします。――今まさに、自らが何を食べたいのかすら解らないことだって、日常茶飯事です。皆、普通の日常ではそんな風に曖昧な選択肢を多かれ少なかれ抱えているものだと思います。そうして、ちょっと嫌だなぁってことにあったり、嬉しいなぁってことにあったりする度に自らの気持ちを再確認、しているのではないかなって考えるわけです。
NOやYESをたとえ、はっきり口にしなかったとしても、相手の好みや相手の行動や何気ない相手の言葉の端々から、お互いに、相手はこのような方だと認識しあいながら、共感したりしあいながら、時折は意見を交えて、自らとフィーリングが合う方や、もしくは合わない方ともコミュニケーションをはかっているのだと思います。読心術が全ての方に備わっていれば、曖昧な相手側の反応から気持ちを推測して、右往左往したりしない。そういうものだと思います。
活字の世界の中の主人公たちはあまり、そんな失敗をしないようです。彼らは、彼らが思うような事柄に対して的確に相手の感情を読み取り、行動してしまう。そうして、主人公と接する方々も、まるでそれが対話のお手本かと見まがうような完璧な意思疎通能力を発揮します。現実では見逃しそうな点を完璧に目撃していたりして、相手の心情を読み取ったりもします。……そういうの目にする度に、私は、いいなぁと思うわけです。私もこれぐらい相手と上手く対話出来たら、こんなに苦労しないのにと。
どのような状況においても、例えば現実世界では、対話をする機会はとても多いと言えると思います。対話は時にとても楽しいけれど、ときにとても哀しかったり、ときにとてもつらかったり、ときにとても事務的だったり、ときにとても噛み合わなかったりしますよね。その都度違う会話の仕方が求められるように思えてならないのです。
たとえば全く価値観の違う人同士が、なんとかわかりあいたいと言葉を交わした時、一番初めに起きる問題が、両者それぞれが置かれている価値観や、心情や、信条や、立場などからくる、前提の違いだと思います。相手がその会話の論点をどこに置き、どこに結末を持っていきたいのかも違う場合があります。そういった時の意見のすり合わせはとても大変なものですよね。前提が違うのだから、噛み合わないまま進めても話は膠着状態となるか、話は平行線のまま論戦勃発かとなりうるだけです。相手が会話を諦めてしまうかもしれません。こちらが呆れて匙を投げてしまうかもしれません。現実で価値観の違う者同士が解りあうのは時にとても大変なものなのだと思います。それでも、解りあいたいと思えば関わろうとするのだし、思えなければもう関わらなくなってしまうのでしょう。
活字の世界でそこまでを描き切るなどとんでもない話ですし、へぼでへたれな作者が今持っている力量で実現出来る話でもありません。……けれども、そうですね、キャラクターが生きるってそういう時なのかなとも私は考えたりしてしまいます。それは、私が現実世界で、あ、この方、こういう反応するのか、意外だなと感じたり、あ、この方実は私のことそこまで理解されていらっしゃらなかったんだ。全てを解ってらっしゃるかと思って過剰に頼って悪いことをしたなと感じたり、そういったことを日々感じながら人と接しているからなのかもしれないです。
上手く言葉に出来る自信は全くないのですが、そういったものが、心の触れ合いにもしかしたらなるのかもしれないなと思っていて……。妄想ではなない、その人と私自身の明確な”違い”に触れる機会になるのではないかって、そんな風に思いながら少しだけ考えてしまう。そして、活字の世界に触れて、その活字の真奥で潤うものや、枯れているものをほんの少し見たりする、そういったことがあるのです。
すこし、ぐちゃぐちゃで纏まりが悪いですが、今の私にはこのような形で、このテーマについては、ここまでとさせて頂きます。ここまで読んでくださった方、有難うございます。
また次のテーマでお会い出来ますことを願って。