第九話 「探偵」
俺の親父である鷲津槙久は、勤めていた大手電機メーカー解体の煽りを受け、二〇代にしてリストラという不遇を味わった男だった。路頭に迷った親父は地元に戻り、教員免許を持っていたことから高校教師になったが、おそらくは死ぬ寸前までプライドをくすぶらせたまま、劣等感にまみれた人生を送ったことだろう。
ただでさえ天国から地獄へと転落したというのに、弟である忠久がそれとは真逆の人生を送ったことで親父はさらに劣等感を強めたのだと思う。忠久は中古車販売業と不動産取引で財をなし、その金に高率のレバレッジをかけ、当時経営危機に陥っていた大日本電子を買収し、事業再建に辣腕を振るったことで時代の寵児となった。無能な経営陣一掃は勿論のこと、事実上の移民解放とベーシックインカム政策により生じた安価な労働力を活用することで瀕死の企業を世界第二位のファウンドリメーカーに成長させた。
忠久は圧倒的な勝ち組で、親父は明らかなる負け組だったが、唯一の美点は、親父は大金持ちになった弟に一切頼らなかったことだ。頭を少し下げれば大日本電子の幹部社員になれたかもしれないのに、平凡な教員として生きる道から逸れることなく五人の子どもを育て上げた。アル中のクズにさえならなければ、忠久に劣らない男として今でも尊敬していただろう。
大河と再会した夜、俺は深夜営業のバーに連れて行かれ、やつと酒を飲みながら親父の人生を振り返っていた。えらくシリアスな話題になったのは、度数の高いウオッカをハイペースで呷ったせいである。俺は兄妹の中では(おそらく親父の血をストレートに継いだため)例外的に酒に強いほうだが、それでもだいぶ酔いが回っていた。
絢花の自殺未遂を受け、心労が溜まっていたのだろうと思う。親父の過去を振り返ったのは、大河が忠久のことを「おまえの叔父さんは立派やよな。富山の誇りちゃ」などと褒めるものだから思わず反発したのと、もう一つは絢花の身に起きた悲劇から話題を逸らすためだ。しかしそこまで念入りに抑え込んだのに、アルコールの量が増えるにつれ、やがて俺はその日起きた出来事を口にしてしまっていた。
絢花が自殺未遂を犯したこと。頭部を損傷させ、瀕死の重体であること。このまま目を覚まさない可能性があること。
再会の場を沈ませる、憂鬱なトークになっていることに気づき、俺は大河に「重たい話ばっかですまん」と謝ってしまった。やつは「べつにええよ」と苦笑したが、その横顔は俺に劣らず、悄然としたものへ変わっていた。ヘビーな話題を振ったことで余計な負担をかけてしまっただろうか。俺は会話を明るい方向へ持っていくべきか迷った。けれどそこに大河が待ったをかけてきた。
「俺、親父さんの気持ちわかるわ」やつはバーテンが注いだビールを呷りながら、低めた声で訊いてきた。「恭介。俺が探偵やっとる理由っちゅうか、そもそも警視庁辞めた理由ちゃなんやと思う?」
見当がつかなかったので、俺は首を横に振った。その反応を真顔で受け止めた大河は、体格に似合わぬ声で「俺な、霊が見えるようになってしもたがや」と言った。あまりにも突飛な発言に一瞬言葉を失った。けれど沈黙した俺をよそに、軽い身の上話でもするかのように大河は会話を続けた。
「刑事になって半年ほど経った頃のことや。追いつめた犯人に逆上されて、鈍器で後頭部思いきりぶん殴られてな」そう言って大河は頭の後ろを俺に見せる。そこには確かに縫い跡が残っていた。「急性硬膜下血腫。絢花ちゃんも同じ状態やろ。俺の場合、二週間ほど意識喪失。目を覚ましたときには世界は一変しとった」
大河の語り始めたことはシリアスであるがシリアスさの質が違っていた。やつは職務に復帰して早々に、殺人現場で被害者の霊を見た。それは霊視ができるようになった最初のケースだったという。
勿論俺とて常識人だから、この世にそんな力が存在することを頭から信じることはできない。唐突に霊魂とのファーストコンタクトを語りだす大河を茶化し「なんやそれ、また得意のギャグけ?」と言ったが「違えよ」とむげに否定されてしまった。その口調には、自分を受け容れない者を拒絶する強い警戒心が滲んでいた。
それでも大河は重苦しそうに告白を続けた。
「霊が見えることにはメリットもあったんや。被害者の口を通じて犯人逮捕に結びついたからな。けどそれで勲章貰うが、転落の始まりやった。上司に理由を追及されて、霊が見えるからやなんて答えられんかったし、次の事件では霊に取り憑かれた。病院に逃げ込んでも、無駄なあがきやった。結局、警視庁には辞職願いを出すことになったんや。慰留はされたけんど、迷惑かけられんかったし、やむを得んことやったと今でも思っとる」
「そんじゃおまえが探偵やっとるがちゃ――?」
当初の疑問に答えが見えた。大河はそれを寂しげに肯定した。
「ああ。霊視の能力いかすためや。警察辞めたからべつの方法で金稼がんとあかんしな。さっき病院で会うたのは、まだ精神科に通って薬飲んどるからや」
自分の境遇を憂うように言って、大河はため息を吐いた。
オカルトまがいのことを切々と語られるという経験を胡散臭いと思わなかったと言えば嘘になる。脳にダメージを負って、それが原因で霊が見えるようになっただと? まるで漫画の世界だし、今どき流行らない安直な能力設定だ。けれど、ここまで踏み込んだ話を聞かされて漫画と同じに扱っては、やつの真剣な声を裏切ることになる。常識をとるか、大河をとるか。その問いが無意味に思える程度には、俺はやつの友人であったらしい。
「霊が見えるちゃ初耳やし、ちょびっと驚いてしもたけど、おまえの言う力、信じてやっから安心せられま」
我ながらあっけらかんとして笑いかけたが、こちらの予想を超える反応があった。暗い大河の顔色が、急にいきいきと輝きだしたのだ。
「ドン引かれるが思とったがに。今の言葉、ほんまに嬉しいちゃ」
頬を染め、照れた様子でビールを流し込む。いい齢をしたデカぶつがまるで乙女のような態度を見せるので、俺は苦笑いが止まらない。
けれど大河はそれさえも温情の証と受け取ったのか、ほろ酔い加減も手伝ってさらに予想外の行動をとる。
「せっかくやし、恭介にだけは色々教えてやっちゃ」
深夜営業のバーに客の数は多くない。カウンターに俺たち二人と、テーブル席に一組の外国人客。それらの接客を一人でこなしているバーテンに目配せしながら、大河は厨房の裏を指さした。
バーテンが頷き返すと、大河は「ここで待っとれ」と言い残し、スタッフルームへと消えた。一体何が起きようとしているのだろう。空のグラスを指し、ウオッカをもう一杯頼んだ。
今宵はとことん飲んでやろう。そう思ってタバコを取り出し火をつけたとき、バーテンが軽く頭を下げ、裏手のほうへ引っ込んでしまった。待ってくれ、俺の注文はどうなる。いささか不安を覚えさせる展開に、タバコは絶妙なセーブをかけたが、それでも謎は尽きない。大河は一体、何をやらかすつもりなのか。
俺の抱いた疑問は、タバコが灰になる頃、出し抜けに解消された。裏手のドアを開け、べつのバーテンがカウンターに入ってきたのだ。
まず目を引いたのはその容姿だ。白い肌と青い瞳に、金色の髪。白人の女性だったが、まさかそんなやつが突然現れると思っていない。心構えができていなかったので、間抜けにも唖然とした。
「驚いたか、恭介?」
肩を叩かれたので振り返ると、大河が隣に戻っていた。俺は説明を要求しようとしたが、機先を制するように大河はバーテンを指さした。
「彼女はソーニャ・クリュチコワ。この店で週に二日働く以外、普段は俺の相棒をやって貰っとる。ソーニャって呼んでやれば喜ぶぞ」
嬉しそうに弾む声。名前の特徴から、このバーテンがロシア人だということは理解できたし、富山で彼女のような人間と出くわすのは珍しくないため、違和感はそこまでなかった。むしろ大切な宝物を自慢するような口ぶりに釈然としないものを感じ、俺は訊いた。
「相棒って何の話や。探偵の助手か?」
「そうやよ」
照れ臭そうに鼻をこすり、探偵という仕事のあらましを大河は語りだす。
やつによると、警察の下請けのような形で実際の捜査をおこなう探偵は、警察OBを中心にけっこうな数いるらしい。「知っとる限り、一〇〇人程度やけどな」と大河は笑うが、それとて決して少なくない。
驚くべきことは他にあった。大河は、最近一つの事件を解決したばかりなのだと教えてくれた。富山県で起きた連続女児誘拐殺害事件。一時期マスコミを賑わし、俺も概要だけは知っていた。二、三年おきに女児がさらわれ、死体となって遺棄される事件。その手口から、同一犯によるものだと考えられてきたが、昨年末新たに起きた事件をきっかけに容疑者が逮捕され、一挙に解決へ向かった。
細かいディテールは知らないけれど、連日ニュースとなっていたことは覚えている。まさかそんな大事件の究明に俺の友人が関わっていたとは、想像もしていなかった。
「その捜査も、霊の力を借りたわけ?」
俺が問うと大河は頷き返した。霊視という突拍子もない手段で事件を解決に導く探偵。寡聞にして知らないことだらけで、いまだ半信半疑だが、この情報は俺を力づけた。
たぶん心の動きが表情に出たのだろう。「まだ信じきれていない顔だね。それとも突っ込んだ話が知りたいのかな?」という声が降ってきた。ソーニャというロシア人のバーテンが、グラスを片手に俺のほうを見つめていた。
「恭介さんと言ったかな。何でも好きなこと訊くといいよ」
ソーニャはグラスに注いだ酒をコースターの上に置いた。
ひと口啜ってみると、中身はウオッカだった。どうして俺が飲んでいた酒がわかったのだろう? その言葉は口をつく寸前に遮られた。先読みしたかのようにソーニャがこう答えたのだ。
「お客の顔とグラスを見れば、飲んでいたお酒の種類はだいたいわかるよ」
妙に誇らしげな顔つきと白人特有の透明な肌が相まって、大河の助手はどこか神秘的なオーラを感じさせた。気後れした俺は、あまりに初歩的なことを訊いてしまう。
「君は何者だ?」
視界に入った大河は「やらか助手やって」と呆れたように笑ったが、ソーニャは違っていた。わずかに考え込んだ後、さも深遠な答えを明かすように悠然とつぶやいた。
「わたしは元々、モスクワ大学に所属しているよ。立場は研究者で、テーマは超常現象。タイガと知り合った由来を言えば、彼の主治医に紹介されたから。それ以降、彼とは研究対象兼恋人として行動をひとつにしているんだ」
一度に大量の情報を話されたおかげで、俺は少々混乱した。同時に、彼女の声と容姿が存外幼いことにはじめて気づいたが、混雑した道を避けるようにあえて平凡さを装った。
「君って、歳いくつ?」
「わたしならば二七歳だよ」
俺や大河より年齢は一つ上。そのわりに幼く、まだ女子大生だと言っても通用しそうだ。研究者と名乗っていたし、浮世離れした生き方が影響しているのかもしれない。
俺は質問の矛先を変え、一番引っかかったことを訊いた。
「大河の恋人って言ったけど、こいつと付き合ってるの?」
「うん、そうだよ」
「なんで?」
認めたくはないが、俺はたぶん大河に嫉妬したのだと思う。やつはついさっき、能力のことをパートナーの女性には教えたと言った。彼女がその相手なのは確かに見えたけど、ギャグの権化である親友にこんな美しい彼女がいたとは、粗探しでもしてやらないと気が済まない。
そんな心情を知ってか知らずか、大河はソーニャに視線を送る。こくりと頷いた彼女はカクテルをつくる手を休めず、控えめな返答をよこした。
「くり返しになるけど、わたしの本職は超常現象の研究者なんだ。ロシアでは超常現象、及びその人間版である異能力の研究はすでに確立されたテーマだし、専門の研究機関もあるくらいだけど日本では未発達。ロシアでは枯渇して久しい研究対象も、この国ではまだ手つかずの状態で残っている。わたしはそこに目をつけたんだ。昨年末、担当教授であるレベジェフ博士から旧知のドクター天野を紹介されて、そこから日本語を猛烈に勉強し、海を渡ったのが今年の二月。来日してすぐに、わたしはタイガと出会った」
「珍しいことを扱っているんだね」
何となく上っ面をなぞったが、本当はかなりたまげていた。今の話を鵜呑みにすれば、彼女は約二ヶ月で日本語をマスターしたことになる。達者に日本語を操る様を見る限り、その言葉に嘘はなく、いわゆる天才と呼ぶのが妥当なのかもしれない。
彼女の神秘的な雰囲気が、急に実体をともなった。俺は性格的に、シニカルなところがある一方、本気で凄いと思ったことはけっこう真に受ける。出会ってまだ数分しか経っていないが、彼女はすでに十分なインパクトを与えていた。超常現象の研究。
「ソーニャは一〇代の頃まで画家志望だったけんど、大学に進むとき専攻を変えたんや。おかげで俺と出会えたわけやし、運命っちゅうもんはきっと存在しとるんやよ」
のろけ話でも始めそうな大河を無視し、せりあがる興奮を抑えた。
被験者とドクターが恋仲に落ちるのはありえそうな話だけど、二人を結びつけた研究テーマとやらは尋常ではない。大河の霊視能力を聞かされたときと同じく、漫画の世界に飛び込んだような倒錯を覚えるも、未知なる世界を垣間見て、ほんの少しだが心は震えていた。俺は考えをまとめ、それを疑問に変えた。
「悪いがそんな研究、この日本では聞いたこともないけど?」
ソーニャはどう答えるだろう。ウオッカをひと舐めする間に返事は戻ってきた。
「同様の研究機関ならば、この国にもあるんだよ。一般に知られていないだけで」
「嘘だろ?」
「ううん、本当だよ。ここ二〇年で徐々に形を整えてきた。それでも公には隠され、施設自体は閉鎖的だ。タイガも実験台として、危うく囲い込まれるところだったんだよ」
「わかったがけ、恭介。ソーニャは俺にとっちゃ救世主でもあるんやよ」
またしてものろけ話の気配を感じ、顔は動かさず、ソーニャとの会話を続けた。
「君の言うこと、大枠は認めるよ。でもそうなると、大河以外にも異能力とやらを使える連中がいるわけ?」
先に答えたのは大河だった。「いるらしいけど、会ったことないし、よく知らん」
「そうだね。どう説明しようかな」
シェイカーの中身をカクテルグラスに注ぎ、ソーニャは視線を外しながら言う。
「ロシアで得られた長年の統計データだと、異能力の発現確率は一〇〇万分の一とも言われている。ソビエト連邦が解体される前、人口は三億人近くいたから、能力者は三〇〇人程度いただろうね。その多くは様々なルートを通じて研究対象となったわけだけど、調査を積み重ねるごとにわかったことがあったんだ。どうやらこの異能力は、ロシアを中心とした地域に限られた現象だということ」
「え、なにそれ?」
「やはり違和感あるよね」即座に洩らした呟きを聞き、ソーニャは薄く笑んだ。「わたしだって初情報ならそう思うよ」
彼女は白くほっそりした指を伸ばし、カクテルグラスを大河のコースターに置いた。
「ソーニャに酒つくって貰うときは、いつもギムレットに決めとるんや」
大河の口から三度目ののろけ話。さすがの俺も「へぇ、そうながや」と相づちを打ってやり、邪険にはしない。やつは酔いも手伝い、子どもみたいに表情を崩したが、それ以上絡んではこなかった。
視線を前に移すと、ソーニャは肩をすくめ言った。
「信じて貰えないだろうけど本当なんだ。研究結果を一番最初にとりまとめたKGBの資料によると、能力者は二〇世紀半ばに発見され、その歴史はきわめて浅く、数ある超常現象のなかでも確証性の高さは抜きん出ていた。時の党中央は、シベリア東部に秘密都市を建設し、研究自体も極秘だった。事情が変わったのはゴルバチョフ政権以降。研究予算の削減、給与支払いが途絶え、被験者を含む秘密都市の人びとは大半が極東に移り住んだ」
雄弁かつ穏やかな語りを一瞬止め、ソーニャは思わせぶりに俺を見つめた。
「ここから興味深いことが起きるんだ。恭介さん、それが何かわかるかい?」
「想像もつかんわ」
本心をそのまま口にし、手振りで先を促した。
「仕方ないね」手近なワイングラスを磨き始め、彼女は言葉を継いだ。
「一九九一年。連邦解体の直後、研究はロシア政府主管となり、ほとんどの研究関係者はモスクワ近郊に移り住むことになった。けれど一部の人間は極東に残り、自活し始めた。商機をつかんで海を渡ったんだ。日本海対岸にある、トヤマの地に」
口ぶりの単調さと裏腹に、このとき俺は強い閃きを覚えた。完全な異物どうしがなじみ深い場所で交差した。その運命の悪戯を鮮明にイメージできたのだ。
幼年時代、富山市内はなぜか外国人で溢れていた。今でこそわかる話だが、主に中古車取引と売春目的にやってきたのがロシア人。圧政を逃れ、脱北した難民が朝鮮人。均質な日本人と溶け合うように、そこでは人種のカオスが局所的に発生していた。彼ら彼女らの一部はいまだにこの街に残っている。だから直感で理解できた。俺の知る富山の裏面を、彼女が語ろうとしていることに。
「そう、異能力を旧ソ連地域特有の風土病だと思って貰えばいい。その遺伝子は長らく鉄のベールに守られていた。ところが冷戦終結後、西側諸国との交流が活発化した。ビジネスを目的として、トヤマに滞在するロシア人の総数はピーク時で一〇〇〇人規模に膨れ上がったという。つまりこの地は日本国内において、旧ソ連由来の能力者遺伝子が伝播する尖端となったんだ。今述べた事実と大河が能力を発現したことは無関係じゃない。研究者として断言するけど、彼の発症は歴史的必然なんだよ」
ソーニャが黙り込むと沈黙が緩やかに広がった。わずかに聞こえるグラスを磨く音と、テーブル席の囁き声が虫の音のように耳をくすぐる。しばらく声を失っていたが、やがて唐突に気づくことができた。べつの客が発する囁きは、掠れた鼻音を残すロシア語であることに。俺が静かに息を吐くと、ソーニャは事務的な顔つきで言った。
「この店はね、実は特別な場所なんだよ。いま言った理由により能力者の発現率は、日本全体で見てもトヤマ県が有意に高い。一年間で最低一人は新しい能力者が見つかる。研究者であるわたしたちはロシア政府の協力のもと、この店を安全な拠点とし、それをいち早く掴むために情報網を張っている。中期的視野に立ち、日本人能力者のケアを行い、代わりに研究データを貰ったりもしている。ほら、あそこに座っているロシア人がいるだろう。彼らは自身が能力者で、心理面のケアに長けたカウンセリングの専門家でもある」
ソーニャが投げた視線を、俺は追いかけない。テーブル席のロシア人は一度目視してあるから、顔かたちを脳裏に思い描ける。やつらの常で大河と同等かそれ以上に恵まれた体をしていたが、連中はある分野におけるエキスパートだったわけだ。
俺の知らない富山、俺に見えていない世界が確実に存在していた。この場でいわゆる常識人なのは明らかに俺のはずだが、数の力というものは怖い。ソーニャと大河の二人からオカルト話をされ、バーの中に部外者は俺しかいない状況では、懐疑は溶け出し信憑へと姿を変えていった。
それに俺は、心の高揚を押し殺すことができない。間抜けな大河が、「恭介には内緒にしてたけんど、俺、高校の頃ロシア人の娼婦とヤッたことがあるんや。早く童貞を捨てたい一心で。例の遺伝子ちゃ、そんとき貰ったのかもしれん」と場違いなことを言っても興ざめしなかった。
なぜだろう。理由は判然していたと思う。自称探偵であるところの大河と再会したことは、やはり神の与えた好機ではないかと考え直し始めていたのだ。俺は自分の得た好運を絢花と結びつけたがっている。そんな心の動きに素直でありたかった。気づけば、取引に臨む銀行家のような声を出していた。
「なあ、大河。もしお前の力が本物なら」その声は、途中で咽喉にかかった。「無理を承知で言うけど、頼みたいことがあるんや。絢花のこと、ちょびっと話したけんど、真実が知りたいんや」
俺は絢花を自殺へと追い込んだ謎を解明し、彼女の魂を救いたい。その気持ちは時間が経つにつれ、強まっている。けれど「会社」の業務と並行して進めるには障害も大きい。単独でできることは限られている。いくら警察との線引きが曖昧になっているとはいえ、人が一人死にかけた事件に俺たちがしゃしゃり出る道理はない。その点、大河の話を鵜呑みにするなら、探偵は警察の補助的な働きを許容されているらしく、貴重な情報を集めることも不可能ではないように思えたのだ。
こうした期待の反面、警察の依頼が優先で、申し出が通らないことは覚悟した。けれど大河のやつは、三〇秒近く考え込んだあと「絢花ちゃんのためやし、手伝ってやるちゃ」と快諾してくれた。拍子抜けした俺は「やけど絢花はまだ生きてるぜ」と懸念を伝えると「死にかけとんがやろ。そういうときは生霊が見つかる」と言い、どんと来いとばかりに胸を叩いた。
望んだ手駒を得られそうで、心の重しがわずかに軽くなった。どうやらその様子を見られていたようで、ソーニャは俺たち二人に呆れ顔を向けた。
「タイガは情にほだされる人だったんだね」
「うるせえ。恭介の依頼を他のビジネスと一緒にはでっきんやろ」
「恭介さん。タイガはこう言っているけど、報酬はきちんと請求するからね?」
探偵とその助手。立場がなぜか逆転しているように感じられたものの、会話のなりゆきで、あまり不自然さを覚えなかった。
だから大河のやつが「済まねえな。相棒には逆らえんがちゃ」と苦笑しながら、少なくない額の報酬(それでも薄給の俺を配慮した金額)を提示しても驚きはなかった。幸い日当制で請け負ってくれるようで、捜査が早く片づけば非常識な金額にはならず、俺の貯金で賄うことは十分可能だった。
持つべきものは友人。根が薄情な俺にそんな悟りきったことを言う資格はないし、大河への信用も頼りなさと背中合わせだ。何と言っても馬鹿者タイガーの記憶は拭いがたい。
きっとやつを絢花の捜査に巻き込んだのは、大河のおまけにソーニャというやたらと賢そうな相棒がいたことに動機の半分はあった気がする。切迫した期待を除けば、本来の俺はとことん打算的だ。大河との契約内容を日当制にした理由も、不審な点があった場合には直ちに契約を打ち切れるようにするためである。探偵になったことしかり、霊が見えるという話しかり、それらが大河の仕掛けた壮大なギャグである危険性は、ぎりぎりまで無視できないものがあったのだ。