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第六話 「絢花」




 城森町の屋敷に着くと、中には灯りがともっていた。忠久が在宅か否かはわからない。生活習慣が以前のままなら、やつは夕食をとるために一九時頃一旦屋敷に戻り、そのまま小一時間ほど過ごすのが基本パターンだった。その時間が天国になるか地獄になるかは、忠久の機嫌次第だった。今日はどちらだろう。


 俺はプリウスを停め、車外に出ると、まず五感を働かせた。空気の手触り、そしてさっぱりとした後口から、忠久の存在感が薄いことを感じ取る。やつは間違いなく不在だ。


 そのことに気をよくして玄関をくぐると、エンジンの音で来客を察知していたのだろう、執事の平沢が恭しいタキシード姿で待ち構えていた。けれど来客が俺であるとは予想していなかったようだ。影のように控えめで、沈着冷静な平沢にしては珍しく、目を見開いていた。わずかな変化ではあるけれどその表情は驚きを物語っていた。もっとも、そういう感情の揺れを瞬時に押し隠す程度には平沢は優秀な執事だった。


「お帰りなさいませ、おぼっちゃま」


 主人の甥である俺を御曹司扱いするのは平沢の気遣いに見えるが、実際のところ俺たち兄妹は忠久の保護下に置かれた途端、やつの親族として丁重な扱いを受けた。忠久と二年前に亡くなったやつの妻は子宝に恵まれなかったため、いずれは兄妹の誰かと養子縁組を結び、事実上の後継者にするというのが大人たちの見立てだったようだ。


 おかげでやつの使用人から大日本電子の専務に到るまで、俺たちを忠久の子女同然に見なすことになった。平沢はいわばその筆頭格で、忠久が失格の烙印を押した後も、俺のことを後継者になる可能性を有した義理の息子として扱い、いまも目の前で平伏していた。


「旦那様に御用で?」

「ええ。仕事の関係で色々ありまして」

「そうですか。旦那様はもうじきお戻りになられますがどうぞこちらへ。中でおくつろぎください」

 平沢に案内されるまま、屋敷に上がり込み、応接間に通された。ふとそこで、俺は忠久のみならず、唯一屋敷に残っているはずの絢花の姿が見えないことに意識を向けた。


「平沢さん、絢花は?」

「お嬢様は本日、部活動で遅くなられると伺っております」


 部活動。絢花は学生時代の俺と同じく剣道をやっている。


「そうですか」


 小さく息をついた俺は天井を見つめた。


 忠久に逢い引きがバレた後も、俺は一年に数回、絢花と長野で会っていた。忠久の厳重な管理下に置かれたことで以前のような関係には戻れなかったが、絢花の俺にたいする主に尊敬心にもとづいた想いは変わらなかったらしく、高校を卒業したら上京し、また元の関係に戻りたいと彼女は言っていた。


 俺はその想いに応えるのは難しいと思っていたけど、幼さという殻を脱ぎ捨て、会うたびに美しくなっていく絢花には一人の男として魅了されたし、齢を重ねるごとに彼女は事故に遭う前の姉貴に似ていった。血を分けた兄妹なのだから当然とも言えるが、俺の美の基準であるところの姉貴に近づく絢花には、少し畏れを感じていた。女性の美ほど崇高なものはない。

 俺は絢花の不在によりその美を垣間見れず、なおかつ誕生日プレゼントを直に渡せないことを残念に思ったが、最後に平沢へ頼めば済むと考え、それ以上悩むのをやめた。


「恭介様」ちょうどそのとき、平沢が静かに呼びかけてきた。「珈琲と紅茶、どちらをお淹れいたしましょう」

 俺が「では……珈琲でお願いします」と答えると、平沢は「畏まりました」と一礼し、使用人室に下がっていった。


 俺は天井の高いこの壮麗な屋敷を、あらためて見回す。外観は和風建築だが、内部はところどころ西洋風に仕上がっている。写真でしか見たことはないが、太宰治の生家である斜陽館と雰囲気が近い。あれをもう少しこじんまりとさせ、西洋風の趣を混ぜ込めば、忠久の私邸に似てくる。


 この屋敷で俺は高校時代の三年間を暮らした。明久はすでに上京して大学生となっていたが、彼以外の兄妹は全員この屋敷で生活を共にした。屋敷の使用人や会社の重役たちに囲まれ、我ながら腰の落ち着かない日々を送ったが、人間どんな環境にもいずれは慣れるもので、ほどなく俺は御曹司として生きることに難なく順応していった。


 使用人には傅かれ、親子ほどに年の離れた重役たちに頭を下げられること。毎朝「行ってらっしゃいませ、おぼっちゃま」と言われ、登校すること。それらを不自然と感じなくなるまで時間はかからなかった。仮に富山大に進学し、あのまま屋敷に済み続けていたら、俺はきっといまとはべつの人格に成長していただろう。忠久に気に入られながら大日本電子の幹部候補生となり、彼にあてがわれた相手と結婚し、明久と競うように将来の後継者を目指していたかもしれない。そんな自分をいまならはっきりと想像できる。


「恭介様、珈琲をお持ちいたしました」

 俺が応接間のソファに沈み込んでいると、使用人室からメイドが現れた。

「ありがとう、井口さん」

 珈琲を受け取りながら、俺は井口陽子に礼を言った。


 彼女は俺がこの屋敷に来たときから働いているので、勤続年数はもう一〇年になるし、細かく計算すると年齢は三〇を超えている。けれど老け込んでいるかと言えばそうではなく、むしろ二〇代の若さをいまだに保っているように見える。そして夏の向日葵のような笑顔は全然変わっていない。


「お変わりないようですね」

「はい。日々勤めさせて頂いています」

 俺はもう少し井口さんと話をしたかったが、彼女は珈琲を渡すと楚々としたしぐさで退き、応接間を出ていってしまった。入れ替わりに平沢が押し出され、ナプキンと銀のお盆を手に不動の姿勢をとる。いまでは最初に使用人と出会ったときの記憶はおぼろげだけど、彼ら彼女らとは無縁に生きていたから、相当びっくりしたことはなんとなく思い出せる。


 だがそれは単に無知の産物だった。執事やメイドを雇用しない金持ちはいまどき少数派だ。働く側としても、ファミレスなんかより時給がいいのだからなり手はいくらでもいる。シンガポール辺りでは中産階級においても普通に家政婦を雇うと聞いているし、移民がますます増えるのだろうからそのうち日本も同じような社会に変わっていくのだろう。


 珈琲を口にしつつ日本の未来に思いを馳せ、存在感の希薄な平沢の呼吸を隣から感じていると、突然平沢が玄関のほうへ音も立てずに駆けていった。俺が聞き損ねた小さな音を彼の耳は敏感に感じ取ったようだ。言うまでもない、忠久の帰宅である。


 やがて屋敷の外から重く低いエンジン音が聞こえ始め、やつの愛車であるポルシェが辺りの空気を震わせながら停まった。忠久は運転手をつけず、仕事場と私邸を自分の運転で往復する。経営者としては珍しいタイプだが、忠久の車好きを知っている俺には特に不思議はない。


 それよりも気になったのは、俺のプリウスが停められていることでやつが俺の、少なくとも来客の存在を感じ取っただろうことだ。俺の脳裏には忠久の痩せて引き締まった狼みたいな顔立ちが浮かぶ。ダンス・ウィズ・ウルブズ。けれど映画と違い、踊らされるのは人間である俺のほうだ。腹を空かせた不機嫌な狼にきりきり舞いだ。


 せめて頭から食いつかれないように腹の奥に力を込めたが、忠久の声が聞こえた途端、俺は震え上がっていた。

「誰かおるんけ?」

 平沢との会話が段々大きくなり、玄関を踏みしめる足音が屋敷に響く。足音は屋敷の床を踏み鳴らし、廊下を通って居間の前に来ても止まらなかった。ご主人様のお帰りだ。


 いつの間にか井口さんが部屋に入ってきており、エプロンの前にお盆を掲げ持ち、忠久に冷えたお茶を出す準備をしていた。俺は立ち上がろうかどうか迷ったが、使用人と同じ扱いをされるのは癪だった。俺はここにやつの甥として来たのではない、やつの社員を逮捕した捜索員という職務上の立場で訪問したのだ。しかしそうした心構えは忠久が入室すると暖炉の灰のように軽々と消し飛んだ。


「なんや、恭介。来とったんか」


 身につけていたジャケットを平沢に預け、ワイシャツ姿になった忠久は応接ソファの上席に盛大な音を立てて座り込んだ。ここはほどよく空調が効いているにも拘らず、汗っかきの忠久は片手を扇のようにして首筋をあおいでいた。外の世界においては、大日本電子ことグランド・ジャパン・マイクロエレクトロニクス・コーポレーションを独裁的に統治するこの男も、私邸では隙だらけになる。


「お帰りなさいませ、旦那様」

 井口さんがテーブルにお茶を置くとそれに手を伸ばし、喉を鳴らしてうまそうに飲んだ。そして半分ほど干したところで俺のほうを見た。


 おそらく警察から連絡がいったのだろう。緊張した俺の目に映ったのは、何もかも熟知しており、かつそれが思いどおりになっていないという顔だった。他人の考えていることを読み取る能力をもってして対峙する必要もなかった。忠久の虫の居所が悪いのは明白だった。


 その最たる理由も、俺の訪問にあるだろうことは想像できた。忠久とは彼の妻の葬式以来、会っていなかった。まともに会話を交わしたのも片目を潰されたときにまで遡る。望んですらいなかった面会がこうした形で訪れようとは。俺は何とか気を取り直し、会社の職員として忠久の雇用する社員を逮捕し、警察に引き渡し済みであることを伝えた。


 すでに情報を知っていようが関係なく、これはある種儀式のようなものなのだ。しかるべき手順に則って話をしていると次第に俺の気分は落ち着いてきて、自分が忠久の甥であることを束の間忘れることができた。私的な対面ではなく、準公務員としての事務手続きなのだ。そう思い込ませることで、俺は関係者へのブリーフィングと称する簡単な報告を恙なく終えた。俺が話している間中、腕組みをして宙を睨んでいた忠久は、鋭い眼光をこちらに向けて言った。


「で、損金は?」

 その疑問は、会話のステップを何段階かすっ飛ばしたものだった。

「損金?」

 おうむ返しになった俺を見て、忠久は片方の眉を吊り上げる。

「そうや。損金ちゃ回収できたか訊いとるんや」


 急いで疑問をトレースすると、忠久が言わんとしているのは川口和夫が横領したという金、つまりはやつの会社にとっての損金を俺が回収できたのか、という問いかけだと理解できた。けれど俺たちの仕事は労働義務違反の失踪者を追いかけ捕まえることで、そいつが盗んだ金を回収することではない。逮捕して引き渡した後の取り調べは警察の仕事だ。そうやって丁寧に説き伏せればよかったのに、俺は忠久の不遜な態度にカチンと来てぶっきらぼうに返してしまった。


「損金なんて知らん。そっから先は警察の仕事や」

「警察はおめえに訊け言うとったぞ」

「やから知らんて。警察通して川口本人に訊いたらええやろうがい」

 気づけば標準語を捨てている。忠久と面会しているという緊張を通り越して感情的になっている証拠だった。


 そもそも川口が横領した金は一〇〇万単位でしかなく、その程度の金は大日本電子にとってはした金なのは歴然としていた。なのに最初の疑問が損金の回収とは。忠久という男の金勘定には呆れるほかなく、俺はわざと肩をすくめた。


 しかしそんな俺に比べ忠久は、表情こそ不機嫌そうだが、どちらかと言えば穏やかな空気をまとっていた。損金が回収されてないことを知って激高するかと思いきや、もう一度片方の眉を上げる。それは酷くつまらなそうな顔だった。


「槙久の息子ちゃほんま役立たんね」


 忠久は吐き捨てるように言ったが、怒りとは程遠い響きを伴っていた。俺はさらにカチンときてしまう。

 槙久とは親父のことだ。忠久は俺たち兄妹を躾ける際、好んで親父の名を出し、わざと愚弄した。アルコールに溺れ、最期はくも膜下出血であの世に逝った憐れな男。


 敬愛なんてできなかったけれど、母親に逃げられた後、親父は必死になって俺たち兄妹を育ててくれた。大人になったいまでもそのことに感謝しているし、子どもの頃の心は親父のことをずっと愛していたし、だから俺は思い出すことができた。自分が一体どういった感情を持ち、あるいは隠しながらここにいるのかということを。


 執務中も平気で方言を使うほど富山大好きっ子の忠久が、富山で生まれたあらゆるものの中で心底毛嫌いしているのがワルの道をきわめた有希で、その次がこの俺だ。そして絢花との一件が露呈したとき、俺はついにやつの憎悪の対象に昇格した。そう思っていた。


 けれど数年放置されて気づいたのだ。忠久が俺に抱いた感情は憎しみではなく失望だったことに。やつの怒りは俺の片目を潰したことで解消されており、重要な点は東大に落ちたときと同様、俺が忠久を救いがたいほど深く失望させたことだったのだ。憎悪を抱くのは、それを腹のうちで持て余す俺のほうだった。


「恭介、目障りや。はよ帰れま」

 正面に座る忠久は片手を軽く振った。それは追い払うしぐさだった。

 俺は動かない。自分とはべつの部分が立ち去ることを拒む。

「帰れま」ともう一度忠久が手を振った。俺は無言で立ち上りながら、腹の底から湧いてくる暴力衝動に正直びびる。おいおい本当にここで殺すつもりなのか? 徐々に明確な形をなそうとする悪意に呼びかけるが、やつは俺の頭を占領して離れようとしない。


 待て、待ってくれ俺。ここで殺すつもりなんてなかったのに、一体どうしちまったんだ。

 まるで自分のもとのは思えない衝動に突き動かされつつ、ひとまず俺は井口さんの手によって入室時に脱いだジャケットを羽織られ、帰り支度を装う。その間も集中力を切らさない。忠久は平沢と会話を始めている。夕食の献立について尋ね「はよ出せま」とやつの執事をせっついている。完全に俺への関心は断ち切られている。


 忠久の願望どおりなら、川口のネコババした金はそっくり戻ってきていなければならず、それをできなかった俺は役立たずもいいところなのだ。冗談じゃないぞ。なんでも自分に都合よく世界が動くと思ったら大間違いだ。


 俺は室内を見回した。背の低いマホガニー棚の上にウィスキーの瓶がある。そいつを引っ掴み、頭部に振り下ろせば、忠久を葬ることができるはずだ。悪意は殺意へと変貌し、俺は棚のほうに歩き始める。心の一部はそれに抗おうとするが、べつの部分は「これくらい大したことないちゃ」と他人事のように嘯く。


 そのとき居間に設置された固定電話が耳障りな音を立て、俺の動作は遮られる。俊敏な動きで電話に出た平沢の姿を見送り、忠久は俺に注意を向けた。

「おめえ、まだおったがけ?」

 呆れと疑問が混じり合ったのか、忠久にしては珍しく気の抜けた顔になっていた。俺の殺意に気づかないとは、どこまでもおめでたいやつだ。


 もっとも俺は仕事のときと同様、自分が発する気を遮断しているから、感じ取れないのは致し方ない。五感を働かせると、平沢が受話器を離し、忠久に何事か話しかけていた。その口調は、いかなるときも冷静な彼にしては酷く早口だった。


 忠久が平沢のほうを振り返った。後頭部があらわになった。平沢は裏返った声で「絢花お嬢様が自殺を」と言っている。空気の色が変わり、忠久の狼狽した声が聴こえる。井口さんがお盆を落とし、室内が急に慌ただしくなった。俺はその隙に素早く棚へと接近し、ウィスキーの瓶に手をかけようとするが、寸前になってべつの俺がパトカーよろしく警報を鳴らす。自殺。絢花が。忠久の詰問にたいして平沢がなおも早口で答える。

「いま病院へ搬送されているようです」

 搬送? 何のことだ?

「病院はどこや」

「富山医大病院だそうです。幸い一命を取り留めておられるとのことで」


 ウィスキーの瓶の前に突っ立つ俺の耳に、忠久と平沢の会話が掃除機に吸われた鼠のような勢いで飛び込んでくる。絢花が自殺。富山医大病院。一命を。忠久へ抱く殺意の隙間を縫って、断片的な情報が流れ込んでくる。

 それにつれ、膨れ上がった暴力衝動が急速に縮んだ。口をついたのは、間延びした声による二人への問いかけだった。

「なんやそれ……?」

 動機は何だ? またいじめにでも遭ったのか?


 外と内の声によって二人への質問は続いた。けれど二人は答えない。殺意が消え去ったことで一瞬魂が抜け、俺は自分の体が自分のものとは思えない。動け。動け俺の体。早く動け。絢花が大変な目に遭っているんだぞ。必死に主導権を取り戻そうとする俺をよそに、忠久はスーツを素早く羽織り、ポルシェのキーを手にとった。やつは平沢に「夕食は後や」と言い放ち、居間を飛び出そうとする。ようやく体の自由を回復させた俺は、その背中に向かって大声で叫んだ。


「俺も連れてってま!」

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