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第四話 「城森町」




「先輩、次の案件ですけど」

 衣弦との最初の夜に思いを馳せていた俺を、彼女が現実に引き戻す。恋人になったいまでも彼女は俺のことを「先輩」と呼び続け、接し方に変化はない。


 わずかに変わった点があるとすれば二人の距離感だ。俺は疲弊を感じ始めていた自意識を抑え込み、衣弦が手にしたタブレットを覗き込む。俺の右手にはタバコが挟まれている。起床後、就寝前、三度の食後に俺はタバコを吸う習慣がある。車内で吸うと匂いが残るので、俺は田んぼのあぜ道に立っていた。


 衣弦はそんな俺の隣にぴたりと寄り添っていた。

「弓長の件、捜索を続けますか?」

 続けますか、という問いかけの意味は、今夜も捜索を続行しますか、という俺への判断を仰ぐものだ。当初のプランでは弓長は明日捜索するつもりでいた。


 けれど川口の案件があまりに早く片づいたので、捜索予定にブランクができたのだ。衣弦はそれをどのように利用するつもりなのかと問うていた。俺はしばし悩んだ。その気になれば捜索を続けることはできたが、いま一つ乗り気になれなかった。今回の出張におけるメインの仕事は川口ではない。以前から放置され続けていた富山案件があったのだ。しかも二件、どちらも難易度は高そうに見える。


 片方のターゲットは、弓長翔太という元料理人だ。こいつが失踪した経緯はやや複雑。一度目の失踪は弓長名義で負った店の借金を踏み倒したことで、金額が一〇〇〇万単位だったこともあり、当初は警察が動いた。


 あえなく逮捕された弓長は、強制処分の名の下に大日本電子で働くことになった。魚をさばき盛りつけたのと同じ手を使って、半導体作りに従事するようになったわけだ。料理の腕はいいが、経営者としては不適格。よくあるパターンである。けれど日がな一日半導体作りに勤しむ毎日に飽いていたのだろう、弓長は娑婆に出たくて堪らなかったようだ。


 チャンスは不幸という形で訪れた。弓長の別れた妻がバイク事故で亡くなったのだ。そのおかげで弓長の懐には多額の保険金が転がり込んできた。強制処分を受ければ、通常は生命保険などは解約させられる。そうならなかったのは、妻との別れが偽装離婚だったからだろう。


 運が良いのか悪いのかわからない弓長だが、とにかく一瞬にして金持ちになったことだけは確かだったし、その金を借金返済にあてれば問題は何も起きなかったわけだ。けれど、彼は手にした金から逃走資金を捻出し、大日本電子社員寮から姿を消した。


 移動許可証を持たない人間が経済特区である富山市内に入ることはできないし、車も持たない弓長は必然的に県内に留まらざるをえないはずだったが、逃走を手助けした連中がよほど優秀だったのか、レポートには警察が弓長の足取りを追うのに苦心した跡がある。


 報告書によれば弓長は、この間に偽造身分証を作成したらしく、帰化中国人「張凱」として逃亡先の住居等を借りており、ヤサを特定することさえ一筋縄ではいかなかったようだ。弓長は富山県内を点々とし、俺たちの隠語で言うところの「悪魔憑き」として警察の追っ手を三年にわたってくらまし続けた。


 そんな弓長の身柄を会社が押さえる流れになったのは、「張凱」なる人物が生活保護の申請に現れたからである。データはただちに厚労省へ送られ、担当の役人は警察のデータと照合し、「張凱」が弓長であると特定することに成功した。おそらく三年間の逃走の末に、所持金をあらかた使い果たしてしまったのだろう。優秀な組織にバックアップされていたとなれば、なおさら金はかかったはずだ。つまり弓長は丸裸となり、進退窮まっていたわけだ。


 ところが警察は、金詰まりに陥った弓長を逮捕するメリットを低く見積もった。警察は労力を割き、債権者は何も得られず、弓長はブタ箱に送られる。そんな誰も得をしない捜査を実行しようとはしなかった。代わりに厚労省が、まだ隠し資金が残されている可能性を考慮し、不正受給の線で処理する立場に追い込まれた。会社は上の組織の指示に逆らえない。こうして俺たちは富山の「悪魔憑き」こと弓長翔太の捜索を引き取ることになり、俺の二件目の仕事にエントリーされることになった。


 ちなみにプロフィールを見ると、弓長の身長はやたらと高い。一九二センチ。くわえて写真に収められた風貌はスキンヘッドとシカゴ・ブルズのユニフォームシャツ。いかにも堅気風だった川口とは別の人種である。そうした外見と長身から、俺はひそかに弓長のことをバスケマンと呼んでおり、眉をひそめる上司もいないことから衣弦の前ではその呼称をためらわない。


「バスケマンは明日でいいだろ。手のかかりそうな案件は腰を据えて事にあたるべきだし、拙速になる必要はないからな」

「わかりました」

 俺の声を合図に、衣弦はタブレットをいじくった。

 ファイルがめくられ、画面に最後のターゲットが表示される。聖辺郁弥。こいつはバスケマン以上の難物だ。なにせ顔写真がない。プロフィールは高校卒業時で止まっており、職歴なども一切ない。「悪魔憑き」どころか、社会が課した義務に真っ向から歯向かう筋金入りの労働義務違反者だった。いまどきヤクザでさえ架空会社をでっちあげ、構成員をそこに勤める社員にしているほどなのに、根性の座り方が半端なく、本当に拘束できるのか確信は持てていない。


 しかし万が一スルーした場合、上の組織が立腹するのは目に見えていた。いわゆる強化月間というやつで、「会社」には絶対死守すべき数字が突きつけられている。俺たちの場合、最低でも二件、可能な限り三件の解決。努力目標ではなく、完全なノルマだ。けれど俺たちはその割り当てを重荷とは感じず、特に衣弦は気合いが入っていた。


「この聖辺という男、絶対出張中に捕まえましょう」

「そうだな。社会をなめまくった報いを味わわせてやる」

 二人の呼吸が合い、俺はタバコの煙を吐きながら苦笑を漏らした。


「では先輩。少し早いですけどホテルに向かいましょうか」

 タブレットのファイルを閉じ、衣弦は車内に戻ろうとした。俺はタバコがまだ残っていたので、田んぼのあぜ道に残った。


 遠くに目をやると、富山市の高層ビル群がうっすらと見える。一番高いのは大日本電子ビルタワー。建てたのは俺の叔父、鷲津忠久。彼は日本でも指折りの大富豪だ。そして親父がこの世を去ったのと同時に、俺たち兄妹を支配した張本人。富山は恋しいが決して戻りたくはない。たとえ里帰りすることがあったとしても、俺が本当に会いたいのは妹の絢花だけ。


 けれど富山出張プランの中には叔父との面会を含めていた。なぜなら今日逮捕した川口和夫は大日本電子の社員であり、大日本電子の代表取締役会長兼CEOは叔父の忠久だったから。何食わぬ顔をして社員を捕らえ、そのまま黙って富山を去ることほど後になって忠久を怒らせることはない。忠久は礼儀、すなわち自分への敬意を払わせないと気が済まない男なのだ。帰省を頑に拒むという不義理があったにしても、どうせ警察から情報は行き渡るのだ、会うなら早いほうがいい。


「衣弦。ホテルに着いた後、俺は城森町に行く」

 運転席に戻った俺はサングラスをかけ直し、最終日の予定を繰り上げることを告げた。

「先に帰省ですか?」と衣弦は相づちを打つ。「先輩、なんだかんだ言って地元や家族のこと大事にしてますよね」


 彼女が「大事にしてる」なんて言ったのは、俺が絢花への誕生日プレゼントを用意していたからだろう。自家用車を買えないほど貧乏な俺ではあるが、貯金を崩せば宝飾品程度なら買える。後部座席に置いた箱の中には小さなハート形のネックレスが入っていた。高校につけていくわけにはいかないだろうが、私服姿の絢花が身につける上ではぴったりだと思ったのだ。けれど衣弦の勘違いは、俺が大事にしているのは絢花一人だということ。親父の墓参りすらもここ数年はサボりがちになっている。


「東京人のわたしなんてそのへん希薄で」

 誤解を放置していると、衣弦は自嘲を口にした。けれどその勘違いを訂正する気にはなれなかった。プリウスを発進させた俺が無言を貫いていると、機嫌が悪いと察したのか、衣弦はそれ以上、口を開くことはなかった。


 この三ヶ月の間に他人ではなくなった彼女だが、俺が上京する前にどんな体験をしたか、その片鱗さえ知らずにいる。

 富山が生んだ傑物である忠久は、独裁者の多くがそうであるように手に負えぬ暴力癖の持ち主だった。女には決して手を上げないが、男にたいしては容赦がなかった。その暴力は信じがたいほど苛烈で、会社に就職した一年目の夏、富山に戻った俺を忠久は袋叩きにした。その拳は俺の右目をしたたかに打ち、視神経を損傷したことで俺は視力を失った。


 忠久はそのことを反省せず、ただ治療費を渡して終わりにした。俺は潰れた右目を摘出し、そこには義眼がはめ込まれた。バックミラーを覗くと、精巧に作り上げられた右目が曇り空のように翳っている。その事実を衣弦は知らないし、今後も教えるつもりはない。情けをかけられるのはうつ病の件で十分だった。


「それでは先輩、二一時集合ということで」

 チェックインに向かう衣弦をホテルの前で下ろした後、俺たちは分かれて行動することになった。衣弦は会社に書類を送ったところで暇になるのだろう。だから夕食は一人で済ませてくれと言っておいた。俺は相変わらず空腹を持て余し、元来た道を逆走した。


 アクセルを全力で踏み込むとスピードがぐんと上がった。このまま国道をまっすぐ進んでいけば、プリウスは俺のことをどこか見知らぬ世界へ連れて行ってくれるのではないか。制限速度を超えていく高揚感に身を委ねると現実感が希薄になった。しばらくして訪れた夢のような気分を維持すべく、俺は再びカーステレオで「虹色の戦争」を流した。


 ボーカル深瀬の歌声に合わせフレーズを口ずさむと、命が消える瞬間に心が溶けそうになった。消えてしまいたい。他ならぬ神の手によって。俺は死を願い、病気が完治していないことを思い知る。たった三ヶ月で復帰したことは最善の選択だったのだろうか。医師は薬を飲んでいれば大丈夫と太鼓判を押したけれど、俺はその見立てを信じていなかった。俺はいまだ死に取り憑かれている。背中をこがす焦りや失望から逃れようとして。


 やがて空気の色が変わる。空は夕暮れどきの色彩に彼方まで満たされ、街はオレンジの光に包まれた。道路標識に城森町の名前が現れる。経済特区の出入りを管理するゲートで許可証を提示し、再びアクセルをベタ踏みしたとき、世界は小さな瓶が倒れるような音を立てた。その音に耳を澄ますとようやく郷愁を感じることができた。


 ここは俺が一八年間生きた忘れえぬ土地だ。


 気づけば視界は滲み、溢れ出た涙が俺の頬を濡らしていた。

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