第七話 「病院」
絢花について少し話しておこうと思う。
彼女は俺にとって出来すぎた妹だった。文武両道で、容姿は可憐で、雪深い山の頂きに咲いた花のように俺たち兄妹以外の他人を寄せつけない気高きオーラを放っていた。その孤絶した佇まいを絢花は、忠久の庇護下に入る前から備えていた。親父と暮らす雑然としたアパート住まいの頃から、彼女は姉貴の美貌にくわえ、令嬢のごとき高貴さをまとい始めていた。
そんな絢花がひとりぼっちになるのは時間の問題だった。小学校の頃こそ、その特異なキャラクターは漠然と受け容れられていたようだが、問題は三つの小学校から生徒たちが集まる中学校に上がったときだった。
絢花はそこで初めて異質な他者と出会った。けれど彼ら彼女らはクラスの多数派だった。後に同級生に聞き取りして得た情報によると、絢花は多数派に疎まれ、一番後ろの席で文字どおり壁の花になったという。普通の人間ならそこで妥協をする。多数派に媚びて仲間の輪に入ろうとする。
だが絢花はそうしなかった。初めて出会った他者を拒み、自分の殻に閉じこもった。剣道の稽古ではそんなマイペースが許される。しかし学級政治の世界では、他者を拒絶した人間は嫌われるしかなくなる。絢花はクラスの中心人物たちに目をつけられ、つけいる隙を粗探しされた。敵対者が見つけたのは、俺という兄の存在だった。
当時の俺は二一歳。すでに絢花とは忠久に隠れて交際を始めていた。俺は月に一度だけ会える絢花をかわいがり、バイト代をこつこつと貯めて愛を形にすべくプレゼントを贈っていた。その一つが、とあるブランドのマフラーだった。
そのブランドはあまり有名ではなかったが、裏を返せばレプリカが存在しなかったので田舎の中学生にとっては物珍しい品だっただろうし、なおかつピンポイントで効かせた派手さはそれが贅沢品であることを主張していた。クラスメイトたちは最初、そのマフラーを忠久に買って貰ったものだと思ったようだが、ぶちキレた絢花によって恭介という兄の贈り物だと知った。
「恭介兄さんがくれたものに触らないで」
絢花は俺がプレゼントを大事にするあまり、そんなことまで口にしてしまったらしい。彼女の必死さは裏目に出た。クラスメイトたちは兄への過剰な依存を嗅ぎ取り、絢花をいじるネタとし始めたのだ。ブラコン女。それが絢花につけられた蔑称だった。
すぐに気づけば最悪の事態は避けられただろう。けれど俺は東京暮らしだし、事の推移を見守る立場にはいなかった。不在の俺では絢花を助けることはできない。
絢花へのいじりがいじめに変わるまで、あっという間だったという。絢花は兄を愛する異常な人間として認知され、まともなクラスメイトが気づいた頃には、絢花は悪意という紅蓮の炎に取り囲まれていた。いじめはエスカレートし「目を覚ましてやる」というひと言から、バケツでトイレの汚水をぶちまけられた。
そしておそらく絢花が一番堪えたのは、兄との関係を露骨に示されたときだと思う。ある日登校した彼女の机にマジックで落書きがあったという。そこには「兄の病気が移って鷲津死亡」と書かれていた。その汚れは、どんなに雑巾でこすっても消えなかったという。聞き取りした同級生の証言によればその日の授業中、絢花は教室の窓からジャンプし、一度目の自殺未遂を犯した。
***
夜の病院は経費削減のためか灯りの数が少なく、うすぼんやりとした光の中で俺は携帯端末を操っていた。絢花が瀕死のダメージを負っているというのに待合室のソファに腰をかけているのは親族の中で俺だけだ。忠久は絢花の状態を確認すると深刻そうな表情を浮かべたものの、会社に仕事を残してきたらしく「恭介、おめえに連絡係任したわ。詳しいことは明日会社に来て報告しろ」と言い残しポルシェに戻っていった。
時刻は二二時。到底合流予定に間に合いそうもないから、富山医大病院に着いて早々、衣弦には事情を教えて「今日は戻れないかもしれない」と伝えてある。俺が仕事の都合を棚上げしているというのに、絢花よりビジネスを優先した忠久の薄情さに俺は憤りを募らせる。
仕事の都合と言えば、シンガポール勤務の明久との連絡がつかない。たった一時間しか時差がないのだし、ショートメールを送った時点ですぐさま折り返しの電話があってもおかしくないはずだが、やつは返事のメールひとつよこさない。
何か重要な商談の真っ最中なのかもしれないけど、絢花が死にかけているいま、妹の心配をすること以上に大事なことがあるわけがない。マジでくそったれだ。明久も忠久と同類だ。ワーカホリック。仕事と心中しろ。
残りの親族は姉貴と有希だ。二人にかんしては俺は連絡先を知らない。姉貴に到っては連絡先どころか、神奈川医療センター鎌倉病院で寝たきりなのだからコミュニケーションの取りようがない。だけど俺は一人きりで動揺しているから、せめて霊魂だけでも富山にやってくるべきだろうと無茶なことを思う。いくら植物人間だからと言ってもその程度のことはできるだろうと考えてしまう。
姉貴は俺が高校三年生の夏、飲酒運転のアウディにはねられて内臓と頭部を強打した。潰れた内臓は摘出されたが、外傷を負った頭は重い脳障害を引き起こし、呼吸と循環機能だけを残して姉貴は眠り姫となった。それは鷲津家に起きた悲劇の中でもっとも哀切をもって語られるべき一幕だが、この出来事にはサブエピソードがある。
姉貴がアウディに追突されたとき、どういうわけか知らないが一緒に有希がいたのだ。悲劇の目撃者が有希だったことは、本来なら金銭的賠償と運転手の懲役刑で済むはずだったその事故に最悪の結果をもたらした。富山が生んだ無敵のストリートキングは売られたファイトは喜んで買う一方、決して闇雲に喧嘩を売りまくるほど馬鹿なやつではなかったはずだが、血まみれの姉貴を見て人としてのタガが外れたのか、アウディの運転手をぼこぼこにした。
警察の情報によれば、運転手の息が途絶えるまで殴り続けたというのだから、やつがどれほど怒ったのか想像に余りある。姉貴を再起不能なまでに傷つけた相手を有希は鉄拳制裁によってあの世へ送った。当時二〇歳。姉貴をはねた飲酒運転ドライバーを殺して有希は富山から姿を消した。行方はいまもわからない。殺人犯だから「会社」が追うこともない。
不在の有希に思いを馳せた後、俺は冷静になろうとして絢花のことを考えた。
最初の自殺未遂のとき、絢花はケヤキの木に引っかかって大腿骨をまっぷたつに折った程度で済んだ。しかし今回は違う。意識不明の重体。生きているのが不思議なくらいだと医者は言っていた。
絢花はこのまま死ぬのだろうか。だとすれば、自殺の理由はなんだろうか。絢花はなぜ自殺なんて馬鹿な真似を二度もしたのだろう。彼女は忠久に気に入られていたから、授業料の高い私立のお嬢様学校に通っていた。そこでまたいじめに遭ったのだろうか。いずれにしろ一度目の自殺未遂がそうだったように、俺は彼女に何もしてやることができなかった。
「鷲津さん」
ふと目を上げると、医者が俺の前に立っており、彼は周囲を憚るような声で最新の状況を告げた。緊急手術はまだ続いていること。それが終わっても、絢花が目を覚ますかどうかはわからないということ。
俺は無駄を承知で「五分五分ですか?」と訊いた。医者は「もう少し状況は厳しいです」と答え「今晩はお帰りになったほうがいいかもしれません」と告げた。口調こそ穏やかだが、そこには抗しがたい力がこめられていた。
文字どおりに受け取れば、真意は馬鹿でもわかる。いくら俺が祈ったところで状況は少しも変わらないということだ。絢花のそばに張りついていたところで、彼女に力を分け与えることはできないということだ。たとえ生存できたとしても、永遠に目を閉ざしたままの眠り姫。絢花は姉貴の仲間になろうとしている。俺はさらなる無駄口を重ねた。
「絢花は生きられるんですか?」
「わかりません」
医者の返事は冷淡だった。
「わからんってことないやろ。あんた、患者を治すプロやろうがい」
気づくと俺は声を荒げていた。けれど冷静な俺はその台詞が、親父の死ぬ間際、有希が医者に向かって叫んだ文句とそっくりだったことに気づいた。
あのとき俺は「兄ちゃん、医者に突っかかっても無駄や。当たり散らしたらあかんて」と言って悲しみと怒りを混同する有希を必死になって宥めていた。その涙混じりの声音を思い出すと、俺の心から熱が引いていった。医者の言うとおりなのだろう。あとは彼らに任すしかない。
「どうかよろしくお願いします」
俺は腰を折って、医者に頭を下げた。医者は「わかりました。絢花さんに何かあれば、すぐ連絡させて頂きます」と言って白衣を翻した。遠ざかる足音を聞きながら俺は、絢花の運命を彼らに委ねなければならない無力さに苛立ちを覚えた。明久からの返信はまだ来ない。俺は殺伐とした感情から逃げ出すべく、無性にタバコが吸いたくなっていた。
***
喫煙者はタバコが吸えそうな場所を探す天才だ。その鋭敏な嗅覚によってトリュフを探り当てる豚より優秀かもしれない。ただでさえ五感の発達した俺はかすかなタバコの匂いを頼りに行動を開始し、喫煙所の在処を難なく見つけた。屋上だ。
外界へ続くドアは施錠されていなかった。おそらく医者がこっそりタバコを吸うため、内部に煙の漏れない場所がレストスペースとなり、いつしか患者も利用するオープンな喫煙所となったのだろう。
ドアを開けて屋上に出ると、そこには先客がいた。白衣は着ていないので患者の一人のようだった。夜空を見上げれば星。なんて開放的な場所だろうか。俺は食後でもないのに愛飲するマルボロブラックメンソールに火をつけ、息を吸い、盛大に煙を吐き出した。その動作を何度もくり返し、また絢花のことを考えた。瀕死の絢花を前に、俺にできることなんて何もない。さっきはそう思っていたけれど、ニコチンで冴えた頭はべつのルートを指し示した。
彼女の体は救えないが、魂を救うことはできるのではないか。自殺なんて真似をするからには、何か理由があったに違いないが、他殺でもない限り、それを警察が追及することはない。仮に原因がいじめだとした場合、事情を調べるのは学校の役目だ。しかし学校は隠蔽工作の達人で、絢花の通っていたのはいわゆるお嬢様高校だから、学園の名を傷つけるような行為に手を染めると思えない。したがってそこにはエアポケット、すなわち謎が生じる。
俺は仕事柄、謎という単語に弱い。失踪者の多くは何かしらの謎を抱えているし、それを解き明かす日々がろくにミステリも読まない俺を謎マニアに変えていた。しかも今回の依頼人は絢花だ。少なくとも彼女の魂だ。もし有希が俺の立場にいたら、絢花のクラスに乗り込み怪しいやつをかたっぱしから脅し、いじめの当事者を見つけ出してサッカーキック一発で地獄を見せただろう。
けれど俺は鷲津恭介。有希ではない。俺は「会社」の捜索員だ。もっと洗練されたやり方で謎を解き明かすことができる男だ。絢花を苦しめた何ものかに社会的制裁を下すこと。それが結果的に、絢花の魂を救うことにつながるかもしれない。魂が救われれば、絢花はきっと目を覚ます。ロジックとしては穴だらけだが、気持ちの上では完璧な筋道が立てられた。無力さに苛立つ心は俄に勇気づけられていた。
ここで俺は意外な人物と出会った。旧知の人物と言い換えてもいい。俺より先に来ていたやつが、タバコを吸い終え、灰皿に吸い殻を押し込んだ。
振り返ったシルエットにはどこか見覚えがあった。月明かりを頼りに目を凝らすと、そいつは俺の友人によく似ていた。縦にも横にも広がった体躯。太っているというよりはがっしりしている。そして光を吸い込むような大きな瞳。名は体を表すというが、その生きた見本のようなやつを俺は一人知っている。
予想は半ば確信に変わり、それは自然と声になって出た。
「そこにおんが、大河け?」
おそるおそる呼びかけると、そいつは斜に構えた姿勢のまま、俺を見て言った。
「恭介?」
おっしゃ、ビンゴだ。俺は自分の勘のよさに手を打ち鳴らす。そしてこのタイミングで「馬鹿者タイガー」こと荒木大河と引き合わせてくれた神に感謝する。
俺が信じる神とは人知を超えた力を人間どもに分け与え、麻雀で言えば最良の牌をツモらせてくれる存在だ。数少ない旧友の中で、大河はまさに、いまの俺にとって望むべくもない牌だった。
「やっぱ大河や。おまえやないけ思っとったがや」
我ながら声が弾んだ。高校時代の同輩にして、長年同じ道場で剣の技を磨き合った仲間。
旧友と出くわしたことに感激したのは俺だけではなかったらしく「なんや、富山に戻っとっと?」と言いつつ大河は、片手を差し出してきた。俺はその手を握り返し「おまえこそなして富山に?」と尋ねていた。神は俺たち二人を引き合わせたけど、なにゆえ大河が富山にいるか、その理由までは教えてくれない。
俺の知る限りの情報では、大河は富山大に進学し警察官を目指していたが、県警ではなく警視庁に就職し、東京へ出ていった男だ。時を同じくして「会社」に勤め始めた俺と大河は、社会人一年目の心細さもあってちょくちょく会っては酒を飲んでいた。音信が途絶えがちになったのは、お互いの仕事が忙しくなったからだ。最後に連絡を取り合ったのも、大河が捜査一課に配属され、念願の刑事になったときまで遡る。
当然のごとく俺は、やつが富山にいる事情を知らず「警察の用でもあったがけ?」となおも質問を重ねた。
ところが大河はそこで、口をつぐんでしまう。中々返事が戻ってこない。それどころか空を見上げ「星が綺麗やな」とか見当違いなことを言っている。大河は警視庁に就職したぐらいだから勉強はそれなりにできたのだが、根本的なところで阿呆な男だった。ギャグなんて言うつもりはこれっぽっちもないのに、笑いをとろうとしたとしか思えない言動を平気でするやつだった。高校のときも、漢字の小テストで出題された「烏滸がましい」の読みを「ウーロンがましい」と答えクラス一のお笑いキャラという地位を確立した。
だから俺は、大河の「星が綺麗やな」発言に吹き出しそうになりつつも、彼が彼なりにシリアスなつもりであることを察し「言いづらいんやったら、ええよ」と会話に緩衝材を挟み込む。すると大河は「相変わらず優しいやつやな……恭介は」などと気色悪いことを言う。しかも目線は星空を見上げたままなのだから、輪をかけて気色が悪い。頭のネジが一本抜けてる大河は、どうやら感傷に浸っているようだ。わざわざ心を読もうと努力しなくても、勿体ぶった口ぶりがやつの心情を如実に物語っている。
その一方で俺は徐々に不安になった。刑事の大河と出会えたことで最良の牌を引いたと思っていたが、勘違いなのではないか。やつを通じて県警の捜査情報を引き出せるかもしれない。そんな目論みが崩れだす。大河の背中はそれくらい寂しそうで頼りなかった。
俺が二本目のタバコに火をつけた頃、やつの肩越しに「実はな、俺、警官辞めたんや。色々わけあってな」という声が聞こえてくる。それは酷く湿っぽく涙混じりではないかとさえ思えるほどの呟きだったが、俺はこのとき己の都合しか考えていなかったから、大河の退職事情に気を回すより先に自分の不運を嘆いた。すでに刑事でなくなった大河に利用価値はない。薄情だが、絢花の謎を解き明かす上で役に立たないのは事実だ。
失望のあまり俺はため息を吐いた。けれど大河は、依然として空を見上げ「ほんま星が綺麗やわ」とギャグの続きを演じている。俺はいまにも突っ込みを入れそうになったが、そうするより先に大河が俺を振り返った。
滑稽さとは裏腹に、やつは重苦しい息を吐く。
警察の退職には何かのっぴきならない事情があり、けれど守秘義務に配慮し、それを口にするべきか迷っているようにも映った。大河の境遇を推し量り、俺は固唾をのんでやつの双眸を見つめ返す。その直後、最大級のギャグが待っていることも知らずに。
満天の星々を背にして、大河は言ったのだ。
「やから刑事辞めた後、俺、この街で探偵しとる」
「は?」
なんやて? こいついま「探偵」とか言わなかったか?
俺はたぶん、口をあんぐりと開けてしまったのだろう。「なんやて?」と言ったまま、次の言葉が出てこない。ショックでタバコまで取り落としてしまった。
一〇秒ほど固まった後、俺はようやく喉から声を絞り出した。
「おもろいギャグやな。で、ほんまは何しとん?」
「やから探偵やて。ギャグじゃねえよ。こないだも事件、解決したばっかやし」
そう言って大河は、さも不本意であるかのように口を尖らせた。