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11.夢中になるものを見つける大切さ

 小説を乗って書くという経験が、私にはまだほぼない。唯一、『声を拾って』という後半部分で、その状態になったが、僅か、短い時間の一度のみだった。詩は、そういったことはあまりない。何故なら、書きたい感情のまま勢いづいて書きあげることが私の詩の描き方だから、感情のそのままに文章がそこには現れる。今私が、ぶつかっている壁は、小説に対して、感情を乗せて書くことが出来ないという一点にあるのだと思う。何か、とても硬い感覚が消えない。

 私の小説を書く際の描き方は、とても肩に力が入っていて、感情が乗っていない。創作をするのにもかかわらず、頭で計算して書いているような状態が続いている。そういった文章を書かれる方も沢山いらっしゃるのだと思う。でも、私は、それでは嫌なんだ。感情のままに夢中になって、詩や絵を描くときのように、小説を一作書きあげたい。その思いでこちらに来ているような気がする。

 文章が粗削りなのは、後にいくらでも修正可能だと私は思う。そう思わない方も多くいらっしゃるかもしれないが、私はそう思う。私は、感情が乗ることの方を重視するから。言葉は、感情と供にあってしかるべきだと思う。言葉と感情は生涯の伴侶のようにぴったりと寄り添っているものだと思う。そうでなければ、どうして、文字の連なりの文章に涙したりしてしまうんだ。感情が伴っている文章だからこそ、そのような思いが乗りやすいのだと私は思うし、そう考えている。だからこそ、今の私の状態は異常事態だと言える。

 プロットを作れば、時間を区切れば、なにも拘らなければ、自動手記のような感覚で一作書き終わることは可能なのだと思う。でも、そのような小説を書いて私は楽しいだろうかと考えると、私はちっとも楽しくはないと即答するだろうと思う。何故書くのかは、書きたいから書いているのだと言えるのだと思う。書きたいから書くのだし、書きたいと本当に感じているからこそ、文章が生きてくるのだと思う。

 私の小説への向き合い方は、なにが足りていないのだろうか。

 壁に早々にぶつかってしまっている。

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