第五話 「失明」
仏教の開祖であるブッダには次に引くような有名な教えがある。
「朋友、親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れがあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」
仲のいい人びとを思いやる気持ち、すなわち利他心にとらわれると、人間は自分自身の幸せから遠ざかる。なぜなら人間の本性は利己心であるから、そのことを深く認識していないと人生を台無しにする。そしてそのためには、一本の犀の角のような孤独を怖れてはならない。
忠久はこの教えを警句として利用し、俺たち兄妹に「犀の角」となることを説いた。忠久は企業経営のかたわら、仏教に傾倒していた。ブッダの教えに自分の経営理念をミックスさせた人生論などもいくつか著していた。
それらはベストセラーになったが、受けたのは日本社会が弱肉強食の世界に突入したからだ。誰もが競争の中に投げ込まれ、自分の幸福に責任を持つようになった。そうした現実に直面する新しい心性にとって忠久の人生論は、人間の利己心を肯定しつつ哲学的なスパイスを効かせたことで、格好の自己肯定ツールとなったようだ。
忠久というフィルターを通すとブッダの教えも我欲や強欲を尊ぶ訓示へと変貌した。「犀の角」のように生きるためには、孤独に負けない強さが求められる。忠久はブッダの言葉に「賢き者は二流。強き者が一流たりえる」という文言を混ぜ込み、俺たち兄妹、大日本電子の全社員、数十万の読者に向けて人間の強さと、その重要性にたいする自覚を説いた。
もっともブッダは、決して他者を追い落とすような利己心を許さなかっただろうから、仏教の理解度という点では忠久の人生論は破綻していた。けれどそれを破綻とは感じさせない図太さが忠久にはあり、他方で人は成功者の言葉には真理があると思い込む。
そして悔しいことに、忠久の教えはブッダの真意とも少なからずリンクしていたと思う。人間にとって、この体と命ばかりはいかんともしがたく自分一人のものであり、人生の本質とは孤独である。その圧倒的な事実を前に、人は強くあらねば生きていけない。絢花を除いてまだ一〇代だった俺たち兄妹は、根っから説教好きな忠久によって「犀の角」のごとき強さを身につけろと教育され、強さが足りない場合は心を入れ替えろと説かれた。
真っ先に変化が現れたのは長兄の明久だ。やつは兄妹の中でも抜群に頭が良かったから、現役で東大に進学し、自分の優秀さに胡座をかきながら単なる真面目な学生として平凡な日々を送っていた。
ところが忠久が保護者になった途端、それまで封印していた野性を覚醒させ、人の上に立つ人間になろうと思い込んだようだ。これまで以上に勉学に打ち込み始め、最終的には東大法学部を首席で卒業し、並みいる官庁の内定を蹴って米系投資銀行に就職した。「経産省に入って国策に関わりたいよ」などと言っていた明久が、金が全ての世界に飛び込んだのだ。自分の教えが身を結んだという実例を得て、忠久が喜んだのは言うまでもない。彼は褒美として明久にメルセデス・ベンツを贈った。
逆にまったく変化が生じなかったのが次兄の有希だ。鷲津家に生まれた以上、有希の頭が悪かったはずはないのだが、彼は賢さを望まなかったし、やつが追い求めたのは強さだった。ブッダの説いた「犀の角」としての生き方を、有希はナチュラルに体現していた。
有希は勉強など一切しなかったし、放課後はもっぱら遊び歩いていた。俺は何度か連れていかれたこともあったが、やつの放蕩ぶりは高校生のそれではなく、だいの大人も裸足で逃げ出すものだった。忠久が保護者になる以前から俺たち兄妹はろくに小遣いなど貰っていなかったので、俺は有希がいかなる方法で交遊費を捻出しているのか気になっていた。その答えをやつは実践によって垣間見せてくれた。
仲間と群れた有希は、ゲームセンターやパチンコ店が立ち並ぶ繁華街の路地をまっすぐ歩く。当然向こうから人がやってくる。けれど有希はそいつらに向かってまっすぐ進む。ここで道を譲るようなやつらを有希は相手にしない。男の哀しい習性によって肩を怒らし、目線を飛ばしてくるやつだけに狙いを定める。お互いにまっすぐ進めば、いつか必ず体がぶつかる。
すると相手は「どこ見て歩いとるんけ」と因縁をつけてくる。有希の見た目は女の子みたいにかわいいから、ちょっとお灸でも据えてやろうなどと考えてしまうのだ。
相手は同じ高校生のときもあればグレた若者であることもあった。彼らは有希がどんなに恐ろしい生き物か知らないから、完全に見た目で判断してしまい、行動へと移してしまうのだ。胸ぐらを掴み上げ、脅せば怯むと誤認をしてしまうのだ。
有希はそういうやつらを二、三発殴り、力の差を見せつけた。なおも歯向かってこようものなら、さらに二、三発殴り、サッカーで鍛えたキックで相手をのした。だいたいこの時点で勝負は決まる。相手に仲間がいた場合はさらなる乱闘に移り、朝鮮人の親友と一緒になって全員立てなくなるまでぼこぼこにする。
「ほんま弱いちゃね」
有希は鼻歌まじりに財布を取り上げ、そこから札ビラを引き抜く。やつの交遊費はカツアゲによってもたらされていたのだ。
初めてその現場を見せられたとき、俺はまだ中学生だった。俺は自分の兄二人がそれぞれの分野で抜きん出た存在であることを知り、絶対に敵わないなと思い込んでしまった。俺は明久ほど賢くもなければ、有希ほど喧嘩に強くもなければスポーツ万能でもない。
代わりに熱を入れたのは恋愛であり、性交渉だった。俺は明久の進学した高校に通える程度には勉強ができたし、有希の生まれ持った容姿並みにアイドル顔をしていたから、好意を寄せてくる女子に事欠かなかった。俺は自分が中途半端な存在であることから目を逸らすために性交渉まみれの日々を送った。しかしその選択は強さや賢さとは無縁だった。「犀の角」のように孤絶した人格を得て、運命をみずから切り開くのではなく、薄っぺらい愛に囲まれて楽をする生き方だった。
保護者である忠久は、順調に飼い馴らした明久を猫のようにかわいがり、反発する一方の有希は悪さがバレるたびに激しく折檻されたが、俺はときどき褒められ、ときどき殴られる微妙な立ち位置となった。有希の遊びに付き合うことを止め、勉強に勤しめば「よしよし」と言われ、交遊費(主にラブホ代)欲しさに有希の真似事をすれば制裁パンチをくらった。
そんな俺にたいして忠久が根本的に興味を失ったのは、俺が東大に落ちたときだろうと思う。ごちゃごちゃ能書きを垂れていたけれど、忠久は俺たち兄妹を自分にとって役立つ人間か否かで色分けをしていた。一番になれなかった俺は、所詮二流の生き方しかできず、忠久の人生に影響を与える存在でないことを悟ったのだろう。
俺は俺で、忠久に干渉される生き方にうんざりし「腐っても国立や」と言っていたやつの方針に反して私大に進んだ。忠久の機嫌を損ねたことで諸費用は出なかったものの、不足分は奨学金で埋め合わせた。
しかし劣等感というものは恐ろしい。俺は有名私大に通っているにも拘らず、忠久の関心を集められない自分を出来損ないと感じるようになっていた。明久は人も羨むエリートになることで、有希は札付きのワルになることで、ともに忠久の心をがっちりとつなぎ止めている一方、気づくと俺はその輪から弾き出されていた。
もう一度やつの目を振り向かせたい。そんなことは意識の端にも上らなかったが、結果だけ見れば俺は忠久の注目を浴びたいとしか思えない行動をとった。それは妹の絢花と付き合うことである。
小学校の卒業を控え、段々と在りし日の姉貴に似てくる絢花はお嬢様然とした美少女に成長していた。贔屓目に見ても、彼女は俺が付き合ったどの女よりも美しく、可憐だった。俺が熱を入れた恋愛ゲーム、その最終ボスが絢花ではないか。その見立ては自堕落になりそうだった俺を再び競争へと駆り立て、絢花をものにすることこそが俺に強さをもたらしてくれると信じ込ませた。
富山に帰ることは慎重に避け、俺たちは月に一度、長野で逢い引きを重ねた。交遊費は居酒屋のバイト代で賄い、俺は勤労学生となった。バイト仲間とつるみ、彼女と過ごす時間を大事にする、ごく普通の大学生となった。一つだけ違う点は恋人が未成年の妹であることだった。忠久が、明久以上に愛情を注いでいる絢花の純潔を奪うことで俺は復讐心を満たし、いつか必ず彼女を富山から救い出そうと心に決めた。
しかし終わりは唐突に訪れた。会社に就職した年の夏、俺はある日忠久に「絢花のことで話がある」と富山に呼び出された。有無を言わさぬ口調に、何か不測の事態が起きたことを察知した。週末を使って帰省すると、城森町の屋敷の玄関で忠久は仁王立ちになり、俺の到着を待ち構えていた。やつの足元には制服姿の絢花が倒れていた。
その光景を目の当たりにし、情況を理解できないほど俺は馬鹿ではない。絢花との逢い引きがバレたのだ。いまから振り返ると絢花は起きた出来事の半分だけ認めていて、俺とどこまで深い関係になっていたかは口にしていなかった。けれど忠久を怒らすにはそれで十分だった。
「こそこそ泥棒みたいな真似しおって、この馬鹿者が!」
会って早々俺の髪をふん掴むと、忠久は屋敷の中に引き込んだ。ノーマークの俺が裏で悪さをしていた。それも二〇歳から数えれば三年もの間。蚊帳の外に置かれていた忠久は渾身の力を込めて俺を殴りつけた。絢花は「兄さんは悪くないわ」と言って泣きわめき、執事の平沢は主人の暴虐をただ黙って見つめていた。忠久は罵声を発しながら殴り続けていたが、俺は絢花の見ている前で一方的にぶちのめされるのを恥ずべきことだと感じた。
このときが初めてだったと思う、俺が忠久を殴り返したのは。
「俺が誰と会おうと俺の勝手や!」
腰の入ったパンチを浴びせると、虚をつかれた忠久は一瞬よろめき、屋敷の柱にしがみついた。ひょっとしたら勝てるのかもしれない。自信を得た俺はさらに腕を振るったが、事はそれほど甘くはなく、逆上した忠久は俺の攻撃を身を翻して避け、必殺の飛び蹴りをかましてきた。そして隣の部屋まで吹き飛ばされた俺に馬乗りになって、顔面に拳の雨を降らせた。忠久は闇雲に殴るのではなく的確に急所を狙ってきた。口が切れたことで血が溢れ、俺は自分の血で溺れそうになった。けれど殺意すら感じるほどの暴力は止むことがなかった。
「いっぺん死ねや!」
とどめの一撃が俺の目にめり込んだ。歪んだ視界の中でワイシャツ姿の忠久は返り血で真っ赤に染まっていた。そこには憤怒の表情が浮かんでいた。あまりの激痛に俺は意識を失ったが、意識が戻っても視界は元どおりにならなかった。
俺は片目を奪われたのだ。忠久の歓心を、怒りという形で買った代償に。そんなふうになった俺にブッダが開いたような悟りは訪れるのだろうか?