6.書きたくなるとき
ここのサイトさまに来ている人間なのだから、へぼでヘタレな作者である私、で、あっても、やっぱり、創作は好きなのです。……何故、好きなのかって……そうですね、私は、絵も描くのですが、(そのうちに自らの小説やエッセイや詩にデジタル絵を載せますね。誰得か?と、聞かれたら、胸を張って、作者得ですと申しましょう。自分の心の表現の場は、自分色の空気感で風で、色で染めたいのです。自らが快くあるために)真っ白なキャンバスに世界の色をつけたとき、ふっと現実で顔をあげれば、世界が変化してみえるから……、なのかもしれません。私は、心の心象風景や思いや記憶やそう意思をそのままキャンバスに投影させて世界に色をつけると、それらが、不思議に個性をもって自らでいきいきと動き始める、そうしたときに、なにか、ふぅっと、さまざまなことにこたえが見つかったような、そんな気になるときがあるんです。いっぱい考えたあと、みたいな。落語の締めに言う、お後がよろしいようで、の、ような……そんな気持ちになるんです。
そう、もう、私の手を離れていった彼らを、ぼんやり目にしながら、ふぅって浸るような、そんな感覚です。……そうして、だからこそ、私は、自らの分身の彼ら作品たちを愛しています。とてもとても大事です。
以前、詩を勉強していた頃(今も現代詩をよく書きますが、その当時も現代詩でした)詩は、作者の元を離れればそれは、もう作者の解釈の外に自由に飛び立ったものたちである、のような考え方に触れたのですが、私は、それも素敵な視点だと思います。自由な解釈があるものが詩のおおらかさややわらかさ、懐の深さ、だと感じるから……でも、そのような考え方に触れても、なお、私は、自らの作品を愛したいと思います。時折、やさしく手入れして、あらあら、この表現すこし思いなおしてみた方が良いかしら?なんて撫でてみてから、でも、これもあの時の私の味があってよいわ、なんて笑いながらそのまま愛でたいと思います。私は、自分は特別ではないと言いきれます。へたれで、へぼなちょっと哀しくなるくらいの人です。でも、私の作る作品の世界は特別きらきらしたものだって宝物のように思って愛でています。とても大事な作品たちです。そうして、そんなような存在を大事に思いながら、新しい作品を生み出すとき、また、彼らの横に並べてあげる。作品ひとつが生み出す世界とそれらの世界が並びみせる世界の鮮やかさはまた違った趣を思わせるからです。私から産まれたものたちでありながら、私を魅了し続け、驚かし続ける存在、純粋さや卑屈さや、怒りや、やさしさや、見過ごしがちなちょっとしたそれらをぎゅっとかためてそこに広げた存在。美しくて大好きで、大事なそういったものだから。
私は、きっと、必ず、書きたくなるんです。